11-8

【前回のあらすじ】

27番地とUSSAによる和平交渉が始まった。だがそれは交渉とは名ばかりの、新たな戦端を拓いただけだった。


27番地は己が何者であるかの証明を。

USSAはこの機に乗じて相手の糾弾を。


ニコラスの頼みを受けた27番地代表の店長ライオール・レッドウォールは、冷静沈着にUSSAの追及を論破していく。

そんな中、唯一無二の証拠品であるハウンドに埋め込まれていた生体チップを突きつけられ、店長は窮地に立たされる。


そんな店長を救ったのは、ニコラスの主治医のジル・アンドレイだった。

彼の正体は、なんと元DARPAの研究員『アンドレ・フィリップ・ペルタン』。彼は、生体チップの開発者は自分だと主張する――。




【登場人物】

●ニコラス・ウェッブ:主人公


●店長(ライオール・レッドウォール):カフェ『BROWNIE』の店長、元大学教授


●ジル・アンドレイ(アンドレ・フィリップ・ペルタン):ニコラスの主治医、元DARPA研究員


●ボアズ:USSA交渉団代表




【用語紹介】

●合衆国安全保障局(USSA)

12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。


●失われたリスト

イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。

このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。


●絵本

ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。

炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。


●《トゥアハデ》

『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。

現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。

現時点(11節冒頭)で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。

またなぜかオヴェドは名を与えられていない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――






「……えっ、え? えええ!?」


 店長はここが交渉の場であることも忘れて、思わず紳士らしからぬ声をあげてしまった。

 目が点になるとはこのことだ。


 アンドレイ医師が元国防高等研究計画局DARPAの研究者? 初耳だ。


 自分だけでなく、護衛についてきてくれた住民たちも――あとから聞いた話では――中継を介して交渉を固唾をのんで見守っていた、27番地の誰もが目が点になっていたらしい。


 唯一驚かなかったのはニコラスぐらいなもので、


「いや、やけに高性能な義足つくるなと思ってたから……ハイブリット膝継手だとか、人工受容体とか。いくら機密情報しってるつったって、それを再現できる技術力がないとあの義足は無理だろ」


 とのことだったらしい。ごもっともな意見である。


 また店長は知る由もなかったが、別の場所でも――。




 ***




 これはまた珍しいものを見たな、とカルロは思った。


 目が点になったルスラン・ロバーチなどという愉快な光景、二度と見られまい。


「は? DARPA? ええ……?」


「これはまた……」


 比較的、情報収集力に長けたロバーチ幹部セルゲイや、ターチィ一家当主代理のロンダンですら困惑の極みにある。

 やはりこのことを知っていたのはヴァレーリ一家だけだったようだ。


 真っ先に困惑から脱したルスランが尋ねる。


「……とんだ隠し玉を持っていたものだな。お前は知っていたのか?」


 問われたヴァレーリ一家当主フィオリーノは「当然」と、面白くもなさそうに言った。


「これまでヘルの関係者の素性は徹底的に調べてきたさ。ニコラス・ウェッブあの番犬も含めてね。そもそもNGOで難民向けに義肢つくってた医者が、番犬のためにあんな高性能の義足つくれるわけないでしょ。どう見たって軍用技術の転用だよ」


「アッパー半島での騒動の際、我々にあの生体チップの情報を提供したのは彼ですよ。レントゲン画像を見てすぐに気づいたそうです」


 カルロがそう言うと、「あのネタ、あの医者からかよ……」とセルゲイが呻いた。


「ま、そゆこと。妙な経歴の奴がいるなとは思ってたけど、情報提供の話聞いて納得したよ。大方、合衆国安全保障局USSAと喧嘩でもして飛び出したってとこでしょ。それをこんなところで返されるなんて、皮肉なもんだねぇ」


