地雷女と黒い影

尾八原ジュージ

地雷女と黒い影

 高校の時の担任だった門田かどた先生が、高校をクビになってからいわゆる無敵の人になったと聞いてもあたしは驚かなかったし、その元先生が人を刺して逮捕されたというニュースを見ても、ああそうなのという感じだった。最近めちゃくちゃ暑いし頭がおかしくなった人がいても仕方ないかな、なんて思った。

 でも、テレビに映った崎口さきぐちあかりの顔を見たときは、さすがに一瞬ぞっとしてしまった。

 それほど彼女は、高校時代の自分に似ていたのだ。とはいえあたしの方がたぶん細かったし、こんなにもっさりした感じではなかったと思うけれど、ぱっと見の感じはかなり似ている。

 インタビューの内容を信じるならば、崎口あかりはとてもいい子だったらしい。明るくて真面目で、ディベートの大会で表彰されたこともあるそうだ。ディベートって何だろうと思ってちょっとググッたら、どうやら「相手を論破したら勝ち」みたいなものらしく、あたしの中で崎口あかりの株がちょっと下がった。

 門田先生――クビになったからもう先生じゃないけど――が崎口あかりを刺したのは、この子があたしに似ているくせに嫌な子だったからだろうか。先生はどこかで学生時代のあたしに似ているこの子を見て、嬉しくなって何か話しかけたのかもしれない。あのときみたく教師と生徒の間柄じゃないから、もっと仲良くなりたかったのかもしれない。それなのに彼女が論破とかしたから、怒って刺したんじゃないだろうか。

 でもその辺の情報は全然入ってこなくて、ワイドショーではバスを待ってた崎口さんを、門田先生(というか容疑者)が突然持っていた刃物で刺した、としか言っていなかった。それだけの情報しか与えられなかったことが不満だった。嫌な感じだ。

 その前からあたしには嫌なことばかりが続いていた。それらは主に、あたしと夫の間に子供ができないことに関係していた。

 結婚して八年。結婚当初から子供がほしくて色々やっているのに、あたしはまだ一度も妊娠したことがない。九月がくれば私は三十五歳、いわゆる高齢出産の年齢になるのに。

 あたしは結婚してすぐ仕事を辞め、専門のクリニックで治療を受けて、サプリメントとかを買って、あちこちの神社に参拝したりもした。病院の検査ではあたしにも夫にも大きな問題はなく、相性だろうと言われながら何事もなく八年が経った。

 あたしは一人っ子だから、親の視線がそろそろ辛い。つまらなさそうな顔をした母親に、同級生の〇〇ちゃん家の子はもう小学生になるんですって、なんてあてつけがましく言われて、辛くないわけがない。〇〇ちゃんも××ちゃんもお笑い芸人みたいな見た目なのに、子供がいるというだけで大きな顔をしているのにも腹が立つ。そこに来て夫が、不妊治療をやめようと言いだした。治療費が高くてもうお金が続かないという。そのくらい何とかできないで結婚なんかするなと怒鳴って、あたしは家を出てきてしまった。

 もしかすると、あたしが妊娠できないのはストレスのせいかもしれない。周りの人たちがよってたかってあたしをいじめるから――ビジネスホテルのベッドに寝転がってそんなことを考えながら、あたしは何となくテレビを点けた。そしたらだしぬけに、かなり老けた門田先生の顔写真が映し出されたのだった。


 あたしが門田先生と出会ったのは、高校二年の春だった。

 あたしたちの担任になったとき、先生はギリギリ二十代のまだ若手だった。正直ダサかった。いかにもその辺の激安カットで切った感じのヘアスタイルで、服は灰色っぽいスラックスにジャケットの代わりのジャージ。縁の細い眼鏡も老けて見えて、あまり似合っていなかった。でも背は高かったし、おじさんみたいな眼鏡と服装を変えたら結構かっこよくなるんじゃないかと思った。たぶんそのことに気付いていたのはあたしだけだったと思う。

 門田先生は数学担当で、休み時間は職員室ではなく、数学準備室にいることが多かった。問題集を持って質問に行くと、いつも親切に答えてくれた。

 休み時間を勉強に割こうとする生徒は少なく、先生はあたしが質問にいくと嬉しそうな顔をした。私は勉強熱心ではなかったけれど、先生が喜んでくれるので数学準備室に通った。おかげで数学の点数はちょっとだけ上がった。

「顔を見せるだけで男の人が喜んでくれる」というのは、当時のあたしにとってちょっとした清涼剤だった。一年のときに付き合い始めた彼氏からはとっくにそういうかわいらしさが消えていて、私たちの間ではもうセックスさえ単調で退屈なものになりかけていた。これが倦怠期ってやつなんだ、と私は知った。

 門田先生はその点違った。隣同士の椅子に腰かけて、私の膝が先生の太腿に触れるとさっと体を離す。そういうところがかわいいなと思った。だけどあんまりくっつきすぎると、「ちょっと離れてくれる?」と言われてしまう。

