第13話 大切な人

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 静まり返った病室の中、史美は手渡されたシナリオを見つめていた。コンクールに応募しようと作成していたに違いない。登場人物は、伊久子の言った通り秀輝自身で、ヒロインは史美だった。

 シナリオを読む史美の瞳から、次々に涙が溢れ出てくる。ストーリーは秀輝が自分の想いを隠し、ひたすら史美のために尽くす物語だった。

 それはまさに、史美と俊一が付き合うまでの話をモチーフに描かれていた。


「・・・そのまんまじゃない。ドラマにするなら、もっと脚色しなさいよ。」


 史美は物語に登場する数々のエピソードを、懐かしそうに思い出していた。一通り読み終えた史美は、意識が回復していない秀輝を見つめている。人工呼吸器を通して聞こえてくる呼吸音が、史美の胸を締め付ける。

 手にしていたシナリオをベッドの脇に置いて、史美は秀輝の手を握り話しかける。


「今でも、よく覚えてるよ。アンタが転校してきた時のこと・・・。あんなに態度の大きい転校生なんてアンタぐらいだよね。転校してきて早々、ケンカしてたし・・・。ホ~ント信じられない。」


 転校生というものは、最初は周囲に馴染めず大人しくしているものだと思っていた。ところが秀輝は転校早々、自己主張が強く周囲に威圧感を与えていた。


「初めて隣同士になった時 “ケシ貸せ、ケシ貸せ” って、よく言われたよね。ケシって消しゴムのことだって知らないから、よくアンタに頭を引っ叩かれた・・・。今思えば鬱陶しいくらいちょっかい出されていたなぁ・・・。一回、アタシん家に3~4人率いて、イタズラしに来た事があったでしょ・・・。この人、そんなにアタシの事が嫌いなのって・・・あの時、すごく悲しかったんだから・・・。」


“ ごめんな・・・。お前の事が気になって仕方なかったんだ。”


 秀輝の心の声が聞こえて来る。


「でもね。アタシがクラスの女子から無視された時、優しくしてくれたことは覚えているんだよ。あの時、他の男子までアタシの事を無視してた。和明や尊が心配して、優しい言葉をかけてくれたけど・・・。その中でアンタだけは違っていた。いつもと同じように、ちょっかい出してきてふざけてた。実はアレ、とっても嬉しかったんだよ・・・。急に独りぼっちになって寂しかったから・・・。」


 作中幼少期の秀輝は、何も出来ない自身の無力さを嘆いていた。


「・・・そんなに落ち込まなくても、アタシ達すぐ仲直りしたんだよ。それにアンタ、まだ小学生でしょ?助けるなんて大人びた事、出来ると思ってんの?アタシは・・・それだけでもう十分嬉しかったんだから・・・。」


 意識が戻らなくても、秀輝の手の温もりは伝わってくる。史美は握り締めた秀輝の手から伝わる、どんなことでも感じようと意識を集中させた。

 秀輝の純粋さは、昔から変わらない。目の前で起きた出来事を単純に信じている秀輝が、このシナリオには描かれていた。


「バレンタインデーのチョコ。アタシが渡しに行ったときの事が書いてあったけど、勘違いしていた話は面白かったよ。笑いが取れるかも・・・。だってあれは、アンタのことを好きだった子の代りに渡しただけだもん。アタシからだと思って喜んだんでしょ?・・・でも結局、あの子たちの誰とも付き合わなかったんだね。道理であの子たち、アタシに冷たかったわけだよ。」


 幼かった頃のモヤモヤしていたことが、ひとつひとつ解明されていく。


「・・・そうだね。初めてデートしたのは高1の秋だったよね。アイドル映画だったっけ?あんまり面白くなかったなぁ。普通デートに誘う映画って、彼女の好みそうなものを選ぶんじゃないの?自分はファンだったからいいかも知れないけど・・・アタシは違うもんね。」


 眠っている秀輝に、史美はペロッ舌を出す。


「そうそう、帰りに誕生日のプレゼントだって貰ったオルゴール。ちゃんと覚えてるよ。・・・センス無さ過ぎて、正直引いちゃったよ。でもね、あれまだちゃんと持ってるんだ。」


