10-3

大変お待たせしました!!! 

投稿再開します。








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〈2014年3月1日 午後7時28分 アメリカ合衆国ミシガン州 特区3番地 ターチィ領一等区〉


「ここから先は、二人に任せるヨ。私いちおうミチピシ住民、紹介状なしじゃ入れないネ」


 申し訳なさげに肩を竦めるイヤドの横で、チコもまた狭い運転席で窮屈そうに振り返る。


「ハウンドちゃんなら関所もたぶん顔パスでいけると思うけど……本当に館まで送っていかなくていいの? アタシ、出張で一等区に出入りすることあるから、送迎ぐらい大丈夫だと思うけど」


「これから探りに行くわけだからね。可能な限り向こうの指示通りに入ろうと思ってさ。痛くもない腹を探られるのは嫌だし、万が一、二人が巻き込まれても困るしね」


 そう言って、ハウンドは脇に置いていたナポレオンコートをドレスの上に羽織った。


 ニコラスは先んじて車外に出ると、ハウンド側のドアを開け天井部に腕を添える。

 ハウンドが車の乗り降りで天井に頭をぶつけることなどまずありえないが、ここではそういう振る舞いが求められる場所だった。


「じゃあ、四時間後にここで」


「行ってくる」


「ええ。二人とも気を付けて」


「頼んだヨ、お兄サン」


 走り去る黒のシボレー・インパラSSを見送っていると、ジャケットの左肘に絹のオペラグローブに包まれた指がそっと触れた。


「じゃ、エスコートよろしく。ヒール慣れないんだよね」


「……善処する」


 ニコラスは周囲の光景に圧倒されながらも、ぎこちなく歩き出した。事前に店長に教わったことも、緊張ですべて吹き飛んでしまいそうだ。


「心配しなくても、スーツよく似合ってるよ。結局私に合わせて黒にしちゃったみたいだけど。胸元のべっ甲がキラキラしてて綺麗だし、スーツもいい具合に身体にフィットしてて、遠目に鍛えてるのがすぐ分かるし。うん、チコに見立ててもらってよかったね」


 ハウンドは微笑んだ様だったが、視線を向ける余裕もなかった。


 ただでさえおかしくないよう振舞うので精いっぱいなのに、口下手なうえ義足歩行でのエスコートという初任務をこなしているのだ。

「どうも」と短く返すのがせいぜいだった。


 ハウンドがくすくす笑いながら腕に頭をもたげてきた。


「大丈夫だって。ニコは姿勢いいから、胸張って前見て立ってるだけで絵になる。なんか失敗しても『いや、これが正しい振る舞いですけど?』って顔してりゃいいさ。ニコ、強面だし。変に絡まれたりしないって」


