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※今回の話は、残虐描写および性的暴行の描写が登場します。苦手な方はご注意ください。




【前回のあらすじ】

ラルフ・コールマンと『双頭の雄鹿』、アーサー・フォレスターとの関係。


ムラカミ氏から明かされた新たな真実に、驚きを隠せないニコラス。

一方その頃、捕らえられたハウンドには、USSAの魔の手が迫っていた。


果たしてニコラスは、ここから活路を見出すことができるのか――。




【登場人物】

●ニコラス・ウェッブ:主人公


●シンジ・ムラカミ(『シバ』):ハウンドの恩師で、”失われたりリスト”関連事件の生き残り


●ツカサ・ムラカミ:シンジの息子


●カレタカ・オーハンゼー:ミチピシ一家当主


●カルロ・ベネデット:ヴァレーリ一家当主側近


●サイラス:27番地通信班班長




【用語紹介】

●合衆国安全保障局(USSA)

12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。


●失われたリスト

イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。

このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。

現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。


●絵本

ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。

炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。


●《トゥアハデ》

『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。

現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。

現時点(11節冒頭)で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。

またなぜかオヴェドは名を与えられていない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






ニコラスは、しばし空を見上げていた。

 塗りつぶされた宵闇に数個の星が見える。明瞭に、赤、青、白と瞬くそれを見て、こんな都市のど真ん中でもここまで綺麗に見えるのかと思った。


 そこで己の現実逃避に気づいた。


 目元を揉みながら、呻くように尋ねる。


「失礼。あまりに突飛な話だったもんで……。それで、本当なんですか?」


 ラルフ・コールマン軍曹がアーサー・フォレスターの血縁で、「双頭の雄鹿」の一員だった。


 ご都合主義と言われても文句は言えないレベルの、にわかには信じがたい話である。


 けれど、シンジ・ムラカミこと、ムラカミ氏から送られてくるメッセージに淀みはなかった。


――『残念ながら、状況証拠からして限りなく真実に近い話です。それと一つ訂正を。

 コールマン軍曹自身が「双頭の雄鹿」メンバーだったのではありません。メンバーだったのは彼の両親です』――


「コールマン軍曹は捨て子だったと聞きましたが」


――『それです。そこが妙なんです。イーリスが軍曹自身から聞いた話では、彼はアイダホ州のネズパース族居留地近くの森に捨てられていたそうです。

 なぜそこなんでしょうか? 普通、子を捨てるなら孤児院とか病院とか、拾ってくれそうな人間のいる場所にしませんか?』――


「適当に捨てたとかじゃなくて?」


――『それならそれこそその辺の橋から川に捨てるでしょう。もしくは埋めてしまうか。

 そもそも、コールマン軍曹が捨てられた居留地付近は、よそ者がまずやってこない土地なんだそうです。来るとすれば、役所の関係者か研究者か。物好きな観光客は、年に数十人やってくればいい方だとか。

 大変不躾な物言いですが、子を捨てるようなモラルの低い人間が、興味本位で立ち寄るような土地ではないそうなんです』――


「つまり、何か特別な事情があってコールマン軍曹は捨てられた、と?」


――『恐らくは。ツカサ、こちらから資料は送れますか? ファイル三番と四番です』――


『はい、父さん』


 電話口の向こうで、ムラカミ氏の息子ツカサがまたガサゴソ音を立てる。それを脇目(恐らく耳で聞いて)に、ムラカミ氏は話を続ける。


――『それと、コールマン軍曹が「双頭の雄鹿」関係者というのには証拠があります。タペストリーです。彼が捨てられた際、おくるみ代わりに巻かれていたそうなんですが』――


「タペストリー? それって巡礼始祖ピルグリム・ファーザーズと先住民が描かれた?」


『えっ、知ってるんですか?』


 ツカサが思わずと言った風に口を挟んだ。ムラカミ氏も驚いたように、メッセージ更新を止める。


 ニコラスは戸惑いながら説明する。


「ええ、まあ。五大マフィアの一つ、ミチピシ一家当主のオーハンゼーという人物が持っていました。以前会った時にそれを見かけて……その反応がだいぶ妙というか、まるで何かに怯えてる風だったので」


――『なんと……こんなところで繋がりがあったとは。それで、そのオーハンゼーという方は今どちらに?』――


「ミチピシ領内か、ハウンドと同じ零番地のセントラルタワーにいると思います。今回の全面戦争で、ミチピシ一家は合衆国安全保障局USSA側につきましたから」


 というより、つかざるを得ない。

 ミチピシ領は現在〈部族政府自治区〉として国の傘下にあり、国の意向に逆らえない。国の意向にUSSAが介入している現状、ミチピシにUSSAに逆らうという選択肢はない。


