第八幕
マロニエ王国で生活するスミレの敵は、ヘンルーダだけではありませんでした。
ヘンルーダには何人もの寵姫がおり、中でも第一の寵姫・ハイドランジアの虐めが一番陰湿でした。
ハイドランジアはスミレより三つ年下でしたが、寵姫の中では一番の古株で、誰も彼女に逆らうことはできませんでした。
スミレは昼はハイドランジアに虐められ、夜はヘンルーダに虐められるという生活を強いられていました。
ある時はドレスの裾を踏まれて転ばされたり、ある時は食事にゴキブリを入れられたり、またある時はドレスにソースをこぼして汚されたりしました。
それでもヘンルーダの相手をするほうがずっと辛かったスミレは、ハイドランジアに何をされても、顔色一つ変えずに無視しつづけました。
しかし、ある日の虐めに、遂にスミレの堪忍袋の緒が切れました。
あろうことか、ハイドランジアはスミレの子に沸騰した紅茶をこぼして火傷させたのです。
火がついたように泣く赤子に、スミレは慌てて侍女から冷たいおしぼりをもぎ取り、お茶のかかった患部を冷やしました。
「あらあら、ごめんねえ、あちゅかったでちゅね~。大変よね、乳飲み子を抱えてお城のお勤めなんて」
「貴様……!」
スミレはまだ泣き続ける赤子を椅子の上に横たえると、ハイドランジアに掴みかかり、馬乗りになって顔を強か殴りました。
「わたしに何しようが手前の勝手だがなあ、この子に手ぇ出したら許さねえ!!」
今まで人形のように心を閉ざして大人しかったスミレが、急に声を荒げて反撃してきたので、ハイドランジアは面食らいました。周りでハイドランジアの虐めを傍観していた他の寵姫たちも、唖然としています。
「わたしは好きでここの寵姫になったんじゃねえんだよ!誰があんな腐れ×××と喜んで寝るもんか!あいつの関心を引きたくてわたしを虐めてるんだったら、あたしに当たらねーであの腐れの気を引きゃいーじゃねえか!あんな外道喜んで熨斗つけてお前に呉れてやるぜ!」
スミレはボコボコに殴りながら捲し立てました。
ハイドランジアは心の底からスミレが怖くなって、泣き出していました。
ハイドランジアを気が済むまで殴ると、スミレは立ち上がり、傍観している他の寵姫たちに向き直りました。
「てめえらもだ、おら、見てねえで来いよ。今よりもっとブスになるまでボコボコにしてやるぜ」
スミレはそう言うと指の関節をパキパキ鳴らしました。
ハイドランジアの耳の奥で、さっき傍で怒鳴られたスミレの言葉が山彦のように鳴り響いていました。
「私は好きで寵姫になったんじゃねえ」
「あたしに当たらねーであいつの気を引きゃいーじゃねーか」
「……それができるなら……やってるわよ……!」
ハイドランジアは床に寝転がったまま、泣きながらスミレに言い返しました。
「あの人の気が引けるなら、あんたなんか虐めてないわよ!!」
昔は優しかったヘンルーダ。しかし彼は、次々新しい女に手を出して、ここ数年はめっきり相手にしてくれなくなりました。
何度も気を引こうとしましたが、彼の心は帰ってきませんでした。
それでもあの人にいけずをしたら、あの人の心はもっと離れて行きそうで、彼女は彼のお気に入りの寵姫に嫌がらせをすることで憂さを晴らしていました。
新しくやってきたこの子持ちの女も、あの人に可愛がられて喜んでいるから、私を見下しているんだろうと思っていた。でも、この女はあの人を汚い言葉で罵り、喜んでないという。ハイドランジアは分からなくなりました。
「もっと積極的に行けよ。あんな腐れ外道でも、手前はあいつが好きなんだろ」
「そんなこと……できるわけ……!」
「できないって言うのか?やれよ、やってくれよ。あたしよりあんたのほうがずっといい女じゃねえか。あたしはあいつの相手をするのはもうまっぴらごめんだぜ」
そう言うと、スミレは未だ泣き止んでない赤子の元へ行き、おしぼりで火傷を冷やしながら、愛おしそうに抱きかかえて、自室へと姿を消しました。
その夜、ハイドランジアはスミレに言われたセリフを何度も反芻していました。
もう何年も、ヘンルーダの相手をするのは諦めて、寵姫虐めばかりしていた。
いまさら彼が私になびいてくれるかしら。本当は彼女は自分に自信がありませんでした。ヘンルーダに嫌われるのが怖くて、女子力を上げようと、お稽古事やお洒落を頑張っていたけれど。
「あたしよりあんたのほうがずっといい女じゃねえか」
本当に、そう思う?
