5-10
オーハンゼーはニコラスの腕の中の鷲を見るなり、眉間のしわを深くした。
「ひとまず彼を放せ。我が一族の守護神を邪険に扱うならば許さぬぞ」
ニコラスは慌てて鷲を解放した。
作業着の袖を解くと、鷲は翼を広げて自力で脱出する。
金属ラックの上に降り立ち、「この無礼者め」とばかりに睥睨する様はまさに守護神と呼ばれるに相応しい風格だ。ニコラスが気まずげに目を逸らすと、鷲はふんと不遜に羽をしまった。
そんなこちらを歯牙にもかけず、オーハンゼーはアレサを見た。
「『テトン』、お主はここで待っておれ。儂はこやつと話をせねばならぬ」
「お爺ちゃん、私たちは――」
「アレサ・レディング」
アレサの両肩がびくりと跳ね上がった。叱られた子供のように縮こまる彼女をしばし見つめ、オーハンゼーは踵を返した。
ついてこい、ということだろう。
ニコラスは影の中に消えつつある背を追いながら、アレサに狙撃銃を手渡した。
「そいつをなだめてやってくれ。俺のせいでだいぶご機嫌な斜めみたいだから」
ニコラスは金属ラック上の鷲を指差し、すぐさま後を追った。
資料室は存外広かった。
オフィスフロアを丸々使ったのか、天井にまで届く金属ラックが端から端までぎっしり張り巡らされている。まるで
「……随分な騒ぎを起こしたようだが」
はっと顔を上げれば、オーハンゼーは振り返ることなく、聞き取れるぎりぎりの声量で呟いた。
暗闇にぼんやりと浮かぶ白装束も相まって、彷徨う幽鬼のようで不気味だった。
「戦士らには持ち場に戻るよう伝えてある。この状況では、いつどこで銃撃戦が始まってもおかしくないのでな」
そう言って、オーハンゼーは突き当りの扉を開けた。
執務室に隣接する応接室だろうか。
間取り的に、先ほど閃光発煙筒を起爆させた待合室の反対側だ。
執務室と見られるドアからは、眩い光が糸筋のように漏れ出ているが、オーハンゼーは応接室の明かりをつけることなく窓際に歩み寄った。
オーハンゼーは外の救済連合の屋外灯の光を背に振り返る。その表情は逆光になってほとんど見えなかった。
「で、何用か。話はとうに済んだはずだが?」
ニコラスは姿勢を正した。
答え合わせの時間だ。
「オーハンゼー当主、あなたは今回の爆破事件の犯人を知っていますね?」
老人は答えない。黙したまま、じっとこちらを見つめている。
なので、ニコラスは回答を続けることにした。
「事件の発端は、一人の爆弾魔だ。手口は同じ、ラジコンを利用したリモコン起爆の手製爆弾。爆発の規模と回数的に、毎回爆薬の量を変えて実験をしていたんだと思います。そして最初は弾丸から取り出した弾薬を搔き集めて爆薬にしていた」
ニコラスはポケットから7.62×39㎜弾の空薬莢を取り出した。
先ほど会議室前の突破の際、実包から弾頭を抜き取って中の弾薬だけ使用したものだ。
「特区は無法地帯ですから色んな物が出回ってます。もちろん爆薬もね。だが銃火器に比べれば高いし仕入れづらい。ジャンク品を掴まされる可能性もある。だから手っ取り早く、確実に爆薬を仕入れようと思ったら、弾丸内の無煙火薬を取り出して使うのが一番無難だ。弾薬なら不純物も少ないですからね。だがそれじゃ物足りなくなった。もっと威力のある爆薬が欲しくなった。そこで手を出したのが違法セムテックス爆薬です」
ニコラスはぐっと顎を引き、オーハンゼーを見据えた。
「ご存じですよね? 違法セムテックスが領内に入ってきたこと」
オーハンゼーは答えない。ニコラスは話を続ける。
「あなたはスー族出身だ。そしてスー族は、彼のビッグホーンの戦いでシャイアン族、アラパホ族と連合を組んでカスター将軍率いる政府軍を打ち破った歴史がある。その付き合いは現在も続いている。これまでミチピシでほとんど流通してなかった違法セムテックスが領内に入った時、補給・輸送担当のアラパホ族は真っ先にあなたに報告したはずだ。なにせあなたは現当主であり、スー・シャイアン・アラパホ族連合の長でもある。公私ともに付き合いの長いあなたに、彼らが報告しないはずがない」
