プロローグ

〈西暦2013年11月29日午後7時3分 アメリカ合衆国ミシガン州 州都ランシング〉


 バートンはあと6年で還暦を迎える立派な中年である。


 陸軍狙撃学校の教官を引退してからの私生活は実に質素なもので、外出先と言えば、親戚が運営する私営射撃場、近所のスーパーマーケット、20代の頃からずっと通っているジム。その程度だ。


 間違ってもこんな店に来たりはしない。


「いらっしゃいませぇ、『ベル・ザ・プッシーキャット』にようこそ!」


 猫なで声半歩手前の甘ったるい声に目を向ければ、下着が見えそうなほどきわどいホットパンツにタンクトップのウェイトレスが、10代後半の若いカップルを出迎えている。


 少年に毛が生えたような青年はグラマーな店員にしどろもどろだ。

 顔を真っ赤に染め上げ、明らかに乗り気ではないガールフレンドの肩を抱いて店内へと入っていく。


 今夜のディナーのチョイスは確実に彼だろう。

 冒険心にかられたか、はたまた彼女の嫉妬顔を見たいという好奇心か。


 いずれにせよ、あのカップルは長くはあるまい。


 そう判断したバートンは、この店の中で唯一の目のやり場であるテレビを見上げた。


 俗にいうフーターズ系と呼ばれるこのカジュアルレストランは、近ごろ興隆を極めるフェミニスト運動やセクハラ訴訟ですっかり廃れてしまった。

 しかし、特区が設立されて以降、こうした性に寛容な店がデトロイト近郊 (元、というべきだが)でちらほら挽回しつつある。


 実際この店があるのは、ミシガン州会議事堂に通ずるイースト・ミシガン大通りから一本裏手に入った通りだ。

 これが他の州なら、いくら裏通りとはいえ、州都のど真ん中にこんな風俗紛いの店が出店するなどありえない。特区さまさまである。


 店内の若者が歯牙にもかけない州知事選の報道を眺めていると、一人の店員がテーブルにやってきた。


「ご注文は?」


 するりとバートンの視界を遮った店員は、テーブルに両肘をついて小首を傾げる。

 前屈みで谷間が丸見えだがわざとである。


 飲食だけでなく性的なサービスも提供するこの手のウェイトレスは、時おりこうして新規客を漁りにやってくる。

 上手くいけば常連になって、高額のチップを毎度落としくれるし、それこそが彼女らの収入源だからだ。


 バートンは困って愛想笑いを浮かべた。


「ありがとう。だがまだ相方が来てなくてね。注文はその時でいいだろうか?」

「それまであなたを飲まず食わずで待つあなたを黙って見てろって? 生憎うちはそんな薄情な店じゃないわ」


 そう言って初回限定サービスを説明し始めた店員は、さりげなく足を組み替えて腰をくねらせてみせる。かなり手慣れた店員だ。

 その蠱惑的な笑みからは「お前もこういうのが好きだろう?」という挑発が読み取れる。


 バートンは店員の傲慢な気高い美しさに苦笑した。


「すまないね、古い友人を待ってるんだ。彼とは若い頃ここによく来た仲でね。せっかくだから一緒に注文したいんだ」

「あら、そうだったの。じゃあ来たら呼んでちょうだいね。私はキャサリン、キャシーでいいわ」

「ありがとう、キャサリン」

「もう……」


 店員はお堅いわねと言いつつも、好奇に瞳を煌めかせながら身軽に去っていった。バートンは小さく深く嘆息した。


 やれやれ。若さとはいいものだ。

 自分のような年寄りのエネルギーを根こそぎ奪い取って我がものにしてしまう。


 手持ち無沙汰に懐の煙草へ手を伸ばした瞬間、動きを止める。背後から肩を掴まれたのはその時だ。


「僕だよ。待たせたね」

「遅いぞ、クルテク」