 にしても、まさかここであのタペストリーと、オーハンゼーが出てくるとは。


――『息子』の二の舞にするわけにはいかない、か。息子ってのは、やっぱりコールマン軍曹のことだったのか。


 関係者なのは分かっていた。オーハンゼーは、ラルフ・コールマンたち五人を知りすぎていた。


 だがまさか、コールマン自身がフォレスターの血縁だったとは。


 オーハンゼーは、このことも知っていたのだろうか。


 ニコラスは、タペストリーを見るなり声を荒げて掴みかかってきた老人のことを思い起こした。

 その震える手と、希い縋るような眼差しを。




 ***




 同時刻、オーハンゼーは憤慨していた。


「どういうことかっ、説明しろ!」


 この一月もの間、零番地のセントラルタワーに留め置かれているのはいい。


 国へ下ったミチピシ一家が、国の意向を振りかざすUSSAに逆らえるはずもなし。現に部屋から一歩出れば、こうして背後に監視役二名を張り付けられる待遇である。


 ヘルハウンドとの面会が許されぬのも分かる。処刑権をもつヴァレーリ一家当主ですら会えぬのだから。


 一度言ったことを齟齬にされるのも、まあ腹立たしいが、自分たちにはよくあることだ。

 我ら先住民は散々国や企業に騙され掠め取られてきた。こういう扱いは慣れている。


 すべて、理解している。こちらの要求が通ることなどありはしないと。


 ゆえに、毎日毎日こうして尋問部屋の前で大騒ぎして、ヘルハウンドへの拷問の邪魔をしているのだ。


 だが、だが、これだけは許せぬ。


「いま通っていった男はなんだ。何をしようとしている……!?」


「なにって、いつも通りのお務めですよ。任務ですので」


 尋問部屋前に立ち塞がる、担当のトゥアハデ兵の一人が至極面倒くさそうに背後の監視役(なかま)に目をやった。「なにやってんだ、とっととつまみ出せよ」と。


 それを受け、さっそく監視役がオーハンゼーを羽交い絞めにする。

 けれど、オーハンゼーの怒りは収まらない。


「任務だと!? さっき通った男は服を脱いでおったぞ! 貴様ら、あの娘に何をする気だ!?」


 開け放たれた部屋からまだ女の悲鳴は聞こえない。

 まだ始まってないのか、悲鳴を上げる気力もないのか、男たちがバカ騒ぎする喧騒に掻き消されてしまったか。


 何より、こうして見せつけるように堂々と事に至ろうとする、腐りきったその性根に腸が煮えくり返った。


「別にこの手のことじゃよくあることでしょう。強姦は身体ダメージを抑えられる効率の良い尋問手法です。

 都合のいいことに、あれは避妊手術もされてるみたいですし……おい、さっさと連れてけよ。これ以上こっちの仕事を増やすな」


「待て、貴様っ。話は終わっとらん!」


「はいはい、爺さん。大人しくしてような。でないと、うっかり骨でも折っちまうぞ」


「何人か連れてきてやろうか? アレに恨み持ってる奴は多いからな」


「なんなら俺たちでもいいぜ?」


 監視役がこちらを引き剝がしながら下劣な笑みを浮かべる。


 吐き気がした。そんな輩にいとも容易く引きずられる己の衰えと無力さに打ちひしがれた。


 しかし、担当兵士は監視役二人の話に乗らなかった。逆に心底嫌そうな顔で吐き捨てる。


「代われるなら今すぐ代わってほしいもんだな。あの女の命令じゃなけりゃ、今すぐほっぽり出してる」


「はあ? アレ顔はわりと上物だろ。あれで起たないとか相当だぞ」


「お前らは尋問中のアレを見てないからそんなことが言えるんだ。こっちは酒と薬で無理やり気分上げてやってんだぞ。

 一か月だ。毎晩毎晩、強化尋問やって、朝になって目隠し外したら、目がこっち睨んでんだ。一か月だぞ?

