11-9

【前回のあらすじ】

ドクター・アンドレの舌鋒も虚しく、USSAとの和平交渉は失敗に終わった。

元より27番地を貶める茶番でしかなかったのだ。


しかし、収穫がなかったわけではない。


店長は最後の矜持を振り絞り、自らの主張を堂々と通す。

またニコラスも、交渉の隙をついて、27番地からロバーチ・ターチィ領へ通じる地下水道の復旧を成功させる。


そんな矢先、店長の携帯に一本の電話がかかってくる。


相手はなんと、二つ目の切り札、“失われたリスト”を巡る事件のもう一人の生き証人。

シンジ・ムラカミこと『シバ』だった――。




【登場人物】

●ニコラス・ウェッブ:主人公


●シンジ・ムラカミ(『シバ』):ハウンドの恩師で、”失われたりリスト”関連事件の生き残り


●サイラス:通信班班長、作者からやっと名前をもらった




【用語紹介】

●合衆国安全保障局(USSA)

12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。


●失われたリスト

イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。

このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。

現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。


●絵本

ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。

炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。


●《トゥアハデ》

『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。

現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。

現時点(11節冒頭)で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。

またなぜかオヴェドは名を与えられていない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――







 ニコラスは夜空を睨みながら、耳を研ぎ澄ませていた。


 聞こえるのはビルの隙間を這う風の音だけで、遠くを走る車のエンジン音ひとつ聞こえない。

 合衆国安全保障局USSAが特区27番地へ特別軍事作戦を開始してから、特区内外を問わずここら一帯はあらかた人が退去していた。


 ニコラスは目線を動かすことなく、足元の通信班班長ことサイラスに尋ねた。


 サイラス班長は、痩せぎすの顔にそばかすのある男で、気弱な新米教師か役所の職員のような風貌をしているが、こう見えて結構肝が据わっている。そのことを、ニコラスはこの一月の防衛戦で思い知った。


「電波状況は?」


「良好だ。今のところな。にしても、こんなとこよく見つけたな」


「散歩のついでだ」


「巡回ついでに電波妨害網の穴も探ってたのか? あんま俺らの仕事を奪わないでくれよ」


「本来、後方支援担当のあんたらを戦闘に参加させてんだ。無茶させた穴埋めぐらいやらせてくれ」


「司令官が一兵卒の穴埋めとはな。勤勉なこった」


「俺だって一兵卒さ。なり手がいないから引き受けてるだけで、司令官の器じゃない。所詮、ただの狙撃手だ」


「ただの、ねえ?」


 そう言って、班長はクックッと笑った。


 USSAが仕掛けた電波妨害網は、設置した機器から円状に広がり、範囲は半径数キロメートルに及ぶ。

 それを27番地外から囲むよう、トゥアハデ兵の勢力下を、各妨害範囲の円が重なるよう設置する。そうすることで抜け穴を塞いでいる。


 これがこの一か月、通信班が戦闘の合間に調査した結果の推測だった。

 USSA側のトゥアハデ兵の無線は問題なく使えているので、こちらが使用する周波数を狙い撃ちにしているらしかった。

 予算の都合上、安価な無線機器を使っていた弊害だった。


 しかし、悪いことばかりではない。ニコラスは通信班の推測から予測を立てた。


「機器の設置はトゥアハデ兵の勢力下だけなら、街の最深部の中央エリアには届かない……ビンゴだぜ。ここが抜け穴だ。ここなら外部と連絡が取れる。お手柄だな、ウェッブ」


 27番地の中心、12階建てビル。ニコラスたちの勤務先であり、自宅でもあったビルだった。


 その最上階の部屋のベッドに腰かけた班長は、長いこと剃っていない無精ひげをつまんで引っ張った。

 敵の攻撃に晒されて久しく、攻撃ヘリから逸れたミサイルが直撃して自宅はほぼ消し飛んでいた。班長がいま腰かけているベッドも、元はハウンドの寝室だった。


「店長の携帯に時たま転送があるって聞いて、確信したんだ。妨害でおじゃんになってんなら、転送がかかってくるはずがないからな。にしても、こんな状況になっても自宅だけは電波が通じてるとはな……」


「いいじゃないか。統合指揮所の真上だぜ? もう地下に移しちまったが、この建物なら地下水路への道も多い。行きやすい場所に通信がノーダメで使える場所があるって分かっただけでもありがたい。――っと、そろそろだな。偵察ドローンは?」


