シニア読書感想文「杏と寿司郎」
チェシャ猫亭
グルメ小説なんて楽勝だ
矢野銀次郎に、ファックスが届いた。
所属しているシニア読書クラブから、感想文を書けという依頼だ。七十三歳の銀次郎は白髪だが、髪はまだふさふさしている。
担当の堀は、四十代のボランティア男姓だ。
会員が、コロナで顔を合わせられない今、こうして通信で指示をしてくれる。PCやスマホを使いこなすシニアも多いが、銀次郎はいまだ、ファックスの送信もおぼつかないアナログ派なのだ。
課題作品名に目をやった銀次郎は、首をかしげた。
折号外 「杏と寿司郎」
聞いたことのない作家名であり、作品名だ。
折号外。
なんだか、新聞の折チラシに号外が入ってくるような、妙な響き。号外は、大きなニュースがあったときに、単独で、駅などで配布されるもので、新聞にはさまってくるわけないが。
若い作家なのだろうか。
正直、銀次郎の読書といえば、山本周五郎や藤沢周平の時代劇あたりで止まっている。新しめの作家など、まるで知らない。
タイトルがまた、変わっている。
杏、は、果物の杏だろう。あまり生で食べたことはないが。
寿司郎、というのは、回転寿司屋みたいで、人名かもしれないが、よくわからない。おそらく、グルメ小説なのだろう。
担当の堀さんは、この本を二年前に共同購入した、と書いている。が、銀次郎には、まるで覚えがないのだ。ちらっと、乱雑な書棚を見たが、ここから該当する文庫本を探す気にはなれない。全く覚えのないタイトルだし。
本当に、その本がウチにあるのか。堀さんの思い違いではないのか。
もしかして、認知症が始まっている?
昨年、中学時代の友人が、認知症が進んで妻子の顔も分からなくなり、ついに施設に入れられた。
確かに物忘れがひどくなったという実感はあるが、認知症の初期症状ではあるまいか。
よし。
この際、読まずに感想を書いてみよう。
と、銀次郎は思った。
頭は真っ白だが、まだまだ老け込む年代ではなかろう。
何事も、挑戦が大事だ。シニアだからといって守りに入ってはいかん。積極的に、新しい道を模索しなければ。
なに、杏と寿司について書けばいのだ。なんとかなる。
縦書きの便せんを出してきて、銀次郎はさっそく、下書きを始めた。
【「杏と寿司郎」を読んで
矢野銀次郎
杏といえば、思い出すのはKY軒のシウマイ弁当である。駅弁としても常にトップクラスの売れ行きを誇るが、横浜市民にとっては、子供の頃からのなじみの味である。豚肉とホタテの風味豊かなシウマイ、甘辛く煮た四角いタケノコ、鶏肉に千切りの醤油昆布。
そして、味のアクセントになっているのが、干しアンズなのだ。デザートにするもよし、食べてる途中で味わいを変えるために食べるもよし。初めから食べるのは、やったことがないが、案外、いけるかもしれない。普段、めったに食べない杏だが、干しアンズとなれば、シウマイ弁当に欠かせないのである。
一方、寿司は、今や世界中で人気があり、国民食を通り越して、世界標準食といえよう。私らの世代が子供の頃は、父が宴会に出て、おみやげに寿司折を持ち帰った時しか口にはいらなかった。翌朝、マグロが少し黒く変色していても、やはり寿司は美味かった。
今は回転寿司などで気軽に食べられるようになり、隔世の感がある。
海外での寿司体験と言えば、二十年ほど前、社員旅行でタイに行った時のこと。辛い料理ばかり、エビばかりで、うんざりし、日系デパートの食品売り場に出向いたところ。海苔巻き、いや、エビ巻きが売っていて、びっくりした。おそらくタイでは海苔が高いので、エビで巻くのが安上りなのだろう。
しかし、寿司に杏、は似合わない。生の杏ならデザートとしては、悪くないかもしれないが。シウマイ弁当と干しアンズの相性のよさとは、比べ物にならない。
結論としては、シウマイ弁当に軍配が上がるのであろう。】
よし、書けた。
銀次郎は、満足して、万年筆を置いた。
あとは、これを清書して、堀さんにファックスすればいい。
しかし、腹が減った。もう十一時半か。シウマイ弁当と寿司のことばかり考えていたので、よけい空腹に拍車がかかった気がする。
銀次郎は、無性にシウマイ弁当が食べたくなった。しかし地元横浜とはいえ、どこでも買えるわけではない。市内のデパ地下か、KQ線の大きめの駅の売店か、に限られる。
寿司ならば、そこらへんのスーパーで、パック入りのが買える、味は期待できないけども。
今日は、パックの寿司で我慢しよう、シウマイ弁当は、そのうち、また。
という結論に達し、立ち上がる。
「おい。寿司が食いたくなったから、買ってくる。食べるかね」
キッチンにいた妻のキミ子に声をかけると、昼食を作らずに済むのがうれしいようで、
「お願いするわ、太巻きにしてちょうだい」
一仕事終えたし、昼は寿司に決まったし。
愉快な気分で、銀次郎が家を出たころ。
シニア読書クラブ担当の堀は、焦りまくって、新たなファックスの文章を打っていた。
矢野銀次郎様
先ほど送信したファックスに、重大なミスがありました。今回の課題作品は、
森鴎外 安寿と厨子王
の、間違いでした。
正確には、安寿と厨子王は、物語の主人公の姉弟で、正式な作品名は「山椒大夫」です。昔、「安寿と厨子王」というタイトルでテレビドラマ化され、ファンだったものですから、つい、そのつもりで打った、はずが入力ミスで変換も、でたらめになり、本当に申し訳ありません。
二年前に購入いただいた文庫本には「高瀬舟」が収録されており、当時、この作品を課題作品にしたことを、ご記憶と思います。お手数ですが、「山椒大夫」というタイトルの文庫本をご自宅で探していただき、感想文を送っていただきますようにお願いいたします。
シニア読書会 担当 堀辰徳
シニア読書感想文「杏と寿司郎」 チェシャ猫亭 @bianco3
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