 眠っている秀輝が “ そりゃないだろう。” と言っているようで、史美の口元が少しだけ緩む。


「アタシあの時、付き合っている人がいたから、アンタの気持ちには応えられなかった。だから、少しだけ距離を置こうと思って、ワザと会わないようにしていたんだ。・・・でも、ちゃんと分かっていてくれてたんだね・・・アタシの気持ち。」


 シナリオには秀輝が、史美から避けられていたことを知っていたエピソードが描かれている。史美に余計な気を使わせたと、自分を責めるシーンがあった。


「何でも自分を責めるのは、やめてよね。何でアンタが、そんなふうに思うのよ。フッたのは、アタシなんだよ。」


 幼い男女の恋愛事情とはいえ、秀輝の心の傷が痛々しくて堪らない。

 普段耳障りな時計の音も、今はそれほど気にならない。出来れば時間は、ゆっくり流れていって欲しい。時間の流れを止めて、その間に秀輝の回復を待ちたかった。外は次第に白んでいき、ほのかに明るくなっていた。太陽がゆっくりと登り始め、病室のカーテンは少しずつ黄金色に変わって行った。



※            ※             



 病室のドアをノックする音が聞こえ、看護師が秀輝の様子を見に来る。


「失礼します。」

「おはようございます。」


 看護師は史美に一礼すると、神妙な面持ちで人工呼吸器や他の機材のチェックをしている。

 機材チェックをしている最中も、史美は秀輝の手を離さない。


「何か、お変わりありませんか?」

「いえ、今のところ・・・。」

「えっ?もしかして、一晩中そうやって側に?」


 看護師の言葉を流して、史美は秀輝の手を頬に当てている。


“ 頑張って・・・。”


 病室から出て行く看護師と入れ替わりで、厚史と伊久子が入って来る。2人の前に秀輝の手を頬に当てている史美の姿が目に入る。


「おはようございます。」

「お・・・おはよう。」

「秀輝さん・・・まだ・・・。」


 伊久子は史美が、一睡もせず看病していた事を知り慌てて側に座った。


「あなた、寝ていないの?」

 史美は何も答えず俯いた。

「少し休みなさい。」

「いえ、大丈夫です。」

「大丈夫なわけないでしょう。秀輝は、いつ目覚めるか分からないのよ。」


 肩を落とす史美の様子を見て、厚史が声を掛ける。


「秀輝が目を覚ました時、君にもしもの事が起きていたら、秀輝に合わせる顔がない。」

「ここからは、アタシ達が変わるから休んでちょうだい。」


 厚史と伊久子に促され、史美は病室を出て行った。



※             ※             



 エレベーターで1階へ降りた史美は、まだ人気のない待合ホールを歩いている。日中はこの待合ホールも、多くの人で大混雑になる。静まり返った待合ホールは、歩く度に史美の靴音が響いている。