 そう言って、フィオリーノは愉快そうに笑った。少しは機嫌が回復したらしい。


 カルロは安堵し、画面の向こうの不遜極まる研究者に心から感謝した。




 ***




 アンドレイ医師――否、ドクター・アンドレが手を叩き、店長は現実に引き戻された。


「いやいや、これまた見事なリアクション。あなたのそんな顔が見られるとは。隠してた甲斐がありましたな」


「いや、その、え? 本当なのかい……?」


 DARPAといえば、大統領と国防長官直轄の、軍用技術・研究開発を行う、我が国トップレベルの独立研究機関。

 その役割は、米軍の技術優位性を確保し、国家安全保障を脅かす“技術的サプライズ”を阻止することだ。


 当然、扱われる内容は基本最高レベルの機密保持契約で守られ、何をやっているか軍も議会も把握しきれてない。

 いわば研究界でも謎多き機関であり、自分のようなしがない大学教授とはくじらいわしだ。


 アンドレはククッと喉を振るわせて、悪戯を成功させた性悪小僧のように満面の笑みを浮かべた。


「本当ですとも。ただ一つ言わせていただくと、DARPAは世間一般が想像しているような、軍事研究を行っているだけの謎の組織ではない。たしかに軍向けの実用化研究もやっていたが、DARPAの真価は、軍と民間どちらにも、将来必要となるかもしれない技術の研究と開発を行う“橋渡し役”を担うことだ。

 実際の研究も一般企業や、あなたがいたような民間大学で行っているのですよ」


「は、はあ」


「ちなみに偽名として使っていた『ジル・アンドレイ』は本名をもじったものですが、『ジル』は研究者時代の渾名からです。当時、同僚からジル・ド・レェと言われてましてね」


 それはかのジャンヌ・ダルクの名軍師として活躍した彼だろうか。それとも童話『青髭』のモデルとなった方の彼だろうか。


 なんとなく後者のような気がする。


「ま、私にはもう過去の話だがね。だが――」


 アンドレはチラッと前に目を向け、自分以上に硬直しているUSSA交渉団のボアズ交渉官らを一瞥し、鼻で笑った。


「君たちは本当に気づかなかったようだな。無理もない。たかが一研究員が、さして重要度も高くない研究に従事していた凡庸な男が、名を変え顔も整形してまで海外に飛ぶなど、夢にも思うまいよ。

 しかしだ、私は未だに怒っているのだよ、ボアズ交渉官。君たちUSSAが私の可愛い研究成果物ベイビーをゴミのように扱ったことに対してね」


「……おしゃっている意味がよく分かりませんね。このような場で陰謀論じみたことを話すのは――」


「さて、私が開発したその生体チップについてだがね」


「ちょっと!」


 ボアズが声を荒げると、アンドレはさも不思議そうに両眉を吊り上げた。

 思わず引っ叩きたくなるなるほど、実に腹の立つ顔である。


「なにかね?」


「なにかね、じゃないでしょう。どうしてそこでチップの話になるんです、今あなたはUSSAとの確執とやらの話をしていたじゃないですかっ」


「それについてはもう終わった話なのでな」


「じゃあなんで取り上げたんですか!」


「文句を言いたかったからに決まっているだろう。昔、私を散々振り回した組織の人間が目の前でドヤ顔してたら、その鼻っ面をへし折りたくなるのが人間というものだ。

 で、説明を続けてもいいかね?」


 あまりの傍若無人ぶりに、ボアズが顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。怒りのあまり罵倒も出てこない事態に陥った人間を、店長は初めて見た。


――いや、だがこれでいい! あえて空気を読まず、マイペースに強引に事を進めてしまう作戦、これなら……!


 店長はアンドレの交渉術に舌を巻いた。


 あれだけ余裕そうだったボアズが取り乱している。アンドレの正体を知って動揺しているのもあるだろうが、彼の舌鋒のなせる業でもある。

 絶妙に相手の神経を逆なでしている。


 過去に何があったのかは知らないが、このままボアズがアンドレの口車に乗ってくれれば、議論の主導権を取り戻せるかもしれない。


「説明しなくとも結構、このチップのことは我々で調査済みです。時間の無駄ですから――」


「そうか。では開発目的と経緯について説明するとしよう」


「説明は結構だと言っているでしょうっ。あなた他人の話が聞けないんですか!?」


「もちろん私の耳は正常だとも。ただ、君の指示に従う必要性を感じないだけだ。さて。お待たせした、マスコミの諸君。そこのボアズ交渉官が持っている生体チップについてだが――」


 作戦、だよね……?