無言。
「まんまと高性能の爆薬を手に入れた爆弾魔はさっそく実験を再開した。だが大きな過ちを犯してしまった。11日前、人気のない通りのマンホール裏に仕掛けた爆弾が、たまたまそこを通りがかったミチピシ構成員に重傷を負わせてしまった。しかも重傷を負ったのは改革派代表補佐のエドガー・クロウだ。自分とこのNo.2がやられて、改革派が黙っているはずがない」
無言。
「一連の爆破事件を維持派の仕業と勘違いした改革派は、即座に報復攻撃を行った。これに激怒した維持派は即刻反撃を行った。あとは終わりなき報復の応酬だ。だんだん爆弾の威力が上がっていったのも、両者の怒りが次第にヒートアップしていったのが原因でしょうよ」
無言。
ニコラスは沈黙を守り続ける老人を、じっと睨んだ。
「我々が捜査に来た段階で、すでにあなたは今回の爆破事件の手口も、犯人が複数いることも知っていたはずです。何故言ってくれなかったのですか。いや。――知っていて、わざと放置しましたね?」
「……いかにも。儂とてまだ耳は衰えておらぬ。維持派と改革派の所業ならすでに知っておった。だがもはやどうにもならぬのだ」
オーハンゼーはようやく口を開いた。重々しく、苦々しく。
「ミチピシは設立当初から火薬庫であった。改革派は今まで受け取れなかった利権を要求し、維持派はこれまで甘受してきた利権を渡すまいと抗った。争いが起こるのは必然の結果だった。儂は――」
オーハンゼーは言葉を区切り、窓を見やった。
外の光が老人の顔を二分する。光と闇に分断されたオーハンゼーの顔は、彼の人生を表しているかのようだった。
「儂は酋長だ。酋長とは、お前たち移民が想像する『リーダー』ではない。儂の役目は『調停者』であって、支配者ではない。一家当主の名のなんと軽いことよ。これほどの事態になろうと、族長会議が否といえば特警への捜査要請すらできぬ」
当然、族長らは特警の捜査を拒むだろう。捜査が入れば、自分たちが爆弾攻撃をしたことが暴露されてしまう。
しかし、一点分からないことがある。
「ではアレサが、あなたの孫娘が特警に独断で捜査を依頼した時、どうして腹を立てたんですか?」
「それは、あの子が先住民ではないからだ。テトンは少々無鉄砲で考えなしなところがある。非成員部族で、黒人の混血である彼女がしゃしゃり出れば、維持派と改革派の矛先は彼女に向かうであろう。それだけは許せぬ。身内贔屓と言われても構わぬ。あれは儂に残されたたった一人の身内なのだ」
なるほど。アレサが本部から叩き出されたのは、結果的に彼女を守るためだったのだ。
だが。
「そこまで現状を把握していたのに、なぜ当主の座を断らなかったんですか? 名ばかりだと分かっていたのに」
「儂が酋長の座に就くことが、ミチピシ一家設立の条件であったのだ。改革派・維持派双方が長い議論の末、ようやく合意した条件だ。断るわけにはいくまいて」
オーハンゼーは後ろ手に手を組み、窓の外を眺めた。
「……こうなってしまえば真の犯人を捕らえ、事態の鎮静化を図るしかない。たとえ真犯人がいなくとも、犯人が処罰されねばもはや収まらぬ。ゆえにお主らの捜査を容認したのだ。お主らが適当に犯人を捕らえてくれれば、そやつを真犯人と喧伝し、処罰する。さすれば一家・領民双方の不満を抑えられよう。それしか手立てはなかった。お主らは、思った以上に優秀で生真面目であったが」
ニコラスは恐縮さに背筋を伸ばす。
その様に微笑した老人だったが、その表情もすぐに霧散した。
「だが遅かった。族長会議中に本部が爆破されてしまった。しかも、その直後に救済連合が押し寄せてきた。もはや事態の収拾は不可能だ。残された道はただ一つ、五大に頭を下げ、休戦の仲裁を嘆願すること。そしてそれは、ミチピシの終焉を意味する。――見よ、この様を」