 特区警官の濃紺制服からカジュアルスーツに着替えたクルテクは、ダウンジャケットを椅子の背もたれにかけながらニヤリと笑う。


「いや、君がこんな場所を選んでくるのは予想外でね。どんな顔して待ってるのか見物したくなったのさ」


 バートンは周囲から猛禽と例えられる目をじろっと向けた。


「先に来ていたのなら席ぐらい取っておいてくれないか。時間は無駄にしたくない」

「お、ということはまだ苦手だな? せっかく35年前、君の入隊日前夜に『バートンのチェリー卒業強行ツアー』をしてやったっていうのに」

「すまないキャシー、注文を頼んでいいか?」


 嫌な昔話を掘り返しはじめたクルテクに、バートンは先ほどの店員を呼んで対抗する。案の定、店員はすぐすっ飛んできてくれた。


 伸びた鼻下を隠そうともせずホクホク顔で注文する旧友に諦観しつつ、変わらない部分に安堵する。変化より現状維持を望むようになったのは、老いたせいだろうか。


 先払いのチップにご満悦顔で去っていく店員に手を振ったクルテクは、向き合うなり人を食ったような笑みを浮かべた。


「で、背後のお客さんは君の連れ?」

「ああ。連邦捜査局FBIが変装下手なのは知っていたが、合衆国安全保障局USSAもそうだとは思わなかったな」

 バートンはテーブル小脇のカトラリーからさりげなくナイフを手に取り、さっと背後を刃に映す。


 後方、テーブルを二つ挟んで、三人の男が食事をしている。ここ二週間、バートンをつけ回している三人組だ。いつもは交代で一人ずつ張り付いているのだが、今晩は勢ぞろいしている。


 誘い込むなら己の狩場へ。


 客層でもない体格のいい男が三人、慣れぬ店で気まずげに黙々と食事をしていれば、悪目立ちするのは当然だ。そしてそれこそが彼らの行動を大幅に制限する。

 地の利はこちらにある。


「そう言ってやるな。海外ならまだしも国内のUSSA局員の大半は情報部DDIだ。デスクワーク中心のホワイトカラーがジェイソン・ボーン (某スパイ映画の主人公)並みの隠密力を持ってるわけがないだろ。キャシーも気の毒に。あんな黙々と飯食うだけの客じゃ商売にならないよ」


 クルテクの発言に合わせてナイフを指先でくるりと回す。


 三人組を見つめるキャシーら店員は、愛想笑いを外さぬものの、眼差しだけは肉切り包丁の切っ先並に冷え冷えとしている。得も言われぬ寒気に襲われたバートンはさっさとナイフをカトラリーに戻した。


秘密作戦部DDO実務管理部DDAは?」

「DDAはまず来ない。奴らの仕事は工作員オペレーターの採用・訓練・統括と資金繰り、その他裏工作だ。今回なら本来DDOの出番だが……君相手じゃ無理だな」

「なぜ」

「軍関係者だからだよ。DDO工作員はUSSAが手塩をかけて育てた虎の子だ。顔バレすると後がめんどい。仮に工作員の手足である現地スパイを使っても、君相手じゃすぐ気づかれるし下手すりゃ捕縛される。なら、変装・追跡バレバレの局員をやって、君の行動を制限するのが一番無難だ」

特殊作戦グループSOGは?」

「寄こすと思うかい? 陸軍特殊部隊群グリーンベレーとも繋がりの深い君の元に。手のうちを明かしてくれるほど彼らは親切でも馬鹿でもないよ。USSAと軍は昔から犬猿の仲だからね。だからこそ、国防省ペンタゴンもUSSAを切り離したがっている。もともと国防省の主導で組織するはずだった諜報機関『国家安全保障局NSA』はUSSAに食われてしまったからね。結果、USSAが国家安全保障会議と国防省の両方に所属するという、諜報機関としては極めて異端な存在になっている。国防省ペンタゴンにしても、軍にしても、USSAには早いとこ独立機関になってほしいと願っているだろうよ。かつての中央情報局CIAのようにね」