 それは褒めているのだろうか。


 ニコラスはハウンドを見下ろし、彼女が顔を上げかけるのを見て、慌てて前に視線を戻した。


 情けない限りだが、ちょっと今のハウンドを直視するのは厳しい。

 いや、本当は見たいのだけど。コートを脱がれるとますます直視できなくなってしまうから、見るなら今なのだろうけど。


――化粧してると、本当に大人の女って感じで落ち着かないんだよな……。


 羽織ったコートの隙間から、膝丈のアワーグラス・ドレスが顔を覗かせる。

 名の通り成熟した女性特有の砂時計型シルエットを美しく際立たせるそれは、黒のベルベット生地に咲く赤い薔薇が艶めかしくも上品だ。


 雫型にカットされた胸元からのぞく白い肌がやけに眩しい。

 うっかり目を向けるとまずそこに目がいってしまうので、視線を逸らすのにも一苦労だった。


 髪は軽く編みこんで横に垂らし、後頭部を蔦模様の金細工が飾っている。ドレスも髪もシンプルゆえに、元の良さがより際立っていた。


 改めて、綺麗だなと思う。陳腐な言葉で片づけてしまうのがもったいないぐらいに。

 だがそれ以外に言葉が浮かばないぐらい、本当に綺麗だった。


 日頃あまり化粧をしないのと童顔のせいであまり感じにくいが、着飾るともうとっくに大人の女性なのだと思い知らされる。

 もう彼女は、出会った頃のような痩せっぽっちの小さな子供ではないのだ。


 それが、いつの間にか自分の知らない彼女になってしまったようで、嬉しくもあり寂しくもある。

 自分の手の届かない、遠くの人になってしまったようだ。


「ニコ?」


「なんでもない。ところで、あれが目的地か?」


 ニコラスは前方を指差した。


 一等区三番地関所の後方。

 ターチィ領一等区娼館『青楼チンロウ』が、満を持してステージに登場したスターのように、ライトアップの中で白く浮かび上がっていた。


 建物の外観こそ中華風だったが、瓦は黒一色、柱や壁は白の大理石で統一した姿はシンプルながら重厚かつクラシックだ。

 パルテノン神殿と天安門をかけ合わせた見事な中洋折衷の館である。


 庭木や照明、動くスタッフひとつとっても、素人目にも洗練されているのが分かる。

 エントランスに広がるレッドカーペットを歩く人々の中に、ハリウッド俳優や女優がいてもおかしくないぐらいだった。


「娼館っていうより帝国ホテルだな」


「ね、ドレスコード必須な理由が分かるでしょ。性病検査証明書が求められるケースもある。二等区、三等区はそこまで厳しくないんだけど」


「けどそれだけ客との信頼関係を大事にしてるってことだろ。ほら、あそこ。俺でも見たことのある有名人がちらほらいる。本当に一般人の出入り自由なんだな。特区とは思えん」


 次々に関所を抜けていく煌びやかな人々を眺めながら、小さく嘆息する。場違いすぎて、息が詰まりそうだった。


「一般人の出入りが許されてるのは各等区のいち番地のみだけどね。一等区ならここ。なかなかのもんでしょ。ターチィは観光に力入れてるからね」


 たしかに。一等区はもちろん。ここまでの二等区、三等区ともにラスベガス顔負けの発展ぶりだ。

 本来貧民街のはずの三等区にしても、どの娼婦もみな健康的で羽振りがよさそうだった。他領の三等区の立ちんぼとは雲泥の差だ。


 けれどそれ以上にニコラスが驚いたのは、一般人が色街に顔を晒して堂々とやってきていることだった。


「こんなことを言うのもなんだが。客は大丈夫なのか? 犯罪都市の色街に出入りしてるなんて、世間体からしてだいぶリスクのある行為だと思うんだが」


「ああ、その辺は問題ないよ。ターチィ領だからね」


「というと?」


「国内のフェミニスト団体がターチィのバックについてて、ここでの風俗利用を積極的に推奨してるんだ。だから倫理的に問題にならないし、社会正義に反することもない。女性の権利を守る代表みたいな組織が認めてるわけだからね。だからみんな安心して遊びに来てるってわけ」


「……は?」


 ニコラスは耳を疑った。


「うん、まあそれが普通の反応よね。ちなみに過激なのだと、ターチィ一家を女性にとっての理想組織だなんて宣ってる輩もいる。ターチィ一家の構成員はすべて女だからな。男はどんなに出世しようと、その配下の武装要員か護衛にしかなれない。徹底した女尊男卑の組織なんだ」


「いやいやいや、だとしても推奨はおかしいだろ。フェミニスト団体ってこれまで風俗業に反対の立場だったじゃねえか。女性の性的搾取を阻止するためっつって、風俗業の取締りを推進してきたはずだろ。なんで今になって逆の立場になってんだ」


「ん~、どっから説明したもんかな~……」


 ハウンドは顎に手を当て唇を尖らせた。


「そうだな。端的に言うと、フェミニスト団体は犯人にされたくないんだよ」


 犯人にされたくない?