「なーに、くっついたらセクハラしたって言われるの?」

「言われるし、そうなったらまずいから」

「ふーん」

 先生と生徒ってそんな厳しいものかな、と思ったけれど、むしろそういうものだからいいんじゃないかな、とも思った。既婚の先生は指輪をしていることが多かったけれど、先生の左手の薬指には何もはまっていなかった。誰もいない数学準備室でちょっとくっつくくらい、別によさそうなものだった。

 近くで見ると門田先生はわりと肌がきれいで、横顔のラインが結構整っている。そのくせ皆には「若いわりにオジサンみたい」と言われていて、あたしはそんな与太話を(そんなことないのになぁ)なんて思いながら黙ってニコニコ聞くのが好きだった。そのときはまだ、門田先生と積極的にどうこうなりたいわけじゃなかった。だってあたしには、倦怠期とはいえ彼氏がいたのだから。あたしと門田先生がおかしくなったのは、彼氏が急に「俺たち別れた方がよくない?」なんて言い出したせいだった。

「何でそんなこと言うの?」「その方がいいと思ったから」「何それ」

 なんて全然中身の入ってないやりとりを、あたしと彼氏は放課後の教室で繰り返した。挙句、「自分は何しても許されるみたいなとこが無理」と言われたあたしは、ものすごく傷ついて数学準備室に駆け込んだ。問題集もペンケースも持っていなかったけど、先生はあたしの話を聞いてくれたし、慰めてもくれた。

 あたしは彼氏と別れることに決めて、それから一度も連絡をとっていない。その代わり数学準備室に通った。それまで三日に一回くらいだったのが毎日二回くらいに増えた。門田先生は喜んでいたはずだけど、でも仕事がどうこう言って数学準備室を閉め、職員室にいることが増えた。過去の問題集や参考書は準備室にあるのだから、そっちの方が仕事がしやすいはずなのに。

 あたしを避けているとは考えたくなかった。考えたくなかったけれど、もしかするとそうなのかもしれない。いまどき生徒にセクハラしたなんて言われたら、ほんとにまずいからそうしているのかも。

 でも、そうなったっていいじゃんと思った。あたしがセクハラって言わなきゃセクハラじゃないし、第一ばれないようにすればいい。先生は指輪をしてないし、あたしは彼氏と別れちゃったし、ばれさえしなければまずいことなんてひとつもない。

 だからひさしぶりにタイミングがあって、数学準備室でふたりっきりになれた昼休み、あたしは門田先生に抱きついて軽くキスをしてみた。ちょっとだけ勇気を振り絞って――そしたら先生は、あたしを突き飛ばしたのだ。

 男の人に暴力を振るわれるなんて初めてで、とっさに何にもできなかった。先生に怖い声で「出てって」と言われたあたしは、ついその通りにしてしまった。

 でも時間が経つにつれて、どんどん腹が立ってきた。だから高校のアドレスに匿名でメールを送って、ネットの掲示板に門田先生のことを書いて、あとは何をしたっけ。よく覚えていない。

 とにかく先生が本当に「生徒にセクハラした上、暴力を振るった」ってことになって学校を辞めてしまったのは、その年の冬のことだった。その頃にはあたしは別の男の子と付き合っていたので、自分がやったことなんかほとんど忘れていた。


 テレビに映った制服の襟のデザインで、崎口あかりが通っていた高校があたしの母校だということはわかっていた。私が通っていた頃はディベート部なんてものはなかったから、きっと新しくできたのだろう。

 ホテルを出てタクシーに乗ったあたしは、当たり前のように母校に向かっていた。生前の崎口あかりのことを知りたかったのだ。もしも彼女の死が、あたしたちの悲恋の結末なのだとしたら、あたしは彼女についてもっと知らなければならないと思った。ワイドショーのインタビューなんかよりももっと詳しく調べれば、色んなことがわかるかもしれない。

 でも、そんなことを調べて、あたしは何がしたいんだろう。

 何かおかしなものに突き動かされている感覚があった。いつのまにかあたしに付きまとい始めた何かが、あたしをここまで連れてきたのだ――そんな思考がふと頭をかすめた。

 いや、まさか。あたしは頭を振って、懐かしい母校の敷地内へと入っていった。きっと気温が高過ぎるから、しょうもないことを考えてしまうのだ。

 それにしても暑い。頭が本当におかしくなりそうだ。

 正門のところで通りかかった教師を捕まえて(私の知らない先生だった)、ここのOGであることを伝えたけれど、今は部外者の見学は受け付けていないと言われてしまった。あたしよりも若い女性教師なのに、態度がでかくてイライラする。表情や口ぶりに「私忙しいので」という感じが見え隠れしているので、わざと引き止めたくなって、あたしは「あたし、崎口あかりの叔母なんですけど」と言ってみた。もちろん嘘だ。

