第8話
「私には…
木箱に腰掛けるシルヴィアは、少ない記憶を探るようにぽつりぽつりと語り始めた。
穏やかな春が過ぎ、少しずつ気温が上がり始めた初夏。マスター秘書のユキノは、ギルドの二階へと手帳を片手に階段を上った。額にじわりと汗が浮かぶ。そろそろ半袖に変えても良いころ合いだろうか。
普段なら左のギルドマスター室へと向かうが、今日は反対側へと廊下を進んでいく。その足取りに躊躇いや迷いはなく、彼女は廊下の突き当たりにある部屋の扉を開けた。
関係者以外立ち入り禁止の部屋、と言っても入れるのはグレイとユキノだなのだが、彼女は部屋に入り窓際に配置されたベッドの元へ近づいた。この部屋にはベッドと椅子しかなく、ベッドは長い間1人の女性が占領していた。その人物こそが、シルヴィアだった。
「暑いですね……少し換気しますわ」
誰に言うともなく呟き、窓を開けて空気を入れ替えた。初夏の爽やかな空気が部屋を包んだ。
ベッドの側に椅子を寄せると、静かに腰掛けて手帳を開く。これが、通常業務に新たに追加された彼女の仕事だった。
シルヴィアがここで眠り始めたのは1年と10ヶ月ほど前。歴史に名を残すような魔物の大氾濫が起きた直後の事だった。その頃は後始末やらで国中が慌ただしかったが、それに乗じるように彼女もギルドに転がり込んできた。
正確には、グレイが運んで来たという方が正しいだろう。いつものように仕事をサボって何処かに消えたと思っていた上司に、書類整理の途中にも関わらず、ユキノは二階へと案内され眠り姫と始めて対面したのだ。件の眠り姫は、左目を覆うように包帯が巻かれている。
「あの、こちらの方は?」
「……俺の友人だ。少し前に事故にあってな、そらから眠り続けてる」
「お医者様は何と?」
「わからないらしい。健康に異常はないようだが…1…つだけ問題があってな」
「………?」
百聞は一見に如かず、グレイは掛け布団をそっとめくった。そして現れた腕を見てユキノは目を見開く。そこにあったのは、取り付けられたような植物の腕だった。
「見ての通り色々訳ありなんだ。あまり口外しないでくれると助かる」
「……っ、わ、かりましたわ。ではこの方が目覚めるまで、私が身の回りのお手伝いをすれば宜しいのですね?」
「本当は俺がしたいところだけど、ギルマスになったばかりで忙しくてね……。頼めるかい?」
「問題ありませんわ。少し驚きましたが、グレイさんのご友人なのでしょう?私がしっかり面倒みますわ」
「助かるよ。給料も上げとくからさ」
「倍でお願いしますわ」
「ゔっ……ぜ、善処する」
「ふふっ、冗談ですわよ」
以来、シルヴィアの面倒は2人が見ていた。朝と昼に部屋の空気の入れ替えや掃除などをし、退社前に体を拭いて身を清める。ユキノは初め、見ず知らずの女性の看病に戸惑ったがそれも徐々に慣れていった。
(明日は……ギルド連盟の定例会議ですわね。寝坊したら大変ですわ)
自身の手帳に記されたスケジュールを眺めながら、小さく欠伸をもらした。秘書の仕事はやりがいもあって楽しいのだが、ここ最近は忙しく寝不足が続いている。
いっそベッドで眠る彼女のように、時間を気にせず眠りたいくらいだ。そう思いチラリと眠り姫に視線を向けた所で、彼女の手元から手帳が床に落ちた。
それもそのはず、もうこの先永遠に眠るのではないかと思っていた女性が、パチリと目を開けてこちらを見ていたのだ。左目は包帯が巻かれているので青い右目だけを覗かせているが、ユキノは目の前の光景が信じられなかった。
「う、嘘……グレイさんに報告を…!」
落とした手帳に目もくれず、グレイのいる部屋へと走って行った。
目を覚まして最初に見たのは、知らない天井だった。そこでちょうど近くから誰かの声が聞こえ、見てみれば知らない女性が手元の本を見て何か呟いている。
感じるのは、重たい身体の感覚とひどい頭痛。頭が割れるような痛みを覚えるが、それよりもここは何処なのかが気になった。周りを見ても何も記憶に引っかからない。
私は視界がぼやけていたが、そのまま起き上がろうとした。だが、何故か体が重たく全く動かない。それに体のバランスが変に感じるのは、気のせいだろうか。
そんな事をしていると、部屋の扉が勢いよく開いて先程の女性と黒髪の男性が血相を変えて部屋に入って来た。2人とも私を見て驚いていたが、男性に至ってはベッドの側に膝をついて涙を流した。
「良かった……本当に良かった……!」
「…な……だ……?」
「もう大丈夫だぞ、ゆっくり休んでくれ」
『あなたは誰ですか?』と言葉を発したつもりだったが、喉が掠れて上手く言葉を紡げない。そこでようやく、私は体の異変に気付いた。
(腕と足、それに目が……無い)
私の右腕と左足は異質な緑色のものに変わっており、更に左目はどこかに消えてしまっていた。バランスと視界が悪かったのはこれのせいかと、ようやく納得がいく。
だが私の体に何が起きてこうなったのかは思い出せなかった。そして何より、もっと大事な事を忘れているような―…
「取り乱して悪かった。でも君がもう目覚めないかと思って、本当に心配だったんだ……」
「…わた、ひ…だぁれ…すか?」
「っ…?!」
左手を握る男性が、驚愕からか目を見開いたその表情を、私はこの先も忘れないだろう。
どうやら私は目と手足以上に、大事なモノを失くしてしまったようだ。
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