 「ちょっと長い話になるんだけど」と言ったところで、ハウンドは口を閉ざした。

 関所の通行審査の番が来たのだ。


 その光景を見て、不意にニコラスは懐かしさを覚えた。

 なぜかと言われると返答に困るのだが……。


 関所の審査員らしき構成員らしき男が、慇懃ながらもけだるげな声でこちらを呼びつける。が、ハウンドの顔を見るなり表情を一変させた。


「大丈夫、もう話は通してあるから。『フォー』はもう来てる?」


「はっ、『アネモネ』様であれば、30分ほど前に館へ到着されました。今、車を手配いたしますので」


「いい、いい。歩いて10分もかからないし、今日は本当にただの客として来ただけだから。予約の時間までのんびり歩いていくさ。ご苦労さん」


 ハウンドと構成員のやり取りを見て、ニコラスは懐かしさの正体に気付いた。


 マンハッタンのコリアタウンだ。この関所の構成員、ほとんどがアジア系なのだ。


 平身低頭の構成員たちに見送られ、ニコラスたちは銃火器所持の確認もされることなく通された。

 預けなくて大丈夫かと目で問うと、ハウンドはウィンクした。


「どうせ妓女や当主の前でもう一回所持品の確認されるから。――さて、館に着くまで、少し昔話をしようか。フェミニズム団体が、なぜターチィに擦り寄らざるを得なくなったのか」


 話は特区設立以前にまで遡ると、ハウンドは語った。


「アメリカの風俗事情が昔からかなり厳格だったのは知ってるよね? 当初は性病蔓延防止の意味合いが強かったけど、以降、連邦法・州法それぞれが売春行為そのものを処罰対象とし、現代では合法なのはネバダ州内の認可を受けた売春宿のみとなった。ちなみにラスベガスも売春は禁止だぞ、一般的なイメージとは真逆だけど。

 とまあ、こんな感じで厳しく取り締まってきたんだけど、当然穴はある。プライベートエスコートやマッサージ・パーラーなんかがそうだな。こうして法律的には違法だけど、抜け穴を使う奴らは依然いたっていうのがこれまでの流れ。

 で、この流れが変わったのは12年前、同時多発テロの後からだね」


「同時多発テロの後から? なんでまた」


「テロが起こる前年に、国連総会で国際的な組織犯罪防止に関する条約が採択されてね。その中に人身売買による売春行為も含まれてたんだ。こういったのがテロリストみたいな犯罪組織の収益源になってるってね。で、その後に同時多発テロが起きた。

 その結果、アメリカ国内のフェミニストはロビー活動を行い、各国政府に働きかけて売春禁止を強く呼びかけた。テロリストに稼がせないためにね。もちろんアメリカもこれを強力に支援した。その流れがアメリカ国内の風俗産業にも向いたんだよ。

 けどやり方がまずかった。早い話が、フェミニスト団体が暴走したんだ」


「この機に国内の風俗産業を一掃してしまえってことか」


「そういうこと。国内の風俗産業の完全廃止に動き出したんだ。他国政府に売春禁止を実現させた成功体験が、フェミニストに大きな自信を与えたんだろう。

 けど風俗と見なす基準がだいぶアバウトでさ、風俗業界が予想していた以上に多くの職種が取り締まり対象になっちゃったんだよ。当然、業界は猛反発した。そのうえフェミニストの働きかけで各州が強引に風俗店の営業停止に動いた結果、逆に個人売春が急増して取り締まりが追い付かなくなるっていう本末転倒になっちゃったんだ。ニコは心当たりあると思うけど……」


「俺の母親があおりを食らったのはそれよりずっと前の話だ。たぶん、もうそういう時代になってたんだろうさ」


 とはいえ、思わぬところがないわけではない。


 ニコラスの母親が劣悪な環境下で個人経営のコールガールを始めたきっかけは、故郷ニューヨーク内での取締りが強化されたことで、勤務していたナイトクラブを解雇されたことだった。


 学歴もない、金もない、社会的つながりが希薄な女にとって、身体を売るという稼ぎ方は非常に魅力的な選択なのだ。

 そして一度それで稼げることを知ってしまえば、最低賃金レベルのブルーカラー労働者には戻れないし、戻ろうとはしない。


 そういうものだ。


 母親以外にも、周囲の解雇された女たちがそうなるのを、ニコラスはずっと見てきた。


 風俗を取締れば女性が性的に搾取されることがなくなって女性が守られる、そんな単純な話ではないのだ。


 続けてくれ、と促すと、ハウンドは前に向き直って話を進めた。


「フェミニスト団体の猛烈なロビー活動をもってしても、完全廃止は容易なことじゃなかった。結果、業を煮やしたフェミニスト団体は支持層の政治家と結託して、あることを思いついたのさ。完全廃止が難しいなら、一か所にまとめてしまえばいいんじゃないかってね」