 なんだか店長は不安になってきた。

 一方、こちらのハラハラした様子に目もくれず、アンドレは嬉々として話し始めた。


「正式名称は『歩兵専用統合戦術情報伝達データリンク型埋め込み式生体チップ』という。“データリンク”という言葉を知っているかね? 軍のデータ通信システムの一つでね。

 戦場のありとあらゆる情報を統合する一つのネットワークを構築し、そのネットワークから最前線の部隊や戦闘機に直接リアルタイム情報を送信する。これにより中間管理層を介することなく、効率的かつ迅速に必要な情報収集と指揮命令を伝達することができる。それがデータリンクだ。

 このチップは、そのデータリンクを可能にするための道具として開発されたのだよ」


 アンドレはボアズが持つチップを指さしながら、そう言った。


「とどのつまり生体チップ型の通信機。“海洋生物の生態調査に使われる衛星発信機”から着想を得て、“イスラエルの先行研究”を引き継ぐ形で開発した、“自家発電式心臓ペースメーカー技術を組み込んだ”試作品。それがこのチップの正体だ。

 データリンクのためとはいえ、兵士一人一人に通信機を持たせたのではかさ張るし、破損の恐れもある。であれば、兵士の身体の中に埋め込んでしまえという発想だ。やりようによっては、兵士のリアルタイムのバイタルを後方から確認し、支援できるようにもなる。画期的なアイテムだ。

 安価で丈夫な小型端末やゴーグル型視覚増強システムの開発で、今となっては無用の長物となったがね。このように――」


 と、アンドレは鞄から茶封筒を取り出し、中身を取り出した。数枚のレントゲン写真と手術痕の写真だ。


 言うまでもない。ハウンドのものだ。


「簡易的な外科手術で、兵士のうなじ部分に埋め込むことを想定していた。少し言い方は悪いが犬猫のマイクロチップのように、ちょっと大きな注射器でぷすっと刺せば埋め込める、簡単に取り付けられるものを目指していた。

 この写真はすべて、ヘルハウンドに埋め込まれていたそこのチップを写したものだ。彼女は私の患者でね」


 アンドレがそう言うなり、マスコミが急いで画像をカメラに収めはじめた。


 無数に焚かれるフラッシュに煩わしくなったのだろう。アンドレは盛大に顔をしかめ、写真を茶封筒ごとテーブル上に滑らせて、報道陣へ放った。


 バーカウンター上のグラスがごとく滑るそれを、最前列の女性記者が慌てて両手を伸ばして受け止めた。


「だが残念なことに、この試作品はそこまでいかなくてね。『16ギガバイト程度の少量データを保持すること』、『半径五キロ以内の機器にデータを送受信する』、そして『対象生物の心停止と同時に保存データを強制送信する』、この三点の機能を持たせるのがせいぜいだった。

 私の研究を聞いた者の中には、“パスワードを送信する程度がせいぜいだろう”などと評価する者もいたが、そんなことはない。の送受信ぐらいなら可能だったのだよ。

 だが通信範囲の狭さは致命的だった。こんな短い距離では実用化は到底無理だ。そこで私は、他の複数の研究と並行しながら、この生体チップの送信範囲を広げるべく改善を重ねていた。そんな時に接触してきたのが彼ら、USSAだ」


 その言を受け、無数のカメラがアンドレの視線の先を追う。そこには、顔をややひきつらせたボアズたちがいた。


「君たちは知らんだろうが、当時のUSSAは私の研究を随分とまあ高く評価してくれてね。是非ともその開発を進めてほしいと色々支援をしてくれた。そこまではよかったのだがね。

 問題が発生したのは、第三世代の試作品を完成させた時だ。その試作品を、USSAはやたらとテストしたがってね。実用化に向けての試験運用は私も望むところだったから、快く引き受けたのだが……君たちはとんでもないことをしてくれたのだよ。

 何をしたか聞きたいかね?」


 ボアズは答えなかった。それにアンドレは気分を害することなく、好き勝手に話を続けた。


「予定の試験日を大幅に繰り上げて勝手に試験を始めたのだよ。試作品を私のラボから勝手に持ち出してだ。

 もちろん私は何も聞いてないし、許した覚えもない。完全な無断使用だ。最初は試作品を盗まれたと大慌てしたものさ。しかもその盗人がUSSA局員だとは夢にも思わなかった。

