第56話 種火消しと種明かし(8月10日)

 ここ二十日ほどの記事をご覧になった方はお気づきかもしれないが、オリンピックの開催期間中、その話題はあえて避けるようにしてきた。

 開催式について触れた後は、まず「本日の出来事」から外し、その日の所感からも省くようにした。

 これを見て反五輪派かと言われれば驚いてしまうが、これは私のささやかなお遊びでしかない。


 そもそもメディアが五輪反対に関して様々な情報を上げてきたのは私も知るところであったのだが、それと同時に、開催されればどのような報道になるのかも安易に予想できるところであった。

 メダルを獲得する度のありきたりな報道に、敗退した選手に向けられる引退を確かめる詰問。

 テレビを持たぬ故に湧き上がるタレントの声をテレビで耳にすることこそなかったものの、それらが私を競技の感動から引きはがすのもありえる過去であった。


 反対した者が祝祭を見るなとは言わぬ。

 しかし、強固に反対した者がそれにはしゃぎ寄り付く姿というのは傍から見てあまりにも浅ましいのではないか。

 そうした思いが芽生えてきたところで、私は今回の五輪の話を避けた日常を送り、その逆でも張ってみようと思い立ったのである。

 決して、私も信念があってそのようなことをするわけではない。

 ただただ興味本位で続けてきたのみである。

 どのような競技が盛り上がろうとも、どのような選手が活躍しようとも口を閉ざすというのはそれなりに至難の業である。

 現にある作家は怒りから五輪にまつわる話を避けてきたのだが、野球の逸話のみは共有されていた。

 その一方で、好き勝手にしてきた私は結局のところ何も触れることなく閉会式を迎え、何もない日常へと戻った。

 つまらぬ人生という人もいるのかもしれない。

 傍から見ればまあ、それが正しい感想なのだろう。


 自由とは何か、という問いに対して私は何かを選ぶことではなく何かを切り捨てることだと答える。

 何かを選んで得ていくことは一見すると自由のように見えるが、それは次第に個人を束縛するようになり、結果としてその身を縛ることとなる。

 故に何を残し、何を捨てるかというところに自由の妙があり、気軽に、身軽に振舞えるのである。


 報道の自由は守られるべき権利であるというが、今回の五輪を通して果たしてどれほどのメディアが自由に活動できたのだろうか。

 再び始まった感染拡大の報と五輪への批判に笑いながら、私は捨てられずに溜まっている段ボールの山を眺めつつ酒を飲む。

 私もまだ鳥には遠く及ばないということなのだろう。


【本日の出来事】

◎夏の甲子園 開幕

 五輪の有観客開催の見直しを問うたメディアは、全国から学校関係者と吹奏楽部を集め盛大に行うようである。

 猛暑対策についても批判があったように思うが、それであればドーム球場での開催は難しいのだろうか。

 いずれにしてもここまでの自己矛盾を抱えながら活動できる会社というのは、営利を求める企業として正しいのだろう。

 私も確と学ばねばなるまい。

◎テレビ朝日五輪スタッフ 深夜までの打ち上げ中に転落し負傷

 テレビ局に勤める方々も人間であり、守りたい、支えたいという店があったのかもしれぬ。

 そのためには緊急事態宣言下でも酒を飲んで買い支える必要があり、それも一人ではなく多数でなければまとまった金額にならなかったのだろう。

 転落するほどに呑んだというのはそれだけの覚悟を持った行いなのであろうし、そうした涙ぐましい行いは尊いという声が上がる可能性すらある。

 そうした熱い思いを持たぬ公僕の宴は下下であり、それは彼らにとって排除されるべきものである。

 そうした窮屈さの中で、私達は助けたいという思いも叶えられず、粛々と家に籠るばかりである。

 果たしてこの防空壕の先にあるのは希望の光であるのか、それとも『味方』の閃光であるのか。


【食日記】

朝:ハンバーガー

昼:ごつもり豚骨、炒飯

夕:タルタルからあげ丼、ホットウィスキー3

他:おーいお茶

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