「ない。周囲の観測班からの報告もゼロ。さっき通り過ぎてったので最後だ。つっても、旋回しながら巡回してるから、一時間後には戻ってくるな」


「となると、通話のタイムリミットは一時間か」


 班長は胡坐の上のノートパソコンに目を落とした。

 有線で繋がれた先には、ニコラスの携帯があり、それが震えるのを待っていた。


 『シバ』との通話。


 ハウンドの恩師であり協力者だった、日本人学者のシンジ・ムラカミ。

 “失われたリスト”関連事件の二人目の生き証人である彼は、「折り返し連絡する」と言って店長との電話を切った。


 こちらとしても、思いもよらぬ相手からの連絡に混乱気味だったので、状況と気持ちの整理をするうえでも申し出はありがたかった。


 しかし、一点懸念があった。


「ローズ嬢たちからの連絡は?」


「まだだ。GPSも切れてる。『シバ』と合流したからなのか、それとも」


 その先を、班長

 は言葉を濁した。ニコラスもその最悪が的中しないよう祈りながら、電話を待った。


 時刻、午後11時。向こうの時間では午前10時。


 秒針が10進んだところで携帯が震えた。ニコラスはすぐ電話を取った。


「もしもし?」


 共有したPCのスピーカーから自分の声が聞こえる。ニコラスたちは固唾をのんで相手の声を待った。


 数秒後、返答がきた。相変わらず不安げな声で、


『もしもし?』


 と言った。


「こちらは特区27番地統治者代理のニコラス・ウェッブだ。『シバ』で間違いないか?」


『――はい、そうです。大変な時に申し訳ありません。日本の報道でも、そちらの状況はそれとなく知れておりますから』


「構わない。こちらからも連絡を取ろうと思ってたところだ」


『私に?』


「ああ。それと、要件に入る前に一つ聞きたいことがある。ローズ・カマーフォードという女性と、テオドール・ファン・デーレンという男を知らないか? 

 二人とも白人のアメリカ人だ。あんたと連絡を取るために、俺の頼みで日本へ向かってもらったんだ。あんた、二人と会ってないか?」


 数秒の沈黙があった。

 返ってきたのは、困惑したような躊躇いがちな声だった。


『えっと、アメリカ人の男女、ですか? 会っていません。それどころか、ここ最近は場所を転々としていまして。人とはほとんど会っていないんです。ローズさんとテオドールさんと言いましたか、あなたがた27番地からの使者ということですよね?』


 最悪が的中してしまった。


 ニコラスは足元に目を落としながら、携帯を強く耳に当てた。




 ***




 ローズ・カマーフォードは痛みで目を覚ました。


 全身が痛い。特に後頭部。

 手を伸ばそうとして、身体が動かないことに気づいた。両手両足を縛られている?


――ここは?


 なにも見えなかった。周囲が暗いのではなく、恐らく目隠しをされている。

 唯一分かるのはにおいだけだったが、これがまた酷い臭いだった。


 自慢ではないが、ローズは育ちがいい。だから腐った臭いだの、すえた臭いだのはほとんど嗅いだことがない。

 なので、この臭いをどう表現したらいいか分からない。


 強いて言うなら、激務で二週間ぶりに帰ってきた父の靴の臭いがこれだった。

 それと、思わず咳き込みそうなほどの砂煙と、タールの臭い、微かな潮の香り。


 海、なのだろうか。


 その時、すぐ耳元で足音がした。においを探ることに集中していたローズは反応に遅れた。


 頭を何かでぐっと抑えられ、目隠しを勢いよく剝がされた。

 前髪が数本抜けて、ローズは悲鳴を上げた。その悲鳴すら、くぐもって碌に声が出なかった。


 その時はじめて、目と口をガムテープで覆われていたことを知った。


 続いて口元のガムテープも乱暴に剝がされる。今度は心構えができていたので、悲鳴を上げずに済んだ。


 視界が闇に慣れてきて、ローズは自分が今、工場の床に転がされていることに気づいた。


 随分と長いこと使われていないのだろう。

 床には塵と埃がこんもり積もっており、目についた巨大なタンクはひび割れ、穴が開いているものもあった。


――湾港の解体予定の工場跡地、といったところでしょうか……?


