帰家探偵事務所
シグマサ
黒星の使い
大阪府内某所のとあるビルの三階の廊下にある半開きの扉。そこからはやる気が欠片もない、なんなら音程もない鼻歌が聞こえてくる。中はノートパソコンが置かれたひとり用の事務机、ローテーブルを挟むように合皮で革張りされたソファが二脚置かれ、そこそこ大きなテレビが夕方のニュース番組を流している。
事務所めいた内装のそこは事実事務所である。ハンディタイプの埃取りを片手に掃除に勤しんでいるのがこの事務所の主である
すいません、という声に帰家はようやく来客に気づいた。下手な鼻歌を聞かせて待たせるなぞ自分であれば苦笑いする案件であるが、扉の前に立つ男は憔悴をわずかの戸惑いで上塗りした表情で帰家を見ていた。
「ああ、すいません。気づかなくて。ようこそ、帰家探偵事務所へ」
眉尻を下げた笑顔。片手には埃取り。探偵事務所を訪れたとは思えない迎え方である。だが客である男は硬い表情のまま軽く会釈してみせた。帰家は安物のソファーに手を向ける。
「お掛けになってください。ああ、お茶とコーヒーどちらにしましょう?」
テレビを消して埃取りを元の場所に戻している間、男はソファーに恐る恐る座りながら「コーヒーをお願いします」と答えた。初めての場所を訪れたように視線だけを動かして事務所を見回している。入り口から真正面に見える扉の奥へと帰家は一度姿を消す。
少しするとコーヒーの香りが漂ってきた。男はその匂いの中、帰家が再び現れるのを待つ。視線に迎えられた帰家はやはり眉尻を下げて微笑んだ。男の前にコーヒーを差し出して、さて、とばかりに両手を一度握り合わせる。
「お待たせしました。いつもならひとがいるんですが、今日は私用でまだ来てなくて」
「いえ、お気になさらず」
男は砂糖とコーヒーフレッシュを残らず入れてしっかりと混ぜると白くなったコーヒーを飲んだ。それから視線は再び帰家に戻る。いくばくか緊張が解けたようにも見えるが、その目には光がない。これはややこしい話になるぞ、と帰家は密かに嘆いた。
男は
「探して欲しいのはかせゆきじ。俺の友人です」
「かせゆきじサン」
テーブルに置かれたメモとペンを見て田村はそれらを引き寄せた。ペンを走らせ『嘉瀬雪次』という字が出来上がるとテーブルに置き、一枚の写真と共にこちらに差し出した。写真はレジャーの思い出といった雰囲気のもので、山を背景に田村と青年がひとり写っている。
「こいつがいきなりいなくなったんです。一週間前に」
「一週間前ですか」
ややこしい話ではないか。その予感は残念ながら現実味を帯びてきたのではなかろうか。
帰家は改めて田村を見た。年は若い。まだ二十代だろう。着ているのはグレーのスリーピースのスーツ。流行りの細身ではなく、オーソドックスなタイプだ(とはいえ昔に比べればオーソドックスなのも細身になった気がするが)。整髪料こそ使っていないが髪は綺麗に整えられている。仕事帰りなのだろう。膝に乗せられた鞄はわずかある警戒心の表れか立てて置かれ腹を隠している。鞄はちゃんとした革製だ。彼の体を受け止めるソファーとは違って。
仕事柄裏稼業の者はよく見るが、彼からそのニオイはしない。なんなら少し香水がきついぐらいか。その香水もブランドものだ。自分はつけないが今はいない従業員がたまにつけているから少しは種類がわかる。
以上のことから鑑みるに彼は恐らく真っ当な職についている。だからこそ奇妙だ。
「警察に捜索願は?」
普通行方不明となれば警察に届け出るだろう。公的手段に頼れない裏稼業の者から捜索を頼まれるならわかる。だが一般人からの捜索依頼はそれこそ消えてから何年も経ってからというのがほとんどだ。警察に任せたけれど進展がないと泣きつかれるのが普通なのだ。
だが彼がいうには嘉瀬が消えてから一週間しか経っていない。本来なら捜索を警察に任せていてもおかしくないし、任せているなら探偵に泣きつくにはまだ早いだろう。
「捜索願、出してないんです。ご両親に相談したんですが出さなくていい、自分たちで調べるの一点張りで」
随分ときな臭い話だ。この依頼が一筋縄とはいかないであろうことが確定し、はてさてどうしたものかと厚い面の下で思案する。きな臭い依頼を受けるのはなにも今回が初めてではない。だからこそ色々と計算をするのだが、田村も予感はしていたのか「お金なら出します」と言い出した。友人の捜索にそこまでするなら長い付き合いなのだろう。それかなにか事情があるか。なんにせよ。
「わかりました。お引き受けしましょう。ただ、こういった話はすぐに見つかるとは限りません。お金のことは気にしないで欲しいとおっしゃってくださいましたが、とりあえず三週間経って成果が出せないようなら、また改めて調査続行についてご相談させてください」
「はい。わかりました。本当にありがとうございます」
胸を撫で下ろす田村を見て帰家は微笑んだ。素人は依頼を引き受けてもらえるだけでも嬉しいものだ。もちろん感謝の言葉は進展があってからもらうのが筋だと思うのは変わらないが。
雲が立ち籠める空とその雲より黒いコンクリートの集合住宅を見上げるだけで最高に憂鬱になれる気がする。とはいえここ数年ハッピーな気分になった覚えはないのだが。もうすぐ五十になろうかという男に春麗らかな気配が訪れることはない。もう桜が散る頃だが散り際の淋しさだけ運んでこないで欲しい。