 そう嘯(うそぶ)いたクルテクは肩をすくめた。その表情に一瞬影がよぎったのをバートンは見逃さなかったが、クルテクは会話の主導権を譲らなかった。


「で、それはともかく君、本当に今回の話を受けるのかい?」


 バートンは薄く笑った。こういう悠長でおおらかに見えて隙が無いところも昔から変わっていない。またも話を聞きそびれてしまった。


 そして即答する。


「受ける。それが私の最後の務めだ」

「じゃあの排除に賛同すると?」

「無論だ。テロリストとして排除されるぐらいなら、兵士として死なせてやりたい。引導とはそういうものだ」


 クルテクは黒ビールをあおりながら、へえ、と片眉を吊り上げた。

 それから泡の残る上唇を舌でぬぐって、詮索したがる双眸を隠すように瞬きする。


「そいつは意外な返答だな。てっきり、作戦を中止させる説得のために私を呼び出したのかと。君、彼とはそれなりに付き合いがあったんじゃないのかい?」

「だからこそだ」


 バートンは膝上に両手を組み、目を伏せる。クルテクは癖のある髪を掻き混ぜ、きまり悪げに尋ねた。


「私は資料で読み込んだ程度でしか知らないが……君が入隊を勧めたんだっけ?」

「ああ」


 バートンは、ニコラス・ウェッブという人物をよく知っている。

 クリスマスの晩、親戚の私営射撃場に潜り込んできた少年を。


 第一印象は、そう。

 空っぽ。


 当時、バートンは16歳とは思えぬその異様な雰囲気を空恐ろしく思った。彼のまとうソレは、バートンがまさに戦場で何度も見てきたものだった。


 戦争で、身の毛もよだつ暴虐と人の愚行の極みを目の当たりにした者。

 慟哭と瞋恚、逡巡と決断、そして訪れる幾度の絶望に疲れ切り、習慣となった諦観すら通り越して訪れる『無』の極致に至った、兵士が辿り着く成れの果て。


 そんな空気をまとった少年が、ニコラス・ウェッブだった。


 ひと目でわかった。

 コレはもう、“外”では生きられない、と。


「家出少年でな。母親と縁を切って実家を飛び出したそうだ。入隊希望者にはよくある話だ。もう会うこともないと思って送り出したが……その後、偵察狙撃手基礎訓練課程SSBCで再会してな」

「ああ、そういや君、その頃から海兵隊も見てたね」

「見てた、というより学びに行ったと言った方が正確だな」


 実をいうと、アメリカ軍で最初に狙撃手訓練課程を設立したのは海兵隊である。かの伝説的な狙撃手カルロス・ハスコックが海兵隊員であったのは偶然ではない。


 狙撃においては、海兵隊こそが最先端であった。


 実際、近年まで海軍特殊部隊ネイビーシールズの隊員が自前の訓練課程より海兵隊の訓練課程を勧められていたほどで、狙撃手育成教官として選出される人材も、元海兵隊員が少なくない。


 バートンは陸軍出身だが、海兵隊のSSBCには学ぶところが多く、軍人にとってSSBCの資格を習得し、あの『豚の歯ホッグズ・トゥース(HOG’s Tooth)』を賜ることは大変な栄誉だった。


 あの弾丸の首飾りは、狙撃手の誇りそのもの。

 そして、彼の誇りを授与する栄誉にたまわったのも、自分だった。


「補佐教官という役職上、積極的に関与することはなかったが……あれほど優秀な生徒を私は見たことがない。彼のカルロス・ハスコックと同スコアを叩きだしたのは、後にも先にもあの男だけだ」

