すきまクラブ
本田翼太郎
第1話 ビトゥイーン・ザ・レッグ
野木坂マサシは、地下鉄に揺られていた。隣には、新聞を広げたサラリーマンが頭をひねっている。クロスワードパズルを解いているらしい。
(すきまに文字を埋めていく遊戯……)
野木坂はクロスワードに興味を持った。『すきまクラブ』の一員としては当然である。
(正しくすきまを埋めれば答えが現れる。すきまとは答えを隠しているものなのか?)
電車が駅に停まった。降車客が我先にとホームに降り立つ。入れ替わりに客が入ってくる。野木坂に一番近い扉からは、茶髪と黒髪、二人のOLが乗りこんできた。
二人は野木坂の正面に並んで腰かけた。茶髪はハンドバックを大事そうにふところに抱えた。黒いタイトスカートから、ストッキングに包まれた足が生えている。
(スカートと足の間にすきまがある。もしや、このすきまも何かの答えを隠しているのだろうか)
野木坂のすきまに対する関心は高い。すきまクラブの一員であるのだから当然である。かの神秘的な空間、薄布に隠された秘密を解き明かすことに、野木坂は切実な使命感を持った。
野木坂はスカートのすきまを凝視する。見えそうで見えない、奈落へと通じるような深い闇が広がっている。その目は真剣そのものだ。微塵のいやらしさもない。野木坂は本質に目を向けていた。視覚に移る映像は無常である。想像力が思考を加速させる。野木坂の意識が、表層の世界から飛躍してゆく。
(このすきま、よく見ればラッパのような形状をしている。ラッパといえば、世界の終焉を告げる楽器だ。もしやこのすきまは終焉への入り口なのでは……クソッ)
突飛な発想だった。己の洞察力の間抜けなことを憎悪する。本気にならざるをえない相手だ。天分としかいえない十人力の集中力、野木坂はそのすべてを問題解決にあてる決意をしたーー
彼の集中力は幼少のころから並外れていた。六歳のころには、一人でジェンガをして、すべての段を木板一本にすることができた。十歳の夏には、飛んでいるハエを箸で捕まえたこともある。そのせいで『ジャッキー・野木坂・チェン』というあだ名がついたのは苦い記憶だ。同級生から、「酔拳やれよ」と、すれ違うたびに肩を殴られるようになったのも、これがきっかけだった。
この一件で彼は心に傷を負い、一ヶ月間不登校になったほどだ。それ以来、人前で集中力を発揮することを避けてきた。
ーーその集中力がここにきて解放される。野木坂の前のめりは進行し、胴体は太ももにくっついた。スキージャンパーの滑走姿勢をした野木坂の集中力は、時速九十七キロメートルで、対象に飛翔してゆく。
(ラッパが蓄音機から外された物なら出口。しかし、ラッパのように見えて漏斗という可能性もある。それならばこれは入口だ……)
本質までは、あと一歩に思えた。
(ラッパが蓄音機から取り外したものなら鑑賞を目的にする。それならば、かような芸術性をもつことにもうなずけるか? いっぽう、他者の性欲に干渉することを目的にするなら、液体を注ぐ漏斗は妄想に補強され、性欲を捻じ込むための進入口として用意されていると断定できるか……。漏斗の落ち口が絞られている点に着目すれば……クソッ!)