 普通は三日もすれば音を上げて、まともにこっちを見れなくなる。それが外したら必ずあの目がこっち睨んでんだ。夢にまで出てきやがる。気味が悪いったらありゃしねえ」


 呪言のようにまくしたてられて、監視役二人が鼻白んだ様子で口ごもる。


 それを聞いてオーハンゼーは先ほどの半裸の兵士の様子に納得した。

 あの男は、据わった虚ろな目で、フラフラと部屋に入っていった。


 いいや、今はそんなことはどうでもいい。

 トゥアハデ兵がなにを恐れていようと知ったことではない。


「嫌ならやめればよかろうがッ! ええい、放せ、放さんか!」


「なんだ。トゥアハデ兵のナニは酒とヤクに頼らねえといけねえほど貧弱なのか」


 急に監視役が手を離した。

 唐突に解放されて前につんのめり、振り返って目を丸くする。


 この大男、知っている。ヴァレーリ一家当主側近のカルロ・ベネデットだ。


 担当兵士はぎょっと軽くのけぞって、それから小馬鹿にしたように顎を上げた。

 疲労のせいか、酒でもあおったか、この男も大男の接近に気づかなかったらしい。


「誰かと思えば、あの小娘の元番犬か。どうだ、お前も混ざるか? 今なら特別に許可してやるぞ」


 カルロはそれには答えず、首を伸ばして開け放たれた室内を一瞥した。この男の身長ならそれも可能らしかった。


 そして薄ら笑みを浮かべる。


「下手くその素人ぞろいじゃねえか。気の毒に」


「ああ? んじゃテメエが手本みせてこいよ」


「届くぞ」


「は?」


「目隠しだけならまだ分かるが、あの男、口枷も外してるぞ。あの位置だと、届くぞ。あの女なら」


 瞬間、担当兵士が血相を変えて、部屋に飛びこんだ。


「なにやってんだッ! 拘束具は絶対に外すなってあれほど」


 怒声は絶叫に搔き消された。


 オーハンゼーは呆然とする監視二名の隙をついて、部屋に駆け込んだ。


 絶句した。


 彼女は、ヘルハウンドは――Yを描くように天井から吊り下げられていた。

 口枷と目隠しが外れている。下半身の服は剝ぎとられ、切り裂かれたスラックスが右足首に引っかかって、下着が剥き出しになっていた。


 右肩を脱臼しているのか、見えない誰かにしなだれかかっているように、右側へぶらんと上半身を曲げている。


 その彼女の足元に、股間を両手で抑え、床に蹲る男がいた。

 男を中心に血が広がっていって、血だまりの中で土下座しているようだった。


 ヘルハウンドが、ぶっ、と何かを吐き出す。

 赤黒い短い筒状のそれは、床を一回跳ねて男の血だまりに合流した。


 それが、オーハンゼーがまず目にした光景だった。


 ヘルハウンドは右肩を自ら脱臼させ、首を伸ばして男の陰茎を喰いちぎったのだ。


「ほらな。言ったろ、その女なら届くって」


 カルロの呟きを、兵士たちの怒声が吹き飛ばした。

 否、怒号ではなく、悲鳴だったかもしれない。兵士たちは目に見えて恐怖していた。


 傍らにいた男が、キャスター上のナイフを手に取った。


 その男の胴体に、白い素足が絡みつく。


 服を脱がせるのに、一時的に緩めたのだろう。ヘルハウンドの左足は、思ったより動いた。


 手繰り寄せ、男の鼻を喰いちぎる。


 男が泣き叫んで手に持ったナイフを振り回した。


 その右手にもヘルハウンドは喰らいついた。

 指ごとナイフをもぎ取って、可能な限り上半身をねじる。


 咥えられていたナイフが投擲される。


 ナイフは反対側にいた男の目に吸い込まれた。これでまた犠牲者が二人増えた。


 床をのたうち回る男ども冷ややかに見下ろし、ヘルハウンドは喰いちぎった鼻と指を吐いた。

 その光景だけで、兵士どもをパニックに至らしめるには十分すぎた。


 兵士の一人が喚きながら拳銃を構えた。酩酊しているのか、照準が定まっていない。


 少女はその隙を見逃さなかった。

 構えた拳銃は蹴り上げられ、天井に着弾する。


 弾が撃ちぬいたのは、少女の左手の手枷の鎖を固定していた金具だった。


 ヘルハウンドの左手が完全に自由になった。


 繋がったままの鎖を鞭のように振り回し、拳銃ごと男の腕に巻きつけ、引き寄せる。

 男の目が絶望に染まった。


 喉笛を喰いちぎられ、うがいのような音を立てて男が床に沈んだ。

 これで四人。


 兵士たちは完全に怖気づいていた。

 もはや近づこうともしない。オーハンゼーを留めていた担当兵士が、引きつった顔で無線に飛びついた。


「応援、応援要請! 緊急事態が発生した! 至急ゥ――!?」


 担当兵士の声が変な感じに裏返って途切れる。


 カルロ・ベネデットが担当兵士の口元を覆っていた。


 ぱっと手を離すと、担当兵士は膝から崩れ落ちた。

 首元から広がった血が、担当兵士の頭部を沈めていく。隠し持っていたナイフすら見えぬほどの早業だった。


「貴様っ」


 ここにきて、監視役がようやく我に返ったが、すでにすべてが遅かった。

 ヘルハウンドに鎖で絡めとられ、ベネデットに射殺され、ものの数秒で床に倒れこんだ。


 戦意も性欲も喪失して数人が逃げ出す。

 ベネデットは追おうとはしなかった。代わりに床に倒れた兵士たちのトドメを刺して回っている。


「惨いことをする」


 そう呟くと、ベネデットは顔を上げ、口端を吊り上げる。嘲笑すら様になる男だった。


「そういうあんたも、ちゃっかり部屋のロックかけてんじゃねえか。誇り高き酋長は自ら手を下さないってか?」


「服を着せる猶予ぐらい、与えてもよかろう。元はといえば、この者どもの愚かさが招いたことだ」


 オーハンゼーは死亡した兵士の腰から鍵を取り上げ、ヘルハウンドの拘束を外そうとした。


 しかし、その手をヘルハウンドは左手で払い、


「水」


 と、こちらを見もせずベネデットに言った。


 呼びつけられた大男は「やれやれ」と言わんばかりに仰々しく嘆息して、部屋の脇のデスク上の未開封ミネラルウォーターを取った。

 開封して、少女の口元にもっていく。


 少女は注がれた水で何度か口をゆすぐと、すべて顔を背けて吐き捨てた。

 口元や胸元についた血も、左手で丁寧に拭っている。


 ベネデットが低く笑った。


「思ったより、元気そうだな」


 ヘルハウンドは「ああ?」と眉をひそめて毒づいた。だが声は掠れ、力がなかった。