「そんな優秀な兵士に単独任務を命じて潰したわけかい?」


 のんびりと容赦のない言葉に、苦笑もできず黙り込む。


「……すまない。言い過ぎた」

「いや。いいんだ。私が悪かったんだ」


 私が、あんな『夢』を見させてしまったから。


「……………………見越し射撃というものを知っているか?」


 メニュー表の冊子を開きながらバートンがそう尋ねると、クルテクは「単語の意味ぐらいは」と返した。


「たしか戦闘機の空中格闘戦ドッグファイトで用いられる射撃法だったな」

「ああ。敵の状態と能力を推算し、敵の未来位置を予測して撃つ。奴はそれが得意でな。いや――得意を通り越して異常だった。あの男は視えすぎるのだ」

「視えすぎる?」


 訝しむクルテクにバートンは頷く。

 そして開いたメニュー表をテーブルに立てかけた。さらに脇にあった調味料の小瓶もいくつか。


「このメニュー表を壁だと思え。メニュー表は私の手元を覆っている。君からは私の手元は見えない。これを標的がこう――」


 バートンは塩の小瓶を右から左へ真横にスライドさせた。


「横切ったとする。通常なら標的が一人で出てくる。だが実際の戦闘では、さっきまで一人だった標的が二人になったり、武器を変更したり、乗り物に乗ったりするわけだ」


 バートンは塩の小瓶をケチャップ瓶に乗せ、胡椒とマスタードを並べて調味料小隊をつくった。


 話がいまいち掴めていないクルテクは曖昧に首を捻った。


「まあ相手は往々にして自分の思い通りにはいかないものだからね。それで?」

「奴はこれを当てる」

「は?」

「一例を紹介しよう。イラク派兵時代、奴が観測手を務めている時、新しい相方の狙撃手にこう指示した。『今から2ブロック先の角を三人の男が曲がってくる。うち携行式対戦車砲RPGを担いだ護衛が右、左を標的、もう一人の護衛はその後ろをついてくる。まずは標的右のRPG男を撃て。接敵は12秒後。さあ、構えろ』とな。狙撃手は当然疑った。だが12秒後、本当に標的は護衛二人を連れて現れた。しかも、一人にRPGを担がせてだ」

「それは」


 クルテクは言い淀み、信じがたいと言わんばかりに口元を覆った。


「それは予測か、それとも勘頼みのまぐれ?」

「予測だとも」

「冗談だろ。それはもう予測じゃない、予知だ。RPGなんてどこから出てきた? 護衛の人数は、いやそもそも、なぜ標的がRPG男の隣にいると分かる?」

「分かるとも。これまで入手した情報を統合して分析すれば、そのぐらい分かる」

「分かるって……じゃあなんだ、彼は今まで見聞きした情報すべて覚えてるっていうのか?」

「その通りだ」


 クルテクの目と口があんぐり開いた。


「とてもではないが信じがたいな。ロボットじゃあるまいし」

「軍医がいうには、超記憶症候群ハイパーサイメシアに近いもののようだ。奴の場合、自分が視たものに限り一、二か月程度おぼえていられるらしい」

「短期間データを保存できるビデオカメラのようなものか」

「そうだ。奴は街を歩く通行人のうち、誰が何時にどこで仲間と落ち合っているか、誰の指示を聞いていたか。さらにその人物がどんな特徴や癖をもっていたかまで逐一覚えていた。民間人の中から敵と思しき人間を、独自にピックアップしてリスト化していたのだよ。頭の中でな。奴ははこの脳内リストと現場の状況・環境を加味し、標的がやってくるであろう場所で待ち構えることができた。あとは標的が現行犯になるのを確認して撃てばいい。究極の見越し射撃だよ」

「……君が彼に海兵隊入隊を勧めたのは失敗だったな。元分析官としては喉から手が出るほど欲しい人材だ。大した才能の持ち主だよ」

「才能なものか」


 バートンは顎を引きながら深く腕を組んだ。

 彼の教え子が抱えていた、あまりにおぞましい過去を、解き放つべきか迷うように。


「奴のあの眼は才能ではない。幼少期の頃から鍛え抜かれた結果の産物だ」

「というと?」

「奴が母親と縁を切ったという話はしたな」

「ああ。他人の親を悪く言うのは何だが、控えめに言ってもかなりアレな親だな」

「どこぞのとも知れん男を家に連れ込んだ挙句、その男どもの暇つぶしに我が子を差し出す母親は『アレ』程度の表現で済むか?」


 クルテクは絶句した。

 バートンは無理もないと思った。自分がウェッブから聞いた時も、同じ反応だった。


「……娼婦だったらしくてな。警察の目につかぬよう、自宅のアパートを仕事場にしていたようだ」

「…………路上売春はすぐ摘発されるからね。特にニューヨークはその手の取り締まりが厳しい」

「ああ。だから表向きはナイトクラブ・ダンサーの同伴と称して、自宅で堂々とコールガール紛いのことをやっていたそうだ。息子が隣室にいる状態で」

「最悪だな」

「もっと最悪なのは客の方だ。母親が相手をするまでの待ち時間、奴で遊んでいたそうだ。体のいいサンドバッグだよ。だから『眼』がよくなった。どの男がいつも何をしてくるか、右左のどっちが利き腕か、今日の機嫌は良いか悪いか。文字通り死ぬ気で観察して覚えたそうだ。抜群の観察眼と記憶力はその結果得られたものだ。才能だなんて生易しいものじゃない」


