10-1

 いつの間にか冷えてしまった指先に気付いて、ニコラスは書類をめくる手を止めた。


 保温目的で被っていたパーカーの中に手を突っ込んで、首筋の熱で指先を温める。


 吐く息が微かに白んだ。もうすぐ三月といえど、春の到来はまだ先だ。

 オンボロ空調ではまかない切れず、薪ストーブで廃材を燃やしてようやくこの室温だ。毛布でも被っておくか。


 そんなクソ冷える居間の、カーペット上に直に座りこんだニコラスの背後。


 いつも寝床にしている革張りソファーの上で、わざわざストーブで温めておいた寝室から抜け出してきた夜更かしっ子が一人いた。


「お。ニコ、ニコ、これなんかどうよ? ボルテックスのスコープ! フラグシップモデルで最新のやつ特集やってんぞ。ストライクイーグルのもいいな。レティクルデザインが刷新されてる。価格も手頃だし、これなら今月の予算範囲内に収まりそうだな~」


 寝そべって足をバタバタさせながら雑誌をめくるハウンドに、ニコラスは溜息まじりに振り返る。


「ハウンド、今日の仕事はもう終わりつったろ。なんでまだしてるんだ」


「仕事じゃなくて、趣味だよこれは。番犬の装備をそろえるのは飼い主の務めだもん」


「こないだM24SWSの新品買ったばっかだろ。それもアップグレード型。これ以上はいいって、きりがねえ。それにそのスコープ、最低でも三千ドルするやつだろ。特区で買ったら三万ドルだ。どう考えても予算オーバーだよ」


 特区を統べる五大マフィア各一家が締結した五芒星条約において、特区での武器購入は厳しく制限されている。


 早い話、通常の市場価格の八倍から十倍の値段で銃火器が取引されているのだ。


 これには下克上防止という側面もあるが、一番は国に目をつけられないためである。


 建前上は特別経済自治区の特区では、法や規約を一切無視した開発・研究が可能となっている。

 国内企業にとっては無制限に利益を追求できる花園であり、国へ還元される収益も莫大なものとなる。


 ゆえに国は、五大マフィアの横暴をそれなりに黙認してきた。


 だが特区が本当の意味でコントロール不能の無法地帯となってしまえば、国とて放置できなくなってくる。


 そこで五大はまず銃火器市場を完全な管理下におき、一応の治安維持はやっているという建前を取ったのである。

 麻薬も同様だ。シバルバは例外であったが。

(余談だが、特区設立当初からヴァレーリ・ロバーチ一家とシバルバ一家の仲が険悪だったのも、この麻薬市場の規制を巡って揉めたからであり、両家がハウンドと真っ先に同盟を締結したのも、シバルバへの敵対勢力を用意したかったという一面がある)


 というわけで、特区で武器を買おうとすると、非常に高くつく。


 ヴァレーリ・ロバーチ両家と同盟を組んでいる27番地はまだマシな方だが、それでも二、三倍は軽くする。


「みんなAKで我慢してるところに、俺ばっか優遇してもらうわけにはいかねえよ。気持ちは嬉しいが、部隊全体ならまだしも狙撃手一人を強化したってたかが知れてる。それなら迫撃砲とかRPGとか、火力面に金をかけた方がいい。あとお前、ちゃんと休めってば。みっちり六時間働いて店番もやって訓練もやって、なんでまだ働こうとするんだ。オーバーワークだぞ」


