彼女は猫である、なまえは知らない。
タナカつかさ
第1話 その猫との出会い。
――チリンリンリン。
首輪に付けた鈴を鳴らして、ある日、うちに一匹の猫が迷い込んできた。
子猫だ。いや、この場合は遊びに来たと言うのだろうか? 彼女はじっと車庫の壁、その頂上付近を見上げていた。燕の巣だ、黄色い嘴をした雛たちが、土塊を固めた家からピィピィと首を出し一列に一所懸命に鳴いている。
ちょこんと前足を揃えて、その真下で、ピンと顎を伸ばして。
その猫は、しっぽをゆらり、ゆらりと、地面を撫でるよう横に揺らしている。
なんとも、その瞳は知的な光を溢れさせている。そして行儀よく姿勢を正した座り方は、一流の華道家が正座をしているみたいにシャンとしていた。
猫らしからぬその品行方正な佇まい――由緒正しき飼い猫だろうか?
その想像を裏付けるよう、青い首輪に組子細工――一風変わった鈴が提げられている。
鴨居や障子戸の飾りによく使われる、紋様が球状に模られた趣ある和の鈴だ。随分と凝ったアクセサリー……この猫の飼い主はおしゃれに気を遣っているのかも知れない。
愛され可愛がられているのが一目で分る――これは立派な飼い猫様だろう。毛色も全く汚れていないし、柔らかくコシを感じる、亜麻色を焦がしたような雉の尾羽のような縞模様を背中から羽織っている。そして口元から胸下、腹からお尻へと広がる前掛けのよう白い毛並みもまた綺麗なものだ。
その先端――慎ましく履かれた白足袋も、まるで着物のよう――
なんとも和柄の子猫である。
まあ、雉柄に白い足先なんてどこの国でもメジャーな猫だがそこはそれ――
その上を、燕が戦闘機のよう鋭く弧を描き飛んでいる。
大きさからして親燕――それがキキュン! キキュン! と、甲高い鳴き声を発しながら空を滑り矢のように飛んでいる、のだが……うん? このどことなく
きりきりと引き絞った弓から放たれるような弧を描いて宙を舞い、父と母が何度も代わる代わる、巣と猫の間を横切るように飛んでいる。
雛たちは、親に助けを求めて悲鳴を上げていたのか。親燕は領土侵犯を犯したそれを戦闘機になり、非難し責め立て、ギリギリまで威嚇飛行を敢行しているのか――
ついでに、私の頭頂部――その寸前までも掠めるように。やはり私達を追い払おうとしているのか。
それは誠にすまなかったと思う。精々遺憾の意を示してくれたらよい。
だが逆に……この猫はその颯爽と空を飛ぶ姿が気になるのだろう、ただの逆効果だ。
行き交う燕を何度も何度も飽きることなく、首を右に左に上に動かして見つめている。
――非常に興味深げに、空を飛ぶ生き物――それをみつめている。
その前足で掴めそうな、スレスレを飛ぶ。
手を伸ばせば届きそうな、それを羨まし気に、恋い焦がれるように、あるいはとても興味深げに、そして食欲をそそる空飛ぶ餌として。
見ているのか? じーっと見つめている。
私はその後ろ姿を、更に後ろからずーっと見て、考える。
「……ううーん……」
不思議と、この子猫が燕を食べる気は無さそうに見える。
反面、その知的な視線は――巣の下に座り込むことで雛が慌て、そして落ちて来るのを待っている、冷酷無比、狡猾にして悪辣な狩人のようにも見える。
多分親燕は間違いなくそう見ている筈だ、だから彼らは引っ切り無しにキキュン! キキュン!と、その小さな軍略家を
一体いつその爪を以ってして壁を駆け上がり三角跳びで巣に飛びつくのか――
それが、段々と、居た堪れなくなってきた……。
だがしかし、さて、どうしたものか。
猫を見る。
その背格好はまだ幾分小さい……どうやら子猫のようだが。
しかし、完全な子猫でもない。
子猫というには大きく、しかし大人というにはか細さがそこ此処に残る華奢な体、それは丁度大人と子供の間――人で云うなら十二、三歳、小学校高学年から中学生くらいの、なんとも危うく、そして儚い時期の女の子に見える。
そんな子猫が可愛らしくちょこんと座っている。
ともなれば、それは見守りたくもなる――
……え? なんで女の子かって?