 外の空気を吸おうと向かった救急入口から、見知った顔が大きなバッグを抱え歩いてくる。


「モモ!」


 史美の高校時代の親友・福川ふくかわ桃子ももこだった。桃子は優等生タイプの眞江とは違い、どこかアウトロー的な格好良さを持っている。


「史美!」


 桃子が、やや疲れた様子で駆け寄る。


「な、なんで?・・・どうしたの?」

「言いたい事だけ言って、それっきりにするなよ。何がどうなっているか分からないからさ。アンタの家に電話したんだよ。」

「ごめん。」

「LINEも既読にならないしさ。」


 秀輝の看病で携帯電話を気に掛ける余裕もなかった。


「ま、いいや。そんなこと・・。それよりアイツ大丈夫なの?」


 史美は、力なく首を横に振った。


「そう。」


 桃子も秀輝とは何度も面識があり、友達のような感覚を持っていた。


「事情は、おばさんから聞いたよ。これ、洗面道具とか着替えとか、日常のいろいろと使う物を持って来たから・・・。」


 桃子の抱えていたバッグは、そうしたものが詰め込まれていた。


「家に寄ってくれたの?」

「当たり前だろ。年老いたおばさんに、そんな事させんのかよ。」


 桃子の毒舌は、張り詰めていた史美の緊張を解してくれる。


「随分、早く来てくれたんだね。」

「アンタと違って、こっちはこれから仕事なの。」

「そっか・・・。ありがとうね。」


 桃子からバッグを受け取ると、気が抜けたようにソファに崩れ落ちた。


「頑張んな・・・。」


 肩を落とし項垂れている史美の肩を、桃子は励ますように揺する。

 生活に困っているわけではないが、桃子は昼も夜も仕事をしている。エネルギッシュでバイタリティに溢れる桃子の励ましは、口先だけではなく説得力がある。


「アイツも今、必死になって戦っているんだからさ・・・。」

「うん。」

「アンタ以外、篠塚を呼び戻せるヤツはいないんだよ。」

「わかってる。」

「食事も取らなきゃダメだかんね。ほら、これ。」


 桃子は病院に来る途中、コンビニで購入したサンドウィッチを差し出した。


「ありがとう。」

「じゃ、行くね。」

「モモ・・・。」

「ん?」

「アンタも知ってたの?篠塚のこと・・・。」


 呼び止められた桃子は、振り返ってジッと史美を見つめる。


「知ってたよ。」

「いつから?」

「初めて会った時からね。」

「なんで黙ってたの?」

「頼まれたから、篠塚に・・・。史美を傷つけたくないから黙っててくれって・・・。」

「・・・そう。」

「バカだよね、アイツ・・・。」


 悔しさを込めて呟く桃子の目には、涙がうっすらと浮かんでいた。きっと桃子は、秀輝を陰ながら応援していたのだろう。


「史美には悪いけど、アタシ篠塚に言ったんだよ。」

「何て?」

「女なんて押し倒しちまえばいいってさ。」


 桃子らしいストレートなアドバイスだと史美は思った。


「でも、アイツ・・・。何もしなかっただろ?」


 史美は、黙って頷いた。

 桃子は分かっていたかのように、深く溜息をついた。


「アタシさ・・・。」

「史美!」


 桃子は弱気なことを口に出しそうになる史美の声を自分の声で遮る。


「ん?」

「アンタの事、アイツ以上に大事に思うヤツは他にいないんだよ。」


 誰からも秀輝の想いは、痛いほど伝わって来る。浅はかだった自分に嫌気がさして、史美は肩を落とす。

 桃子は、そんな史美を見て言う。

「しっかりしな。何度も言うけど、アンタしかいないんだからさ。」


 桃子の声は、史美の心を奮い立たせてくれる。


「うん。」

「じゃあね。」


 桃子は踵を返し、颯爽と帰って行った。その姿は、近寄り難いオーラに包まれ眩しいほどに輝いていた。 



※             ※             



 午後になっても秀輝の意識が戻ることはなかった。史美や伊久子、厚史が代わる代わる秀輝の手足をさすっても効果は現れない。

 執刀医の芳山が史美たちに症状について説明するため病室に入ってくる。


「失礼します。」

「どうも・・・。」


 厚史と伊久子が、深々と芳山に頭を下げる。史美は秀輝の手を掴んだまま、芳山に一礼する。


「今、ちょっとよろしいですか?息子さんの状態についてご説明したいのですが・・・。」

「はい、よろしくお願いいたします。」


 厚史が椅子を差し出すが、芳山は軽く手をかざして断った。


「意識に関わる機能を司っているのが、脳であることはお分かりだと思います。脳の中の脳幹にある、網様体と呼ばれる部分がそれにあたります。」

「網様体?」


 史美と伊久子は、互いに顔を見合わせ首を捻る。


「網様体というのは呼吸・心拍数・血圧を調節する中枢なんです。人間の脳というものは、血圧の変化が起こったとしても脳血流を一定に保てるような自動調節機構を持っています。しかし、脳の自動調節が追いつかない程大出血した場合、意識障害が起こります。当然、網様体にも影響が及びます。脳血流が早期に回復すれば、意識障害もなくなり篠塚さんも目覚めると思います。呼びかけ等などは、とても有用ですので引き続き行って下さい。」


 握っている秀輝の手を、頬に当て目覚めることを念じる。


“ ここにいるからね。”