 いくつか窓が割れているのにも気づいたが、大声を出すのは避けた。


 記憶にあるのは午後一時ごろ、駅を出て大通りの道沿いを歩いていた時。唐突に横づけにされた白いバンに引きずり込まれ、スタンガンで気絶させられたところまでだ。


 監視カメラはなかったが、人通りは少なくなかった。

 そんな真っ昼間の大通りで大胆な人攫いをした挙句、こんな場所まで用意している連中が、近くを通行人が通るような場所に自分たちを置くはずがない。


 口のガムテープを取ったのだって、多少叫ばれても問題ないという自信の表れだろう。


 視界が闇に慣れてくる。それにつれ、悪臭の正体も判明した。


 自分の鼻先に黒の革靴が転がっていた。

 フォーマルシューズでよく見る爪先が尖っているものポインテッドトゥではなく、ローファーのような足の甲の部分が幅広のUチップだ。


「人より甲の部分が大きいんですよ。普通の靴だと入らなくて」


 そう言って、微笑んだ上司テオドールを思い出した。


「テオ? テオ……!」


 靴の主はすぐに見つかった。

 自分の足元から10メートル先、テオドールが椅子に縛られて俯いている。頭部から滴っているものが何なのか、言われずとも想像がついた。


「吐いたか?」


「はい。女は人質に使えなかったので、資料にあった部下とその家族を使いました。報告通りの男です」


 頭上の男が、テオドール近くの男たちと話している。


 日本語なので何を言っているかは分からない。どちらもアジア人だが、頭上の男にはアクセントに淀みがあった。

 恐らく頭上の男がアメリカ人、USSA局員。相手の男たちは現地工作員だろう。


「他のチームはどうですか?」


「順調だ」


 USSA局員の返答は短くそっけない。恐らく、意図的にそうしている。

 盗聴防止に、最低限の情報提示だけで会話する癖が染みついているのだ。


 そして現地工作員の発言、日本語でもこれは分かる。『チーム』だ。


――チーム、他にも仲間がいる?


 やり取りの様子からして、他のチームの様子を聞いたのだろうか。


 自分たちを捕獲するため? それとも『シバ』、シンジ・ムラカミ氏の抹殺のため?


 だがUSSA局員の反応は、拒否ではなく、肯定のようだった。

 上手くいっている、ということだろうか?


 もしそうなら、彼らはテオを拷問してムラカミ氏の居場所を聞いたばかりのはず。

 そんな状況で、他のチーム――ムラカミ氏抹殺チームが「上手くいっている」などと答えるだろうか?


――まさか。


 ローズは心臓に冷水を流し込まれた気分になった。


 ニコラスと最後の電話をした時、注意喚起も込めて、彼から自分たち以外に人質にされる恐れのある人々のことを聞いた。


 ニコラスの親友フレッド・モーガンの家族。

 そして例の絵本の作者、ラルフ・コールマンたち五人の兵士の遺族たちだ。


「それで、今後の予定はどうします? 始末しますか?」


「ああ」


 USSA局員は頷き、おもむろに取り出した拳銃で現地工作員の頭を撃ち抜いた。

 それから局員の部下らしき男たちが、その場にいた男たちを次々に射殺していった。悲鳴を上げる間もなかった。


 局員は今しがたつくった死体とテオドール、自分を一瞥し、


「首から上は出しておけ。ガスで浮く。入れ次第、積んですぐ出向しろ。外洋に辿り着くころには固まってる」


 と、言って立ち去った。英語だった。


 なにをする気なのかすぐ察したローズは必死に藻掻いた。ここが何の工場だったのか察しがついていたからだ。


 だが抵抗も虚しく、男たちはローズを引きずっていく。


 先ほど見た壊れたタンクの中に、無事なものが一つあった。その真下には、ドラム缶がいくつも並んでいた。


 ここはセメント工場だった。




 ***




 《同時刻 ブラジル、アマゾナス州 州都マナウス郊外》




「ああ、くそっ。また削除されやがった」


 モーガン一家の次男ロジャース・モーガンは、太腿に拳を叩きつけた。

 その反動でこめかみからの汗が目に入り、ますます苛立ちながらぬぐう。


 それでも膝上の、この逃避行のお供をアメリカから務めてきたM1911自動拳銃の上に、汗を落とすような真似はしなかった。


 時刻は昼下がり、南米ブラジルの熱帯雨林のど真ん中、アマゾン川の畔に位置する湾港都市マナウスは、四月上旬にして最高気温30度を超える。

 にもかかわらず、ここ格安ゲストハウスに冷房はなく、申し訳程度の小さな蚊帳が二つ提供されたのみ。


 そんな熱気のこもる二階の角部屋に、ロジャースたちモーガン一家は潜んでいた。


 悪態をついていると、同じく窓から通りの様子を睨んでいた妹、長女グレイスが尖った視線を向けてくる。


「ちょっと。ちゃんと見張りやってよ」


「やってるだろ。それに、こっちだって大事だ。消される前に、少しでも情報を拡散しておかねえと」


「拡散してなんか意味あるの?」


「あるに決まってんだろ。こいつには、USSAが27番地に濡れ衣着せやがった証拠が残ってんだ」


「証拠って……それ、例の和平交渉の映像でしょ? 本物かどうかも分かんないのに拡散って、それデマじゃん」


 ロジャースは妹の非難を無視して、削除された動画の録画データの投稿準備を始めた。


 もちろん使用するアカウントはすべて捨てアカ、このスマートフォンだって逃亡中に買った代物だ。

 位置情報を晒して追手に捕まるようなポカはしない。


 兄フレッド亡き今、自分が兄に代わって家族を守るのだ。


 それに、これでも兄だから分かるのだ。

 自分よりグレイスの方がずっと思慮深く慎重なことも。そのぶん、不安にもなりやすいことも。


「このレッドウォールとかいう爺さんのボディカメラ映像が本物かどうかなんて知らねえよ。けどこうすることでニック兄がちっとは助かるかもしれねえ。せこせこ逃げ回ってるだけより、こうしてできることをしてる方が落ち着くだろ」