「もう少しでかい声で喋れ。バカでかい音聞かされ続けて、耳が馬鹿になってんだ」


 オーハンゼーは、キャスター上に放られた有線のヘッドホンとステレオに気づいた。


 あれで毎晩毎晩、騒音を聞かせていたのだろう。眠れぬように。

 こんな簡単で、残酷なことを、一体だれが思いついたのか。


 ベネデットは笑みを深くした。

 隠しナイフを右手に握ったまま、耳元に顔を近づけ、左手で少女の心臓をトンと突く。


「殺してやろうか?」


 オーハンゼーはぎょっとベネデットを見返した。


 咄嗟に胸元を握りしめる。そこに忍ばせておいた骨のナイフがあった。


 一方、ヘルハウンドは「なに言ってんだお前」とばかりに顔をしかめた。


「お前が殺してやりたかったのは別の女だろ。私は要らん。この命はもう私だけのものじゃないんでな」


「そうか」


 ベネデットはなぜか満足げに頷くと、あっさり離れ、トドメ刺しに戻った。


 その横顔に映った陰りを、オーハンゼーは何と表していいのか分からなかった。


 一方のヘルハウンドは、相変わらず血をぬぐい続けていた。黙ってそれを眺め、


「別に気にせずともよい。この手を汚す覚悟なら、CIAの残党にこの身を売った時から覚悟しておる」


 と言った。


 左手についた血をワイシャツでごしごし擦っていた少女の手が、ぴたりと止まる。


「……あのイラク人の雇い主はやっぱあんたか」


「いかにも」


「何のために?」


「お主を救うためだ」


「救わなかった」


「知っている。だからここへ来た」


 オーハンゼーは拘束を外した。ヘルハウンドはもう手を払おうとはしなかった。


 着ていたポンチョを脱ぎ、その肩にかけてやる。


 やはり憔悴しているのか、ヘルハウンドはまともに立てなかった。

 拘束を外した途端、足元の血だまりにへたり込みそうになったので、抱えて無事な壁際の床に避難させてやる。


「もっと話してやりたいところだが……叶いそうもないな」


 部屋の外から物々しい音が近づいている。


 囚人を放置して看守が逃げ出すなど、お粗末にもほどがあると思ったが、なるほど。音を聞く限り、数と武装をそろえて戻ってきたらしい。

 たかが三人に対して明らかにオーバーキルな物量だ。


 それなら最初の悲鳴が聞こえた時点で、駆け付ければいいものをと思わなくもなかったが……単に油断したのか、それとも自分とベネデットを処分する算段をつけていたのか。


 いずれにせよ、二分足らずで体勢を立て直してくるあたり、ミチピシの戦士よりは上出来だ。


「話があるなら五分で済ませるんだな。そのぐらいは持ちこたえてやる」


 ベネデットはそう言うと、こちらが答えるのも待たず、部屋のロックを解除して出ていった。

 それを見届け、オーハンゼーもロックをかけ直す。


「で、話って? まさか心配なだけでこんな無謀やったわけじゃないだろ」


 廊下からの怒声に背を向け踵を返すと、ヘルハウンドはさっそく続きを促してきた。


 胡坐をかく力もないのか、中途半端に膝を折り、壁にぐったりもたれかかっている。


「女子を暴虐から救うのは当然の振る舞いだろう」


「けどあんた、これでかなり立場悪くなったぞ。ベネデットあの馬鹿はともかく、あんた一家の長だろ」


「かつてのお主と一緒よ。死んでも問題なくなったゆえ、こうしている。もっとも、お主の方はようやく命を惜しむようになったようだがな。よきことだ」


 オーハンゼーは少女の前に座り込んだ。黙って視線を合わせる。


 相変わらず、荒野の獣のような目をした娘だった。


「我が息子、ラルフが死んだのはお主のせいではない。それが伝えたくて、ここへ来た」




 ***




――『イーリスがまず引っかかったのが、なぜUSSAは、軍でも異端児のコールマン軍曹にハウンドサハルを預けたのか、ということでした』――


 ニコラスが送信されてきた資料を目を通している間、ムラカミ氏はそう切り出した。


「異端児? コールマン軍曹がですか?」


――『はい、イーリスが同隊の退役軍人を取材したところによれば。良くも悪くも有名人だったそうです。上官に彼を除隊するよう進言する、過激な意見の持ち主もいたとか』――


「確かに変わり者とは聞いていましたが……」


――『実はですね、私も彼とは、一回会っているんですよ』――


「……え!?」


 思わずメッセージを二度見した。

 ムラカミ氏は「一度だけですよ」とすぐに付け加えた。


――『私が拉致される少し前でしたかね。私が滞在してた村に来たことがあったんですよ。サハルとゴルグさんのいたあの村です。

 NPO団体を名乗ってはいましたが、振る舞いでなんとなく一般人じゃないだろうなとは思っていました。それに、コールマン軍曹はあの見た目でしょう? なかなかいないじゃないですか、銀髪に青い目の人なんて』――


 確かにコールマン軍曹の外見は特徴的だ。

 特に目、真夏の蒼穹のような青く澄んだ瞳をしている。あれほど見事なブルーの瞳の持ち主はなかなかいない。


「ハウンドの話では、ゴルグ・サナイ氏から、もし捕まったら『銀髪に青い目の青年にすべてを話す』と言えと命じられた、とのことでしたが」


――『なるほど。そういう経緯でしたか。ですが、だとしたらもっと不自然ですね。

 あなたが調べたところによると、コールマン軍曹たちは単独でリスト探しを命じられたのですよね?』――


「はい。少なくともハウンドはそう言っていました」


――『もしそれが本当なら、妙だとは思いませんか。米軍は非常に優秀な軍隊です。サハルの発言を聞けば、お目当ての相手がコールマン軍曹だとすぐに分かるでしょう。

 なぜ軍は、コールマン軍曹本人を捜索にあてたのでしょうか? 普通、コールマン軍曹にはサハルの尋問を任せ、捜索自体は他の隊員に任せませんか? 軍曹の代わりはいないのに』――


 言われてみれば。


 見方を変えれば、コールマン軍曹はハウンドから情報を引き出す重要人物だ。

 そんな人間を危険な任務に従事させるなどリスクしかない。


 ムラカミ氏の疑念はさらに続く。


――『そもそもサハルを捜索に加えてる時点で、おかしいんです。確かにあの子は年にそぐわず非常に優秀で勇敢な子でしたが、子供であることに変わりない。当時はまだ七、八歳ですよ?