「しかし、何故・・・。何故あんなことをしたんでしょうね。危険なのは分かっていたでしょうに・・・。」


 芳山は秀輝の行動が理解できずに首を捻る。今の史美には、芳山医師の一言一言が胸に突き刺さる。


「大切な人のため・・・なんでしょう。」


 厚史が穏やかな口調で芳山医師に伝えた。


「大切な人?」

「ええ。こいつにも、そう思える人がいるんですよ。」

「自分の命よりも・・・ですか?」

「そんなもんじゃないですか・・・大切な人というのは。」

「そ・・・そうですかね。」

「夢中だったんですよ、きっと。大切な人を守ろうと・・・。」

「はぁ・・・。」


 芳山は厚史の言っていることが理解出来ずに首を傾げている。


「でも・・・こいつは必ず目を覚ましますよ。その大切な人のために・・・・」


 厚史の言葉には、強い確信に満ち溢れていた。厚史の言葉を聞きながら史美の脳裏には、様々な秀輝の笑顔が浮かんでいた。


「そうですね。」


 芳山はため息を一つついて呟いた。

 目覚めることを信じて疑わない3人の様子を、見るに忍びなくなった芳山医師は病室を後にした。


「田原さん。我々は着替えなんかを取りに一度自宅に戻りたいんだが・・・。」


 厚史が史美に申し訳なさそうに言う。


「大丈夫です。秀輝さんの側には私がいますから・・・。」

「ありがとう。なるべく早く戻ってくるから。」


 厚史と伊久子は、史美を病室に残し家へ戻って行った。



※             ※             



 時間の経過は、ゆっくり流れて欲しい時ほど早く過ぎてしまう。病室から見えた空は先程まで明るかったのに、いつの間にか陽は落ちて赤紫色に染まっていた。

 厚史と伊久子は、まだ戻って来ていない。その間に、何度か芳山医師や看護師が経過を診に病室を訪れているが、秀輝には何の変化もなかった。

 史美はシナリオに書いてあった、あるエピソードを思い出す。それは将来に絶望し、死に場所を探していた秀輝が、史美の笑顔を遠くから見て思い留まるというシーンだった。


「将来のこと・・・そんなに悩んでいたんだ。言ってくれれば相談に乗ったよ。人には遠慮するなって言ってるくせに、自分は何なの。死にたいくらい悩んでいたなら、アタシを頼ってくれたっていいじゃない。アンタが苦しんでいるときに、知らずに笑っていたなんて・・・堪らないよ。」


“ 俺の人生、挫折挫折の繰り返しだ。”


 そう言って秀輝は、笑って自分をいやしめていた。


「最終的には、誰にも頼らず自分で解決しちゃうんだから・・・。アタシのこと、遠くから眺めて勝手に元気にならないでよ。ズルいよ、そんなの・・・。」


 史美がふくれっ面で、秀輝を見つめる。


「でも、思い留まってくれて良かった。・・・本当に良かった。アタシの時は、アンタが思い留まらせてくれたんだよね。洗剤を飲もうとしてたら、すごい力で掴まれて・・・。そこから朝までずっと、寝ないでアタシのことを羽交い絞めにしてた。・・・抵抗しても馬鹿力で押さえるから、アタシ疲れちゃって寝ちゃったんだよね。・・・あの時は、ゴメン。」


 史美が握る秀輝の手を懐かしそうに見つめた。この手は、ずっと史美を離さず守ってくれていたのだ。今は、史美が秀輝の手を強く握っている。

  

「ねぇ・・・。最初に手を繋いだ時のこと覚えてる?アタシは、覚えているよ。山下公園の花火大会の日だった。バスで現地まで行こうとしたけど、渋滞で全然動かなくて途中で降りたのよね。場所取りしてくれている和明たちのところまで必死に走ったんだっけ・・・。その時、はぐれないようにって手を繋いだんだよ。」


 史美は握っている秀輝の手を優しくさすった。


「それからアタシがアンタの部屋に、何回か一人で行ったことがあったでしょ。あの時、何もしなかったよね。・・・アタシだって、ドキドキしてたのよ。何かしてくれるのかなって期待していたんだもん。アタシが、そんな気持ちだったなんて知らなかったでしょ。シナリオにも、全然書いてなかった。ちゃんと追加しておいてよ。」


 秀輝の呼吸に変化はなく、人工呼吸器の静かな作動音だけが聞こえる。


「シナリオに、ちょっと気になることが書いてあったけど・・・何、あれ。・・・何で自分のことを、そんな風に思うの?イケメンじゃないから釣り合わないなんて・・・。そんなこと勝手に決めないでよ。・・・お願いだから、もう少し自分のことも好きになって・・・。」