「…………ニック兄、無事かな」


 グレイスがぽつりと呟き、抱えた膝に顔を押し付けた。


「もし、さ。その映像がマジならさ、本当にヤバいんじゃ――」


「大丈夫に決まってんだろ。あのニック兄だぞ」


 ロジャースは敢えて言葉をかぶせた。押しのけるのではなく、やんわり包むように。

 まだ幼い頃、母エマが悪夢に怯える自分たちを慰めてくれた時のように。


「ニック兄は俺らよりずっと頭が切れるんだ。ガキの頃からそうだった。やべえギャングや売人に目をつけられた時だって、ニック兄の機転で兄貴も俺も切り抜けてきたんだ。今回だって大丈夫だ。ニック兄はもう一人じゃない。仲間だっているんだからよ」


「……そだね。少なくともロジャースよりはニック兄の方が頭いいし」


「うるせえよ」


 そう言いつつも、ロジャースはいつもの妹が戻ってきたことに安堵して、見張りに集中した。


 下の妹たちに比べて、グレイスは気丈な方だ。そのグレイスですら、この逃避行で疲弊してきている。


 アメリカからキューバに逃げ、中米を横断してペルーへ逃げ、今度はブラジルへ逃げてきた。そして今度はベネズエラに逃げようとしている。


――母さんの話じゃ、新しい大統領が就任してから治安が悪化して、人の出入りが激しくなってるから潜り込みやすいって話だが……危険と隣り合わせなことに変わりはねえからな。


