第2話

 一歩車内を出た私へと、大粒の雨が打ち付け身体を濡らす。重く貼りつく水の感触がどんよりと漂う湿気と合わさって不快指数を倍増させてくる。

 何より一番不快だったのは、より一層濃さを増して私に纏わりついてくる水臭さだ。

 年間を通して雨の多いこの町に燻り続ける、錆にも似た独特の臭い。それは記憶とそう変わらない駅舎や、隙間の多い時刻表といった目に映る光景以上に、此処が郷里の町である現実を私に自覚させた。

 ――ああ、帰ってきてしまったのか。今日一番の落胆と共に自動改札を通り、待合所を抜けてぱらぱらと小雨が降るロータリーへ出ると、何処からかクラクションが鳴らされる。

「こっちだこっち! 」

 振り返った先にある一台のワゴン車、その運転席横の窓から佐々木が顔を出して私を呼んでいた。

 「随分かかったな。乗り過ごしでもしたのか? 」

 「久々過ぎて一度違う電車に乗っちゃったんだよ。それで一時間の追加だ」

 うんざりした様子を隠しもせずに言った私に、佐々木は大笑いしながら「ホテルでいいんだよな? 」と確認しつつ車を発進させた。


 ロータリーを出てすぐ、両脇に個人商店が軒を連ねる町のメインストリートへと入っていく。夕飯時に近い時間という事もあって雨天でもそれなりに賑わっているように見えた。

 そのまま真っすぐに一本道を抜けると国道に突き当たり、車は左折して数件のホテルが並ぶエリアへと向かっていく。

 「実家には帰らないのか? 」

 「帰るどころか、今回此処に来ることもいってないよ。下手に会ったりしない方がこっちの件に集中できるってもんさ」

 吐き捨てる様にそう言うと佐々木は何か言いたそうな様子であったが、その前に車は宿泊するホテルへと到着してしまう。

 そして翌日に佐々木家を訪問する約束を取り付け、送迎への礼を述べると逃げる様に車を降りた。

 ホテルのロータリーから佐々木を見送り、チェックインをしてあてがわれた部屋に入ると、荷物もそのままにベッドへと身体を横たえる。約4時間の往路で硬くなった体を伸ばし、ため込んでいた息を吐ききる。

 そうして肺胞の奥の奥まで入り込んでいた、あの錆にも似た独特の水臭さを追い出すと、漸く呼吸が許された気がした。

 「本当に変わってないな、この町は⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅」


 私は郷里に燻るこの薫りが嫌いだった。もしこの町に良い印象を持っている人ならば、瑞々しく長閑な懐かしき田舎の薫りとでも良い様に例えられるのだろう。だが私にとっては何処へ行こうと重苦しく纏わりつく嫌な臭いでしかなく、捨てる事の出来ない過去からの執着を象徴し、それを強制してくると思わされてやまない存在である。

 一体いつからかは記憶の彼方に放り出して久しい。覚えている限りでは思春期の頃には既に、あのむせ返る様な水臭さから逃れたいと私は思い続けてきた。

 「実家に行けか。あいつも父親になったってことか」

 私の家族仲を案じる佐々木の言葉を思い出す。家族を思う一人の父親の言葉が呼び寄せた水の臭いで、吐き気がした。


 水の臭いは、私の父の臭いだ。常に濃い水の臭いを纏わせていた父から、私は逃れたかったのだ。


 『もっと現実を見なさい』

 自分はいつも仕事で家を空け、家族の事など碌に見もしない癖に、たまにふらりと現れてはそう言ってくる父を私は心底嫌っていた。私の事を知りもせず過小評価してばかりの父に、罵詈雑言と皮肉を込めて言い返しては、その度に喧嘩別れをして終わる。記憶にある二人の思い出といえば、そんな怒声と罵り合いばかりだった。

 所謂犬猿の仲といえる二人の関係がどうしてこうなってしまったのか、特にこれだという切掛けにも心当たりは無かったので、生来馬が絶望的に合わなかったのだろうと思っている。

 そんな関係性のまま高校三年となった冬の受験終了後、父と此処一番の派手な喧嘩をした。この時、火蓋を切ったのは無断で進路も奨学金も決めてきた私だったが、この頃既に父とは衝突の絶えない間柄となって久しかったが故に、衝突の火蓋はどちらからでも遠からず切られていただろう。

 しかし、それまでは辛うじて繋がっていた細い糸もこの時遂に切れてしまった。

 そして卒業式を終えたその足で、町を離れるローカル線の車内へと逃げる様に飛び乗った。二両編成の小さな電車に揺られ続けて最寄りの新幹線停車駅まで来た時、あの重苦しい水の臭いがしないことに安堵し、やっと呼吸を許された気がしたのだった。


 このホテルは数年前にできたばかりであり、同じ町に存在しながらも唯一、郷里から離れられる場所であった。やはりここに決めてよかったと思い、父がいるかもしれない実家にはやはり帰れないなと気持ちを新たにする。そこまでが限界だった。

一気に押し寄せる疲労に身をゆだねて、私は風呂にも入らずそのまま就寝した。


 翌朝、起きてすぐ風呂に入り昨夜の分まで朝食を掻き込むと、鞄を持ってホテルを出た。勿論、行先は佐々木の家である。今日は妻の知恵と、長男の大樹、そして件の長女である瑞樹に話を聞く予定であった。

 佐々木本人は抜けられない仕事があるとのことで、残念ながら昨日の様な送迎は無い。タクシーの利用も考えたが、現在の佐々木宅はホテルから然程離れてはいなかったため、町の現状把握もかねて徒歩で行くことにした。