帰家のここ数年の暮らし方といえば浮気調査からペット探しまでベタな仕事で日々食い繋ぎ、たまに舞い込む変わった依頼で厄介事に巻き込まれては死に掛けたりする日々を送っている。チンピラの素行調査はまだ可愛いもので、以前謎の新興宗教にハマった輩を追っていたら気付けば山奥の謎の建物で謎の肉を発見してしまったりとネタに事欠かない生活を送っている。ちなみにその時は胸やけで一週間ほど肉料理が食えなかった。
とはいえチンピラの周りを探っていた時もいかにも“本業の方”と鉢合わせてしまったりと危ない橋を渡りはしている。“変わった”依頼は大体そんなものだ。その分手当てとして追加料金を巻き上げるからいいのだけれど。
そんなわけで今日も調査である。行方不明者の捜索。警察にはまだ届け出ていない。考えただけで憂鬱だ。当たり前だが普通に警察の捜査のほうがよっぽど的確だし情報も早い。公的な手段が取れるというのは現代社会において強みばかりだ。
いなくなった嘉瀬雪次の家の前に帰家はいた。マンションというよりはアパートだろうか。とにかく古く昭和の香りがしそうな外観である。築三十年は軽そうだ。嘉瀬の稼ぎからするともっといい部屋を借りれそうなものだが。
向かいの家の囲いの上で野良猫があくびをしているのを見て、悲しいほどに平和だなと思った。このアパートに行方不明人がいるだなんてぱっと見ただけじゃ誰も気づかない。
訪問前駄目元で管理人に連絡を入れたら意外にも快く部屋を見せてくれることになった。管理人も嘉瀬が一週間ほど不在なのは気づいていたようで、品行方正な借り手がいなくなったことは不可解らしく、少しでも進展するならということだった。嘉瀬君よ。生きてたら謝罪と感謝を忘れないように。
管理人から預かった鍵で嘉瀬の家の扉を開ける。嘉瀬の部屋は物が少なかった。生活臭がするだけいいというべきか、逆に行方が知れない不気味さを助長させているというべきか。
ひとりで暮らすには不自由がなさそうな1DKで白物家電が家主を待って静かに埃を被っている。ベッドは毛布を被せており、慌てて抜け出てそのまま、といったような気配はない。テーブルとシンクは片付いているが、乾き切った食器は棚にしまわれないまま家主がいない部屋を眺めている。ハンガーラックもとくに乱れた様子はなく、部屋の様子から室内でトラブルがあった可能性は低いだろう。
テレビ横の小さな棚には写真が飾られていた。依頼人である田村と他にも年齢の近いものが数人写っている。
棚に並んだ本の背表紙を眺める。実用書がほとんどで、次に多いのは少し前に話題になった小説だ。ハードカバーが多いあたり読書家だったのだろうか。棚の端に固められている書籍にタイトルはない。そもそも背表紙がないようだ。糸でまとめられた自作の冊子のようなそれをそっと手に取った。ぱらぱらと流し読みするがどのページもミミズがのたくったような落書きが並んでいた。達筆すぎると読めないなんてことも珍しくないが、それともまた違う。文字なのかわからない筆跡が点々と紙面に転がっていた。自然眉間に皺が寄る。こりゃあややこしい話になるんじゃなかろうか。
だが確証を得るにはこの調査に必要な男がいない。スマートフォンに連絡がないか確かめようとしたところでデフォルトの呼び出し音が鳴った。画面には待ち続けていた相手の名前が表示されており、ますます嫌な予感が強まるのを感じながら電話に出た。
「遅いよ、ゴクドー君」
『ひと違いちゃいます?』
「毎度丁寧にボケなくても」
『ボケてはるんはそちらやないですか。ややこしい名前なんはわかってますけどあだ名みたいに呼ばれると困りますわぁ。よそで灯士郎さんに呼ばれるたびに皆さんびっくりして見はりますし』
そりゃきみの見た目があだ名負けしてないからだと呆れる。電話の主、
「それで例の集会ってのは終わったの?」
『終わりましたよ。今からそちらに行きますさかいに、まったり待っといてください』
「仮にも他人の家だからねぇ。近くの適当な店に入っとくよ。あとでメールする」
『はいはい。よろしゅうお願いします』
獄登はこちらをなめているのではなかろうか。常々思っているがあまり頭が上がらないのも事実である。今ではすっかり獄登の力に頼りきってしまっている。
一度部屋を出て隣の部屋を見る。電気はついていない。今日は平日だからまあ当然か。嘉瀬の部屋を見るにこのアパートはふたり以上で暮らすには狭そうだし。一応端の部屋まで見てみたが人がいる気配はない。ご近所さんからの情報は諦めたほうがよさそうだ。
思いのほか時間が余ったので諦めて時間を潰すしかないだろう。入る時に見かけた野良猫はいなくなっていた。眺めて暇を潰そうかと思ったのだがそれも叶わず、帰家は頭を掻いた。
適当に入ったチェーン店のカフェで待っていると異様な雰囲気を漂わせる男が現れた。獄登である。彼は注文をし、こちらを見て小さく手を振った。女子か。遅めの昼食だったサンドイッチはすでに平らげコーヒーも飲み終わっていたのでトレイを片手に席を立つ。お待たせしましたと笑いかける女子店員に「おおきに」と口元を柔らかくさせて獄登はドリンクを受け取った。
「いこう」
「はいはい」
ドリンクに口をつけながら獄登は後ろをついてくる。ちらと後ろを見やると口元にわずかホイップがついていた。獄登はチェーン店のカフェに行くと決まって新作を試したがるのだ。今の限定品はなんだったか。確かキャラメルソースを使った甘そうな飲み物だった気がする。獄登は甘党だ。
