第8話 初恋の君は ※ 智樹視点


「智樹」


 言いながら背中に凭れる可愛い人に頬が緩んでいたのは、いつまでだっただろうか……


「ねえ智樹、何考えてるの?」


 今はもう重くて仕方がない。

「別に何も」

 ふふと笑いながら、彼女──愛莉が背中に頬を擦り寄せる。

「ねえ智樹、私の事好き?」

「……好きだよ」


 その言葉にじゃれるように益々しがみつく愛莉。

「嫌、もっとすぐに言ってよ。あともっと情熱的に」


 くすくすと笑い声を立てる愛莉への溜息を、ぐっと飲み込む。

「私たちって運命的よね」

「そうだね……」


「ずっとずっと一緒だったのに、上京してから結ばれるなんて、ロマンス小説みたい」

 うっとりと口にする彼女のその科白は、何度目だろうか。


 小説みたいと愛莉が喜んでるのは、俺に彼女がいた……というところだろう。

 多分それが愛莉に火を点けた。

 彼女のいる相手から選ばれる女性。それこそ小説のような恋だと、胸を高鳴らせたのだろう。

 ……ヒロインに憧れる彼女。




 愛莉の事が大好きだった。

 子供の頃からずっと。

 可愛いくて、猫みたいで、ふわふわと甘い雰囲気の幼馴染。

 男子に人気があったから、ずっと手なんて届かなかったけど。

 愛莉は中高と学園中の人気者と付き合っては別れてを繰り返して、女子に嫌われていた。


 モテるから僻まれるんだろうな、そう思って泣いてる愛莉を慰める男子もまた多くて。俺も愛莉が気の毒で、彼女を悪く言う女子を叱ったり睨みつけたりしていた。


 ……そんな俺は愛莉のお眼鏡には敵わなかったけど、それでもたまに「ありがとう」と、目を潤ませてお礼を言われれば、天にも登る気持ちだったんだ。




 愛莉が好き過ぎて、俺は上京した。

 愛莉が東京の学校に行くと言っていたから。

 けれど愛莉は志望校に落ちてしまった。

 がっくりと落ち込むところに雪子が現れて……


 受験の日に見かけたなあ、なんて。

 隣の席に座っていた人を、席を立つ時に目印にしていたから覚えている。

 物静かな雰囲気だけど、暗いとかでは無くて、楚々とした印象の人だった。

 何となく嬉しくなって話し掛けたのが始まりだった。


 俺は愛莉が可愛すぎて今まで他の女子に興味を持つ事が無くて。そもそも愛莉は、何故か殆どの女子に嫌われていたから、そんな奴らと仲良くなんて出来る筈も無かった。


 けれど雪子は他の女子たちと違っていて。

 気付けば俺は愛莉への想いを雪子に話して、恋愛相談みたいな事をしていた。




「雪子さんに悪いわ……彼女、大丈夫なのかな?」

 ぴくりと身体が反応する。

「……いい加減もう、大丈夫だろう」

 雪子に伝えたのは一週間前、愛莉に伝えたのは二年前。

 雪子へのお別れの言葉──


 愛莉と同棲するにあたって、流石に雪子と付き合い続ける事は出来なかったから。


 この二年、愛莉は事あるごとに雪子の名前を出しては、申し訳無いと悲しそうに話してきた。

 その度に俺の罪悪感も積もっていく。


 雪子の気持ちは嬉しかった。

 ずっと愛莉への想いが叶わなくて、思い詰めては愚痴り、落ち込む俺を励まして認めてくれた、唯一の人だったから……


 だけど別れを選んだ人。

 だってやっぱり俺は愛莉が一番で──


 愛莉に、雪子と付き合う事にした。と報告したのは、気持ちの区切りを付けたかったから。

 だけど……大切な幼馴染の彼女に是非会ってみたい。と愛莉に言われれば、やっぱり何かを期待してしまって断れなくて──


 それからすぐに好きだと涙ながらに告白された時、やっぱり愛莉がいいと思ってしまったのだ。

 雪子とは上手くいかなくて、別れてしまったと了承すれば、愛莉は驚いていたけれど。嬉しいと抱きついてきて……


 愛莉と付き合うと決めた時、本当に雪子と別れれば良かったんだけど、雪子は意外と男女問わず人気があった。真面目だし、人当たりの良い性格だからだろう。


 だから付き合って直ぐに俺の都合で別れれば、非難の目はこちらに向けられるだろうとつい怖くなって、別れを先延ばしにする事にした。

 ほとぼりが冷めるまで……


 そう安易に考えていたものの、雪子との付き合いは、なかなか終えられなかった。


 なんて言うか……雪子は癒された。

 愛莉が奔放に振る舞う分、雪子といると心が休まる感じがして……手放せなかったのだ。


 けれどそれも学生が終わるまで。

 愛莉が一緒に住みたいと言い出したから。

 愛莉は俺たちの事を親に話してしまった。


 俺たちは幼馴染だし、お互いの親も悪いとは言わなかった。

 元々愛莉の親は一人暮らしの娘を心配していたし、智樹君なら──と、一緒に暮らす事を提案してきた。勿論将来を視野にいれて。

 どうやら同棲を望んでいた愛莉は、それを手放しで喜んでいた。


 愛莉が笑えば俺も嬉しい。

 けど──

 雪子がいないのに、大丈夫かなとも思った。


 疲れた時、落ち込んだ時に愛莉と会うと余計に辛くて……そんな時ばかりは雪子じゃないと駄目だったから。

 そんな考えに首を振り、愛莉と目を合わせる。


(こんなに可愛い愛莉と四六時中一緒にいられる事を……ずっと望んでいた)


 同棲の先には結婚が待っている。マリッジブルーなんてまだ早い。

 けれどそう信じてきて、たったの二月で、俺の心は折れそうで……


「ねえ、また先輩から誘われちゃった。断り辛いから、一回だけ行って来ていい?」


 ひくりと頬が強張るのを感じる。

 男の先輩からの合コンの誘い。

 同棲相手がいると知っても誘うらしい。


「お願い、智樹」

 擦り寄る愛莉にいつもの返事をする。

「いいよ」

 するとぱあっと花のような笑顔が返ってきて。

「嬉しい! 智樹、大好き! じゃあお金持って行くね!」


 嫌な顔をすれば愛莉は泣くから……

 先輩に怒られてしまうと、職場で嫌われる。と──


 二人で貯めようと始めた結婚準備金。

 貯金箱に入れては出すを繰り返すから、銀行に預ける間もなく無くなっていく。

 他の男と飲むために減っていく俺たちのお金。


 俺に黙って行くのは忍びないから、と始めたこの報告は、いつまで続くんだろう……

 知っても知らなくても頭が痛い。


 もしかして結婚してからも……

 いや、そんな筈はない。


 首を横に振る。

 愛莉はそんな女じゃない。


 ──そんな女って、どんな女だ……?


 一瞬過った考えを振り切るように、俺は身を捩り、背中にいる愛莉を抱きしめた。


「愛莉、愛してる」

「私もよ、智樹」


 嬉しそうに背中に回される腕に答えるように、俺も愛莉の小さな身体を一層きつく、抱きしめた。

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