それはまあ見れば分るだろう、その品良く澄ました物腰、小さな砂時計のよう危ういか細さまでなんとも女の子らしい背中である。それが慎ましく膝を折り腰を落しているのだ。
これが女の子でなくて何なのか? 雄猫ならもっと武骨で太ましい体格と面構えをしているだろう? それに獲物が落ちて来るのを待つ姿勢、これもなんとも女の子だ、男の子ならもっと果敢に獲物に対して
だが彼女は常に一歩引いた位置で、それが落ちて来るのを待っているのだ。
まるで手の平で男を躍らせているよう――思わせぶりな態度で男心をくすぐり、誘導、あるいは誤爆させヤキモキさせる。話に良く聞く「言わなくても分るでしょう?」という気配――それを発する彼女は、間違いなく女の子なのだ。
話が盛大に逸れたように思えるが、この男と女の見た目と雰囲気の違いは、生き物としての機能の違いだけでなく、その精神性も立派な一因となることだけは間違いないだろう。
その生き様、気質――雄雌の違いを、精神的特徴が身体的特徴を凌駕することは多々あるのだ、オネエとか男の娘とかその逆もいるだろう? あれらはその顕著な例だ。内面的な美しさが外面に現れ――それが超然とした美を生む。
人はそれを好意的に、そして魅力的に感じるものだ。それと同じで、男であれば男か女なんて一目見れば分かるのである。
同性愛の区分? 愛だろ、愛。私は専門家ではないので割愛させて貰うに決まっている。
さて、そんな小さな彼女だが。
見た限り、女の子であるが、雌ではない。野性的に見えて、文化的、そして、好奇心にあふれている。
「……」
「――ピチュン! ピチュン!」
奥床しく、知性佇む表情をして、飛び交う燕と鳴く雛たちを見上げている。
深々と瞳に光を揺らして、観察するよう首を傾げ、飛び掛かることもその爪を伸ばすことも、そして言葉も無く空を往く生き物にただ淡々と心を奪われ続けている。
……ように見える。
まあ主観である、実際には食欲全開の狩猟姿勢なのかもしれない。
しかし私には星空に手を伸ばす夢を感じた子供の姿に見えていたのだ。
猫にも様々な個性があるだろうが、この猫は好奇心と知識欲が強いのかもしれない。それかこの猫には猫らしからぬ深い知性と教養が備わっているのかもしれない。
本当に人間染みて――いや、いっそ物の怪染みているというべきか。
浮世離れした品性をその静かな背中に感じる。普通猫って、もっと臆病で怖がりか、奔放で我儘で身勝手で、人の世界とは違う
そんな野性の本能ではなく、人間染みた知性――いや、品性を感じる。
中に人が入っていて、そこで一本背筋を伸ばしているような、そんな佇まいだ。
先ほど言っただろう? 内面の美、それに準じるのであれば、彼女は猫らしからぬ輩なのかもしれない。
だがまあ燕たちを餌として狙っているのだとしたら……それは自然の摂理である。
だが飼い猫ならば餌くらい十分に食べているだろう、必要な食料とは言えない。だが趣味の
だからこそ燕を助けるべきか否か――と迷ってしまうのだが、さてどうしたものか。
きっと悪気はない――そんな様子を私は背後でじっと見つめる。
そして私は――空を飛ぶ彼らの同居人、車庫とはいえ同じ敷地の屋根の仲――彼らは春先の立派な隣人であった。
「――ちょっといいかい?」
結局、それを捨ておくことはできなかった。私は驚かせないようそっと子猫の横に行き、その隣に腰を落として話し掛けると、パッと私に振り向いた。
「――ニャア!」
驚いたのか、これまで気付かなかったのか。普通はこれで逃げ出すのだが、人間を怖がらないあたりやはり飼い主で慣れているのか?