ニコラスは窓に歩み寄った。
導火線に火がついていた。
路上のあちこちで火の手が上がっている。割れてぶちまけられた火炎瓶の破片が、炎を反射して燦々と輝く。
流星群に似た煌めきが、チカチカと瞬いている。各陣営の銃口から噴き出る
夜空に花火が上がった。宵闇に咲く照明弾は、地上の人々を白く白く照らして落ちる。空を見上げる者は誰一人おらず、ただただ叫び、拳を突き上げ、武器を手に互いにいがみ合う。
大規模な抗争が、始まろうとしていた。
「これが我らの深淵よ。溜まりに溜まった怨念が渦巻いておる。怨嗟は怨嗟を呼び、新たな憎悪が生まれ落ちては淵に流れ込む。棄民の嘆きなど片腹痛い。我ら先住民は、何十年何百年も前から、この奈落の底で生きてきた。我らは皆、深淵に住まう
地鳴りに似た、暗然たる迫力に満ちた声音にぞっとする。
奪われ、虐げられ、殺められ続けた先住民。その末裔の呪詛そのものだった。
しかし、オーハンゼーはこちらに呪詛をぶつけることなく、飲み込んだ。
哀しげに、諦観に満ちて。
「……これまで領民・構成員を問わず、公正に接してきたつもりだった。良きことは目をつぶり、悪しきことは厳格に処罰してきた。ゆえにこの3年間、ミチピシが領民に手を挙げたことはほとんどない。それが誇りだった。だがそれも、もう持つまい。燃え上がった火は領民すら巻き込むであろう。せめて他領か合衆国へ逃がしてやりたいが……行ったところでさらなる苦行を強いられることになるだろう。お主のところも他領の者を受け入れたばかりだ。余力はあるまい?」
ニコラスは何も返せなかった。
先の暴動で、27番地は26番地住民を受け入れたばかり。これ以上は無理だ。
黙したままのこちらを一瞥し、オーハンゼーは微かに震える両手で器をつくった。
その空いた隙間から、地上の先住民たちが見えた。
救われることなく、こぼれ落ちてしまった人々だった。
「儂は、奪われ続けたものを取り返したかった。恩恵を受けられなかった同胞のため、何かしてやりたかった。たとえこの手を汚そうと、金に目がくらんだインディアンと誹られようと、父祖のおわす母なる大地に還れぬとも。棄てられた同胞を一人でも救えるのならば構いわせぬ。この老いぼれの首なぞ喜んで差し出そう。だが――。だがもう遅いのだ。何もかも遅かった。もはや万策尽きた。儂にはもうどうすることもできん。せめて、彼らの怒りがこの領内で収まることを祈るばかりだ」
「……これから起こるであろう抗争を見逃すと?」
「解き放つよりは遥かに良かろう。ひとたび国外に解き放たれれば、彼らは先住民ではなく、テロリストとして排除されるだろう。かつて害虫として駆除され続けた、儂らのようにな。それではあまりに惨い。
オーハンゼーは言葉を区切り、空を仰いだ。
地表の喧騒とスモッグに阻まれて、星は一切見えなかった。
「……孫も、逃がしたつもりだった。儂は先祖の怨念に巻き込むまいと、娘を外へ逃がした。当てにならぬ国を頼って囲いの中に生きるぐらいなら、せめて己が道を選択できる自由を与えてやりたかった。やがて娘は夫婦となり、子をもうけた。だがその子は……アレサは深淵に戻ってきてしまった。せっかく翼を得たというのに、あの子はこの茨の園に戻ってきてしまった」
ミチピシ一家の紋章は『茨の園の白頭鷲』。
地に縫い留められた老いた鷲は、孫を想って嘆き続けた。
「忘れてしまえばよかったのだ。忌まわしい過去も、それに囚われ続ける我らも、何もかも棄てて飛び立ってくれればよかった。300年以上前からまとい続けたこの茨が、たかが一人の小娘に解けるものか。儂は……儂は、自由に羽ばたくあの子が見られれば、それで充分だったというのに」
その時、オーハンゼーの背が初めて丸まった。その小さくなった背に、ニコラスはひとりの背を思い出した。