危なく脱線しかけた。思考のラージヒルから落ちるところだった。隙間に関する考察が、エロガキの妄想であってはならない。
(すきまとは余地だ……。先天的な欲求を結びつけてはいかんのだ)
野木坂は自分を叱る。
(gaps which they will fill up with You――君が満たすだろう隙間――)
野木坂はすきまクラブのスローガンを頭の中で唱えた。脳内を占める煩悩が、人口雪のごとき白色に塗り潰されてゆく。
その時、電車がガタンと大きく跳ねた。立っている乗客がよろめく。座っている乗客は尻の片側と横っ腹とに力をこめた。
このときに起こった些細な変化は、野木坂に閃きを与えた。その変化とは、シートに伝わる振動がOLの足の肉感をわずかに震わせたことである。
(そうか! 足はマフラーだ。二気筒のマフラーがアイドリングに震えているんだ! タイツは制御系、緻密な計算がいき届いたひとの体系。このオフィスレディは
辿り着いた結論に、野木坂はぞぞ気を覚えた。清純そうなフリをして、なんという恐ろしい女だ。しかし、ここまでは現象の一側面に過ぎない。すきまに隠された真理はまだ残されているはずだ。野木坂は再度、集中力を高める。
(開け放たれた物は周囲の緊張に輪郭づけられることで、隙間としての神秘を獲得する)
野木坂は意を決した。幽体離脱をはじめる。全長を11.2cmほどに縮めて、隙間に侵入していった。最深部まで進むあいだに、計五つの物間を通り過ぎる。
①開け放たれたすきま
②繊維質のすきま
③大地と木綿のすきま
④茂みに隠されたすきま
⑤広間へと落ち着くすきま
洞にあぐらをかいて内観にふける。やはり最初のあいだがもっとも神秘的な、じゃ香漂う空間でありえた。
(神秘性は適度な距離によって担保される。近づきすぎてはいかんのだ)
それを確認すると、野木坂は肉体に還った。目的の駅に着いたので、鋼鉄の電車内からも抜け出す。
改札機にICカードをかざし、構内をゆく。前を歩く白髪の老婆は、千鳥格子のカーディガンを着ていた。野木坂は足が異常に遅い。老女のうしろ姿は遠ざかってゆき、曲がり角に消えた。
地上に出て五分も歩けば、大学の校舎が見えた。野木坂は校内の隅にある部室に向かう。
黄色い球が飛び交うテニスコートの裏には、三階建てのクラブハウスがあった。一階の一番奥の扉に、『すきまクラブ』と書かれたプレートがぶら下がっている。
室内は線香の煙でくもっていた。床には、ゴミ箱に捨てられたティッシュよりも黄ばんだ絨毯が敷かれ、ベビースモーカーの前歯よりも黄ばんだ家具が置かれていた。
野木坂はその黄ばんだ部屋に入り、剣道部の手ぬぐいよりも黄ばんだ壁に貼られたスローガンを凝視する。
〈すきまクラブの心得〉
一、無知に訴えろ!
一、gaps which they will fill up with You(君が満たすだろう隙間)
野木坂はリュックを下ろし、任天堂の電源を入れる。
「よお、野木坂」
七三の男が入ってきた。彼の名は御神苗ユウジである。
御神苗はポットの湯が沸いていることを確認すると、カップ麺のふたを開けた。かやくなどをぶちこみ、熱湯を注ぐ。
「通信しようぜ」
御神苗は尻ポケットから任天堂を取りだした。
野木坂は、「五分待て」とつぶやいた。
御神苗はソファに横になると、きっかり三分後にラーメンを食いはじめ、その二分後にスープを飲み干した。
「もういい?」
「いいよ」
それ以上の会話はなかった。ボタンを押す無機質な音だけが続いた。彼らがゲームをしているあいだにも、扉が何度が開け閉めされ、何人かの青年が出入りした。
一時間ほどが経つと、おおかたの部員が集合した。野木坂達は任天堂をしまい、皆がだべっているソファのほうへと動いた。
五人の部員が、今日の活動内容について報告しあう。野木坂は、通学電車でのできごとを報告して、それに関する考察を述べた。全員の報告が終わると、意見交換の機会が設けられている。各々に思うことをしゃべり始める。
「隙間とは休息だ」
御神苗が言った。
「隙間とは余地だ」
野木坂が言った。
「隙間とは執行猶予だ」
金髪の男が言った。
「隙間とは緊張に彩られる」
色黒の男が言った。
「隙間とは計算されていない場所だ。あるいは、完全に計算された場所だ。後者であるなら、説明されていない場所だ」
ぽっちゃり系の男が意味深なことを言った。
「……他には何もないか?」
色黒の男が見回した。
「ない」
金髪の男が答え、残り三人も賛同した。
すきまクラブの面々はそれから、日が暮れるまで、じゃんけんで負けた人から下敷きになってゆくゲームに興じた。
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