しかしそれは一瞬で、
「……何を見てるんだい?」
「――ニャア!」
すぐさま子猫は巣をまた見上げ出し、適当な相槌を打つよう私に鳴いて、また燕達をじっと見上げ始める。
「……うん? ……飛んでるのが気になるのかい?」
「――ニャア!? ニャア!」
『そうよ?! 飛んでる、飛んでるのよ!?』なんて言っていそうなキラキラとした目を燕たちに向けている。いやそれとも『何よ! 邪魔しないで?!』とおざなりに返事しているのであろうか? 不満の感情は見られないのでおそらく前者であろう。
そしてまた右に、左に、飛び交う燕を首で追い掛け、それが来ない間は雛たちをじっと見つめている――雛たちも飛ばないかと疑問に思っているようだ。
それとも、恐怖に負け、巣から足を滑らせ落ちて来るのを待っているのか。
しかし、やはりその眼は、狩猟本能に支配されているようには見えない。
完全に、空を飛ぶものに憧れ、心を奪われ、見惚れているようだ。
純粋な子供そのまま――贔屓目に見て意地悪で彼らを慌てさせているわけではないだろう、ただそこに座っていれば飛ぶ姿がたくさん見られるとは分っていそうだ。
いや、どれにしてももうこれ以上――居候の悲鳴を、私は見過ごせない。
「……ちょっとごめんな?」
私はその背中から一言断り、子猫を抱き上げた。
「ンナァ~オ……」
「ごめんな? でもできれば燕をあまり構わないでくれるかい?」
「ウナァ~? ……ウナァ~~ォ……」
なんとも憂鬱げな鳴き声で、また抗議的な声を洩らす。
「――こっちなら日当たりもいいし、お昼寝なり、遊ぶなり、好きにしていいからね?」
胴を抱えた宙ぶらりんでも彼女は暴れず大人しくしていた。
随分と物分かりが良い――
いや、多分飼い主か親猫にこうされたことがあるのだろう。抗議のわりに動じない、妙に従順な猫を、私は陽当たりの良い南の縁台へと運ぶことにする。
びろーんと伸びた腹と後足を、及び腰の低空で、ぷらぷらと揺らしクレーンゲームする。
車庫を出て玄関先、整えられたコンクリートと石畳の足元、そこから土を叩いて固めた庭先へ、母屋を回って西側へ――
二階建ての母屋、そこから突き出た一階部分――中から見れば客間の和室のその前――
長く突き出た軒先、広めにとった基礎――その奥にポツンと縁台がある。
いかにも猫が好きそうな快適な陽気が漂う。斜に真っ白なその日差しが注ぐ縁台へ、私は白足袋に包まれた四本足を着地させた。
ここならその猫離れした好奇心も凪ぐだろう。
燕の鳴き声はもう聞こえない、猫の姿が消え安心したのだろう。親は今頃近くの電線にでも止まって一休みしているのだろうか?
そこで初めて――猫は私に興味を持ったのか、じっと私を見上げて来た。
ん? どうかしたのかな?
私に興味を持ってくれたのか。
猫は眉間を寄せ私をみつめ、そしてほんのり小口を開けて、
「……ニャア、……ニャア!」
と。
――いや、いったい何を話し掛けられているのか分らないのだが?
怯えているのかな? いきなりこんなところに連れて来られて、誘拐? 拉致? 危険な人物か、何をするのかと、私のことをつぶさに観察しているようである。
期待と不安、それに恐怖――好奇心? らしきものまでが、そのとても小さな眉間に浮かんでいるようだ。
「……何を言いたいんですか?」
「……ニャア。 ――ニャァ?」
私は膝を屈め、縁台に座った子猫の眼の高さに背を合わせた。
そして、人と猫とで真正面から顔を合わせたのだが、分る筈もないその問い掛けに、この猫は答えるよう縁台を飛び降りた。
そして、しゃがんだ私の腰と膝に、体を触れるか触れないかでぬるりと擦りつけ、するとその後、その足元で寝転びゴロンゴロンと腹を見せた。
念入りに二度、三度、背伸びをするよう背筋を逸らして足先までピンとし。
それから、あまつさえ招き猫をするよう前足で宙を掻き、私を一瞥――またゴロンゴロン、ぐにゃんぐにゃんとバネ仕掛けの如く腰がうねる。
その合間合間に、やはりチラチラと私に視線を送る――これは?
読解するなら、
「――代わりに遊べってことですか?」
そうだと言わんばかりに、今度は起き上がると綺麗に前足を揃えて座った。
……そうなのか、燕を取り上げたその責任を取れと。
「……」
「……ニャァ、ニャァ」
そのまましばらく放っておくと、また寝転がり左右にゴロンゴロンと猛烈に寝返りを打った、その腹見せは目一杯可愛い子ぶり私を誘惑しているのだろうか? まるで子供が地べたで駄々を捏ねるようなのだが。
いや実際子供か――つぶらで、まん丸の瞳と瞳で私を見つめて、如何にもまた甘えたげで
まるでそうしていれば人が構ってくれると分っているような、狙い済ました媚態だ。このどうしようもない可愛さに私は心で両手を上げ降参した。
「……わかりました。それじゃあ、遊びましょうか?」
そしてゆっくり、顔は渋面で内心ウキウキ、私は手を降ろす。
そのフカフカ毛なお腹は――さぞやぷにぷにしていることだろうと。
期待に思いを馳せ、しかし次の瞬間、
「――っあ痛ッ!?」
――噛まれた。一瞬自分の目を疑った。
背に脂汗を掻きながら慌てて手を見ると、手の甲に赤い点がポツポツと浮かび上がる。
手加減無しの本気、ついでに前足で爪を立て腕を掴まれ手首を極められ後ろ足にはビシバシ連続で蹴られたのだが、これは一体どういうことか。
私に遊んで欲しかったのではなかったのか?