 秀輝自身から発信された、卑屈な思いを感じて胸が痛くなる。


「お父さんが大事にしていた日本酒を、2人で飲んじゃった時は驚いたよね。だって2人共、日本酒なんか飲めなかったじゃない。あの時、一晩中お喋りしたよね。いい雰囲気だったと思うんだけど・・・あの時もアンタ、アタシに何もしなかった。」


 史美は、こんなにも秀輝の顔を見つめたことはなかった。いつもふざけて史美を笑わせてくれる陽気な秀輝の顔。しかし、もう二度と目覚めないかも知れない。

“ 大丈夫 ” という秀輝の口癖も、二度と聞けないかもしれないのだ。


“ 頑張って、アタシの声が聞こえるでしょ。”


 史美は何度も何度も心の中で念じた。



※             ※             



 病室のドアの外で、伊久子が堪え切れずに嗚咽していた。秀輝の意識を回復させようと、必死になっている史美が不憫でしようがなかった。

 膝をついてうずくまる伊久子を、厚史は抱え起こして慰めた。


「大丈夫だ。あの子の声が、必ず届くから・・・。」

「・・・お父さん。」

「アイツが、このまま田原さんを残して逝くわけがない。」


 厚史と伊久子は、祈りながら奇跡が起きるのを待った。厚史は伊久子を抱えて、病室外の長椅子に腰掛けた。



※             ※             



 秀輝の意識が戻らぬまま、時間だけが無情にも過ぎて行った。

 史美は秀輝の手を握りながら、手元にあるシナリオを見つめた。そして、数か月前の秀輝とのやり取りを思い出していた。あの時、完成したら読んであげると言った史美に、秀輝はバツが悪そうな返事をしていた。シナリオには秀輝の気持ち、そのままが描かれている。史美に想いを知られてしまうのが、怖かったに違いない。


「そっか・・・。これアタシたちのお話だもんね。見せられるわけないよね・・・。いつも読め読めってうるさいのに、おかしいなぁって思ってたんだ。」


“ 勝手に読みやがって・・・。”


 秀輝のそんな声が聞こえてきそうだった。


「お母さんのこと、怒っちゃだめだよ。アンタが悪いんだから・・・。勝手にいなくなるからパニックになっちゃったんだよ・・・。藁にもすがるような思いで、このシナリオを読んだんだから・・・。」


 史美が思う秀輝最大の短所と言えば、短気なところである。まさに瞬間湯沸かし器で、道理の通らない事や、不義理な行いをすると拳が飛んでくる。


「ホントすぐ怒るんだから・・・。喧嘩っ早いし・・・。ねぇ、和明とカラオケボックスでケンカした時のこと、覚えているでしょ?和明のこと滅茶苦茶にしちゃって。あれはね、アンタが悪いんだからね。」


 史美は眠っている秀輝に口を尖らせて言った。


「あ・・・でも、原因はアタシか・・・。・・・ゴメン。」


 付き合っていた男が原因で史美が気落ちしていた時、励まそうと秀輝がいつものように仲間を召集したのだ。和明が自分の予定を優先させたことに、秀輝が腹を立て文句を言ったのだった。そこから火がついて、両者大乱闘に発展した。秀輝のあまりの剣幕に、和明は雲を霞と逃げ出したのである。


「あの時も、アタシのためだったんだね・・・。」


 流しても流しても、史美の目から涙が止まることはなかった。

 本当に、どうして今まで気付かなかったのだろう。

“ 俺は、お前の親友だから・・・。” それがもうひとつの、秀輝の口癖だった。史美はどうしても、秀輝の口から直接聞きたかった。秀輝の本当の気持ちを。


「ねぇ・・・このままずっと目を覚まさないつもり?」


 史美の声に、反応はまだない。普段眠っている秀輝は、大抵いびきを掻いている。東京ドームでの野球観戦の帰り道、電車の中でも構わずいびきを掻いていた。そんな秀輝を叩き起こしたこともあった。しかし、ベッドの上の秀輝は人工呼吸器を被せられ、静かに小さく呼吸をしている。本当に、このまま目を覚まさないかも知れない。


“ 愛する人が幸せなら・・・それでいいんだよ。” 