 むしろ、ここから先はもっと危険な目にあうことだろう。


 ロジャースとしては、ニコラスに面倒をかけるぐらいなら、多少危険な目にあったってへっちゃらだ。


 だが妹たちはそうではない。

 現に下の妹たち三人は、ここ数日ベッドでぐったりだ。母も彼女たちに付き添っている。


 ロジャースは手を伸ばし、リモコンを手繰り寄せてテレビを消した。


 ポルトガル語の報道なんてよく分からないし、字幕報道を観たところでブラジル大統領と日本首相のおっさん二人が握手している退屈な映像ばっかりだ。

 政策だの経済だの興味はないし、日本首相がこの後ヨーロッパに飛んでG7サミットに出席するだの、ロジャースにとってはどうでもいいことだ。


 そんなことより、この小難しい報道で妹たちが消耗することの方が問題だった。


 ロジャースは、グレイスの好きなレディー・ガガの『ボーン・ディス・ウェイ』を流した。


「ちょっと。今、そんな気分じゃないってば」


「小難しいニュース聞いてるより、テンション上がるだろ? 何か買ってきてやるよ。近くでフルーツジュース売ってるとこあったし」


「危ないよ。それに、うろついて顔でも覚えられたりしたら」


「あんまりコソコソしてると逆に怪しまれるのよ、グレイス。素晴らしい提案じゃない。ロジャース、私にアサイーとバナナのミックスジュースを一つ」


「かしこまりました、ご婦人」


 いつの間にか戸口に立っていた母に恭しくお辞儀をすると、グレイスは呆れたような目で一瞥し、母を見て大きく溜息をついた。

 けれどきゅっと引き結ばれていた口元は緩んだ。


 それを見て気をよくしたロジャースは、拳銃をズボンの後ろにねじ込んでTシャツで隠した。

 そして窓辺のサイドテーブル上の財布に手を伸ばして。


 すぐさま、グレイスと母を抱えて床に伏せた。


「頭下げろ、見られてる!」


 妹と母はすぐ状況を理解した。


 母は伏せたまま隣の妹たちを起こしに行き、グレイスはベッド下のリュックを引き寄せた。


「見つかった? 追手?」


「ああ。今、目の前の通りをピックアップとバン二台が通ってった」


「通っただけ? 地元のギャングじゃないの? カルテルとか」


「あんないい武器持ってる武装集団がいるかよ。カスタマイズしたM4突撃銃(カービン)に揃いの無線機だぜ? 五大マフィアってんなら話は別だがな」


 昔、動体視力の良さをニコラスに褒められたことがある。「兄弟そろって目がいいんだな」と。

 そもそも視力ならニコラスの方がよっぽどいいし、兄よりもいいと言われなかったのと若気の至りもあって、当時は盛大に拗ねた。


 が、今になって自分の目の良さに心底感謝した。


「追手だ! 逃げるぞッ!」




 ***




 《同時刻 アフリカ大陸、ソマリア連邦共和国北部、ソマリランド》




 草木がまばらに生えた半砂漠の白茶けた大地を、数台の車が疾走していた。

 否、一台の蛇行運転する車が、三台の武装車両テクニカルに追われていた。


「どうなってるのよ! ここなら追われることはなかったんじゃないの……!?」


 パメラ・バンデラスが金切り声を上げ、助手席の足元に沈んだ。

 ラルフ・コールマン班の遺族の一人、『ボクサー』ことベルナルド・バンデラスの妻である。


 ヒステリックに喚き散らしているものの、彼女が存外冷静で環境への適応も早いことを、は知っていた。

 今もこうして、背後のリアウィンドウを突き抜けてくる銃弾を避けている。


「さすがソマリアね。聞いた通りの治安だわ」


「ここの人たちは皆そんなにヤンチャなのかい?」


 パメラ同様、後部座席のマルグレーテ・セーデンと『盲目の狼ブラインド・ウルフ』もまた、足元に身を潜め気だるげに言葉を交わしている。


 『コリー』ことトゥーレヴァルド・セーデンの妻と、『ハスキー』ことラルフ・コールマンの養母だ。


 マルグレーテに抱かれる娘二人はもう泣きごと一つ言わない。当初は泣きべそをかいて母親に縋っていたのに、今は疲れ切った目でしがみつくばかりだ。


 老婆が飼っている狼もだ。こちらを見るたび唸っていたのが、今は恐ろしいほど大人しく、座席に蹲って老婆を庇っている。


 それだけ、この逃亡生活に限界が近づいていることを、嫌というほど思い知らされる。


 彼は、割れたルームミラーの残った部分で背後を一瞥する。

 娘二人の上に覆いかぶさったマルグレーテが、身を丸めながらどす黒く染まった隈を手の甲で覆っていた。


「いいえ。違うわ、狼お婆ちゃん。人じゃなくて環境が問題なの。そもそも植民地時代に色々と滅茶苦茶になっちゃったし、長年の内戦でみんな疲弊しているのよ。大規模な旱魃もあったばかりだし、一昨年やっと統一政府ができたけど、それもいつまで持つかどうか」


「詳しいねぇ」


「作家っていうのは妙なところで知見があるのよ」


「そういうもんかい。にしても、みんな苦労してるんだねぇ」


 合いの手とばかりに狼が「くぅん」と鳴く。図体がデカいくせに、犬のようなやつだ。


「呑気にくっちゃべってる場合じゃないのよ、二人とも! ていうか、いい加減説明しなさいよ『お喋り兎』! これどういう状況なの!?」


 彼――なぜか彼女らに『お喋り兎』と命名されたイギリス工作員は――作り物の右足でアクセルを思い切り踏み込み、ハンドルを左右に切り返しながら叫ぶ。


「飛行機の中で説明したろ。秘密情報部地域課うち外務省FDCO経由でタレコミがあった。現閣僚と合同情報委員会JICの中に、『双頭の雄鹿』メンバーが存在してるってな。奴らはポパム植民地人の末裔、イギリスにルーツをもつ組織だ。言うなれば、イギリスは奴らにとってのホームでもある。迂闊だった。不手際については後日詫びる――」


「それはもう聞いた! あと、色々と専門用語が多すぎてちょっとよく分かんない。JJCとか意味不明だけど、とりあえずイギリスはもう安全じゃないからアフリカに飛んだ、こういう理解でOK!?」


「OKだ! あとJIC! 我が国の国家情報機関だ、うちの元締めだよ。そんなとこに『双頭の雄鹿』メンバーがいるんだ。あんたらの身柄を要求されたら、うちじゃ断れない」


「だからここまで逃げてきたんでしょ。なんで先回りされてんのよ」


「俺が知るか! 予定じゃうちのツテで、ケニア経由で中西部あたりに潜り込む予定だったんだ。それが指定座標に行ってみりゃ知らん顔がお出迎えだ。

 こちとらリハビリの真っ最中だぞ。拷問されて救出されて即入院からの強制復帰だぞ。ろくに歩けないのに前線に戻された挙句、せっかく録画してた『デスパレードな妻たち』を見逃した俺の身にもなれ!」