 さらにだ、事もあろうにその試作品を紛失してしまったのだよ。現地の“パキスタン、オマーン湾岸”でね」


 アンドレはそう言って笑った。

 酒の席で過去の失敗談を面白おかしく語るような口調だが、目はまったく笑っていない。


 店長はほんの少し、僅かにそっと腰をずらして、アンドレから距離を取った。


「聞けば、現場のとり違いで試作品がパキスタンにいた“民間人の活動家”にわたってしまったと言う。取り返そうとしたものの、試作品は活動家を襲った盗賊によってすでに盗まれており、追跡はできないときた。

 事故だったのか故意だったのかは知らんが、試作品とはいえ、よくもまあ軍事機密の塊をこうもぞんざいに扱えたものだ。怒りも通り越して、呆れてしばらく口がきけなかったよ。

 しかもだ。その担当局員がなんと言ったと思う、ボアズ交渉官。君、同僚だろう? なにか聞いてないのかね」


「……いえ、何も」


「また作ればいいだろう、だ。この国を捨てる決心をした瞬間だったよ。まったくとんだハズレ後援者パトロンを引いたものだ。

 激怒した私は名を捨て、顔を変え、海外へ飛び立った。二度と君たちが追えないようにな。腐っても君たちは情報機関だ。地の果てまで追いかけられては堪らん。

 そしてなんやかんやあって特区へたどり着き、今に至るというわけだ。理解したかね?」


「…………ひとまずあなたの素性が分からなかった理由は理解しました。そのというあなたの主張は議論すべきところですが」


 ボアズは咳払いをしながら、表情に笑みを取り戻す。


 報道陣の間で、なにやら慌ただしく動く人影が見えた。


「ここは駅前大通にあるバーではありません。れっきとした和平交渉の場です。USSAとあなたの間で何かトラブルがあったのかもしれませんが、今の交渉には無関係です。そうでしょう?」


 やはり立て直してきたか。


 店長はボアズの予想以上の立ち直りの早さに、内心舌打ちしつつも感心した。一方で、一つ気がかりなことがあった。


 先ほどから報道陣が妙に慌ただしいのだ。

 最初は衝撃的すぎる内容に報道すべきか各局で話し合っているのかと思ったが、どうもそうではない。


 彼らはなぜ、困惑した表情を浮かべているのだろうか。


 アンドレが真っ向から反論する。


「いいや、無関係ではない。君はさっきこう言ったな? 『この生体チップはヘルハウンドの養父ゴルグ・サナイ氏が彼女のうなじに埋め込んだ物であり、この中に『失われたリスト』が入っていた』と」


「一言一句正しいかと言われれば自信はありませんが、そうですね」


「そうか、そうか。では、なぜそれがゴルグ・サナイ氏によるものだと分かったのかね? そこの君、封筒の中身を見たまえ。手術痕の写真があるはずだ」


 アンドレに指名され、女性記者は「え? あ、はい」と慌てて茶封筒をまさぐった。

 そしてお目当ての写真を取り出すと、アンドレは記者の持つそれを指さしながら、こう主張した。


「報道陣の諸君の中にも、ちょっと怪我をして傷を縫ってもらった経験のある者はいるだろう。見たまえ。写真の縫合痕を。

 どう考えてもの手によるものだ。もしこれが医者を名乗る人間の手によるものなら、私が即殺しにいっているレベルの縫合だ。

 ボアズ交渉官、もう一度尋ねるが、なぜこれがゴルグ・サナイ氏によるものと分かったのかね? この手術痕からは、素人の手によるものとしか分からないはずだが?」


 ボアズがさっと青ざめた。己の失言に気づいた瞬間だった。


 一方店長は、報道陣の記者数人がカメラを下ろし、ポケットの録音レコーダーを確認し始めたのを見た。

 嫌な予感が的中してしまった。


 アンドレの追及はさらに続く。


「不可解な点は他にもある。ワイアット一家殺害の件だ。なぜヘルハウンドの仕業と決めつけているのかね? あの事件の事は私もネットニュースで確認したが、犯人はいまだ見つかっていないとされている」


「我々は独自の調査で犯人がヘルハウンドと断定できる証拠を押収しています。公表しなかったのは彼女が極めて知能の高いテロリストであり、慎重に取り扱う必要があったからです」