「私がこの程度でへばるわけないでしょ、いつもの半分しか働いてないし。暇なんだよ~」


 ああ、そりゃ暇だろう。


 ニコラスは体力オバケな彼女への呆れと、自身への情けなさに苦虫を噛み潰した。


 今回のハウンドの本格的な療養で明らかになったが、彼女の日常は想像をはるかに超えて多忙だった。


 昼は店番、住民の訓練、統治者としての事務業務をこなし、夜は外交、五大マフィアからの依頼、さらに月三回は三泊以上の出張依頼だ。

 睡眠は合間あいまの仮眠を日に一、二回。


 若さゆえきいた無茶とはいえ、よくもまあ今まで倒れなかったものである。


――しかも、俺の面倒までみて。


 特区へ来たばかりの頃、戦傷後遺症の影響で寝つけず夜中に起きると、必ずハウンドは起きていた。

 事務作業は夜にやった方が捗るんだと笑いながら、パソコンや書類片手に自分が眠くなるまで雑談をしてくれた。


 そんな彼女に安心して、俺は暢気にグースカ寝こけていたわけだ。激務をこなす彼女の真横で。

 不甲斐ないったらありゃしない。


「頼むから寝てくれって。情けない話だが、お前に倒れられると一番困るんだ。ほら、寝室ならもう温めてあるからさ」


 本当は仕事なんて一切やらずに休んでいてほしい。


 けれど外交面、特に五大マフィア相手の交渉事になると、ハウンドがいないと相手にされず話にならないケースが多い。

 はっきりいってニコラスや商業組合、統治者代理人の店長だけでは、運営が滞ってしまうのだ。


 ゆえに仕方なく療養中のハウンドに手を貸してもらっているのだが、当の本人がなかなか休もうとしないのでニコラスたちは手を焼いていた。


 なんとか寝室へ誘導しようとするが、ハウンドはあれこれ言い訳して頑として動かない。


 それどころか次第にしゅんと眉尻を下げてしまった。


「統治者のくせに、自分の都合で二度も職務放棄したのは悪かったよ。信用なくすのも、仕事任されなくなるのも分かってる。けど私、まだちゃんとやれるから。もう自分の責任から逃げたりしないからさ」


――そうじゃない。そもそもお前、自分だけのために動いた試し、一度もないじゃないか。


 懇願するような声音で訴える彼女に、ニコラスは頭を抱えたくなる。


 何より、要らないなんて言わないでくれと泣きながら縋ってきた、幼い頃の彼女の姿と重なって、ニコラスは鳩尾下がキリキリ痛んだ。


「違う。そうじゃない」と取り繕いながら、ニコラスは二週間前にアンドレイ医師とやり取りしたことを思い返す。




「軍曹、分かっているとは思うが、小娘から仕事をすべて奪うんじゃないぞ」


「え?」


 義足の点検と定期検診を終えて、唐突に投下された発言に、ニコラスは思わず動きを止め振り返った。


「図星だったか」


「いや。少しの期間休んでもらうだけですよ。仕事は元気になってから……」


「それがいかんと言っている。軍曹、君はこの街に来たばかりの頃、どんな状態だった?」


 ニコラスは視線を泳がせた。その沈黙を待たず、疑問を呈した主によって答え合わせが即座になされる。


「不眠によるストレスから寝酒と睡眠薬の過剰摂取が習慣化していたな。そのせいで幻覚や幻聴を見てパニックになったこともあっただろう。部屋の中だとそれが酷くなるから屋上で寝たがったこともあったな。吐いて寝室のシーツを台無しにしたり、ああ、それから。注意してくるハウンドに苛立って、暴力を振るおうとして秒で制圧されたことも――」


「あの、あの、先生。そのくらいで。あの時は本当に悪かったと思ってますから」


 黒歴史を次々に暴かれて、ニコラスは早々に白旗を上げた。


 穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。あの頃は本当に酷かった。

 ハウンドもよく自分を見捨てなかったものである。


「落ち着きたまえ。君を責めたいわけじゃない。だがそんな状態の君にも、ハウンドは仕事を任せていただろう。時に容赦なく、だ」


 アンドレイに指摘されて、そう言えばと過去を振り返る。


 確かに彼女は、自分が幻覚や幻聴を見ようが、吐こうが、不眠のあまりぶっ倒れようが、必ず任せた仕事は最後までやり遂げさせた。


 当時はその姿勢が大変きつかったが、同時に大変ありがたかったのを覚えている。


 こんな駄目な自分でもまだ見捨てられていない、まだ見限られていないのだと安心できた。


 だからニコラスも必死になったし、こちらがどんな状態だろうと仕事は減らないので、自発的に酒もオーバードーズもやらなくなった。

 何より働いたぶん感謝してくれて、報酬もきちんと貰えるのが嬉しかった。


「あれは住民との信頼関係を早急に築いて、君を支える環境を整えるためでもあったが、第一の目的は君に余計なことを考えさせないためだ」


「余計なこと?」


「人というのはな、何もしない時間を設けてしまうと、無用なことを考えてしまう人間なんだ。どうにもならないこと、どうしようもなかったことを、ああすればよかった、こうすればよかったと、いつまでも苦悩してしまう。心当たりがあるだろう?」