「知らないわよ! あと観てるドラマの趣味が最悪!」


 人生の楽しみを全否定されて、悪態でもついてやろうと口を開き、やめる。


 ついにタイヤを撃ち抜かれ、横転しかける車体を安定させるのに、口を閉じてないと舌を噛みそうだったからだ。


「っ、生きてるか……!?」


 そう問いつつ、目視で全員の無事を確認する。安堵するも束の間、彼は周囲の光景に呻いた。


 待ち伏せだ。前方丘の頂に無数の黒点が見える。誘い込まれた。


 そのうえ衝撃だったのは、待ち伏せ車両に掲げられた黒旗だ。

 黒地に空いた白い月、闇と月双方に刻まれたアラビア文字は、敬虔なるイスラム教徒の象徴を強奪した証左。


「っ、ISIL……!?」


「違う。『アル・シャバーブ』だ」


「似たようなもんじゃない! ソマリア屈指の武装勢力よ!? それもアル=カイーダ系のテロ組織! ここまでやるの……!?」


「ああ、USSAやつらならやるさ。国益のためなら手段を選ばぬのが国家情報機関の常だ」


 もっとも。


「それが国益でなく私益のために動いてるから屑なんだけどなっ」


 彼は、口汚く罵りながらハンドルを回し、アクセルを吹かす。パンクした車両を無理やり動かし、家畜小屋の影に乗り入れる。


 吹けば飛ぶような頼りない小屋だが、遮蔽物ゼロの砂漠のど真ん中に突っ立っているよりマシである。


「隠れていろ。俺が――」


 彼が言い終わる前に、助手席と後部座席のドアが開いた。見れば、遺族の女たちがトランクを勝手に開けて、武器を取り出しているではないか。


「何してんだ!」


「なにって迎え撃つ準備よ。どうせ救助要請はもうしてるんでしょ。なら時間稼ぎしないと」


「そもそもお前さん、歩けないんだろう? 盲目のババアより使えないんじゃねぇ」


「お喋り兎さん、娘たちをお願いね」


 パメラと『盲目の狼』に叱咤され、マルグレーテに娘たちを押し付けられて、彼は鼻白んだ。


「馬鹿言え、二個小隊規模の挟み撃ちだぞ! 敵うわけがない。ここは俺が」


「この場に残るからその隙に逃げろって? こんな砂漠のど真ん中、か弱い女に徒歩で移動させる気?」


「そもそも高所を取られている以上、逃げたところですぐばれます。腹をくくってください」


 そう言い残して、パメラとマルグレーテが小銃を手に外へ飛び出した。

 家畜小屋を囲む土塀を、小屋から引っぺがしたトタン板で補強している。


 呆然としていると、太腿に熱が擦り寄った。『盲目の狼』のお供だ。


「オリクート、うちの死んだ次男坊の名を背負う子だ。長男のジョゼフは、私が山から逃げ出す時に死んじまったからねぇ。役立たず兎の護衛に残しておくよ」


「おい……」


 盲目とは思えぬ足取りで、老婆もまた小屋を出ていった。


 彼はそれを唖然と見送って。数秒後、舌打ちで自身を叱咤して動き出す。


 流石はあの五人の家族だ。どいつもこいつも死に急ぎやがって。




 ***




 ニコラスから事のあらましを聞いたシバ――ムラカミは、しばらく言葉を失っていた。


『今のアメリカはそんな状態なのですか……。しかも、あなた方のお仲間と連絡が取れない、もしかしたら捕まったかもしれない、と』


「覚悟の上だ。あなたが気を病む必要はない」


『……そうですか。申し訳ない。警護されている身で、こういうことをいうのは心苦しいのですが、浮世離れした暮らしが長いせいでどうも世情に疎く』


「どうして我々に直接連絡を?」


『“パピヨン”との定時連絡が途絶えたのです。これまでも多少時間が延びることはありましたが、二月以上も連絡が取れなくなったのは初めてで』


 パピヨン、イーリスの呼称コードネームだ。


「そうか。ではシバ、いいや、ミスター・ムラカミ。あなたに頼みたいことがある」


『なんでしょうか』


「USSAもとい『双頭の雄鹿』が関与した悪事の告発を裏付ける証人になっていただきたい」


 ニコラスはすべてを手短に話した。


 “失われたリスト”のこと、それに巻き込まれたムラカミ氏とハウンド、ゴルグ・サナイ氏のこと、『双頭の雄鹿』の正体、ラルフ・コールマンが描いた絵本のこと。

 そして、自分とハウンドとの出会いについて。


 ハウンドへの言及は避けた。一民間人の彼に、要らぬ心労をかけたくはなかった。


 ムラカミはしばらく黙っていたが、そこに驚愕の気配はなかった。あらかた察していたのだろう。もしくは――。


『……以前、パピヨンから、ミセス・レッドウォールから似たような推測を聞きました。本当のことだったのですね』


「残念ながら」


 やはり。ニコラスは語気を強めながら、真摯に頼んだ。


 彼さえ協力してくれるなら、この戦況そのものをひっくり返せる。ハウンドを救える。


「お願いします。どうか証言台に立ってください。あなたとその家族の命はもちろん、ハウンドの、サハルの命もかかっています。あなたの名誉と今後の人生を取り戻すためにも、どうか」


『ミスター・ウェッブ……』


「無茶な頼みだというのは重々承知してます。ですが、お願いします。もうこれしか方法がないんです。

 証拠はすべて抹消され、証人はあなたとハウンドだけです。その彼女も今、証言できない状態です。

 お願いします。27番地を救うためには、あなたの協力が必要なんです。この国の未来のためにも。どうか、協力してもらえませんか」


 それきり、ニコラスは口を噤んだ。電話口の向こうで、ムラカミが息を吸い込む音がした。


『お断りします』


 言葉の咀嚼に時間を要した。理解して、頭が真っ白になる。


 ムラカミはか細い声で続けた。


『……申し訳ありません。私はあなたに嘘をつきました。ミセス・レッドウォールにも。私は――シバは、のです』


「え、は? じゃあ、あなたは」


『息子です。シンジ・ムラカミの息子、ツカサ・ムラカミと申します』


 ニコラスは絶句した。


 息子? シバが?