 そこまで聞いて、ニコラスはハッとした。


 まさか。


「それが、特区の始まり……?」


「正解。特区設立のきっかけは風俗業の完全廃止を目論んだ政治運動だったんだ。で、これに目をつけたのがヴァレーリ一家」


「ヴァレーリ? ターチィじゃなくてか」


「ヴァレーリが土壌を整えて、そこにターチィを呼んだってのが真相だね。ヴァレーリは当時、身内を裏切ってFBIのマフィア狩りに協力した功労者として、完全にマークから外れてたんだ。誰もヴァレーリが裏切るなんて思ってなかったし、そもそも犯罪組織とすら思ってなかった」


 だがヴァレーリ一家はそうではなかった。


「連中は、この厳格すぎる風俗の取締りを、禁酒法時代の再来とみなしたんだ。アルコールが禁止された世界で密造酒を製造して売り捌いた結果、アメリカでマフィアが誕生した。これを、当時アンダーボス (ヤクザでいうところの若頭)だったフィオリーノは再現しようとした。風俗業界を利用してマフィア復活を画策したんだ。

 そして移民対策やら失業対策やら聞こえのいい謳い文句で、フェミニスト系以外の政治団体を計画に絡ませ、節税対策を謳って民間企業を巻き込んだ。風俗業界を掃き溜めに集めるだけの計画を、国営の経済開発区域設立計画に変貌させた。

 大勢の人間を関わらせることで、自分たちの関与をカモフラージュするためでもあったわけだ。で、それは見事に成功した」


「じゃあ、リベラルモーターズ社が倒産したのって」


生贄スケープゴートだね。そもそも、特区を国営にするか民営にするかで最後まで揉めたんだ。政治家やフェミニズム団体たち国側からすれば、民営派だったリベラルモーターズ社は敵対関係にあった。だから真っ先に切ったんだ。五大マフィアが隠れ蓑にしてたこともあって、糾弾材料はそろってたしね」


「……自分たちが罪に問われないように、すべての責任を押し付けたのか」


「そう。だからフェミニスト団体は必死なのよ。国側で次に切り捨てられるとしたら自分たちだからね。言い出しっぺでもあるから口実にも困らない。だからこうして、一生懸命ターチィ一家を支持してる。ターチィも厭らしくてね、フェミニスト団体に追われた国内の風俗業界関係者を積極的に保護して身内に取り込んでるんだ。これ見よがしにね。

 だからフェミニスト団体はターチィ一家に逆らえない。逆らえば、特区という犯罪都市設立の罪状で自分たちが糾弾されることになる」


「加えて、実際に追われた風俗業界の女性を保護してるわけだから、文句のつけようがない。自分たちが原因なだけに、なおさら批判しにくいわけか」


「そそ。五大マフィアは自分たちを『必要悪』と位置付けることで地位を獲得してきたが、ターチィは『必要善』としての地位確立に成功した唯一の一家なのさ」


「とんだ皮肉だな」


「他者の悲鳴や忠告に耳を貸さずに独善を強いた結果だよ。そもそも、人の三大欲求を制限しようだなんて無理があるんだ。ただ――」


 唐突に区切られた言葉につられて、ニコラスは今日初めてハウンドの顔を見た。


 伏せられた目元の睫毛は長く、影がかかって、その表情も深緑の瞳に滲む色は伺えなかった。

 探られたくない時の表情だ、と思った。


「理想は理想のままなんだ、ニコ。より善い世界であろうと願って努力したことは間違いじゃないと私は思う。ただ彼女たちは致命的に、自分たちの言動を客観視できなかった、だからこうなった。それだけの話さ」