 ある。痛いほど、よく分かる。


 押し黙るこちらに、アンドレイはようやく笑った。いつもの毒舌を振りまくシニカルな笑みではなく、頑固な患者を説得する時に浮かべる柔らかな笑みだった。


「多忙が人を救うこともあるということさ。一概には言えないがね。だがハウンドはこれまで、死ぬためだけに生きてきた。彼女は今、いわば生きる指針を失った、宙ぶらりんの状態なのだよ。そんな彼女に暇を与えすぎるのは、得策とは思えない」


 それにこれは我々のせいでもあるからな、とアンドレイは嘆息した。


「彼女に頼り過ぎたんだ、我々は。彼女は統治者として、あらゆることを完璧にできすぎた。イーリスの警告が今になって身に染みるよ。まだ15でしかなかった少女に統治の全権を任せるなど、どう考えても正気ではない。……そう誰もが思っていながら、それでもハウンドは我々の期待にほぼ完璧に応えてしまった。それに我々が甘えてしまったんだ」


 珍しく打ちのめされたように背を丸めて呟くアンドレイの横顔が、やけに頭に残っていた。




――どうしたらいいか分からないんだろうな、今のハウンドは。


 ソファーに腰掛けるハウンドの前に跪き、ニコラスは彼女としっかり目を合わせながら、一字一句しっかりと、ゆっくりと言葉を伝えた。


「怒ってもないし、用済みとも思ってない。むしろ必要だから休んでほしいんだ。言っただろう、お前が倒れると一番困るんだって」


 俯いていたハウンドは、ちらと上目がちに目を合わせると「うん」と視線をすぐ足元に戻す。

 そのあどけない仕草に、やっぱりまだまだ子供なんだなと思いながら、ニコラスはできるだけ優しい声で語りかけた。


「俺も店長もみんなも、お前に背負わせ過ぎたと反省してるんだ。だからこうして、皆で分担して頑張ってる」


「うん」


「これからは俺たちも頑張るからさ。お前も、俺たちに力を貸してほしい」


「……うん。分かった」


「助かる。……さあ、もう休め。疲れたろ」


「まだ疲れてない」


「横になって目を閉じてるだけでいい。そんな状態でも疲労回復にはなる、だろ?」


 自分が眠れなかった時にハウンドからよく言われたお決まりの台詞を伝えると、ハウンドは決まり悪げに唇を尖らせて背を向け、毛布に包まるとソファーに横になった。


 毛布の端のもこもこした部分をいじりながら、独り言つように彼女が呟く。


「ねえ、なんか話してよ」


 そう言われて、ニコラスは返答に窮した。

 この手の雑談は一番苦手とするところだ。何を話していいか分からない。


 困って周囲に視線を投げ、ふと一冊に目を留めて口を開く。


「日誌でも読み上げてやろうか? お前の名付け親の先生? が、書いてたってやつ」


 ケータが翻訳してくれた限りだと、ハウンドと育て親のカーフィラ――ゴルグ・サナイ氏の日常が記されていた。


 我ながら良いアイデアと思ったのだが、けれどハウンドは不機嫌そうに声を低めた。


「要らない。それ読み聞かせられるなら、何もない方がマシ」


 唸るような口調で、ハウンドは毛布で頭ごと覆った。

 何も見たくない、何も聞きたくないと言わんばかりに。