「では、ご本人は」


『ずっと寝たきりです。アフガニスタンから帰国した直後から。なんとか一命はとりとめましたが、全身麻痺でほぼ植物状態です。

 辛うじて聴覚だけは残っていますし、意識もはっきりしているんですが……今、動かせるのは右手の人差し指と中指、眼球だけです。呼吸も自力でできません』


「それは……」


『本当に何も知らないんですか? あなた、米軍の人なんですよね? その双頭の雄鹿とかいうテロリスト集団のことはよく知りませんが、あなたがた軍が父に何をしたのか、何も聞かされてないんですか?』


 彼、シンジが震え声でまくしたてる。ニコラスはこの声を知っていた。


 かつて冤罪をかけられ、それがまだ晴れていなかった頃。自分の指揮で死なせた部下の遺族に、戦死報告をしにいった時に幾度となくぶつけられた声だ。


 目の前の人間にぶつけても仕方がない、それでも言わずにはいられない。こいつに言わずして、誰に言えというのか。

 そんな行き場のない悲嘆に暮れる、残された者の怨嗟のこもった声。


 ニコラスはなんとか深呼吸をした。今のツカサには、自分以外に激情をぶつける相手がいないのだ。


「俺は確かに軍人ですが、海兵隊の一軍曹に過ぎません。申し訳ないが、あなたの親父さんのことは何も知りません。聞いたのも、ハウンドが話してくれたからです」


『……父は、米軍に保護されたんです。アフガニスタンでテロリストに拉致されて、米軍に救出されたのち、同国で活動中だった自衛隊の特殊部隊に引き渡され帰国しました。

 。自衛隊については非公式の活動でしたから、調べても出てこないと思いますが』


「はい」


『ですがそのおかげで、自衛隊は万全の態勢ですぐに父を迎えにいくことができました。けど、米軍は父の引き渡しを拒んだんです。作戦の機密に関与している恐れがある、取り調べが終わるまで帰国させるわけにはいかないと。

 死にかけの重傷者をですよ? おかげで父は碌な治療も受けぬまま五日も放置されました。その結果、腰の負傷から脊髄へ重篤な感染症を引き起こし、生死をさまよった挙句、この有様です。あなたの話を聞いて納得しました。あなたの国は父に死んでほしかったんですね』


「それは違います。あなたの親父さんを留め置いたのは軍ではなくUSSAです。確証はありませんが、軍は親父さんに危害を加える気はなかったと思います」


『じゃあ父はなんで今こうなってるんですか!? 全身にどう見ても普通じゃない傷があるし、父が何をしたっていうんです。

 もう話せないんですよ? たくさん言いたいことがあったのに、やっと日本に帰ってきて、言いたいこと言えると思ったのに。

 もう、二度と声が聞けないんです。最後に声を聞いたのは、私が三歳の時なんですよ』


 ニコラスは黙って聞いていた。


 困惑はあった。想定以上の最悪に、焦り呆然とし、立ち尽くしていた。

 それでも、この役を投げ捨てるわけにはいかないと思った。


『……鬼畜の所業と分かっています。あなた方やそのハウンドという女の子の命がかかっているのも分かっています。でも、ごめんなさい。もう父を解放してあげてください。父はずっと頑張ってきたじゃないですか』