当の子猫は目を丸くし、半ば呆然とこちらを見上げている。まるで私の反応が想定外であったかのようだ。
悪気など全くなく『え? 何かおかしなことしたの?』と、むしろ私の方がオカシイというようだ。しかし同時に、私の悲鳴の意味もちゃんと理解し、私が痛い思いをしていることも理解している様子でもある。
うーん、それなら何故あんな甘えた態度で腹を見せたのだろうか? 私はそれに応じてそのふわふわのお腹を撫でようとしただけなのだが?
どう見ても遊んで欲しげであったが、その実燕を取られて逆襲の『シャアッ!』な状態であったのか?
ならと私は腰を上げ、子猫から離れようとした。可愛い顔と仕草に騙されたが、嫌われていたのだから。
しかしまた、
「……ニャア、ニャア……!」
「……ええぇ?」
何故、そんなか弱くも可愛げな声を出して、私の足元に縋りついてくるのか。
脛に体を擦りつけて、『もう行っちゃうの?』と言わんばかりにうるうる上目遣いをしてきて――
いや、もう本当にどうしたいのか分らないのだが、その切なげな視線にグッと負けてしゃがんで手を差し出した。
前足で掴み、後足で蹴り、そして顎でカミカミ噛み付く――
手を離した。いや、だからこの猫はいったいどうしたいのか。
噛み付けば愛情が出て来るのかな? 求めているその味は本当に血の味なのかい?
猫の気持ちが、分らない。私が立ち上がろうとする気配を察したのか、子猫はまたすかさず私の腰回りをうろうろとし、体を擦りつけゴロンゴロンうにょんとしてくる。
そこで私はしばし懸案し……そして、そのままそこで待つようにと手の平でジェスチャー、それから庭に伸びていた猫じゃらしを引き抜き渋面で戻って来る。
「……ならこんなのは如何ですか?」
哀れ、生贄に選ばれた猫じゃらしは、子猫に差し向けられその首を横に振る。
要はズタボロになるのが私の手でなければ良い。
くねくねと揺れる緑の穂先――それにつぶらな瞳が即座に吸い寄せられ、寝たまま顔がそれに合わせて左右に動いた。
――掴んだ、猫心。
私は猫じゃらしを子猫の前まで持って行き、上から垂らし揺らしつつ下げて行く、と、子猫もすかさず前足を伸ばして器用にその穂先を挟み、自身の口元へと手繰り寄せ、そしてあぐあぐと噛み始める。
天然物の猫じゃらしを気に入ってくれたようだ――
しかしそこで気付く。もしかして噛んで引っ掻くのは猫の自然な遊びなのだろうか?
人の手も猫じゃらしも一緒で、狩猟本能を刺激されたとか?
確か、猫同士が親子や兄弟でそれは狩りの模倣だったか? 飛び付いて、噛んで、絡みついて、蹴りつけて。力加減とコミュニケーション、狩猟の練習をすることをどこかで聞いたような?
私は自分の手の甲に付いた歯形を見る、噛み方にやたら手加減が無かったが――子猫の飼い主さんは毎日こうして遊んでいるのだろうか?
きっと生傷も絶えないだろう、噛み付かれて傷だらけになって、それでも愛情を失わずにいられるなんて頭が下がる思いである。
まあそこは人も動物も変わらないのだろうが、
「……あなたの飼い主さんはすごいですね……」
とりあえず、私には出来る気がしない。
そして私は、とりあえず猫じゃらしで子猫の気が済むまで遊んでやることにした。
適切な距離と手段で接する分には、動物は本当に可愛いものだが。
そんな何の得も無い、無駄にも思える時間が過ぎて行く。その内、子猫は突如正気に戻ったよう平淡な顔をし四肢を翻して立ち上がった。
スイッチが切り替わったというか何か電波を受信したような唐突な変わり方だ。
すると背中を見せ、去って行く。今の今まで猫じゃらしに夢中になっていたのに、まるで何事も無かったかのようスタスタと、庭から消えていく。
「……どこへ行くんですか?」
返答はない、ただ鈴の音がチリンリンリンと返って来る。
その小さく足早な歩調は、こちらにまるで未練がないことを伝えてきた。
呆気なく行ってしまった。散々遊んでやったのに何の愛想も無いなんて、それは無いんじゃないかと私は思い、そうしてしばし呆れていたのだが。
とはいえ、それを咎める理由も無いことに気づき、そぞろに立ち上がる。
溜息一つ、私も振り返って、
「……さてと」
一人で庭から玄関に向かい、その引き戸に施錠し愛車に乗り込んだ。
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