「……意外と前向きなんだな」


「前向きというか、そうであってほしいっていう私個人の願いだよ。女性が虐げられるってんのがどういうもんなのか、それなりに知ってるからね。あれはね、うん。しんどいと思うよ」


 うん、と言葉を区切った直後の数秒の沈黙に、どれほどの言葉を飲みこんだのか。


 他人事のように「しんどいと思う」と呟く彼女は、女性以前に人としてすら扱われなかった彼女は、祖国の女たちをどんな目で見ていたのだろうか。


 隣を歩く少女の肩に、思わず手を回したくなる。コートの隙間から入り込む冷気に首を竦める彼女の肩に、今すぐジャケットを脱いでかけてやりたい。


「ニ~コ」


 くるりと反転して、ハウンドが顔を覗き込んできた。


 腕の中に飛び込むように懐に入ってきた彼女に驚いて反射で抱きとめかけ、触れていいのか躊躇って触れる寸前で腕を止めた、中途半端に腕を広げただけの不格好な姿になった。


「そういうのは本当に困ってる弱い女の人にやってあげな。私は悪人だもの。奪われたなら奪い返しに行くまでさ」


 けどあの時、お前は泣いてたじゃないか。宵闇の雪に沈むアッパー半島の森の奥地で、一人、寂しいと泣いてたくせに。


「泣いても泣き言は言うもんじゃないって話だよ。加害者が被害者面で特別扱い要求するとか、普通にみっともないじゃん」


「……まだ何も言ってないだろ」


「ならその分かりやすすぎる顔と体臭をどうにかすることだね」


 どうしろってんだよ、そんなもん。表情はともかく。香水でも付けろってか。


 ニコラスは黙りこくった。

 そんなこちらにニシシと悪戯小僧のように笑って、ハウンドは抱き着いた腕に寄りかかってきた。


「はい、これで歴史の授業は終わり。仕事といこう。ターチィは女の巣窟だからね。一筋縄じゃいかないから覚悟してね」




 ***




 エントランスに足を踏み入れた時点で、ニコラスはハウンドの耳元で囁いた。


「鼻、大丈夫か?」


 むせ返るほどの花の香りだ。上品で心地いいものではあるが、あまりの濃さに酔ってしまいそうになる。

 加えて客や妓女がまとう香水があちこちに漂っていて、香水専門店にでも迷い込んだ気分になる。


 自分でこうなのだから、鼻の利くハウンドにはきついだろう。


「ハンカチとかショール用意してあるから大丈夫。料理に使うスパイスとかは割と平気なんだけどね~」


「無理するなよ」


「分かってるって。けど体臭から感情読むのは無理そう。いつもみたいな交渉はできないな」


 ニコラスは頷いた。


 元より彼女の鼻頼りの捜査をする気はない。探偵系の依頼だ。きちんと第三者からみて納得のいく客観的な証拠を集めねば意味がない。


「ヘル」


 女性の声がした。女性にしてはやや低めのハスキー声で、張りのあるよく通る声だ。


 振り返って、ニコラスは目を見張った。


 金髪の背の高い美女が立っていた。


 完璧なモデル体型で、ピンヒールを見事に履きこなす姿は、そこんじょらのモデルや女優が裸足で逃げ出すレベルだ。身長も自分より高いかもしれない。


 なにより顔面の圧がすごい。吊り目がちで鼻筋が高く細いせいか、美しいというより鋭いという表現が真っ先に浮かぶ。

 着ているのが、太腿までスリットの入った紫のドレスなのも相まって、ますます気が強くみえる。小心な人間なら睨まれただけで息を詰まらせそうだ。


 そんな迫力満点の美女は、その面立ちに違わぬ強く辛辣な言葉を吐いた。


「気の利かない男ね。女に自分でコート預かりに行かせるつもり?」


 そう言われて、ニコラスははじめてハウンドがコートを着たままだったことに気付いた。


 慌てて脱ぐのを手伝おうとしたが、ハウンドはさっさと脱いで軽く畳むと、こちらの腕にかけてくれた。


「受付、あそこね。招待状をみせれば分かるから」


「こっちで預かるわよ。ヨンハ」


 ニコラスが返事をするより早く、美女が口を挟む。