「……」


『ミセス・レッドウォールからは、何も?』


「聞く前に亡くなられました。USSAの追手の足止めに、我々を逃がすため命を懸けてくれました」


 言葉を詰まらせた音がした。声が大きく揺らいで掠れた。


『そう、でしたか。すみません、何も知らずに』


「いえ。こちらこそ無神経なことを言いました」


『……父が立派な人というのはよく分かっているんです。幼い頃からずっと母から聞かされていました』


「はい」


『父はアフガニスタンの人々のため、人生をかけて尽くしているのだと。ですが、その過程で父が捨てたものだってあるんです』


 捨てたのは、恐らく家族だろう。

 すべてを賭けて尽くすということは、それ以外のものはすべて切り捨てるということと同義だ。


 願うものすべてを救えるほど、人の手は大きくない。


『申し訳ありません。証言はできません。そもそもあなた方のため父がまた命を懸けねばならない道理も義理もない。

 ……ごめんなさい。どうか父を、私たち家族のもとに返してください。記憶にほとんどなくとも、私にとっては、この世でただ一人の父親なんです』


 ニコラスは近くの瓦礫に腰を下ろした。へたり込みたくなるのを、ぐっと堪えて。

 視界の端で、班長が天を仰いで壁にぐったりもたれるのが見えた。


 返答に、数回の深呼吸を要した。春の夜風がやけに寒かった。


「分かりました」


『……え?』


 ツカサの声が裏返った。少年のような声音だった。


「証言は諦めます。危険を冒してまで連絡を取ってくれてありがとうございました」


『あの、本当にいいんですか? 断っておいてなんですけど』


「もちろん引き下がりたくはないですよ。けどあなたの親父さんはハウンドの恩師です。俺は、俺の大事な人の大切な人を傷つけたくはない」


『その大事な人の命がかかってるのに?』


「あの子は、自分のせいで大事な人が傷つくのをなにより恐れます。あの子の泣き顔をまた見るのはごめんです」


『……あなたは怒らないんですか。八つ当たりだと分かっているんでしょう? それに、あなたの過去は』


「俺のことも知ってるんですか?」


『警護の方が調べてくださいました。ニコラス・ウェッブ一等軍曹。イラクでの冤罪事件で、その汚名が晴れぬまま軍を去ったと聞きました』


「そんなこともありましたね」


『なのに、大人しく引き下がると?』


「ぶつけどころがないのはしんどいでしょう。俺が死なせた部下の遺族もそうでしたから。少しでもあなたの気が晴れたのなら何よりです」


 ツカサは黙りこくった。

 十秒経っても黙っているので、通話を切るべきか迷った。すると彼の方から、


『この番号は、あなたの携帯のものなんですよね?』


「ええ、まあ」


『少しだけ待っていてください』


 と言ったきり、ゴトという音がして声が途切れた。


 切ったのではなく、通話状態のまま席を外したらしい。そのうえ何やら独り言をいう声と、ガサゴソ音がする。


 ニコラスは班長と顔を見合わせた。

 しばらくして、ツカサは戻ってきた。息を切らしていた。


『今、繋ぎました。外部との通信接続は初めてで、ちょっと色々と手間取ってしまいまして。警護の方には五分間だけ許可をいただきましたから』


「? なんの接続ですか」


『あなたが先の米軍のように不誠実な人であれば絶対に繋ぐまいと思っていました。ですが、あなたなら』


 ピコン、と受信音が鳴った。見れば、ショートメッセージに新着がある。


 すぐにアプリを開いて、息をのむ。


――『はじめまして。息子が大変ご迷惑をおかけしました』――


『申し訳ありません。私はもう一つ、あなたに嘘をつきました。父はほぼ植物状態なのですが、会話は可能です。

 私も父と同じく研究者でして。「人間拡張」という言葉をご存じですか? テクノロジーを用いて人間の能力を拡張・増強する研究分野でして。患者の脳波から……ええっと、ともかく父は寝たきりなのですが、会話はできます。

 この通話環境も、私が研究中のプロジェクト技術で整えました。まだ試験運用レベルなのですが』


 ピコンと音が鳴って、メッセージが更新される。


――『いきなり難しい話で混乱するでしょう? 学者はつい、こういう会話をするからいけない』――


 ちゃんと流れについてきている返答だった。


 本当にシンジ・ムラカミ本人ということか。


 逆にニコラスの方が戸惑いと混乱で、流れについていけてなかった。


「ああ、その……俺、いえ、自分は」


――『大丈夫です。聞こえていましたから。息子の無礼を、どうかお許しください』――


 それから、文は次のように続いた。


――『あの子を、あなたが助けてくれたのですね』――


 ニコラスは言葉を詰まらせた。


「いえ、いえ。俺はまたあの子を危険な目に晒しています。助けたなんて、とても」


――『それはあの子も覚悟の上でしょう。誰かが傷つくのをあの子は嫌がります。優しい子だから』――


「っ、……はい。あの時も、それで飛び出していきました」


――『やはりですか。申し訳ない。あまり時間がありません』――


 一呼吸ほどの間があって。


――『あなたに一つ、お伝えしておきたいことがあります』――


「なんでしょう?」


――『ラルフ・コールマン軍曹の本当の経歴についてです。かの五人の兵士については、もうご存じなのですよね?』――


 ラルフ・コールマンの本当の経歴?


 ニコラスは「ええ、まあ」と頷く。


「公式記録を確認したわけではないので、正確な情報かは定かではありませんが。ハウンドの証言と絵本をもとに独自に調べました」


――『ではイーリスからは何も聞いてない?』――


「彼女がコールマン軍曹から託された絵本を、ハウンドに渡したことは知っています。ですが、五人についての話を聞いたことはありません」


 そう答えると束の間、シンジ・ムラカミからのメッセージ送信が止まった。「やはりそうですか」と相槌を打っているかのように。


――『これは、イーリスが調べてくれた情報なのですが、』――


 メッセージは、こう続いた。


――『ラルフ・コールマンの両親は「双頭の雄鹿」の一員だった、アーサー・フォレスターの血縁だった、という話です。ご存じでしたか?』――






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

大変長らくお待たせしました……!


次回の投稿は9月20日(金)です。

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