「灯士郎さんは飲まへんほうがええですよ」
「試す気もないよ」
生憎甘いものは苦手だ。獄登はぺろりと唇を舐めた。
「灯士郎さん」
「なに?」
「なんか嫌なものとか見ました?」
嫌なもの、といわれて別段浮かぶものはない。不思議な冊子を見つけたが嫌かといわれれば否だ。特に見なかったよと答えれば「そうですか」と短く返された。
アパートに着くと獄登はまず外観を眺めた。「えらい懐かしい感じで」と呟いたあと、ひと通り周ってみますと長い足でアパートを一周にいった。五分と少しして戻ってきた。たいして大きなアパートでもないのだが時間が掛かったな、と帰家は獄登を見遣る。
「どないしました?」
「なんかあったの?」
「ないことはないです」
なにもなかったわけではないが報告するほどでもないということか。獄登はたまにこういう言い回しをする。聞いてもすぐには答えてくれないので帰家は「そっか」と心に留めることにした。
再びの嘉瀬宅。獄登は甘そうななにかを片手に持ったまま上がり、一通り中を見ると「いはりませんなぁ」と一言漏らしてドリンクを飲んだ。
「いないのか」
「少なくともここにはいはりません」
獄登は断言した。ならそうなのだろう。
言い回しから大体察せられるだろうが獄登は“見える”人間である。実家が寺だといえば納得するものも何人かはいるだろう。帰家も最初は半信半疑だったが一緒に仕事をするうちに嫌でも納得せざるを得なくなった。信用してからはなにかと頼ってしまっているので頭が上がらなくなってきたのだが。かまけ過ぎてはいけないと改めて自戒する。
「札とかはありました?」
「部屋にはないね。外にはあった?」
「ありましたよ。まぁこんぐらい古いものやと珍しくもないんですけど」
獄登はサングラスの奥でどんな目をしているのだろう。ちびちびとコーヒーを減らしている。
「管理人さん、いはります?」
「多分いると思う」
「あとでちょっと話聞きに行きましょか。じかに聞いたほうが早いし確実ですわ。他になにか気になるもんはありました?」
いわれて棚の端にならんだ謎の冊子を手渡した。獄登はそれをめくる。黙々と冊子を眺めたあと、静かに言葉を落とした。
「食われてますね」
思わずまじまじと冊子を見つめてから獄登に視線をやった。
「今回の件は灯士郎さんのいう『あちらさん』のほうかもしれません」
『あちらさん』。つまり自分が知らない世界の住人である“人外”がどうとかいう話だ。思わず髪を掻き乱すのも仕方のない話だった。
獄登令士は霊能者? の顔とは別にもうひとつ変わった顔がある。いわゆる退魔師だとか陰陽師だとかいうやつで、帰家はその界隈の話は『あちらさん』と一括りにしている。獄登の様子からして単なる妄想ではないことはわかっているのだが、帰家には幽霊も人外も見えないので専門外の話でしかない。
「そうなるとまた手当てをつけなきゃいけないね」
「トーシローさんには荷が重いですさかい、諦めて頼ってください」
にっこりと笑う獄登を恨めしげに見て降参とばかりに両手を上げた。仕方のないことだ。彼を雇った時点で目に見えていた。
獄登は象形文字になり損ねた字が並ぶ冊子を眺めてぽつと言葉を落とした。
「食べ切れへんなら無理して食べんと他の本を食べたらええのになぁ。きっと食べ応えあるやろし」
声量自体は独り言に近いその言葉がはっきりと耳に残る。食べ応えと聞いて思わず広辞苑を見てしまったのは仕方のないことだろう。獄登はそっと冊子を閉じて再び棚に戻した。
部屋をひと通り調べたので管理人に会いに行くことにした。ふたつほど隣の一軒家に住んでいる真っ白な髪を綺麗に整えた女性だ。背筋もまっすぐで髪さえ染めていればもう少し若く見えただろう。管理人は獄登の姿に特に引くでも怯えるでもなく真正面から見据えている。獄登を見て平然としている人を久々に見た。大体そういう人はただ者ではないことが多いのだが。いよいよトンデモの可能性が強まってきた。
「家守の札がありましたけどあれはいつから?」
「建てた当時からね。こんな質問してくるぐらいだからあなた『こうもりさん』でしょう」
獄登はにんまりと笑った。いつもより少し上がった口角はなんだか悪戯っぽい。
「そうです。部屋は『こうもりさん』に貸してはるんですか?」
「優先的にね。古いから若い子はあんまり入らないのだけど嘉瀬さんは即決。この辺りで毎年家守をしてもらうのはうちぐらいだからかしら」
話の流れからして『こうもりさん』というのは退魔師のことだろう。一瞬頭に浮かんだ夕闇を飛び回る動物はとてもじゃないが隣の獄登とは似つかない。
そしてもうひとつわかったのは嘉瀬もまた退魔師のひとりであるということ。予想から確信へ。こうなると嘉瀬の両親が警察に届け出ないの理由もわかった。普通の人間は退魔師や陰陽師とかいった存在はフィクションの世界だと認識しているのだ。そこに人外と戦って消えた可能性もある息子を探してくださいなどと頼めるはずもない。帰家自身獄登と出会わなければそんな話信じなかっただろう。退魔師というのもまた難儀な人生なのかもしれない。
管理人から必要な情報を聞き出し、帰家は未だのんびりと新作メニューを飲む獄登に告げた。
「親御さんに会いにいこう。届けを出してないならそっち絡みの可能性が高いだろうし」
「まぁそうですやろなぁ。なにか知ってはると思います。ただ、そない簡単にことが進むとは限らへんけどね」