 と、同時にヨンハと呼ばれた男が美女の背後から進み出た。

 関所の構成員と同じくアジア系 (名前からして韓国系だと思うが)で、涼やかな切れ長の目元が特徴のなかなかのハンサムだ。


 男はその切れ長の目尻を申し訳なさそうに下げて微笑むと、黙ってコートを取り上げて受付に持っていってしまった。


「ヘル。それ、取り換えた方がいいわよ」


「慣れてないだけだよ。そう言わないでやってくれ、フォー」


 フォーとは、名前ではなく通り名だ。


 ターチィ一家直轄娼館専属の妓女、ナンバー・フォー

 芸名はアネモネ』、ハウンド曰く、特区にきてすぐにできた友人なのだそうだが。


「それでも慣れてみせるのがいい男ってもんよ。甘やかすとつけあがるわよ」


 フォーは品定めするような目でこちらを睨みながら、鼻を鳴らした。


 どうやら自分は不合格の判を押されてしまったらしい。


 ニコラスは早速この美女が苦手になった。なにより、きつい顔立ちの美人で金髪というのが駄目だった。

 母親を思い出す。


「関所で名乗らなかったの? 車ぐらい用意したのに」


「断ったんだよ。ちょっと歩きたい気分だったし」


「相変わらず変わってるわねぇ。部屋ならもう用意してるわ。そんなのと歩いてきたんじゃ、逆に疲れたでしょ。あんたヒール慣れてないし」


 そう言いつつ、フォーは分厚いカーペットをものともせず、ピンヒールでつかつか歩いていった。


 ハウンドは微かに息を吐くと、こちらの肘をポンと叩いて彼女の後に続いた。

 そんな気遣いに申し訳なく思いながら、二人の後を追う。


 鼻が残り香を捉えた。

 ハウンドは香料のあるものを身に着けないので、フォーの香水だろう。


 変わった香りの香水だ。けれどこれ、どこかで嗅いだことがあるような……。


「ちょっと」


 フォーに言われて我に返る。彼女はエレベーターホールの前で立ち止まっていた。


「三階よ。さっさと押して」


 先ほどの付き人の代わりをやれということらしい。


 肩身の狭さをひしひしと感じながら、言われるがままボタンを押す。

 上へいっていたのが到着するまでの間が、酷く居心地が悪かった。


 チン、とベル音が鳴る。


 先に乗って操作盤の前に立つと、フォーとハウンドが乗り込んだ。

 フォーからは「乗る時ぐらい『開』ボタン押してなさいよ」と小言を言われた。


 言い訳を言わせてもらうと、ニコラスはエレベーターの開閉ボタンを押す習慣がない。


 アメリカでエレベーターの『閉』ボタンのほとんどが故障で機能しないことは有名だが、ニコラスの故郷ブロンクスのビルのやつは『開』も故障していることが多かったのだ。


 そんな事情を露知らないフォーの自分への評価は、急降下する一方のようだ。もともと鋭い目元がどんどん尖って冷たくなっていく。


 ニコラスのフォーへの評価もまた、苦手から嫌いに切り替わりつつあった。


 この女、本当にハウンドの友人なのだろうか。絶対に友人関係を一度見直した方がいい。


――仕事がそんなにきついのかね……。


 妓女とはいえ、本質は娼婦だ。体力的にも精神的にもきつい部分は多いのだろうが。


 とはいえ、つくづく母親にそっくりな女だ。こうやって他人に八つ当たりする様が特に。


 そんな思いが顔に出ていたらしい。


 三階に着き二人を先に下ろしてから降りると、腰に手を当て仁王立ちしたフォーが待ち構えていた。


「なに。ろくなエスコートもできないくせに文句があるわけ?」


「フォー、そんなにカリカリしないでくれ。ニコは、」


「あんたはちょっと黙ってなさい」


 これにはさすがにカチンときた。友人に対してなんて物言いだ。


「……憂さ晴らしなら他を当たってくれないか」


「はあ?」


「何がそんなに気に食わないのか知らないが、初対面でいきなり八つ当たりするのは止めてくれ。仕事がきついのは理解するが、溜め込んだストレスは自分で対処してくれ。大人だろ」