 クルテクは苦虫を百匹まとめて噛み潰した顔で閉口した。バートンも大いに同感だった。


 しかし、ニコラス・ウェッブが命懸けで習得した技術が、戦場で大いに役に立ったのも事実だ。


 イラク・アフガニスタンで最も米兵を苦しめたのは、誰が敵か分からないということだった。

 今朝笑顔で別れた通訳の民間人が、その日の番に過激派の民兵を率いて襲撃してくるなどという話は珍しくなく、これが女子供になると、もはや手のつけようがなかった。


 民間人と民兵を判別できるニコラス・ウェッブの神がかりな観察力と記憶力は、まさに米兵が渇望していたものだった。


「だが惜しいことに奴の情報には証拠がなかった。視たのは奴だけで、写真や映像媒体で残っていた訳ではない。なにより同部隊の狙撃手から猛反対を食らってな、結局彼のリストが使われることはなかった」

「はあ? なんで」


 声を荒げかけたクルテクは瞬時に口をつぐみ、笑顔を取り繕った。

 直後、合いの手を挟んでウェイトレスが注文の品を運んできたためである。


 バッファローウィングの大皿と、ハイボールの大ジョッキを両の細腕に掲げたウェイトレスは、こぼすことも音を立てることもなく料理をテーブルに滑り込ませた。

 隙あらば雑談をと抜け目ない愛想を構えたウェイトレスだが、こちらの緊迫した空気を察知するなり、当たり障りのない笑顔と挨拶に切り替えた。


 それをまた無難にあしらったクルテクは、店員を追い返すなり八つ当たり気味にウィングに齧り付いた。


「なんで狙撃手たちは反対なんかしたんだ。これ以上ない有益な情報じゃないか」

「こればっかりは狙撃手の特性だ。彼らは通常、自分の見たものしか信じない。引金を引くというのは、それだけ重責を伴う行為だ。奴の予知とも思える予測は、己で見たものしか信じない狙撃手にとって、非常に相性が悪いのだよ。奴を百パーセント信頼して、躊躇なく引金を引ける人物でない限り、奴の相棒は務まらない。言っただろう、あの男は視えすぎるのだ」

「それで『観測手泣かせの狙撃手』か」

「そして奴の呼称コードネームの由来でもある。あれは同部隊の狙撃手たちがつけたものでな。意味は」


 そんなに視えているなら、一人でやれ。


 かつて大神ゼウスの愛人を、眠ることなく一人見張り続けた異形の怪物――『百眼の巨人アルゴス』のように。


 あの二つ名は名誉でも称賛でもない。

 畏怖と猜疑をはらんだ誹謗だった。


「……彼の相棒はたしか、フレッド・モーガンだったか」

「そうだ。奴と同郷の親友だ。奴の予知を信じて撃つことができた唯一の男だった。精密射撃ではごく僅かな迷いや躊躇いが命取りになる。だから私は奴の単独任務を上へ進言した。奴は、常人には視えないものが視えすぎた。彼のトロイの王女カッサンドラのように、誰もあの男の予測を信じなかった」