そう。大体光明が見えたと思ってからが長いのだ。真相は新たな謎を箱に隠し、蓋が開けらるのを待っているものだ。
嘉瀬の実家はいわゆる高級住宅地の中にあった。とはいえ退魔師の家にしては近代的なほうで家屋はコンクリート製、駐車スペースには外車だが一台しか停まっていない。なんなら門から玄関までそんなに遠くない。くどいほどの主張はなされていないお宅だった。
帰家は迷いもせずにインターホンを押した。カメラ付きのそれは帰家の草臥れた姿を容赦なく映すだろう。今更ながらネクタイの位置だけ戻したがそれで大して印象が変わるとは思っていない。結局のところ「どちら様でしょうか」の後に探偵と名乗るのだから多少の悪あがきなど無意味だ。
インターホンから聞こえてきたのは女性の声だった。まずは突然の来訪に謝罪を述べてから、探偵であることと息子さんの友人に頼まれて行方を調べていることを告げた。獄登は会釈だけして黙り込んでいる。
「少々お待ちください」
待っている間なにげなく辺りを見回した。門の奥には小さな庭が見える。育てているのだろう。何種類かの花が飾られた植木鉢が並んでいる。その近くに猫避けだろうであろう水入りのペットボトルも並んでいたが、悲しいかな一匹の猫が我が物顔で鉢の前を通り過ぎ塀の外へと跳んでいった。
少しして玄関の扉が開いた。お引き取りくださいと突っ返されるのを覚悟していたがそうでもないということは、もしかしたら『あちらさん』の力を使っても未だ行方がわからないのか。だとしたら厄介な話になりそうだ。
「どうぞ、おあがりください」
一礼してから開かれた扉を潜る。広めの玄関を通り、廊下にある左右の扉の左に促された。わずかばかり右側を覗くと小さな和室。仏壇があることから仏間のようだった。大小の位牌がひっそりと見守っているのを見て帰家は小さく会釈した。
通されたリビングには革張りのソファーが並んでいた。事務所のものとは違って本物だろう。フローリングに敷かれたカーペットは綺麗に毛が切り揃えられており、来客用のスリッパを履いた足を優しく受け止める。視線だけ動かして見回すが、特別変わったことはない。家具はなんとなく高そうなものが多いけれど(一枚板であろうテーブルの存在感といったら!)。
それにしてもよくすんなり入れてもらえたな、と思ったところでふと獄登を見る。獄登は視線に気づいて小さく笑った。なんかしたの? 声を出さずに問うが獄登は答えない。ただその口元がわずか強張っているように見えたのは気のせいだろうか。
嘉瀬の母親であろう夫人は人数分のコーヒーを持ってやってきた。香りからして普段事務所で嗜んでいるものとレベルが違う。香りを楽しみたいのはやまやまだが、いかんせん胡散臭い探偵業の男ふたりである。本題そっちのけで楽しんでいる場合ではない。一口だけコーヒーを口にし己を叱咤しながら帰家は夫人に今一度頭を下げた。
「突然の訪問を迎えてくださったことに感謝いたします。お話したように行方がわからなくなった雪次さんを探すよう依頼を受け、本日伺わせていただいたのです」
「依頼にきたのは田村晋助さんですね」
「ええ。彼のお話では今回の雪次さんの件で捜索願を出しておられないと聞いています。それは雪次さんが『退魔師』であることと関係があるのでしょうか」
この手の話は早々に気づいているのをバラしてしまったほうが情報が出やすい、とは獄登の談だ。『あちらさん』の世界はなにかと閉鎖的な傾向があるらしく、一般人との線引きははっきりしている。帰家も獄登がそっちの方面で自分に気を使っているのは日頃感じているし、退魔師の暗黙のルールみたいなものだろう。
夫人はこちらが事情を知っていると聞き、驚いた後その目を暗くした。その色は絶望の色だろうか。それとも。夫人は沈痛な目を獄登に向けた。獄登も以前として硬い表情をしており、帰家は自分だけが噛み合っていないのにようやく気付いた。足をテーブルの下でつつくとようやっと獄登は口を開く。
「息子さんの安否はわかってはるんですか?」
夫人は暗い面持ちのまま静かに告げた。
「息子は嘉瀬家に縁のある妖魔を討ちに旅立ちました。連絡は途絶え、それっきりです」
「場所はわかっているのですか?」
首を振る。夫人の膝の上では後悔の念に震えるように強張るように手が握られていた。
「私たちは討伐に反対しました。ですが息子は行ってしまった。幼い頃より妖魔の声を聞いていたようで野放しにはできないと。危険だからと止めたのですが、息子は聞く耳を持ちませんでした。もっと早くに私たちが気づいてやれていたら……後悔しても遅いのはわかっています。ですが」
こんなことになってしまうなんて。その言葉に口を閉ざす。
帰家は素人だ。退魔師の世界のことは稀に獄登の話から聞き及ぶ程度でしかない。だから人外の存在はまだ己の中では曖昧なものでしかない。嘉瀬夫人と獄登から滲み出る重苦しい空気の意味を理解することは到底できない。きっとこれからも。
やりにくい。単純にそう思った。だが依頼を引き受けた以上なにかしら成果を届けねばならない。行方不明者の捜索願いは「生死がわからない」からこそ出るのだ。
「私たちは調査を続けます。もし安否がわかりましたら、お知らせしましょうか」
夫人は頷いた。その沈痛さはまるで罪状を待つ罪人のようにも見えた。
収穫らしい収穫も得ずに嘉瀬の実家を後にする。さてどうするかな、と帰家はぼんやりと思案したが、それを獄登が遮った。
「今回の件、気持ちのええ終わり方はしないでしょうね」