「人にこんなもん背負わせといて、置いていった人の話なんて知りたくない」


 正論である。

 どうやら地雷を踏んでしまったらしい。


 ニコラスは内心慌てふためきながら、この状況をどう打破するか必死に考えた。


 沈黙が痛い。何か話さねばと思えば思うほど、思考が滑っていく。

 弾道計算なら瞬時に答えが出せるのに、こういう答えのない問いを考えるのはすこぶる苦手だった。


 そんなこちらの焦りを察したのだろう。ハウンドが毛布から顔を出した。


「ねえ、やっぱ寝るくなるまで仕事手伝っていい? あと一時間でいいからさ」


 やはりそうきたか。


 ニコラスは想像の三倍は濃いコーヒーを飲んだ時のように口をひん曲げて、しかし結局了承することにした。


 嫌な会話で締めくくった状態で寝かせるのも、気分が悪いだろうと判断したのだ。

 元はといえば自分の気の利かなさが招いた事態だ。


「分かった。じゃあ手伝ってくれ」


「本当!?」


 ガバリと毛布を跳ね飛ばして目を輝かせる彼女に対し、ニコラスは任せる書類の選定をしながら「ああ」と頷く。


「ただし、一つだけだぞ」


 一瞬の間を置いて。


「なぁんで一つだけなんだよぉおおお!」


 と、ハウンドはソファー上に転がって盛大に手足をばたつかせた。そのばたつかせた足でこちらの背を蹴ってくる。


「きりがないからに決まってんだろ。あと背中をぽこぽこ蹴るな。地味に痛い」


 駄々っ子まっしぐらの様相に呆れながらそう言うと、ハウンドはうぬぬと唸った。


「んじゃせめて五つにしよ? 三つでもいいよ」


「駄目だ」


「なんでだよぉおおお!」


 今度は背後からパーカーの紐を引っ張ってきた。

 こちらの視界を遮って妨害し、仕事を奪ってやろうという魂胆なのだろうか。


 あいにく右目だけは見えているので全く問題ない。


「駄目なもんは駄目だ。良い子はとっくにもう寝る時間なんだよ。大人しく一つだけ片付けてとっとと寝ろ」


 一つ目状態で背を向けたままそう言うと、ハウンドはぐぬぬと唸った。

 意外と唸り声のレパートリーの多い彼女である。


 するとしばらくして、「かくなる上は……」と不穏な呟きが聞こえた。


 何をする気だと振り返ろうとしたその瞬間、突然背中をめくられる。


「ちょ、おいコラっ」


 冷気に晒された背にすかさず何かが突っ込まれる。それがハウンドの頭だと気付いて、ニコラスは狼狽した。


「馬鹿っ、服の中に入ってくんな!」


「仕事寄こせ~、仕事寄こせ~」


「ワーカーホリックが死因のゾンビかお前はっ。つか、なんで恨み全開なんだよ、そこは普通感謝だろ……!?」


 身体を捻じりながら引き剥がそうとするが、ハウンドはどこぞの顔に張り付いてくるエイリアンよろしく、両手両足をこちらに巻きつけてぴっとり背中にしがみついている。


 しかもその状態でぐりぐり頭を押し付けてきた。直の肌に。


 柔らかな髪が素肌をくすぐってきてこそばゆい。なんか良い匂いがするし、温かいし、零れた吐息が背骨を伝って――待て待て待て! 駄目だこれは、なんか駄目……!