小柄で華奢で、自慢の黒い尻尾髪の揺れる、勝ち気な少女の背を。
彼女もまたオーハンゼーと同じく、いや、それ以上に茨をまとって生きている。
その時に至り、ニコラスはようやくオーハンゼーが放った、最初の言葉を理解した。
「儂ら年寄りは彼らを救ってやれなかった。ならば、せめて彼らの憎悪に付き合ってやるのが道理だて。怨嗟を抱え、嘆きながら死んでいくのは寂しかろう」
静寂が圧し掛かった。
地上の喧騒が微かに聞こえる中、ニコラスはゆっくりと口を開いた。
「今日、イラク人に会いました。派兵中、米軍の通訳をしていた男で、俺のことも知っていました」
相も変わらずオーハンゼーからの返答はなかった。
だが耳をそばだてる気配はした。
だからニコラスも思いついたまま喋ることにした。
「アメリカに逃げてきたと言っていました。アメリカ人に味方したせいで、裏切者扱いされて祖国にいられなくなったと。彼から謝られました。俺に冤罪をかけたことではなく、俺に謝れないことをです」
ニコラスはイヤドの顔を思い出す。
「謝れなくてごめん」と言った、心底申し訳なさげな彼の顔を。
「ずっと憎まれていると思ってました。それだけのことをした。恨まれて当然だと思ってました。いや――俺は、『イラク人はアメリカ人を憎むものだ』と勝手に思い込んでいたんです」
勝手にやってきて、勝手に殺して、勝手に立ち去った。
この上、彼らが自分たちに憎悪を抱いていると、勝手に決めつけるのか。
――違う。
このままでは駄目だ。向き合わねば。
どれだけ痛かろうと、苦しかろうと、彼らに真正面からちゃんと向き合わねばならない。
でなければ、自分に精一杯の謝罪をしてくれたイヤドの気持ちを無下にすることになる。
第一、自身の過去にすら向き合えない男が、どうやって他人を救うというのか。
どうしても救わねばならない少女がいるというのに。
「――それで? お主は何が言いたい」
オーハンゼーの獲物を見定める猛禽類が如き眼光に、黙って射抜かれる。
ニコラスは一拍おいて告白した。
「助けたい子がいます。イラクで出会った、アフガニスタン人の女の子です」
途端、オーハンゼーは目を見開いた。
「それは」
「誰かはご想像にお任せします。ただ俺は、別にあの子でなくても良かったんです。あの子でなくともたぶん俺は救われてた」
別に、彼女でなくともよかった。
たまたま自分に感謝を伝えに来てくれた少女が彼女だっただけで、それ以外の人間であっても構わなかった。
誰か、誰か。一言でいい。
俺のしたことは間違っていなかったと、俺たちが命を懸けた甲斐はあったと。
そう認めてくれる人間がいれば、それで。
そんな時、彼女は現れた。
特別な人でも、運命の人でもない。
たまたまそこに居合わせただけの少女。
運命の女神とやらの気まぐれ、神の悪戯。――ただの偶然。
意味なんてなに一つありはしない。
それを特別と思い込んだ己のなんと滑稽なことか。
だが。
――充分だ。
意味なんか要らない。偶然でも気まぐれでも構わない。
自分に手を差し伸べてくれたのは彼女だけだった。
ヘルハウンドだけが、自分を見つけてくれた。
充分だ。
それだけで俺は戦える。このクソッタレな世界に抗える。
また明日、生きていける。
ヘルハウンドを己の『特別』にしたのは、ニコラス自身だった。
ニコラスが勝手に、彼女を『特別』と思い込んだ。
自分が『勝手』を押し付けたのなら、彼女の『勝手』も受け入れねばなるまい。
「俺は、あなたの言う通り臆病者で半端者です。いつも自分のことばっかで精一杯で、他人のことなんか二の次、三の次だ。それでも、あの子が願いは何が何でも叶えてやりたいと思ってます。たとえ――それが復讐でも」
「それは……彼奴がお主の祖国を燃やしても構わぬということか」
「いや。それは困るので、俺があの子の憎い奴を殺しに行きます」