 次の瞬間、首を絞められて息が詰まった。

 見れば、眦のつり上がったフォーの顔が間近にあった。


 ネクタイを鷲掴む真っ赤なマニキュアが、魔女の爪のように見えた。


 ハウンドが慌てて間に入ろうとしたが、フォーはネクタイを掴む手を離さない。


 ニコラスもまた退く気はなかった。地雷を踏んだらしいが、サンドバック扱いはもうこりごりだ。


 こちらをねめつける薄茶の目を、ニコラスは真っ向から睨み返した。


 毒々しいほど紅い唇がしばし噛み締められて、ゆっくりと開いた。


「あんた、あたしをどの女と重ねてんのよ」


 全身が強張るのが分かった。


 するとフォーは「やっぱりね」と、道路に唾を吐くように低く呟いた。


「その顔、少なくとも憐れんでるわけじゃなさそうね。まあいいわ」


 フォーは突き放すようにネクタイを離すと、踵を返してさっさと廊下を歩いて行ってしまった。


「先に部屋へ行ってるわ。ホール出てすぐのところに荷物検査のスタッフがいるから、その馬鹿の隠し持ってるの預けてから来なさい。追い出されても知らないわよ」


 そう、振り返らずにひらひらと手を振って。


「あと、そんなに大人ぶるなら、大事な女がよろめいたらすぐ支えるぐらいの甲斐性をみせることね、ぼくちゃん」


 フォーは颯爽と立ち去った。


 そんな彼女を見送って、ハウンドが気遣わしげに寄ってくる。


「ニコ――」


「いや……今のは俺が悪い」


 ニコラスは右手を額に当て、顎先までつるりと撫でて、左腕を差し出した。


「気付けなくて悪かった。行こう」


 ハウンドがおずおずと腕に手を通すのを確認して、ゆっくりと歩き出す。

 先ほどより心持ち体重を預けてくる彼女に、フォーの言ったことが正しかったことを痛感する。


「チコの店で歩いた時は大丈夫だったんだけど」


「毛足が長いからな、ここの絨毯」


「脱ぎたい」


「……抱えるか?」


「いや、もうちょっと我慢する」


 いつにも増してハウンドの口調が早い。歩く合間も、チラチラと何か言いたげにこちらを見上げていた。


 これ以上気を遣わせるのも申し訳ないので、ニコラスは自分から話すことにした。


「フォーと、俺の母親を重ねちまったのは事実だ。あの人も背が高くて金髪で、いつもピリピリしてて不機嫌そうだった。ただ俺の母親は……夜職が壊滅的に向かなかった。夢が叶わなくてそれでも諦めきれなくて、よりによって自分が一番向かない職業を選んだ。だから壊れた。それをふと、思い出したんだ」


 ハウンドはじっとこちらを見つめていた。腕に添えられた指に力がこもった。


「これは、俺自身が向き合って解決すべきことだ。だからいい。大丈夫だ」


「……そっか」


 荷物検査場に着き、検査員の目の前で弾倉を抜いて薬室が空なことを見せる。

 そして二挺の自動拳銃――M9A1とトーラスPT92と、予備の弾倉四つを預けて、フォーに言われた客間を目指す。


「ニコは」


 再び腕を組んで、十数歩ぐらい歩いたところで、不意にハウンドが口を開いた。


「お母さんのこと、どう思ってる?」


「嫌いだ」


 ニコラスは即答した。


「今でも憎いと思ってる。俺にしてきたことも、許す気はない。だが、それ以上に憐れな人だったとも思ってる。今はな」


「そう」


 それきりハウンドは黙りこくった。


 俯いたその視線の先に、何を見ているのか。ニコラスには何となく分かっていた。

 だから彼女の思考を邪魔しないよう、沈黙を守った。








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次の投稿日は3月1日(金)です。

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