「ほう。ではなぜ、ヘルハウンドがこの特区に潜伏していると公表した時点で発表しなかったのかね? 第一、君たちはもっと重要なことを世間に隠しているだろう?」


 そう言って、アンドレは特大の爆弾を交渉席に投げ込んだ。

 店長があえて指摘しなかったことを。


「店長は優しいから言わなかったがね。君たちはすでに我々のリーダー・ヘルハウンドを捕らえているだろう」


 その瞬間、報道陣がぎょっと硬直して静まり返った。

 数人が取り落としたらしい録音レコーダーのカツンという音がよく響いた。


「しかもご丁寧に彼女が尋問される動画まで送ってきて。あれで我々の士気がくじけるとでも思ったかね? 逆効果だよ。よくも私の患者をあんな目に合わせてくれたな」


「先生! それ以上は、あの子が……!」


 店長はアンドレを制止しようと、その腕に手を伸ばした。


 言わなかったのではない。言えなかったのだ。

 もしこちらの不用意な発言で、あの子がもっと痛めつけられるようなことになったら――。


 けれどアンドレはこちらの手を優しく受け止め、代わりに激憤と毒に満ちた猛烈な舌砲をまき散らした。


「お言葉ですが店長、あの程度痛めつけた程度で、あのじゃじゃ馬が音を上げると思いますか? 私の治療を逃げ回る小娘ですよ。

 第一、やれるものならやってみればいい。これだけ多くの国民が目にしている前で、私の患者を! 拷問できるものならやってみろッ!! 

 ああ。件の映像は、報道陣の諸君には先ほどの封筒と同様、データ媒体でお渡ししよう。さあ、ボアズ交渉官。誇りたまえ。君たちUSSAは偉業を成し遂げた。凶悪なテロリストの生け捕りという大業を成し遂げた。

 なぜ公表しないのかね? 公表すれば、この無益な争いはすぐ終わるじゃないか」


 沈黙を破ったのはいくつもの怒号だった。

 ざわめきどころの騒ぎではない。次々にマイクを突き出し「どういうことだ」「説明しろ」と怒声が飛び交う。


 ボアズたちの顔色はもはや死人同然だった。

 それを冷ややかに眺め、アンドレは悠然と膝の上で指を組む。


「本命のテロリストを捕らえているのなら、和平交渉なぞせずとも、この戦争は終わりだろう。答えたまえ、ボアズ交渉官。君たちは何のために我々に和平交渉を持ちかけたのかね? 

 それと私が見た限り、我々が来た当初より周囲の兵士が少ないようだが、彼らは今どこへ――」


 アンドレは最後まで言えなかった。

 ボアズたちの背後で発生した、轟音と爆炎がかき消してしまったのだ。


 報道陣から悲鳴が上がり、辺り一帯は騒然となった。


 黒煙と砂塵で視界が覆われる中、誰かが大声でこう叫んだ。


「襲撃だ、襲撃だ! 27攻めてきたぞ!」


「はあ!?」


 アンドレが額に青筋を浮かべて目を剥いた。店長は静かに天を仰いだ。




 ***




「出来レースなんだよ、最初から」


 カルロを含め、唖然とする一同を無感動に眺めながら、フィオリーノはそう言った。


「交渉に応じた時点で27番地の負けは確定した。適当に交渉パフォーマンスやったら、27番地の仕業に見せかけて会場を襲撃する。それだけでマスコミへの印象操作は完了だ。