ハイドランジアは分からなくなって、また泣きました。
確かに、あんな乳飲み子に火傷をさせるのは、やりすぎたかもしれない。
ハイドランジアは、少し罪悪感をおぼえて、スミレに謝ろうと思いました。
翌日、お城の庭園で赤子と散歩をしていたスミレの元に、ハイドランジアが近づいてきました。
「ねえ」
スミレは警戒して、彼女を睨みました。
「き、昨日のことなんだけど、貴女に謝ろうと思って。その……さすがにやりすぎたわ。赤ちゃんの火傷はどう?」
「未だに真っ赤になって大変だぜ。本当に大変なことをしてくれたな」
ハイドランジアは溜め息をつき、深々と頭を下げました。
「本当にごめんなさい。赤ちゃんは何にも悪くないのにね。……ねえ、ちょっと話さない?」
そう言うと、スミレを庭園のベンチに誘いました。
「……えっと……その……。その子の父親って、どんな人だったの?」
ハイドランジアは気まずそうに話しかけました。
「イケメンでカッコよくて、可愛くて優しくて、完璧に私の理想の人だったぜ」
そこまで魔王のことを褒めたら、ふと、彼の意地悪のことを思い出してしまって、「まあ、性格に多少問題はあるけど」と、小さく付け足しました。
「そう……愛していたのね」
「ああ。今も愛してる」
ハイドランジアは赤子の顔を覗き込んでみました。赤子は、ブクブクと、涎で泡を作って遊んでいました。
ふと、額に二つの瘤を見つけ、はて、私はこの子を殴ったことがあったかしらとヒヤリとしました。
「その…額の瘤は……?」
「ああ、これか」
スミレは赤子の額の瘤を撫でました。
「この子の父親は魔族なんだ。この子とおんなじ場所に、あいつも角が生えていてね。この子もそのうち、この瘤から角が生えるんじゃないかな」
それを聞いて、ハイドランジアはほっと胸をなでおろしました。生まれつきか……。
赤子の無邪気な顔を見ていたら、ハイドランジアの心が、温かくなって解れてゆきました。
「可愛いわね」
「当たり前だよ。あのイケメンの子だもん」
スミレは誇らしくなりました。
「ねえ、あの人……ヘンルーダ様のこと、嫌い?」
ハイドランジアは思い切って、気になっていたことを確かめました。スミレは憎々しげに
「あの糞野郎は、反吐が出るほど嫌いだね」
と吐き捨てるように言いました。
「でも、昔は優しくていい人だったのよ」
と、ハイドランジアは彼を擁護しました。
「その様子だと、彼とのおつきあいは、嫌でしょうね」
「ああ。あんた、代わってくれよ」
ハイドランジアは、思いつきました。赤子を火傷させたり、今までさんざん虐めた罪滅ぼしに、スミレがヘンルーダの相手をさせられそうになったら、それを邪魔しようと思いました。
「私、あなたの夜のお勤め、邪魔してやろうかしら」
スミレは笑いました。
「おう。やってくれ。大歓迎だ」
二人は、笑いました。いつの間にか、友達になっていました。
ハイドランジアは、ふと、スミレの首飾りに気が付きました。ごつごつとした蝋で固められた、小瓶の首飾り。
「その小瓶、中に何が入っているの?」
スミレは、「ああ、これか」と、小瓶を摘み上げました。
「わたしの夫が、中に色々詰めて作ってくれたお守りなんだ。なんか魔法の力が込められているんだって。あいつの血とかが入ってるらしい」
それを聞いて、ハイドランジアは退きました。
「退くだろぉ~?あいつはこんな変なものばっかり作る変な奴なんだよ」
「でも、それだけあなたを愛してくれてるってことよね」
「うん。そうかもしれない。危ないときは小瓶を開けて魔法の力を使えって言われたんだけど、あいつの血が入ってるって言われるとね。勿体なくて、使えないよ」
「この中にあいつがいる気がして」スミレは小瓶にキスをしました。
その日の夜、またスミレがヘンルーダの寝所に招かれたことを知ると、ハイドランジアは先回りしてヘンルーダの寝所に押し掛けました。
「お前を呼んだ覚えはないぞ!」
ヘンルーダは怒鳴りましたが、ハイドランジアはもう何も怖くありませんでした。
「あら、冷たいですわ。昔は私とイイコトしてくれたじゃありませんか」
そこへ、スミレが赤子を抱いて出くわしてしまい、彼女と目が合いました。
「この、女狐!ヘンルーダ様は私の物ですわよ!おさがり!」
冷たいセリフでしたが、スミレはその意図を悟りました。
「失礼いたしました」
部屋から出て、ドアを閉め、スミレは彼女に感謝しました。
その日以降、スミレがヘンルーダの寝所に招かれて、相手をさせられることは無くなりました。
一方、クレマチスは彼なりに、メタセコイアの動向を探り、スミレが本国に帰る算段を練っていました。
ハイドランジアが、たまたまクレマチスを呼びつけ、スミレが本国に帰れるよう動いてくれないかと願った時、クレマチスは驚いて、自分も同じことを考えていたと言いました。
図らずも、彼らは同じ考えだったことを知り、協力することになりました。
ヘンルーダの心をスミレから遠ざけ、スミレが邪魔になるよう動こうと、二人は共謀しました。
クレマチスは、スミレとよく話をするようになりました。
一緒に赤子の世話をしたり、メタセコイアでの出来事や、魔王のことなど、思い出話や世間話に花を咲かせました。
スミレはいつの間にか、クレマチスのことが好きになっていました。
クレマチスもまた、スミレの表裏の無いさっぱりした性格が好きになっていました。
スミレは、いつも仮面を被って表情の読めないクレマチスが、どんな顔をしているのか、気になるようになりました。
その様子を、あの時クレマチスとともに斥候を務めた無口な男が、陰から観察していました。
そして、その様子を、ヘンルーダに告げ口しました。
「なんだと?あの小僧……!よくも我の物に手を出してくれたな……!」
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