ほぼほぼ言い切りな声色に問いかける。
「それは雪次さんが亡くなってるってこと?」
獄登は淡々と「その可能性が高いでしょうね」と答えた。確証はありまへんけど、とも。嘉瀬雪次の母親の反応を見るにそれも納得のいく雰囲気ではあった。
「一度雪次さん家に戻りましょか」
「そうだね。ご近所さんも戻ってきてるかもしれないし」
「他にも見つかるかもしれません」
「そうなの?」
「摩訶不思議ですからねぇ」
のんびりとした口調であったがその声に覇気はない。気が乗らないのだろう。先に予想がついているのだからなおさらだ。
「妖魔がどうのっていってたが、大丈夫かな。俺素人だけど」
「そればっかりはわかりまへんなぁ。ま、行ったらわかりますやろ」
「雪次さん、妖魔にやられてる可能性高いんでしょ? 危ないんじゃないの」
獄登は「そうですね」と肯定し、
「灯士郎さんのことは僕が守りますさかい、安心してください」
と笑って見せた。
「うーん。心強い」
心からの返事だった。獄登に助けられたことは一度や二度ではない。年上の雇い主としては複雑だけれど。
嘉瀬雪次の部屋があるアパートに戻ると相変わらず他の入居者は戻ってきていないようだった。まあこんな時もある。嘉瀬の部屋に再び入ると獄登は真っ直ぐ本棚に向かい、紙を糸で綴じた背表紙のない冊子を取り出した。中はミミズがのたくったような文字しかなかったはずだが、不思議なことに達筆な文字へと様変わりしていた。摩訶不思議である。
獄登は冊子をぱらぱらと捲りながら字を目で追った。
「『妖降ろしの儀』」
あやかしおろし。思わずおうむ返ししたが、字面からしてろくなものではなさそうだ。
「僕らは『獣憑き』呼んでます。その名の通り妖魔や
事実は小説より奇なりとはよくいったもので、てんで珍しくもないといった風な口調に帰家は挟み込む言葉もない。
「これを見るに嘉瀬さんのおたくの降ろし方はあんまりいいやり方じゃなかったみたいですね」
「いい悪いとかあるんだ」
「そらありますよ。相手は人やないいうても生きてはります。力を借りるならそれ相応の態度いうのがあります」
なるほど、と帰家は頷く。人間だって扱いが悪い相手に頼まれても素直に力を貸したいとは思わない。
「つまり雪次さんはその嘉瀬家に取り憑いてた『なにか』をどうにかしに行った可能性が高いわけか」
「そりゃあ親御さんも反対しますやろね。そして安否を知りたくても調べることもできない」
雪次の両親もまた縁がある。そう簡単に助けに行けないということだろう。しかしだ。
「息子さん、諦めちゃうものかな」
「なにか気にかかることでもありますのん?」
「いやね。ちらっとだけどお仏壇が見えてさ。リビングの向かい、和室だったでしょ。多分仏間だと思うんだけど。位牌が大小あったんだよね」
小さめの位牌といえば思い浮かぶのは子どもが亡くなっているケースである。最近はペットの位牌も用意するというから一概にはいえない部分もあるのだが。もし予想が当たっていたとすれば、嘉瀬家はすでに子を亡くしていることになる。そう簡単に息子を見捨てるようなことはしないと思うが、いかんせん帰家は『あちらさん』のことになると感覚がわからないので確かともいえない。獄登は考え込むように唸った。
「もしかしたら分家とかもあるかもしれませんが、そこまで調べるかいうたらせんでもええでしょう。家柄のことは首突っ込んだらろくなことになりゃしません。オススメはしませんよ」
退魔師だろうがそうじゃなかろうが同じこととその顔が告げている。寺生まれの彼はそういった話題が嫌でも耳に入ってくるのだろう。十分な警告であった。
「雪次さんが向かったであろう場所もわかりましたよ。山陰のほうです。車で二時間ぐらいですかね」
スマートフォンで地図を見ながら獄登がいう。地図を見るに装備は用意したほうがよさそうだ。
「二時間か。今から行くと日が暮れるかな。明日向かうとしよう」
いざいかん人外の地へ。そのまま地獄へとならないよう祈るばかりである。
翌朝。車を走らせ二時間と少し。山中の住宅地を越えるともはや立派な山道で、舗装された道があるだけでもありがたいといったありさまだ。しかしそれも十分も経たずに途切れる。車が入った形跡もない。登山者用の道が木々の奥へと伸びていた。一応車に山登りに必要なものは積んできたが、靴はあれども服装は心許ないものだった。スーツではないとはいえジャージで大丈夫だろうか。
「いやぁ。山登りはあの事件を思い出すね」
「ああ。あの山姫の」
捜索者を辿ってぶち当たったとある土着信仰を利用した新興宗教の一件である。帰家にとって長い探偵業の中で上位に入る嫌な事件であった。獄登も心境的には近いのだろう。苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべている。
「さすがに今回は変な肉は拾わへんのとちゃいます?」
本当にそうだといい。帰家は何度も頷いた。そんな気の抜けた話ができたのは歩き始めて十分ほどまでだった。
斜面がきつくなり道も細くなってくると、山に慣れない体は早くも悲鳴を上げ始めた。対して獄登はまだ涼しげだ。そういえば彼は寺生まれだった。修行で山を登ったことぐらいあるはずだ。つまり自分が足を引っ張っている。帰家は情けなさで悲しくなった。
登り始めてそろそろ三十分は経とうかという時だった。草木が揺れる音に思わず足を止める。獄登も似たような様子で辺りを見回した。