 大切な人の幸せのためなら、自分は死んでも構わない。そう思って呟いたに違いない。史美の部屋で観た映画の話が、現実になってしまうかも知れなかった。


“ 冗談じゃない! ”


「何言ってんの。何言ってんのよ!」


 史美は、あふれる涙を拭いもせず叫んでいた。


「アタシは、絶対にヤダよ。そんなの無責任過ぎる。アンタは、それで満足かも知れないけど、残された人の気持ちは・・・アタシは、どうすんのよ!どうすればいいの?どうでもいいって言うの。」


 声が上ずり大きくなっていくのも構わず、史美は秀輝に続けて叫んだ。

 

「ねぇ・・・聞こえるでしょ。聞こえるよね、アタシの声が・・・。今度もまた、アタシのために目を覚まして。」


 秀輝の手に唇を当てて、史美は必死に祈った。


「お願い・・・。」


 史美の祈りに呼応したかのように、空が白み始める。史美の涙が、握っている秀輝の手に伝っていく。

 秀輝の手がそれを感じているのか、微かに指が動き始めた。


「篠塚!」


 史美の声に反応しているかのように、今度は確実に史美の手を握り返す。


「そう!アタシだよ。ここにいるよ!」


 秀輝の口元が微かに震え始める。


「タ・・・タ・ハ・ラ。」


 酸素マスクの下から、秀輝の口が動いているのが分かる。


「先生を!早く、先生をお願いします。秀輝さんが目を覚まします!」


 ベッドの脇にあるナースコールを押しながら史美は叫んだ。史美の声は、病室の外にいる秀輝の両親にも聞こえた。その声を聞いて、伊久子が病室に入って来る。


「秀輝!」


 厚史が急いでナースセンターに走って行く。


「篠塚!」

「田原・・・。」


 史美は秀輝の手を頬に当て、意識が戻ったことを喜んだ。史美の温もりが、その優しい声が秀輝を呼び戻した。 



※             ※             



 意識が回復した秀輝は検査の後、ひたすら安静に過ごすことを医師からきつく言い渡された。入院中に病院を抜け出すという、前代未聞の行為をしたのだから当たり前である。

 史美は秀輝が横になっているベッドの側に付き添っている。秀輝は手を握ってくれている史美を見つめている。一晩中、泣いていた史美の目は赤く充血していた。


「田原・・・。」

「篠塚・・・。」


 史美は泣きはらした目で秀輝を見つめる。

 その目に再び大粒の涙が溢れる。


「・・・ごめん。」


 秀輝は琢磨の家からの記憶がない。しかし、担当医師や史美の様子から、自分が生死の境を彷徨っていたことが容易に想像できた。


「ホントだよ。みんなで探したんだよ。」

「親父とお袋は?」

「お父さんとお母さんは、お家に帰ったよ。2人共寝ていないもん。」

「えっ?お前だって寝ていないんだろ。・・・あの2人、信じられねぇ。」


 秀輝がまた、史美の心配をしている。


「・・・人の心配ばっかりして。」

「だってさ・・・。」

「アタシは大丈夫だよ。ずっと誰かさんに守ってもらっていたから。」


 史美は愛されているという実感で、胸がいっぱいになっていた。秀輝は照れ臭そうに下を向いている。


「もう二度とあんな事しないでね。」

「あんな事?」


 大変なことをしたという自覚がないから、史美がどのことを言っているのか秀輝はわかっていなかった。


「琢磨くん家に行ったこと。」

「あぁ・・・。」

「普通の怪我じゃないんだよ。」

「・・・うん。」


 しかし、秀輝が行っていなければ琢磨の両親は警察に出頭していたのだ。


「・・・死んじゃうところだったんだよ。」


 史美は涙を流しながら、訴えるように言う。


「お前の琢磨くんを思う気持ち、無駄にしたくなかったんだよ・・・。琢磨くんにも、二度と悲しい思いをさせたくなかった・・・。」

「・・・うん。」


 史美はもう分かっていると、何度も何度も頷いた。こんなにも思ってくれていた秀輝に、どうして今まで気付かなかったのか。過去の自分を思うと心に苦い悔恨が湧いてくる。


「田原?」


 秀輝が俯いている史美を心配して声をかける。


「大丈夫・・・何でもない。」

「ホントか?」