 しかもアメリカを揺るがしかねない、重要な機密に関与した疑いもあった。そんな子をなぜ危険な任務に同行させたんでしょうか? 

 私にはまるで、何者かがサハルとコールマン軍曹を、万が一の時のためにまとめて始末できる態勢を組んでいたようにしか思えないんです』――


 ハウンドとコールマン軍曹の死を願った者。言うまでもない。


「USSAもとい、アーサー・フォレスターがそう仕向けた、ということですか。当時ハウンドはUSSAの管理下にいました。任務への参加も、USSAから軍へ圧力があったと考えれば辻褄が合いますね」


――『そうなんです。証拠は一つもありませんが、仮にもしそうだとしたら、すべて説明がつくんです。資料の方は、もうご覧になりましたか?』――


「はい。コールマン軍曹の両親の事故に関する記事と、彼の母方の家系図を」


 ニコラスはノートパソコン画面に表示されたファイルをスクロールする。


 スナップ写真とおぼしき男女の画像が下から現れた。真横にいた、通信班班長のサイラスが生唾を飲み込んだ。


 60年代後半に流行ったヒッピーのような長髪のひょろ長い男性に、若い女性が寄り添っている。

 銀髪に青い目をした線の細い女性だ。


「1978年、5月17日、アイダホ州クリアウォーター郡国道12号線で、乗用車が横転し道路脇の川へ落下。乗っていた男女が死亡。遺留品から薬物乱用者による自損事故と警察は断定。

 けれど事故車両を引き上げた業者によれば、車両にはおびただしい数の弾痕が残されており、マフィアによる制裁の可能性があると近隣住民に警戒の呼びかけ……こんな地方紙よく残ってましたね」


――『イーリスの粘り強い努力の賜物ですね』――


「家系図の方はもっと驚きですよ。ポパム植民地住民の末裔の家系図なんて、よく手に入れられたもんです。一般には、ポパム植民地は定着前に消滅したって言われてんのに」


 ニコラスは家系図のスキャン画像をのぞきこんだ。


 木製のボードに記されたと思しき家系図は、代々大事に保管されてきたのだろう。

 初代の頃のと、末代の方では、インクの色合いが随分違う。博物館に飾られていそうな代物だ。


――『そちらはイーリスが、同州でたまたま訪れたアンティークショップに売られていたようです。本来は、門外不出であったのでしょう。コールマン軍曹の両親が路銀稼ぎに手放したか、死ぬ前に誰かに譲ったが売られたか。

 いずれにせよイーリスは、一度はこれを入手したものの、数日後になぜか店側から高額での買い戻しを持ちかけられ、半ば強引に手放す羽目になったとか』――


 十中八九、『双頭の雄鹿』の仕業だろう。

 門外不出であったはずの機密が外部に流出したため、慌てて買い戻したのだ。


「それっていつ頃のことです?」


――『彼女がアメリカ国内の出版社に勤めていた頃の話ですね。コールマン軍曹の生い立ちに関する記事を週刊誌に掲載したことがあったそうです。

 その出会いをきっかけに、軍曹本人から調べてほしいと頼まれたんだとか』――


 五年前に突然謎の削除を受けた、あの週刊誌の記事か。


 以前、デンロン社での騒動(六節参照)で、セルゲイに調べてもらったことを思い出しながら、相槌を打つ。


 憶測だが、削除された週刊誌記事をネットに流出させたのは、イーリスだろう。

 ロシア語圏のマイナー掲示板に、わざわざ翻訳して記事を残しておいたのだ。それをセルゲイが見つけ、ニコラスが知ることになった。


――『ですが、家系図の買い戻しの一件以来、イーリスは出版社の内外から妙な圧力を受けるようになったようです。それで不審に思って、フリーに転向しながら調査を続けたのだとか』――