 なに言ったって無意味なんだよ。言ったところで、マスコミがそれを報じられなければ意味がない」


「ではさっきから報道陣が慌ててたのは」


 思わずカルロが口を挟むと、フィオリーノはやや意外そうにこちらを見上げ、短く嘆息した。


「通信妨害でしょ。中継が繋がらなくなって困惑してたんだ。あとでUSSAから発表されるよ。『27番地による通信妨害により、報道ができなくなりました』ってね」


「いや、でも録音データがあるだろ」


 セルゲイの反論に、フィオリーノは視線だけ投げた。


「じゃあこの襲撃の中、報道陣があのバリケード越えて特区外に戻るまで、誰が護衛すんの? USSAでしょ」


 セルゲイが黙りこくる。


 データを渡さなければ護衛しない。自力で特区外まで逃げろ。


 そう言われて、記者の矜持を保てる人間がどれだけいるだろうか。

 下手すれば、“襲撃の被害者”としてどさくさ紛れに殺される可能性もあるのだ。


「地下水道の位置もバレた挙句、橋頭保までつくられて、交渉も負け。散々な結果だね。願わくば、あの番犬が――」


 そこまで言って、フィオリーノは言葉を区切った。今度はカルロが意外さに目を見開いた。この男でも、誰かに期待するのか。


 けれど、それは自分も同じだ。


 この和平交渉に際し、ニコラス・ウェッブはフォーを介して一つ、五大に取引を持ちかけた。


 あの男はこの交渉を端から一切期待していなかったのだ。だからあんな提案をしてこられる。


――演技か、なにも知らされていないか、どちらにせよ嫌な役をさせるもんだ。


 カルロは画像内で狼狽える店長とドクター・アンドレを見つめながら、「薄情だな」と、自身を棚に上げてそう思った。




 ***




 ああ、嵌められた。


 そう悟った店長は天を仰ぐのをやめ、力の抜けかけた両足を踏ん張って、正面のボアズたちを見据えた。

 これ以上の無様を死んでも晒すものかと思った。


「言いがかりだ! 我々はこの会場の半径二キロ圏内の全部隊を撤退させている! 我々はこの会場までほぼ丸腰でやってきたんだぞ! 第一、襲撃者はどこにいる!? 我々が犯人だという証拠が、どこにある!?」


 逃げ惑う報道陣に目もくれず、掴みかからんばかりの勢いでアンドレが怒鳴っていた。


 対するボアズは、トゥアハデ兵に守られながら、ぬけぬけと宣う。


「これほどの暴挙に及んでまだしらを切りますか。襲撃されたのは我々の背後、バリケード側です。バリケード上の道が破壊されて喜ぶのはあなた方でしょう?」


「道に爆薬を仕掛けられるのも貴様らだろうがッ!!」


 普段の太々しさをかなぐり捨ててアンドレが声を荒げた。怒り狂っていた。


 その激情に賛同しながらも、店長の心はどこまでも冷えていった。

 ここまでするか。たかが棄民相手に。同じアメリカ人だというのに。


「ボアズ交渉官。ハウンドは、あの子は無事ですか」


 こちらの問いに、ボアズはやや驚いたのち失笑した。


「この期に及んで何を言い出すかと思えば……あなた方が大人しくこちらの和平案をのんでくだされば――」


「あの子はちゃんとご飯を食べていますか。傷を隠してはいませんか。大丈夫じゃないのに大丈夫と言い張る子です。答えなさい。あの子は無事ですか?」


 ボアズがたじろいだ。所詮はただの学者風情、そう思っていたのだろう。


 カフェ『BROWNIE』を訪れる客は住民だけではなかった。

 27番地を狙うギャングや新興マフィア、ハウンドと交渉を望む五大マフィア当主に幹部。数多の悪党と対面してきた。


 銃撃や爆炎に晒されるのも、銃口を突きつけられるのも今さらだ。


 今さら、なんだというのだ。


「我々が今回の交渉に応じたのは、応じなければあの子に危害が及ぶと考えたからです。だからこそ負け戦と知りながらも、ここに来た。ボアズ交渉官。あなたには、我々が何者に見えますか? 犯罪者ですか、テロリストですか」