木々の間から青年が出てきた。ジーンズに半纏、それに素足。目は赤く輝いており、素人の帰家から見ても彼は異質であった。獄登が警戒するように帰家の前に一歩出る。
「ここはひとの来る場所じゃないよ」
青年の声に敵意はない。寧ろ心配するようでもあった。
「この先に用があるんだ」
帰家がそういうと青年は困ったような顔をした。
「この先には壊れかけた社しかないよ」
「それに用がある」
「やめときなよ。よくないことが起きる。行かないほうがいい」
懇願にも近い声に帰家は獄登を見る。相変わらずサングラスに隠れた目は青年を推し測るように見据え、「この先の社のこと、知ってはるんですか?」と問いかけた。
青年は頷いてみせる。
「おれのご先祖さまを祀ってたものだから」
この先に待つのは嘉瀬家が憑かせていた妖魔を祀る社である。それを先祖と呼ぶということは青年はやはり人ではないらしい。青年はふんふんと鼻を引くつかせるとばちっと音が鳴りそうなほど真っ直ぐ帰家を見た。
「おじさん。なに持ってるの」
「え?」
なにを持ってると聞かれても鞄にはたいしたものは入っていないはずだ。山を登ると聞いて必要そうなものは詰めてきたが、それ以外は財布やスマホといった必需品しかない。
青年が近づくと獄登が前に立つ。
「なにか気になるもんでも?」
獄登の睨みにも青年は怯む様子はない。ついと指をこちらに向けた。
「胸のところ」
いわれて胸の内ポケットから手帳を取り出した。手帳を開くと依頼人である田村から預かった写真がいつ破れたのか真っ二つになっていた。
獄登は顔だけをこちらに向けて見ていたが、写真を取り上げ青年の方へと向けた。写真の中の嘉瀬雪次と青年を見比べる。
「なんか嗅いだことある臭いすると思ったらそういうことですか」
と苦々しく呟いた。
「仏さんのにおいがしますね。あんた」
帰家はえっと思わず青年を見つめた。赤い目が真っ直ぐと見返す。ふと手元の写真と青年を見比べ、その顔が雰囲気こそ違うものの同じことであることに気づき、再びえっと小さく声を漏らす。
「嘉瀬雪次、さん?」
青年はこちらに近づくと写真を引ったくり、細かく破いた。
「元ね。ついてきて。ここに長居はよくない」
預かりものの写真を遠慮なく破かれたことに若干引きながらも帰家は青年の後に続いた。先ほどから警戒心が強くなっている獄登がいいんですか? といいたげな視線を送ってきたが、こんな山の中で話ができる相手と出会えるだけでも奇跡だろう。それが罠であれなんであれ、目的があって近づいてきたことには変わりがない。情報を得るなら彼を追ったほうが早い。
それに今までの探偵業で培ってきた帰家の目には青年に今のところ敵意はないように見えた。警告の声にもさして含みはなかったと感じる。だからとりあえず話を聞いてみるのもいいと思ったのだ。
青年についていくと廃寺が見えてきた。人の手が入らなくなって長いように見える。形こそ残っているものの蜘蛛の巣がかかり、屋根瓦の間からは緑が少しはみ出している。本堂に続く戸は開け放たれており、ささくれ立った畳が侵入者を拒むようにこちらを睨んでいた。
本堂に足を踏み入れると奥の内陣にこんもりと盛り上がった煎餅蒲団が見えた。誰か寝ているのかと思わず口を閉ざすと「気にしないで。あれはおれの元々の体だから」といわれ、小首を傾げることとなった。
つまり……どういうことだ?
青年はこれまた平べったい座布団を持ってくるとささくれ立った畳の上に敷いた。そのまま座るよりはよほどいいと素直に靴を履いたままその上に座る。
「えーと、まずは自己紹介? かな。おれはソラ。妖魔と退魔師の間の子だった」
獄登が補足するように口を開く。
「退魔師と妖魔は持っている力が互いにとって毒になります。つまりソラさんは退魔師としての力と妖魔の力を両方持つために、元々寿命が短かったということになります」
「そう。雪次はそんなおれに同情してか、死に際に体をくれるっていったんだ。こんな人里離れたとこで死んで朽ちるだけの体だし、役立ててって。お人よしだよね」
なんだかいきなり非現実な話だ、と帰家は頭が痛くなった。
退魔師。妖魔。体をくれる? まったくもって現実感がない。帰家はちょっと待ってとばかりに片手を上げた。少し時間が欲しい。
帰家は立ち上がり、内陣に続く壊れた襖から中を覗き込んだ。煎餅蒲団には確かに死体があった。痩けた頬に落ち窪んだ目。ひび割れた唇からは生きていてもか細い息しかしないだろう。見た目からすると恐らく十代だろうが、正確な年齢は頬骨が浮いた顔からは読み解けない。足元も蒲団が余りきっていて、身長もたいしてないのがわかる。異臭が這うようにこちらに漂ってきている。
気づけば獄登も並んで死体を見ていた。少しばかり警戒が解けたのか、先ほどよりは横顔から力が抜けている。
ソラの言葉を信じるかはやはり『ソラの元の体』を見てから判断すべきだろうとこうして覗き込んだわけだが、ふわふわとしていた現実感が少しずつ下りてくるのを感じた。どうにかしばらく続くであろう非現実感ともう少し向き合えそうだ。
他人の体を乗っ取ることが本当にできるかは素人の帰家にはわからないが――死体だとまた別なのだろうか?――ソラの主張が嘘かそうでないかは他の情報からも判断できるだろう。帰家は振り返った。
「雪次さんはどうしてここに?」