 大慌てで引き剥がしにかかるが、巻き付いた手足は頑として離れない。こんの馬鹿力。


「だああもうっ、分かった! 仕事一つにプラスで相談に乗ってくれ、それでいいか!?」


「相談?」


 途端に手足がすっと離れ、ぼさぼさ頭になったハウンドが、肩越しにひょっこり顔を出す。


 正直それどころではないニコラスは、懸命に平静を装いながら適当に相槌をうって、急上昇した心拍数を深呼吸で落ち着かせた。


「A-2区画在住のアッシュが担当していた案件だ。運送トラックの消耗パーツ調達の件で少し揉めてるんだと」


「あれ? アッシュのやつって、ヴァレーリ一家との関税条約更新の件だよな? ブレーキとエンジンオイルの関税率のみ上昇で、他は現状維持で話まとまってなかったっけ」


「それが担当者が交代したからとかなんとかで、これまでの交渉ぜんぶ白紙に戻してきやがったんだよ。しかも全パーツの関税率上昇に同意しろと迫ってる」


「控えめに言ってクソだな」


「ああ、クソだ。ついでに言うと、トラックの武装化パーツも押し売りしてきてるらしい。トヨタ製以外は武装化しないっつっても聞かないんだと。アッシュも弱り果ててる」


「ん~、ヴァレーリには前回のアッパー半島の件でだいぶ譲歩したからな~。舐めてきやがったな」


 「私が出向いてもいいが」とハウンドはそこで言葉を切り、数秒思案したのちパチリと綺麗に指を鳴らした。


「よし、ターチィとこの卸業者にコンタクト取ろう。んでヴァレーリ一家と競合させよう」


「そんなことして大丈夫なのか?」


「やり方次第だね。要は、面子を潰したのがうちでなけりゃいいのよ」


 したり顔で膝に頬杖をつく彼女の表情には、先ほどのあどけなさは微塵もなく、いつもの不敵不遜な余裕に満ちた笑みだった。


「まずターチィ領に噂を流すんだ。三等区の適当なバーにでも入って、酒煽りながら愚痴ってりゃいい。そうすれば話しかけてくる奴が必ずいる。そういう奴は基本こちらの話に乗って一儲けしてやろうって魂胆の連中だ。中には情報屋もいて、小遣い稼ぎに各業界の業者へ定期的に情報流してたりすんのよ」


「なんかうちの輸送班がやってることと同じだな」


「彼らの貴重なチップ源だからね。話を戻すけど、そういう自然な感じで噂を流して、ターチィ領の卸売業者にこっちの状況をそれとなく伝達すんのよ。んで噂が充分回ったところで、うちの商業組合メンバーの一人を輸送班の日常業務に紛れさせて、さりげな~くターチィに派遣する。

 以前からターチィは27番地と商売をしたがっててさ、ヴァレーリとロバーチがうちの市場独占してんのをよく思ってない。私はもちろん、クロードもよく捕まってその手の話もちかけられるっぽいからね。組合長がマークされてんなら、同じ組合メンバーもマークされてるとみていいだろう。気付かなければ、会話からそれとなく素性を明かせばいい。そうすれば向こう側から必ず食いついてくる」


 ニコラスは感心した。彼女が店番の際、住民と雑談ばかりしているのは決してサボりではないという証左だろう。


 あれは、住民からリアルタイム情報を聞き取って把握するためなのだ。


「んでターチィ領での工作と同時並行で、トラック消耗パーツをターチィ領業者で代替した場合の売上予測を会計班に依頼する」


「売上予測を?」


「ヴァレーリ一家の本質は企業だからね。構成員全員がビジネスマンなのさ。金を一番効率よく稼いだ奴が正義、できない無能は悪だ。

 27番地はヴァレーリ一家への流通の五割を担ってる。そのぶんヴァレーリは関税で儲けてるわけよ。だから、トラック消耗パーツでせこい稼ぎ方をして流通滞らせるより、ターチィ領で安く消耗パーツ確保して流通を維持した方が全体の利益は上がることを、データとして可視化してヴァレーリに示せばいい。もちろんそのクソ担当者より上の階級の構成員にな。幹部でもいい。

 そうやって根回しを完了してから、改めて担当者に交渉を持ち込む。そうすりゃクソ担当者が勝手に条件戻してくるよ。このまま話が進めば、ヴァレーリの面子に泥を塗るのはそのクソ担当者だからな。なんならその弱みをついて、関税下げ交渉に打って出てもいい」


 そこまで言い切って、ハウンドは「おお」と手を打った。


「トラック武装化で思い出した。ターチィが以前勧めてきたのに、面白いのが一つあったな。その発注を口実に、ヴァレーリの一件をそれとなく相談するのもありか……。よし、ターチィ交渉の担当人選は私がしよう。まず――」