 空は昨日と打って変わり、燦々と日差しが降り注ぐ一面の青空だった。むせ返る様だった水の臭いも今日は少しおとなしめである。

 私は歩きながら、電車の中で調べた町の概要を思い起こし、周囲の光景を見渡していく。


 ここ『皆鹿目町(みながめちょう)』は、三方を山に囲まれた山合の田舎町である。残り一方は太平洋に面しており、中央を流れる『玉返(たまべ)川』で山とつながっている。町内には川の水を引いた用水路が発達、混在しており、その水を用いての農業や山林資源を活用した林業、そして漁業と昔から第一次産業で財政を繋いできた。江戸時代の辺りまでは陶芸を生業とする者もいた様だが、今ではすべて廃業し、史跡として窯跡が残るにとどまっている。

 また、町の南北を一本のローカル線が横断し、海に面した東側には飲食店や娯楽店が多い一方、山林方面の西側は緩やかな丘陵に建つ住宅地や公共施設が多い構造となっている。私が止まったホテルや、これから向かう佐々木宅があるのは西側であった。

 ホテルを出た私は国道沿いを、今度は右方向へと向かい暫く歩いていく。駅前へと続くメインストリートの入り口までくると、曲がることなくそのまま横切り進み続けていく。

 そうして暫く進むと、左手に丘を切り開いた住宅街が見えてきた。

 この住宅街は平成の就職氷河期を機に外へ出ていた者たちの帰省や田舎移住の増加を見込み、元々そこにあった小学校や図書館等の公共施設を囲うように開発が計画された。

 私が上京する頃には既に丘の造成が始まっていたのだが、ここまで立派なものになっていたのかと正直に驚いていた。昨日の電車からは見ることが出来なかったが、もう少し乗っていればあの田舎然とした寂しい車窓もだいぶ変わっていたのだろうと思う。

 住宅街の端から少し先で左折すると、坂を暫く上った先の平地になった辺りに現在の佐々木宅を見つけることが出来た。

 結婚後に購入したという住宅は、築4年の鉄骨造二階建てである。小さいながらも庭が付きらしく、外観からも分かる立派なものであった。玄関口は門を挟んで街路に面している。

 そこへ行こうとすると、道を挟んだ反対側に小さな祠が目に留まった。近づいてみると、そこにはあったのは一体の地蔵。花やお供え物が何もないところをみると、あまりちゃんとは祀られていないように思える。

 どういう曰くでここにあるのかは気になるが、まずは目の前のことに集中しようと踵を返し、門のチャイムを押した。


 出迎えてくれた知恵は海辺の町に似合わぬ色白の顔をした女性だった。三十代半ばという実年齢に合わぬあどけなさを残すその顔は、不安げに歪められている。

 彼女の案内でリビングへ行くと、佐々木によく似た背格好の少年がこちらに背を向けテレビを見ていた。知恵の呼びかけで振り向いたその顔もまた、かつての佐々木の面影を感じさせるものだった。

 「息子の大樹です」

 その声に少年もまた名乗り、私も軽く自己紹介をして応じる。事前に佐々木が説明していたらしく、向こうから「幽霊とかに詳しい方と聞いてます」と言ってきた。

 通常、オカルトを嗜んでいると公言する人物に接した時、人は物珍しそうに質問攻めをするか、胡散臭そうに眺めてくるかに二分されるだろう。が、この時はどちらでもなくただただ何とかしてほしいというような二対の目が無言で向けられただけだった。

 この二人も事態の目撃者ではあるものの、この場に肝心の当事者の姿は無い。

尋ねると二階の自室にいるとの事で、私は彼女らの案内で二階へと上がった。

 階段を上り切ってすぐの右手に『みずきのへや』とプレートが駆けられた扉があった。

 知恵が近づきノックをしようとする。が、その手が扉をたたくことは無かった。


 「また、話してます」


 震えた声で、知恵が言った。扉に向けられたままの横顔がみるみると青ざめていく。

 私も近づき、扉の前で耳を立てる。声は一人分であったが、確かに独り言というよりは会話をする時のそれであった。

 意を決して扉をたたくと声は止み、一瞬の間を置いてゆっくりと開かれた。

 「おじちゃんは誰? パパのお友達の人? 」

 「そうだよ、初めまして。君が瑞樹ちゃんだね? 」

 「お話してあげてってパパから聞いてます。佐々木瑞樹です」

 ぺこりと頭をさげられ、私もさげて応じつつその礼儀正しい様子に舌を巻いていた。

 こうして軽く会話しただけでは、幼い少女の精神に何らかの異常をきたしている徴候は微塵も感じ取れなかった。小児精神医学は学生時代に多少学習した程度であり、普段の業務で応対するのは専ら成人以降の年齢層だ。また数回言葉を交わしただけで相手を病気や障害の有無を断じる事など困難である事も理解している。

 それでも、目の前の少女は何の変哲もない普通の小学生にしか見えなかった。

であるならば、とにかく話を聞いてみるしかないだろう。

 「君のお父さんから最近仲の良いお友達が出来たって聞いてるんだけど、そのお友達のお話を聞かせてもらってもいいかな? 」

 「いいよ。今二人で『今日パパのお友達が来るんだ』って話してたんだよ」

 「そうなのかい? じゃあおじさんも挨拶させてもらおうかな」

 人間を対象とする取材において相手の信頼を引き出し、言葉をも引き出していく上での鉄則。それは、まず相手の言動を否定をしないことに尽きると言えよう。

 それはこの時においても功を奏したようで、その少女――瑞樹は笑顔で我々を部屋へと迎え入れてくれた。

 「あれ? ちよちゃんがいない……おじちゃん達来たから帰っちゃったのかな」


 けれども私たちが入った時、他の誰の姿もそこにはなかった。

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