オーハンゼーは絶句した。
ニコラスは自身の吐いた言葉に苦笑しようとして、失敗した。
「我ながらイカレてるとは思います。でもそれ以外に、俺にできることが無いもので」
「…………仮にお主が彼奴の憎む者を鏖殺したとして、それでも飽き足らぬと言ったらどうする?」
「その時は俺の首で勘弁してもらおうと思います。それであの子が満足するかどうか分かりませんが、それが俺にできる最大限の恩返しです」
救ってもらった。あの子だけが、俺の手を掴んでくれた。
6年前から、この心臓は
ならば、これを捧げぬ理由はない。
ニコラスは己の
過去は棄てても追い駆けてくる。ならば、背負って歩いていくしかない。
向き合わねば。
逃れられぬというのなら、それしか方法はない。
「俺は元アメリカ海兵隊狙撃手のニコラス・ウェッブです。アフガニスタン・イラクでテロリストとそれに似た民間人を大勢殺してきました。俺にできることは今も昔も人殺しだけ。今さら善人ぶったってどうしようもない。しょせん俺は『偽善者』ですから」
ニコラスはオーハンゼーの眼光に、真正面から向き直った。
瞬きはしなかった。一秒たりとも視線を逸らしたくなかった。
「俺は、俺なりのやり方であの子の夢を叶えます。どんな汚い手を使ってでも、必ずあの子を救ってみせる。そのためなら地獄だろうが奈落だろうがどこへでも行ってやる。――アレサもきっと、そうだったんじゃないですか?」
「は?」
「あなたの孫ですよ。少なくとも彼女は、あなたが守りたかったものをよく理解していた。彼女がここに戻ってきたのは、あなたを救いたかったからじゃないですか?」
***
儂を救うだと? 馬鹿な。
オーハンゼーは目の前の青年を睨んだ。
そんなはずはない。生まれた時には、すでにそばにいなかった。
自分がやっていたことといえば、夫を事故で亡くした娘へのごく僅かな仕送りと、娘が病死した際の行政手続き、ジュニアハイスクールにいたアレサの学費と住居の確保をしたぐらいだ。
面識は赤子の時だけ。まともに顔を見たのは大人になってからだ。
そもそも、インディアン・カジノの訴訟問題にかまけて、愛娘が乳がんになったことすら知らなかったろくでなしの祖父を、どうして孫が救いにやってくるのか。
大事な家族すら守れなかったというのに。
「馬鹿なことを言うでない。テトンは物を知らぬ若者だ。おおかた流行りのリベラル思想とやらに感化されたのだろう。でなければ、こんなところに来るものか」
「それはどうでしょうか」
「そうとも、そうに決まっておる。救済連合を見てみよ。儂らを勝手に逆境に抗う後進の民と見なし、我こそが先住民を救う英雄と信じて疑わぬ愚者どもよ。儂らの長年の苦悩と悲哀を、奴らの上っ面だけの正義に利用されてたまるか。テトンも奴らの同類だ」
「ですがアレサが属したのはミチピシ一家改革派です。そして離脱した今も、ミチピシに残り続けています」
「それは――」
「あなたの言うように上っ面だけの正義を満たしたいだけなら、とっくの昔にここを出ていっているのでは? 少なくとも、爆弾事件の犯人と疑われてまで捜査に協力したりはしないでしょう」
それは……いや、そんなはずはない。
あの子は儂を憎んでおるのだ。憎んでおるからここへ来たのだ。
でなければ――。
『そんな顔しないでお父さん』
脳裏に反響した声にはっとする。
忘れもしない。愛娘が天へ旅立った日のことだ。
病魔に冒されつくした身体はとうにボロボロだというのに、小鳥の囀りに似たその声は最期まで美しかった。
『私は私の旅に満足してるわ。存分に羽ばたいてみせたでしょう? そりゃあ怖いことも辛いことも嫌なこともたくさんあったけど。でもやっぱり、私、居留地を出てよかったと思うの』
『
『ありがとう、お父さん。お父さんが見せてくれた自由はとても素晴らしかったわ』
素晴らしかっただと?