「おれの先祖と話をするためだっていってた。だけど親父に見つかって殺し合いになって、親父は死んで雪次も瀕死になった。それでさっきいったとおり」
ソラの説明は淡々としたものだった。父親が死んだというのに悲しみや怒りといった感情は見られず、父親にたいしてあまり興味がないようにも見えた。
「雪次さんは声を聞いてここに来たいうてはりましたけど、嘉瀬家に関連する方はまだ生きてはるんですか?」
「おれを除けば軒並み死んでるはずだけど。ただ雪次が先祖の声に従ってここに来たってのはオレも聞いた。死んだやつの声が聞こえる体質なのか、そうじゃなければ呪われてたんじゃないかな。おれとしては後者を推すけど」
嘉瀬家とソラの先祖の関係は決していいものではなかったのだろう。ソラの父親が襲いかかったというのなら、関係性はおのずと見えてくる。
「妖魔とか妖ってさ、死んでもなにかを引き起こす力を持ってる。だからさ。あの社には行かないほうがいいよ。一応子孫であるおれでさえあっこはあんまり近寄りたくないし」
ソラの言葉は信じるに値するか。帰家は考える。もちろん雪次の一人芝居という可能性もまったくないわけではない。そもそも体を明け渡すだとかそういった話は未だに実感がわかないぐらいだ。
だがこちらを気遣う態度は決して嘘ではないように思える。獄登もそう感じているからさして口を挟まないのだろう。なら彼の忠告に素直に従うべきだ。
「そうだね。ただ、ひとつ聞きたいんだけど」
「うん。なに?」
「きみはこれからどうするんだい?」
雪次の体を貰った元妖魔と退魔師の混血。獄登は「仏のにおいがする」といっていたから、結局のところ死体でしかないのかもしれないし、摩訶不思議でどうにかなるのかもしれない。帰家には素直にソラの行く末がわからなかった。
ソラはキョトンとして、視線を空に投げた。彼自身考えていなかったのかもしれない。彼は予想を反して生き永らえた張本人だ。
「うーん。わかんない。でも多分ヒトの世界には下りないよ。ややこしいでしょ。この体だと」
もっともな意見である。見た目は嘉瀬雪次であるが中はそうではない。齟齬が起きないわけがないのだ。
「なら雪次さんのご両親には雪次さんは亡くなったと伝えておくよ」
ソラは苦く笑った。
「ごめんね」
帰家はその笑みが妙に印象深く残りながらソラと別れた。
思えば獄登の意見を聞いていなかったなと思ったのは、下山を済ませて日が傾き、昼食を抜かしたことに気づいて早めの夕食と事務所近くの呑み屋に入った時だった。帰家は慣れない登山ですっかりへとへとで、いつもなら次々肴を頼むのに今日はまだ刺身の盛り合わせだけでジョッキをふたつ空けている。獄登もそんな帰家に気づいているようでいつもよりゆったりと親子丼を食べ進めていた。
「獄登君さ。実際どうなの?」
「ソラのことですか?」
「そう。玄人さん的にはどうだったのかなって。今回いつもより大人しいよね」
獄登はつまんだ鶏肉を噛み締めながら唸った。
「雪次さんの話は嘘ではない、と思いますよ」
「怪しかったらすぐ突っ込むもんねぇ、きみ。それで、じゃあなにが引っかかるんだろう」
「言ってないことがようさんあるって感じですか」
「なるほどね。藪蛇そうだったんだ」
「そういうことです」
玄人が藪蛇と思うとは相当なのでは? と帰家は目を細める。無知でいることも時には必要だ。この仕事をしていると本当にそう思う。今更になって危機感を自覚し、少しだけ身震いした。
「怖いねぇ」
「怖いならうち来ます?」
守ると豪語しただけにしれっとそんなことを言い出す。獄登の“あちらさん”の仕事内容は詳しく知らないが、妙な頼もしさを感じるのはなぜなのか。
「なに、獄登君家結界でも張ってるの?」
「張ってますよ」
「え、マジ? 冗談だったんだけど」
「退魔師の家は大体張ってますよ」
「またひとつ怖い世界を知ってしまった」
そんな会話をしながらだらだらと酒を注いで。店を出るとすっかり夜空だったので解散となった。今日は疲れたからさっさと寝てしまおう。雪次の件は明日報告することにして。もちろん雪次のご両親にも。
ほろんとした頭で考えながら帰家は帰路に着く。雪次はもうあの家に帰ることはないんだな、と今更ながら思った。妖魔との関わりがなければ遺体だけでも帰れただろうに。
翌朝目覚めた帰家は出掛けに見る朝のニュースにただただ立ち竦んだ。
高級住宅街にある家が燃えている。
周辺の住民がスマートフォンで撮ったというその映像に映るその町並みは先日見た場所で、数台の消防車が野次馬や住人が見守る中放水している。ニュースキャスターは衰える気配のない炎の映像を背に淡々と読み上げた。
『――火元である住宅にお住まいの嘉瀬
帰家はただそれを見つめるしかできないでいた。スマホを手に取ろうとして指先が震えていることにようやっと気づく。
どうして、こんな。今から向かおうとしていた嘉瀬宅が、燃えた? しかも雪次の両親も死んだ可能性が高い? なんて悪夢だろう。いや、悪夢であってくれたならどれだけよかったか。
ようやっと掴んだスマホが震え思わず落としかけた。ディスプレイには獄登の文字。ああ、これは夢ではないのだと落胆が根を下ろしたのを感じながら電話に出た。
『おはようございます、灯士郎さん』
「うん。かけてきたってことはニュース見てるんだ」
無言の肯定。獄登がなにか言おうとして言葉にならないのを聞いた。
『灯士郎さん。事務所に』
結局獄登が紡いだのはその一言だけだった。