 教師はちょっと怯んだ様子をみせて、「それは……ご愁傷様でした」と言った。あたしと崎口あかりは似ているのだから、説得力のある嘘だったのかもしれない。あたしは「あかりがどんなところで過ごしていたか知りたいんです」と畳みかけた。

「……少々お待ちください」

 教師は校舎の方に駆けていき、あたしはその場に残って待っていた。偉そうな若い女に言うことを聞かせてやった。勝利を確信していると、校舎の二階の窓にさっきの女が現れた。もう一人誰かが出てきて、ふたりはこちらを見ながら何か話している。そのうち、女がうなずいて立ち去った。

 なかなか戻ってこない。勝手にそこら辺を歩き回っていようかとも思ったけれど、さすがに不審者扱いになるだろう。あたしは辛抱強く待った。こんなに来客を待たせるなんて、あの女は仕事ができないに違いない。きっと生徒からの人望もないんだろう。

 そのとき、遠くから近づいてくるサイレンの音をあたしは聞いた。パトカーだ。

 堂々と待っていればいい、と思いながら、あたしは急に不安になった。足元がムズムズする。もしかしてさっきの女は、あたしのことを不審者だと思って警察を呼んだんじゃないだろうか。嘘なんかとっくに見抜かれていて、女の呼んだ警官があたしをパトカーで連れて行くのだ。

 校舎から誰かが走り出してきた。さっきの女と、体格のいい男性教師が後からついてくる。

 あたしは踵を返して、正門の外に走り出た。

 走って、走って、高校からどんどん遠ざかった。


 蝉がうるさいくらい鳴いていた。

 いつのまにか高校から離れた小さな児童公園に来ていたのだ。あたしは息を整え、汗をふきながら、嫌なところに来たなと思った。近所の幼稚園から出てきたらしい制服姿の子供たちが何人も遊んでいる。その光景を見ると、あたしはどうしても不妊治療のことを思い出さずにはいられなかった。

 母親らしき女が何人か集まって、子供を見守る傍ら情報交換に勤しんでいる。ランドセルもう買った? うん買っちゃった。早いねぇ、何色? そんな話をしている。

 どうしてあたしはあの輪の中に入っていないんだろう。あたしにも夫にも生殖機能に問題はないはずなのに、病院にも通ってちゃんと指示通りセックスもしているのに、どうして赤ちゃんはあたしのところにやってこないのだろう。

 まるで神様があたしに罰を与えているみたいに思えるときがある。あたしは何も悪いことなんかしていないはずなのに、どうしてそんな風に思うのだろう。

 また「何か」の気配を感じて、あたしは辺りを見回した。そのとき公園の木立の向こうに、黒い人影のようなものが見えた気がした。

「ひっ」

 喉の奥から変な声が出た。周囲の母親たちが不審そうな顔であたしを見る。

 あたしはまた走り出した。もっと人のいない方にいかなければ。タクシーを捕まえて、ホテルの部屋に戻らなきゃ。何か恐ろしいことが、あたしの身に起ころうとしているのかもしれない。

 あたしは悪いことなんか、何ひとつやっていないのに。

 すぐに息が上がって苦しくなる。お腹が痛い。走るのなんかひさしぶりだ。空気が熱い。まだ真夏とは言えない時期なのに、どうしようもないほど暑い。

 気が付くと辺りには誰もいなくて、あたしは河川敷に立っていた。夕方五時を知らせるチャイムが鳴り始め、あたしは家に帰らなきゃ、という気持ちになる。あたしと夫が住んでいるマンションに――でも帰るのはもっと後の方がいい。夫があたしを心配して、何でもあたしの言う通りにするって言わせた後じゃないと駄目だ。せっかく家出してきたことが台無しになってしまう。

 だけどひとりでいると、何かがやってくるかもしれない。あたしをここまで連れてきた「何か」が。

 川の水面が揺れていた。ここは蝉の声がしない。やけに静かだ。車も通らない。人の姿もない。暑い。暑さで頭がおかしくなりそう。

 あたしはスマホを取り出して、さっき利用したタクシー会社に電話をかけた。どこでもいい、どこか屋根のあるところに移動したかった。コール音が何度も鳴るが、つながらない。サービスの悪い会社だ。後で口コミを書き込んでやらなきゃ。あたしは電話を切った。

 ぱしゃ、と音がした。川の方だ。

 あたしは顔を上げてそちらを見た。川の真ん中に黒い人影が立っていた。逆光になっているから顔はよく見えない。体全体が黒い紙を切り取った影のようだ。

 それは水の中を一歩一歩歩いて、あたしに近づいてきた。そいつが右手に持っている何か細長いものが、日光を受けてギラリと輝いた。だんだん近づいてくる。

 あたしは足がすくんで一歩も動けないままそれを待っていた。全身に殺意をたぎらせて近づいてくるそいつが何者か、あたしはもう知っている――


 黒い影のようなそいつは――ニンジャだったのだ。

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