第61話 還りて一に戻る(8月15日)

 私の両親はそれぞれに散骨を臨み、今では自由に海を流離っている。

 故に、私の墓参りは海に臨めば片付くのであるが、今年ばかりは遠慮させていただくこととした。

 左腕がいまいち効かぬ上に、雨も激しければ私も彼岸を渡りかねぬと思い定めていたのである。

 家で静かに手を合わせ、茄子を炒めたのであるが、これをせめてもの慰みにと祈るばかりである。

 存外、参らぬことで自由に旅をして回っているやも知れぬ。


 このような両親に育てられたものだから、私もまた散骨を望んでいる。

 私も好きに旅して回ることが多いのであるが、人生幾ばくぞという言葉通り、とてもこの短い生涯で全てを見て回ることはできぬ。

 そのため、余生と言うべきか外生と言うべきかでせめて見て回りたいという思いを持っているのだが、これはわがままが過ぎるだろうか。


 そういえば、ローマ帝国の創造者であるユリウス・カエサルは広場での火葬の末に遺灰を流され、そのまま地中海に散らばったとされる。

 ならば散骨というのはかの大英雄に習うということであり、それを思う度に非常に蠱惑的な世界へと飲み込まれるような思いがする。


 夢は枯野を、というのは陸に散った時の思いであるが、願わくはこの身が四散して大海を思うがままにさるいてみたいものである。

 このような思いが浮かぶのも盆の楽しみである。

 そして、静かに青空を祈るのも、終戦忌の飾り気ない風物である。


【本日の出来事】

◎小雨の中 精霊流し

 長崎のコンビニでは、この時期になると爆竹と耳栓が売り出されるようになる。

 精霊流しがしめやかに行われると信じて止まない方からすれば寝耳に水であるかもしれないが、この日の長崎はあちらこちらからけたたましい音がし、とてもまともに街を歩けたものではない。

 そこで端の方へ逃げようとすると、あちらこちらの墓から鬼火のように火柱が立ち、よもや逃げ場のないことを思い知らされる。

 原付に爆竹を投げつけられて、もう十年は経とうか。

 いずれにせよ、今はその音を耳にすることはない。

 ただ、少しばかり心に肌寒さを覚えるのは気のせいだろうか。

◎アフガニスタン大統領 出国

 命あっての物種とは言うが、この一手は果たして妙手であったかどうか。

 ここまで劇的に侵攻を許したということは、準備が入念になされたということであり、よもや油断もならぬということであったのだろうが、君主制に慣れ親しんだ歴史を持つ民にこの行動はどのように映ったのか。

 二十一世紀の序盤の終わる音が聞こえるようである。

【食日記】

朝:ヌク

昼:味噌ラーメン

夕:ウィンナー、ノンアルコールビールジン割、トマトジュース、ジンジャエール

他:お茶

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