トリケラ

@prtn

第1話完結

さっちは人差し指と親指を唇の端に置き、それを中心に引き寄せた。何度も繰り返し、上唇の先端を丁寧に尖らせる。それが彼の癖だった。

トリケラトプスみたい、と思う。ティラノサウルスでもプテラノドンでもヴェロキラプトルでもない。穏やかに草を食む恐竜。さっちの口先はそういう恐竜のくちばしに似ている。

「大きくなったら結婚しよう」。いつまでも続いてよかった空白を、さっちはそうして埋めてしまった。

金魚は締まった体躯をひらめかせて泡をかわしていく。私たちはただそれを見上げてソファに背をあずけていた。泡は金魚鉢の底から絶えず水面に向かってふきあがっている。夏祭りですくった金魚はこの1匹を残してみんな死んでしまった。どうして冬を越せないとわかっているのに何度も望みをかけてしまうんだろう。この金魚も、いつかは。ため息をついてさっちを見た。

ねえ、私たち、同じ人に生まれてくればよかったのにね。それが答えになるのかわからなくて言えなかった。

卒園したら違う小学校に通うんだよ。きっともう会うことなんてない。小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、私のことを覚えていてくれる?

聞けば、さっちは「うん」とうなずいてくれるだろう。そして本当に、この瞬間を丁寧に切り取って凍らせて、心の奥でかたく握り締めてしまう。もう一度私に出会えると信じて。わかるから。だからもうこれで十分。私は、恐竜の名前ひとつ知らない大人になりたい。

ソファをつめて座り、さっちの顔に鼻先を寄せた。頬の丘の向こうに見えるのは、あの尖った上唇だけ。非合理に引きのばされ、指先に潤いを奪われた、硬化した皮膚だ。

「私たち」

どうして別々の人に生まれてきちゃったんだろうね。言おうとして息を止めた。きっと何を言っても正確に伝わりはしない。今日までのこと全部ビンに詰めて「すき」とラベルを貼れるならそれが一番楽だった。

私は音をひとつもたてないように瞑目した。金魚鉢の泡の音だけが聞こえる。耳には靄がかかって、音の鮮やかさは次第に遠のいていく。本当のところ私たちは水中にいて、大きな金魚が今、頭上を泳いでいくのかもしれない。どうしても別の心臓を持って生きなくてはならないのだとしたら、ふたりともこのまま金魚になれたらいい。まぶたの薄い感触がさっちの頬をなぞっていく。幻から覚めないうちに、私はトリケラトプスの口先を、水に湿った唇で包んだ。

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