 そのまま候補者を見繕い始めたハウンドの手腕に、ニコラスは舌を巻いた。


 やはり彼女は、優秀な統治者なのだ。こちらの要望をすべて叶えてしまうぐらいに。


 アンドレイ医師のぼやきが今になってつくづく身に染みる。何よりハウンドが生き生きと目を輝かせているのが嬉しい反面、胸が痛かった。


 とはいえ、案ずるあまりぼけっと手を止めるのも間抜けだ。

 適当な用紙の裏側にメモを走らせ、彼女が言う通りに即席の人選名簿を作成することに専念する。


「ターチィといえば」


 視線を上げると、ハウンドは俯きがちに毛布の毛並みを逆立てては撫でるを繰り返していた。


「確証のある情報じゃないんだが」


 珍しく歯切れが悪い。


 ニコラスはペンを置き、沈黙を維持した。食いつくのはまだ早いと思ったのだ。


 ハウンドは左右に動かしていた手を止め、毛布を摘まむようにフニフニと撫で始めた。

 しばらくそうやって撫で続けて、不意に毛布から手を離す。


「『双頭の雄鹿』の“銘あり”がターチィに潜伏してるんじゃないかって報告が出てる」


「本当か」


 ニコラスは口調に熱がこもるのを堪え切れなかった。


 米国諜報機関、合衆国安全保障局USSAを実質的に支配する組織『双頭の雄鹿』。


 『失われたリスト』を巡ってハウンドを執拗に追い回していた連中は、彼女のうなじに埋め込まれた生体チップを破壊し、リスト抹消に成功した。


 けれどまだ生き証人であるハウンドが残っている。


「私がまだ生きてるからね。この程度で連中が満足するはずがないとは思ってはいたけど。……けど本当に“銘あり”かどうかも、正体も分かってないんだ。だから詳しいことは言えない。……ただ、セルゲイが知ってる奴みたいでさ」


「ナズドラチェンコがか?」


 元ロシア連邦保安庁FSB所属のロバーチ一家幹部の名に、ニコラスは驚かなかった。


 諸事情により現在27番地に居候中の奴だが、時おり奴とハウンドがカウンター席で小声でやり取りしているのを見ている。

 何より性格はともかく、奴の情報収集能力は確かなものだ。


「ああ。色々と情報が錯綜している人物でな。業界での通り名は『レイヴン』、ワタリガラスの名を持つ女工作員だ。元KGBの職員ともいわれているし、米国の二重スパイだったって話も、フリーの諜報員だったって話もある。ともかく冷戦末期に、アメリカ・ロシア双方で暗躍した人物らしい」


「そいつが、どうして『双頭の雄鹿』の“銘あり”だと? 何の証拠もないわけだろ」


「うん。だからその辺りはセルゲイの憶測も入ってる。ただその女は妙なこだわりがあってさ。工作員ってのは潜伏先によって名前を変えたりするだろ? けどその女は必ずロンドン塔で飼われているカラスの名を使うらしい」


「ロンドン塔のカラス?」


「ロンドン塔に住むついたカラスがいなくなると、国が滅亡するって迷信があるんだよ。その十七世紀からの迷信を、イギリスは伝統文化として継承してる。で、本当にロンドン塔の衛兵がワタリガラスを飼ってるんだよ。一羽一羽に名前をつけて、六羽以下にならないようにね。

 でだ、シバルバの騒動の時、『クロム・クルアハ』を含めた『双頭の雄鹿』がシバルバに潜伏してたのは覚えてるよね?」


「ああ」


 肉切り包丁を嬉々として振り回す頭のネジが飛んだ少年を思い出し、ニコラスは全身の産毛を無意識に逆立てた。


「その『双頭の雄鹿』メンバーと思しき人物を、ロバーチは可能な限り特定してずっとマークしてたらしい。メンバーとやり取りしてる関係者も含めてね。で、その関係者の中に、ターチィ領とシバルバ領を頻繁に出入りしてた情報屋がいたらしい。

 そいつが請け負った仕事の中に、そいつを含めて複数の情報屋を雇ったターチィ領の高級娼婦がいたそうだ。その娼婦が――」


「カラスの名前を使っていた、と」


「『メリーナ』っていう死んだカラスの名前だけどね。けどセルゲイはそれでピンときたらしい。だからってどうこうするわけでもないんだけど」


「何かを企んでいるかもしれない、と?」


 そう繋ぐと、ハウンドはコクリと頷いた。


「私は……まだコールマン軍曹たちのことを諦めたくない。せめて彼らがゆっくり眠れる墓をつくってやりたい。『失われたリスト』の公開とか、USSAの悪事を暴くとか、そっちはどうでもいいんだ。ただ彼らを還してやりたい。大事にしてもらったから」