 自分が怪我をしていることなど、忘れているかのように史美の顔を覗き込んでいる。


「アタシね、西條君や俊ちゃん達からいっぱい聞いちゃった・・・。」

「何を?」

「アンタのこと・・・。アタシ、何にも知らなかった。それからね、これ読んだよ・・・。」


 史美は伊久子から、預かったシナリオを秀輝に見せた。


「あ、何で・・・お前。」

「このお話の主人公ってアンタとアタシでしょ・・・。」


 秀輝は申し訳なさそうに目を伏せる。


「・・・これ、ホントのこと書き過ぎだよ。」

「・・・うん。」

「ラストにも不満があるんだけど・・・。」

「なんだよ。」

「どうして、自分の気持ちを最後まで言わないの?」


 秀輝は黙っていた。史美は、シナリオの結末というフリをしながら、秀輝自身の事にかけて聞いているのだ。人伝ではなく、書き物からでもない、秀輝自身の口から聞きたいと願っていた。


「ずっとずっと隠しているの?」


 史美は溢れ出てくる涙を抑えようと上を見上げる。秀輝は、そんな史美の顔を静かに見つめていた。


「・・・田原、俺な。」


 秀輝は意を決したように話し出した。


「・・・うん。」

「ずっとずっと前から、お前の事が好きだよ。」

「うん。」


 秀輝の口から漸く聞くことが出来た告白を、史美は噛み締めながら聞いた。


「でも俺、お前に告白する勇気なんか全然なくてさ。そんなことしたらなんか、お前を汚してしまう気がして・・・。親友として信じてくれているお前の気持ちも傷つけたくなかった。」

「バカ。アタシ、そんな女じゃないよ。」


 自分のことを、まるでお姫様のように思っている秀輝が可笑しくて笑ってしまう。


「・・・それに何よりも、お前みたいに可愛いヤツが俺とじゃ・・・。釣り合わねーよ。」


 急に卑屈なことを言う秀輝に、史美は “そんなことない ”と必死に首を振る。


「諦めよう・・・忘れようって、何度も自分に言い聞かせたんだ。」


 潔く諦めることが出来なかった自分が情けなく思っているのか、秀輝の目から涙が幾つか零れていた。


「でも、どうしても出来なかった・・・。」


 秀輝の涙を、史美の手が優しく拭う。


「こんなアタシのどこがいいの?」


“ なんだよ、わからねーのか? ” と言いたげに、秀輝は史美を見ている。


「そうだな・・・。我が儘で意地っ張りで、寂しがり屋の上に、甘えん坊で泣き虫でさ・・・。おまけに、酔っ払うとすぐに寝ちまうしな・・・。」

「何それ・・・。」

「・・・でも。人の痛みが分かる優しい、お前が・・・やっぱり大好きだから・・・。」


 秀輝は握っている史美の手に力を込める。


「愛してる。」


 史美は恥ずかしそうに俯く。十数年の時を経て、やっと伝えてくれた秀輝の想いだった。


「へへっ・・・、やっと、聞けた・・・。」


 陽だまりにいるような優しい温もりを史美は感じていた。


「アタシだって・・・。」

「えっ?」

「ずっとずっと前から、アンタのことが大好きだよ。」


 秀輝は、今にも飛び出てきそうな目をして驚いている。


「・・・泣き虫で喧嘩っ早くて、お人好しで、自分勝手で。ハードボイルドとか訳分かんないこと言っちゃって・・・。」


 ズバリ当たっているだけに秀輝は何も言えない。


「・・・でも。」


 どんな時も側にいてくれた秀輝の顔が一気に追想される。


「いっつも、アタシの側にいて優しくしてくれる。」


 史美の頬に抑えきれない涙が止めどなく流れていた。


「やっと気付いたんだよ。」

「・・・。」

「アタシも、愛してる。」


 秀輝は繋いだ手を引き寄せ史美を抱き締めた。


「傷口、開いちゃうよ。」

「大丈夫。」


 秀輝の “ 大丈夫 ”は、いつものように何か保証があるわけではない。でも史美には、何よりも安心する言葉だった。


「俺、ずっとお前の側にいたい。」

「うん・・・。」


 史美は秀輝の胸の中で小さく頷く。秀輝の目も涙でいっぱいになっていた。

 やっと通じ合った気持ちを確かめるように、史美と秀輝は静かに唇を重ねていた。

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