「USSAにとっては完全に藪蛇だったわけですね」


 そしてこれが、イーリスたちレッドウォール夫妻が特区へ移住する要因にもなったのだろう。


 ニコラスは家系図の右端を見た。

 役職か階級で色分けしているのか、黒、赤、青の三色の文字でそれぞれ名が記されている。ラルフ・コールマンの両親の名は、黒で記されていた。


「両親と苗字が違いますね」


――『ええ。コールマンの姓は、軍曹の養母『盲目の狼ブラインド・ウルフ』の戸籍上の名から取ったようです』――


「くわえて、コールマン軍曹は街から離れた森で育った。長年、USSAがコールマン軍曹の正体に気づけなかったのは、それが理由でしょうね」


 ニコラスは、次いで家系図の左端に目を向けた。青いインクで記された名は、


「『セント・ジョージ・フォレスター』……」


――『はい。USSA現長官、アーサー・フォレスターの曽祖父に当たる人物です』――


「本当に血縁だったんですね」


――『はい。そして決定的な証拠となったのは、件のタペストリーです』――


 ムラカミ氏のそのメッセージの後、再び資料が送信されてくる。


 あのタペストリーの画像だ。

 それともう一枚、タペストリーの一部を拡大したと思われる画像も添付されていた。


「これは……隠し文字、ですか?」


 ニコラスは拡大画像に目を凝らす。


 非常に分かりにくいが、タペストリーに描かれた入植者たちの先頭の男、その足元。陰になった紺色の部分に、同系色の糸が混じっている。


 その糸をよくよく辿ってみると、アルファベットを描いていた。


「アメリカ先住民の言葉を、アルファベットに置き換えてますね。各部族の言語を、発音通りに当てはめたって感じですか」


――『その通りdす。クリー語、オジブエ語、スー語、チェロキー語と、ともかくまだ死語になっtない先住民言語の単語を。片っ端から組み合わsた文字のようです。

 翻訳すると“二つの頭”、“雄鹿”、“奪う”、“してはならない”となりまs』――


「……“双頭の雄鹿に奪われてはならない”? タペストリーをってことですか?」


――『タペストリーかは分かりませんが、い味は恐らく、そういうことかと。それから、コールマン軍曹は目が特によかったらしkて』――


「目、ですか? まあ狙撃手でしたからね。俺にはあまり見えませんが……」


――『いえ。目がいいというのは、視力の話ではありmあせん。色覚を識別する能力です。

 ツカサ、説明を頼めますか? ちょっとを使いすgいたみたいで。文字変換gあ』――


『分かりました、父さん。少し休んでてください。ミスター・ウェッブ、“絶対音感”という言葉を聞いたことはありますか?』


 ムラカミ親子がバトンタッチし、息子のツカサが通話を開始する。


 ニコラスは「もちろん」と返した。


「有名な音楽家とかが生まれつきもってる才能の一種ですよね?」


『その通りです。ミセス・レッドウォール、この際、イーリスと呼ばせていただきますが、彼女が言うには、コールマン軍曹には絶対音感ならぬ、“絶対色覚”の持ち主だったようでして、常人より遥かに細かく色を見分けられたようなんです。

 このタペストリーの文字、実はブラックライトを当てて撮影したものなんです。そうしないと我々には見えない。けど、コールマン軍曹には肉眼で見えた』


 なるほど。それであの絵本か。


 あの絵本に仕込まれた先住民語は、色の中に隠されていた。


 炙り出しゆえに、文字のインクは確かに見えないが、本来なら残った筆跡で、すぐなにか書いてあると分かる。


 けれど、あの絵本には、筆跡がなかった。いや、見えないようにしてあった。筆跡の見えにくい、色の濃い部分にあえて記してあったからだ。


 あれは、絶対色覚の目の持ち主である、コールマン軍曹だったからできた芸当なのだろう。


『特区に移住後、イーリスはオーハンゼー本人と接触しています。彼の話では「このタペストリーを見てから、息子がおかしくなった」と』


「それがヒントになったんですね」


『はい。イーリスにもわずかにこの隠し文字の糸が見えたようなんです。一般に、女性は男性より色の識別能力に長けているといいますから。それでブラックライトを当ててみたら、隠し文字を発見したということです』