 またも毛布を撫で始めたハウンドの横顔を、ニコラスはじっと見つめた。


「一つ、店長や組合と話してた案がある。軍を味方につけてみないか?」


「米軍を?」


「ああ。俺が現役の時からそうだったが、USSAの増長ぶりを危惧する声は少なからずあった。彼らに話してみないか? 俺としても、陸軍とはいえ同じ国の兵士がそんな仕打ちをされたって聞いて、黙っていたくはない。事情を聞けば、俺と同じ思いになる奴は多いはずだ」


「けど当時の私の所属はUSSAの現地工作員だぞ? しかも育て親は元タリバンだ。信用されるとは思えない。それに……私がラルフを利用しなければ、彼も他の皆も、死なずに済んだんだ。軍が憎むとしたら、USSAじゃなくて私の方だよ」


 けどお前は当時まだ子供だっただろう。十歳にも満たないガキに何ができるっていうんだ。


 そんな言葉が飛び出しかけたが、ニコラスは飲みこんだ。

 子供だったから仕方がないという言い訳は、彼女が一番使いたくないだろうと思った。


「そもそも軍を動かしたとして、その先に待つのは軍とUSSAの全面対決だろ。クーデターにでもなったらどうするんだ」


「やってみなきゃわからないことだってある。それに、このまま俺たちだけで抱え込んだって、どうにもならないだろ。ただでさえ証拠がほとんどないんだ」


「そうだけど、」


 ハウンドが再び口を開きかけた瞬間、チャイムが鳴った。


 モニターに映っているのは、少年団リーダーのルカだ。ハウンドの名を呼んでいる。


 ハウンドはぼさぼさになった髪をさらに掻き混ぜて、「ともかく」と立ち上がった。


「もう少し考える時間がほしい。……ニコたちが一生懸命考えてくれてるってのは分かってる。けど今は、目の前のもんを守るだけで精いっぱいなんだ。特区だっていつまで持つか分からないし」


 顔を背けたまま今を出ていくハウンドを見送って、ニコラスは額から顎先へ顔を撫でた。


 性急にやり過ぎた。

 アンドレイから忠告されたばかりだというのに、いっぱいいっぱいの彼女に負担をかけてしまった。


――育て親のことでも、悩んでたっぽいしな……。


 視線を回して、本棚に収めた二冊の手帳に目をやる。


 手帳から中途半端にはみ出す翻訳文の束の高さはそのままだ。ハウンドは一切手を付けていない証拠だった。


 ゴルグ・サナイ氏は自分の母親と比べればずっとまともな人物だ。だがそれはニコラスの感想だ。


 今となってはもう分からずじまいだが、まだ幼かったハウンドに、『失われたリスト』などという重荷を背負わせたのも事実だ。

 それに巻き込まれた彼女が反感を抱くのは当然だろう。


 というか自分、さっきから余計な真似ばっかしてないか?

 気を利かせるのが苦手な奴が気を利かせようとするからだろうか。


 罪悪感と自己嫌悪で悶々としていると、ハウンドが戻ってきた。

 ただし一人で、どこか怪訝そうな様子で顔を出す。


「ニコ、お客さんだよ。ニコ個人への依頼だって」


「俺に?」


 代行屋への依頼なら、ハウンドが完全に回復するまで断っていたはずだが。


「なんかニコの友達だって言ってるけど……ニコ、27番地以外で知り合い、いる?」


 ますます状況が飲みこめない。軍を辞めた今の俺に、友人と呼んでくれる人などいただろうか。


 自分の考えに虚しくなって、思考をいったん中断する。

 何はともあれ、まずは会えばいいことだ。


 ニコラスはハウンドと共に一階のカフェに降り、その自称友人の依頼人の顔を拝みにいった。


 そして見るなり理解した。


 以前ミチピシ領へ出張依頼で出向いた際、ハウンドは彼と通話したことはあったが、出会ったことはまだなかったのだ。


「イヤド!」


「や、お兄サン。お久しぶりネ」


 片手を上げたイラク人の青年は、懐かしげに目を細めた。











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次の投稿日は1月26日(金)です。

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