 残念です。


 それだけ告げて、店長は踵を返した。背筋を伸ばし、前だけ真っすぐ見て。


 この背を撃てるものなら撃ってみろ、と。正々堂々、会場を後にした。


 弾は、飛んでこなかった。

 呼び止められることもなかった。ただ幾人かの視線を背に感じていた。


「あなたが今回の交渉に名乗り出てくれて本当によかった」


 追いついてきたアンドレがそう笑いかけてきた。先ほどの憤怒が嘘のような晴れ晴れとした笑顔だった。


「おかげで多少溜飲が下がりました」


「いいや、ただの意地さ。負け戦だとしても、負け方は選べる。三流悪党のような捨て台詞を吐きたくなかっただけだよ」


 そう返した直後、前方の方から聞き慣れた声と、数十人からなる足音がした。

 店長は自然と笑顔になった。


「迎えに来てくれたのかい?」


「あんな見て、迎えにいかないわけがないでしょう。ご無事で何よりです」


 息を切らしたニコラスは、額に汗をにじませて、ほっと肩を下げた。


 そして付近の崩壊したビル内に隠していた車両に自分たちを乗せた。


 ニコラスは各車両に指示し、自分たち以外の車両は偽の地下水道に、自分たちは一番近くの本物の地下水道へ向かわせた。


「爆発が見えたのでこちらも煙幕をたいておきました。赤外線と熱で探知されるでしょうから、こちらも攪乱します。それと、報道の方はやはり?」


「ああ。通信妨害を受けたようだ。記者たちが焦っていたよ。だが――」


 店長はネクタイからタイバーを外した。クリップ上面を飾るオキニスに見える宝玉は、実は仕込みカメラだ。

 ハウンドが過去、ループタイのお礼にくれたものだった。


「これには気づかなかったようだね。あとは通信班にお任せしよう」


「ええ。どうせ投稿してもすぐ削除されるでしょうが、何度だって投稿してやりますよ。ジャックも張り切ってました」


「元炎上系ユーチューバの面目躍如だな」


「言いたい気持ちは分からんでもないですが、それ本人の前で言わんでくださいよ、先生」


 ニコラスの苦笑に、アンドレは肩をすくめた。

 ジャックのメンタル治療を担当しているのは彼だ。患者にとって耳の痛い毒は吐いても、患者自身を害する真似はすまい。


「おかげで時間も稼げました。27番地外へ通じる地下水道のロバーチ方面とターチィ方面、それぞれ二か所、無事開通しました。USSA側もまだ気づいてません。

 ありがとうございます、店長。先生。嫌な役目を押し付けました」


「なんの。自分から申し出たことさ。これで三家も満足するかな?」


 地下水道を介し、特区外へ通じる退路を拓く。


 それが、この交渉の傍らニコラスたちが仕掛けていたことであり、ヴァレーリ・ロバーチ・ターチィの三家に持ちかけた取引だった。

 今回の和平交渉は、そのための時間稼ぎでもあったのだ。


「退路を確保したら、でしょうがね。そもそも三家当主はセントラルタワーに監禁中ですし、逃げ出す隙もつくってやらんことには、こちらの提案をのんではくれんでしょう。ですが、ひとまず第一段階クリアです」


「素晴らしい成果だな。それでなくては嫌な思いをした甲斐がないというものだ」


「その辺の不満は甘んじて受け入れますが。俺は先生がずっと正体隠してたことについて、いくつか言いたいことありますからね」


「驚いたかね? 君が以前壊した義足の修復もそろそろ完了する。元DARPA研究者の自信作を楽しみにしていたまえ」


「ほどほどに楽しみにしときますよ」


 本当に嫌そうな顔のニコラスをからかうアンドレを、店長は微笑ましく見守った。


 緊張の糸がほぐれていく。一時間にも満たない交渉だったというのに、数年ぶりに笑ったような気分だ。


 そんな時、ポケットからバイブレーション音が鳴った。


 気が抜けていたせいだろう。

 こんな時に誰がかけてきたのか、まだ通信妨害区域を出ていないのにどうやって繋いできたのか。


 自然な流れで携帯を手に取り、電話に出た時、ようやくその違和感に気づいた。


 電話に出たはいいものの、口ごもってしまったこちらに、向こうから話しかけてきた。


『もしもし?』


 不安げな声だった。まだ若い男性だ。少なくとも中年ではない。どこか聞いたことのある訛りをしていた。


「ああ、失礼。カフェ『BROWNIE』でございます」


『ああ、よかった。やっと繋がった』


 男の嘆息が通話を震わせる。


 そこで店長は気づいた。この訛り方、ケータの訛り方によく似ているのだ。


 まさかと思いながらも、店長は相手の素性を聞いた。男は名乗り、要件を手短に伝えてきた。


 思わず携帯を耳から離した。


「誰からです?」


 警戒しながら尋ねるニコラスに、店長は蒼褪めながら答えた。声は掠れ、震えた。


「『シバ』と名乗る男性から電話がかかってきた。ニコラス、君と話したがっている」






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

告知した通り、本職繁忙期のため来週はお休みします。


次の投稿日は8月23日(金)です。

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