「この隠し文字、コールマン軍曹が遺した絵本の隠し文字と仕込みがよく似ています」


『と、いうことは、軍曹はやはりこのタペストリーの隠し文字に気づいていたのかもしれませんね。それで、イーリスの助力のもと、己の出自を調べた』


 そして気づいてしまった。自分が何者なのか。


「コールマン軍曹は、自分が命を狙われていると分かって、あの絵本を描いたんでしょうか」


――『わかりません』――


 ツカサが答える前に、ムラカミ氏がメッセージで応えた。

 脳がまだ疲弊しているのか、言葉はたどたどしかったが、淀みはなかった。


――『ただひとつだけ、いえることがあります。かれがしんだのは、けっして、あのこのせいではない』――




 ***




 ヘルハウンドは、最後まで話を黙って聞いていた。


 話し終え、オーハンゼーが口を噤むと、項垂れていた頭が小さく揺れた。


「つまり、ラルフは以前から命を狙われてたってことか」


「そうだ」


「……だとしても、死期を早めたことに変わりない。私のせいだ。私が、馬鹿正直にラルフには話すだなんて言ったから」


「お主はただ養父の遺言に従っただけだろう。幼いお主にそこまで気を回すのは無理だ」


 けれど、少女は項垂れたままだった。


 オーハンゼーはその小さな頭に手を伸ばし、寸前で引っ込めて、肩に手を置いた。先ほど嵌めてやった右肩ではなく、左肩を。


 彼女が頭を撫でてほしかったのは、自分ではない。


「仮にお主が巻き込むまいと拒んだところで、あやつは首を突っ込んできただろうよ。あれはな、“特別”が欲しかったのだ。儂らがあやつについぞ与えられなかったものだ。

 お主のおかげで、あやつはそれを得た。感謝するぞ、ブラックドッグ。あれは最後の最後で救われたのだ」


「……え?」


 会話はそこで中断された。


 ついに扉がこじ開けられ、トゥアハデ兵が雪崩こんでくる。

 その中には、あの女と黒子男も一緒にいた。


 無数の銃口を突きつけられ、オーハンゼーは悠然と立ち上がった。


 女、トゥアハデ“銘あり”のモリガンが、鋭く目をすがめながら進み出る。


「カレタカ・オーハンゼー。自分が何をやっているのか、分かったうえでの行動でしょうね?」


「無論」


 オーハンゼーはヘルハウンドを隠すように立ち塞がった。


「捕らえた女一人に多数で群がった挙句、返り討ちにされ逃げ出した卑劣な臆病者どもの代わりに、この者を手当てしておった。人として当然の振る舞いだ」


 床に転がる躯を冷ややかに見下ろして、きっぱりそう言ってやる。

 女のこめかみがヒクリと動いた。


 気まずかったのだろう。兵士たちは一様に目を逸らし、代わりに廊下外で拘束したベネデットを無意味に小突き回していた。


 随分暴れまわったのだろう。ベネデットの周りには数人が転がっていた。

 本人も血だらけで顔も腫れ虫の息だが、殺されてはいない。


 恐らく殺せないのだろう。ヴァレーリ一家もといシチリア本島のマフィアは、『失われたリスト』の主要メンバーと、あの男から聞いている。


「もとはといえば、貴様らがしでかした不始末よ。儂を責めたとて、貴様らの醜態が消えるわけではあるまい」


「……もういいわ。オヴェド」


「はいはい」


 黒子男、オヴェドは困った笑みで肩をすくめ、自分を追い出しにかかった。


「総員、ただちに全警備体制の再確認を。それからブラックドッグの手当てを行いなさい。まだ殺してはなりません。モリガン、いいですね?」


 女は答えず、ツカツカと歩み寄ると、ヘルハウンドの髪を鷲掴んだ。


 黒子男が足を止めた。


「モリガン」


 心胆まで凍りつくような、ぞっとする声音だった。振り返りもせず放った一声だけで、兵士たちがびくりと硬直する。


「言うことが聞けないのですか?」


 しばらくして、女はヘルハウンドを放した。

 黒子男が部屋を出て、見えなくなるまで、女も兵士も指一本たりとも動かなかった。


 オーハンゼーが男の背を追い、部屋から廊下へ出ると、見知った男が立っていた。


 クルテクという、元CIA局員だ。クルテクは腕を組んだまま、険しい顔でこちらを睨みつけていた。


「そういえば」


 唐突に、黒子男が話し始めた。声音は普段の調子に戻っていた。


「オーハンゼー酋長、あなた、白頭鷲を一羽飼っていましたね?」


 話の意図を掴みかねて、オーハンゼーは眉をひそめて立ち止まった。が、振り返った黒子男の顔を見るなり、全身を強張らせる。


 黒子男は笑顔だった。口角を上げ、目じりを下げただけのそれを、笑顔と呼ぶのなら。


 表情筋のあちこちが奇妙に引きつれて、不気味な皴をつくっている。あたかも人の皮を被った化け物が、皮の下でほくそ笑んだかのようだ。

 こんな邪悪な笑みを浮かべる人間がこの世に存在するのか。


「……飼っているのではない。彼の方が我らの側にいてくれているのだ。白頭鷲は我らの守護神。飼う、などという不敬な言葉を使うでない」


「そうでしたか。では、あなたの意思ではどうにもならなそうですねぇ」


 男がポケットの中からあるものを取り出した。

 それを見た瞬間、オーハンゼーは顔から一気に血の気が引いたのを自覚した。


 それは、鷲の足だった。


「先ほど撃ち落としたんですよ。足に通信筒のようなものをぶら下げてましたので。残念ながら、足だけが千切れて鷲は飛び去ってしまいましたが、あの怪我ではそう遠くへはいけないでしょう。

 現在、ミチピシ領内を捜索中です。発見次第、死体はあなたにお返ししましょう」


 そう言って、黒子男は足を床に放った。タイルを鷲の鉤爪がひっかきながら、滑ってオーハンゼーの足先に当たる。


「筒の中身はロバーチ一家から27番地にあてたものでした。現在、ロバーチ一家当主の取り調べを行っています。あとでご協力くださいね。あなたが27番地に逃がした孫娘、彼女をブラックドッグと同じ目にあわせたくはないでしょう?」