「親友を除いて、か」

「ああ。奴があのティクリート撤退戦で生還できたのも、奴の能力によるところが大きい」


 だがしかし、世論はそうは思わなかった。


 バートンは組んだ両手に額を乗せ、項垂れた。ウィングの酸味を帯びた辛味の刺激臭がやけに鼻腔を刺激した。


 バートンとて、ウェッブ一人で戦場に放り出したわけではない。かつての部下であり、教え子でもあったオティラ上級曹長に、ウェッブのことを頼んだ。


 オティラはウェッブの単独任務にかなり難色を示したが、ウェッブを見守ることに関しては快諾した。

 新人小隊長の補佐に手を焼きつつも、ティクリートの一件で孤立しがちなウェッブの面倒をみてくれた。最後までウェッブの待遇改善を諦めなかった。


 二年前、オティラは即席爆弾IEDに吹き飛ばされて死んだ。

 そしてウェッブは、彼のために左脚を失った。


 絶命しているなど傍目に見て明らかだっただろうに、オティラを見捨てられなかった。彼が率いた小隊を最後まで守ろうとした。

 自身の負傷を理由にさっさと撤退していれば、左脚を切断することはなかった。


「…………左脚を切断した時点で、奴の退役は確定した。だから私は奴を教官としてスカウトすべく、軍病院に向かった」

「だが病室はもぬけの殻だった?」

「ああ。さもありなん話だ。通常の退役兵ですら再就職には苦労する。よくて警察か州軍、悪ければモールの販売員か、警備員か。下手すれば無職だ。奴の経歴では、堅気の職すら絶望的だったろう。だから、特区へ逃げ込んだ」 


 単独行動をさせなければ。

 オティラを捨てて撤退させていれば。

 もっと早く軍病院に迎えに行っていれば。


 ありもしない「もし」を巡って、後悔は尽きることがない。


 いくら何故と問うても、ニコラス・ウェッブが件のテロリストと接触した事実は覆らない。


『彼女』と接触してしまった以上、何もかもが手遅れだった。


 バートンはハイボールを一口あおった。空きっ腹に食堂と胃が焼けついたが、その熱が今は欲しかった。


 冷め切ったウィングをようやく手に取り、バートンは「そういうお前はどうなんだ」と尋ねた。任務前に確認だけしておきたかった。


 ハイボールのお代わりを注文していたクルテクは、きょとんと目を見開いた。


「何がだい?」

「今回の任務だ。奴の排除に反対なわりに、私に協力を仰ぐのだなと思っただけだ」

「そりゃあ君が一番彼のことを知ってるだろうからね。どうせなら手の内を知っている人間をと思ったまでだよ。それに彼はれっきとしたアメリカ人だ。自国民の保護と利権確保が私の仕事である以上、反対するのは当然だろう。ま、私みたいな隠居老人まで引っ張り出してくる上には頭が痛いけどね」

「では『彼女』は――」

「バートン」


 バートンは顔をあげて旧友を見据えた。

 視線を受けたクルテクは降参とばかりに両手を掲げ、気まずげに目を伏せた。


「もう終わった話だ。気の毒な子だったが、それだけだ。所詮は他国民だよ」

「それは『彼ら』にも?」


 途端、ばつが悪そうなクルテクの顔に、苛立ちと怒りが混じった。


「やけに今日は蒸し返すじゃないか。恨み言なら聞かないよ。どうしようもなかったんだ」

「知っている」


 そう言って、バートンは肉を剥ぎ取った後の骨を皿に投げ捨て、ハイボールで流し込んだ。痛恨も苦渋も何もかも飲み下すように。


「聞きたかったのはそれだけだ。これで心置きなく任務に集中できる。あと、は泳がせたままで大丈夫なのか?」

「ああ、彼なら大丈夫だよ。真面目で温厚、多少無茶を振っても耐えてくれるし、自罰的だから反抗の意志も低い。しかも家族思いだ。扱いやすくて助かるよ」

「薄情だな」

「今さら知ったのかい?」


 薄く微笑むクルテクに、バートンは低く喉を鳴らす。しばし無言で笑い合い、互いにジョッキを合わせて残りを一気に飲み下す。


「では私はこれで失礼する。色々と準備があるのでな」


 バートンは自分の料理代とチップを多めに弾んでジョッキ下に挟み、脇に上着を抱えた。踵を返そうとした時、クルテクが呼び止めた。


「バートン。君、本当に彼を殺れるのかい?」

「無論だ」


 バートンは夕飯をおごれるかと聞かれた時のように即答した。


「殺す気でいかねば、こちらがやられる」

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