「うん。うん。わかった。大丈夫。寄り道しないでいくよ」
努めて冷静になろうとそう返した。言葉にすればそう向くのだ、といつだったか獄登がいっていた。だから寄り道しないでまっすぐ事務所に向かう。それがきっと求められている答だ。
宣言どおり寄り道せず事務所に向かう。事務所の入っているビルの前に見覚えのある姿があった。
田村晋助だ。帰家は自然息を呑んだ。彼もニュースを見たのだろうか。
「田村さん」
「帰家さん」
田村は笑った。にこりと。
帰家はその不自然な笑みにぞくりと寒気が背中を撫でるのを感じた。
「見ました? テレビ」
「田村さん」
「よく燃えてたでしょう」
褒めてくれといわんばかりの物言いにまさかと首を振る。まさか。いやそんな。
「赤猫を這わせたんですよ」
緊張は確かなものに変わった。疑問が確信へ。帰家は田村をまっすぐと視線に捉えた。
赤猫は放火を表す言葉だ。
「本当はあなたも一緒に燃やすつもりだったんですけどね。印は破られちゃいました。あと結界強めました? まるで入れない」
獄登だ。昨夜別れ際「事務所に寄って帰ります」といっていた。なんだか引っかかっているという様子だったから、用心したに違いない。つくづく彼は優秀だ。
「まあいいです。当初の目的は果たしましたし。これも貴方の協力のおかげです」
「俺は利用されてたと」
「はい。人質といってもいいかな。おかげで嘉瀬もようやく諦めてくれましたし」
「そこまでの恨みがあるんだね」
「猫を殺せば七代祟るっていうでしょう」
そういうことです、と彼は笑った。
もちろん笑えなかった。人でないものの残酷さは吐き気がするほど恐ろしい。
足早な革靴の音に振り返ると獄登がこちらに来るところだった。田村は笑いながらいう。
「なにもしませんよ」
「できんかったの間違いちゃいます?」
「そうだけどね。もういいやって。あなたの気がすむならどうぞご勝手に。好きにすればいい。ただ面倒なことになると思いますけどね」
ははは、と彼は軽快に笑った。獄登は帰家の横に並び睨みつける。田村は笑みを浮かべたままこちらに歩いてくる。帰家と獄登の前で一度止まると、にっと口を弓なりにした。
「ありがとうございました。獄登さん」
「脅しといてありがとうもないでしょう」
「そうですね。でもただの素人じゃこうはいかなかった。あんた便利だ。帰家さんも含めてね」
「ご忠告どうも」
「礼には及びませんよ。帰家さんもお元気で。それじゃあ、さようなら」
「田村さん。あなたも?」
田村は答えずに横を通り過ぎ、雑踏に消えていった。帰家は苦虫を噛み潰したような顔をした獄登を見ながら呟く。
「ねぇ、獄登君。田村さん、人じゃなかったんだね」
全然気づかなかった。前は香水で隠していたから。
田村からはすれ違いざま、廃寺の煎餅蒲団から漂うのと同じにおいがした。
行方不明者の捜索は珍しい依頼ではない。だから油断していた。今更言い訳にもならないが。
嘉瀬雪次の住むアパートの外周を見ている時にそれは現れた。一匹の猫だ。太々しい顔を引っさげて舐め腐った目で獄登を見ていた。
「退魔師さん」
小さな口をしょぼしょぼ動かして猫は獄登を呼んだ。
「ただの人間なんかと探偵ごっこなんてして楽しい?」
からかうような口振りに獄登の目は自然細められる。
「どちら様で?」
「あんたとは初めましてだよ。おれは田村。田村晋助。聞いてない?」
嘉瀬雪次の捜索を依頼した男の名だった。獄登は猫を睨みつける。猫はやれやれと首を傾げた。
「そんなに怖い顔しないでよ。おれは依頼人だよ?」
「灯士郎さんになんかしたら殺しますよ」
敵意を隠さない声色に猫はわざとらしく耳を伏せる。
「なにもしてないよ。本当だって。嘉瀬雪次を探せって依頼しただけじゃないか」
「わざわざただの人間使うて人捜しですか。自分ら人間よりよほど鼻効くやろうに、なんでこない回りくどいことして捜しはるんです? そない余裕があるなら観光でもしてきたらええんちゃいます?」
猫は「うわ~。いやらしいなこの人」と笑った。獄登の睨みなど屁とも思っていないのは見れば明らかだ。伏せていた耳もあっさり元に戻している。猫だけに猫かぶりか。腹の立つ話だ。
「あんたたちには普通に仕事して欲しいだけさ」
「その言葉信じるほど阿呆ちゃいますよ」
「阿呆なフリしたほうが利口なこともあるだろうに」
「罠とわかってて従うことほど愚かなことはありゃしません」
「そうかな。本当に?」
猫は愉快そうに笑った。
「罠ってのはさ、気づいた時には遅いんだよ」
獄登が目を見開くと猫はすいと立ち上がる。
「おれたちは見ている。ずっと見ている。あんたも、帰家も、嘉瀬も、決して逃れることはできない。ずーっと見てるよ。退魔師さん」
背を向けてわざとらしく尻尾をくねらせ、猫は町並みへと溶けていった。獄登はそれを苦々しく見届けて、顔を撫でる。
「わかりましたよ。やればええんでしょう」
半ばやけくそにそう呟く。どうせ断れば待つのは破滅だ。七代祟る獣は逃亡を許しはしない。ならばこの負け戦、滅びから逃げおおせ見事黒星を得てみせようではないか。
「『灯士郎さんのことは俺が守ったったらええだけ』。『そうやろ? 令士』」
紡いだ願いは自らを奮い立たせる“呪い”。獄登はすうと息を吸って、気持ちを切り替えた。
帰家探偵事務所 シグマサ @sshigure
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