 くすくす笑いながら、黒子男が立ち去っていく。

 けれど、オーハンゼーの目は銃弾で引きちぎれた鷲の足に釘付けだった。


 その視界に、革靴の爪先が映った。


「だから言ったろ。僕の指示なしで余計な真似はするなと」


 クルテクはそう、苛立たしげに吐き捨てた。


「君との協力体制はこれで解消とさせてもらう。君はもう用済みだ。あとは好きにするといい」


 視界から革靴が消え、足音が遠ざかっていく。オーハンゼーは膝から崩れ落ちた。


 ああ、神よ。息子よ。


 守護神の末裔と愛した鷲の足を両手ですくいあげる。足はまだ、温かかった。




 ***




「助かりました。ご協力、感謝します」


――『もうしわけない。ここまでのようです』――


『すみません。そろそろ時間のようでして……』


 ムラカミ親子の謝罪に、ニコラスは「とんでもない」と首を振る。


「大変な状況の時に、手を差し伸べてくれてありがとうございます。おかげで、謎が解けました」


『謎?』


「コールマン軍曹が遺した絵本の謎です。彼にとっての“大いなる悪戯”がなんだったのか、やっと分かりました」


 コールマンの上官、ゾンバルト少尉が書き込んだ最終ページの数字群。

 あれによって、絵本は今世紀最大の陰謀を暴露する告発書となった。


 ラルフ・コールマンは、ハウンドにあてたはずの絵本を、なぜ上官に頼んで告発文に仕立て上げたのか。


 あの絵本の役目は――。


「おかげで俺の役目も定まりました。あとは、俺たちだけでやります」


――『そうですか。うぇっぶぐんそう、あのこを、たのみます』――


『すみ、……せん。電波、調、子が、急に――』


 通話が途切れる。耳を澄ますと、ドローンの翅音が聞こえた。


「連中、ここが通信妨害網の穴だって気づいてたらしいな」


「ああ。ドローンに電波妨害機つんでやがる」


 双眼鏡を覗いていた通信班長のサイラスが舌打ちした。ニコラスたちは大急ぎで撤収準備に入った。


 間一髪でドローンの目を逃れ、ビルの屋内階段に潜む。


 ドローンが飛び去るまでの間、サイラスが話しかけてきた。落胆を隠しきれていない声だった。


「なあ、ニコラス。今回ので新たな情報が手に入ったのは確かだけどさ。これって結局、切り札二つともおじゃんってことだよな……?」


「そうだな」


 絵本は唯一現存している証拠品だが、USSAの悪事を起訴し得るほどの効力はない。シンジ・ムラカミが証言台に立てない以上、絵本の信憑性も上がらない。


 打開策は潰えた。ここから先は、自力でどうにかするしかない。


「俺たち、これからどうすりゃいいんだ?」


 サイラスは途方に暮れていた。


 ニコラスは迷った。話すべきだろうか、ハウンドとのあの会話を。


 いいや、あれは正真正銘ただの博打だ。切り札などと呼べたものではない。ぬか喜びはさせたくなかった。


 それに――。


――腐っても情報機関だ。どこでUSSA側に情報が洩れてるか分からねえ。


 ドローンが去ったのを確認し、ニコラスは立ち上がる。


「……ひとまずこないだの交渉の時に復旧させた地下水道の整備を進めて、攻勢態勢を整える。鷲通信のロバーチ領の件もあるし――」


 ニコラスは足を止めた。

 部屋の外、廊下端の非常階段へ通じるところから明かりが漏れている。怒声も。


「だァから、持ち場に戻れって言ってんだろっ。まだ終わったって決まったわけじゃねえだろうが」


「終わってんだろッ! 絵本は使えねえ、ムラカミとかいう学者にも断られて、これからどうするってんだよ! 食料も弾薬も底をつきかけてんだぞ!?」


「うるせえ、んなもん俺だって嫌ってほど分かっとるわ! だからこうしてニコラスやサイラスや店長があれこれ頑張ってくれてんだろ!? 勝手に盗み聞きして絶望してんじゃねえよ!」


「クロード」


 廊下に出て呼びかけると、人だかりを押しとどめていた丸っこい影が、びくりと肩を跳ねあげた。


「ええっと、ニコラス。こいつはな……」


「情報漏洩防止のために、通話内容を聞くのは俺とサイラスだけと、あらかじめ伝えておいたはずだが」


 すると、懐中電灯の光の真横から一人の男が、いきり立ったように進み出てきた。


 輸送班第六チーム隊長のタイソンだ。

 一年前に他領から移住してきた住民で、四十代半ばながら長年ブルーカラー職で培った肉体は屈強で、いかにも負けん気の強そうな面構えの男だった。


 店長から話は聞いている。

 以前、ハウンドの拷問動画が送りつけられた時、報復に打って出るべきと強硬に主張して、クロードに突っかかっていた。その急先鋒が彼だった。


 よくよく見れば、集まっている連中は輸送班の面々ばかりだ。


「んだよ、俺たちが信用できないってか!?」


「仮にUSSAが潜り込ませた工作員がこの場にいたら、お前とまったく同じセリフを言っただろうよ」


「んな……!?」


「お前らがそうじゃないことは俺だってよく分かってる。けどな、こういう行動をとるなら、こちらも対応せざるを得ないぞ、タイソン。

 相手は情報機関だ。俺たち素人とは違う。どんな姑息な情報戦を仕掛けてくるか分からないんだ、分かってくれ」


 タイソンはほっと安堵の表情を浮かべたものの、すぐに怒りをあらわに詰め寄ってきた。


「けどそうやってコソコソやってるから、みんな不安になってんだろうが……! 今回の通話だって、都合が悪いから黙ってるつもりだったんだろ!?」


「さっきも言ったが、敵側がすでに情報戦を仕掛けてきてる場合――」


「ごちゃごちゃうるせえよ! ハウンドを囮にしやがった挙句、苦しんでる時まで無視しやがった卑怯者がよ! 第一、なんで俺たちに裏切者がいる前提なんだ!? そういうとこが信用できねえっつってんだよ!!」


 悪い流れだった。


 くわえて、そう言われると、ニコラスには反論のしようがない。「俺たちが信用できないのか」はニコラスに対して致命的な、無敵の魔法の言葉だった。


 だからここは否定してはならない。時間がかかっても、きちんと説明して納得してもらうしかない。


 ニコラスはタイソンを宥めながら説得を開始した。朝までかかっても、ここは粘り強くやっていくしかない。


 そんなニコラスの背を、クロードとサイラスがじっと真顔で見つめていた。


 それが、信じて任せたがゆえの視線だったのか、品定めの視線だったのか、ニコラスには分らなかった。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

次の投稿日は9月27日(金)です。

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