ろくに羽ばたけもせず地に堕ちる旅路が、素晴らしかったというのか。
刹那。鷲の鳴き声がした。
その昔。大海蛇との戦いで絶滅の危機に瀕した我が一族の、一人だけ生き残った娘を天へ連れて行った、我らが父祖の鬨の声だ。
振り返ると、鷲を肩に留まらせた美しい娘が立っていた。
「お爺ちゃん……」
不安げにこちらを見つめる孫娘にはたと気付く。
上っ面しか見ていなかったのは、自分の方だと。
「…………参ったな。お主は儂の水鏡であったか」
琥珀の双眸をもつ青年は肩をすくめた。
「手本には程遠いですがね」
「違いない」
オーハンゼーはほんのり笑うと、孫娘を見た。
先住民と移民、双方の名を持つ娘を、真正面から。
青年だけではない。己もまた彼女に勝手を押し付けてきた。
娘への贖罪の意識から、孫は自分を恨んでいると勝手に決めつけていた。
にもかかわらず、長老ぶって賢しげに振舞う己のなんと滑稽なことよ。
――まだまだ学び足りんな。
母なる大地からすれば、我らは等しくみな赤子。そこに老弱男女の差異などありはしない。老人が若人に学ぶこともある。
それをこの青年は教えてくれた。
「ひとまずお主に感謝しよう、ニコラス・ウェッブ。否、『
「ええ、そうですね」
オーハンゼーは青年とともに、地上を睨んだ。未だ戦火の絶えぬ領地を。
「そのことで一つ提案があります。上手くいけば事件の解決だけでなく、厄介な救済連合を追い出すことができるかもしれません」
オーハンゼーは興味深げに肩眉を吊り上げた。
どうやらこの青年、
「良かろう。お主の案を聞こう」
青年の案を聞いたオーハンゼーは眉をしかめ、アレサはますます不安げな顔をした。
あまりに荒唐無稽でにわかには信じがたかったのである。
「確かに悪い案ではないが……果たしてそう上手くいくものか」
「できる限り、俺たちで場を整えます。ですが、その要はあなただ」
「なるほど。上手くいくもいかぬも儂次第ということか」
しばしの熟考の末、オーハンゼーは頷いた。
「良かろう。お主の案に乗った」
「ありがとうございます。じゃあ俺はハウンドと連絡を――」
「あ!」
突然大声を上げた孫娘に、肩の鷲が羽ばたいて抗議する。
「ごめんなさい、ニコラス。あなたの端末、上着と一緒にあっちの資料室に置いたままだわ。取ってこないと」
「いや。あれはあのままでいい」
青年は悪だくみをするコヨーテのように、ニヤリと笑った。
「あれは使い物にならないからな」
***
あんのクソ駄犬、どこ行きやがった?
セルゲイは行方をくらましたニコラスたちに苛立った。
先ほど何かの鳴き声ともみ合う音を最後に、ニコラスの声が途絶えてしまった。
監視カメラ映像で追えたのも、ニコラスたちが資料室らしき部屋に飛び込んだところまでだ。
――ちょいちょい勘弁してちょうだいよ。ミチピシが飼ってる得体の知れねえ化物にでも食われたってか?
苛立ちながらエンターキーを叩いていた時、カフェの玄関が勢いよく開いた。
「Ciao、ヘルー! 迎えに来たよ!」
突如現れたとびきりの色男にセルゲイは硬直する。
ヴァレーリ一家当主、フィオリーノ・ヴァレーリその人である。
セルゲイは心底困惑した。
どういうことだ。観測班からの報告は一切来てない。というかこの女、どうやってフィオリーノと連絡とった?
ロバーチ構成員並びに27番地住民が硬直する中、フィオリーノはお構いなしにヘルハウンドに抱き着いた。
「迎えに来たよ俺のお姫様! 待たせてごめんね。辛かったろう? まさか君からこんな素敵なおねだりがくるなんて! 今日はなんていい日だ!」
「取りあえず離れろ。鼻が曲がる」
「辛辣ぅ! でもこの香水いいでしょ? 俺が調合させた最新作よ? 悪かないでしょー」
頬ずりするフィオリーノに、ヘルハウンドは駄目な飼い主を見る猫のような目で辟易する。
そこに影がさしかかった。
我らが当主、ルスランのお出ましである。
途端、フィオリーノは「お前いたの?」とばかりに軽蔑の表情を浮かべた。
「あら大変。誰か猟銃持ってきて。ヘルの傍をでっかい羆がうろついてるよ」
「脳脊髄液がワインで汚染された民族がきたな。何しに来た?」
「なにって俺のお姫様を迎えに来たのさ。ロシアの田舎者がそろいもそろってコソコソ何やってるかと思えば、慣れないことするとすぐボロが出るもんよ? 言っとくけど、電子戦はお前らだけの十八番じゃないからね」
セルゲイは己の失態を悟った。
27番地は電波傍受対策に、局所的な狭域周波妨害電波を、10分おきにランダムで発生させる。
セルゲイはそのパターンを解析し、対策をしていた。
しかし考えてみれば、自分たち以上に付き合いの長いヴァレーリ一家がそれを知らないはずがない。
道理で報告が来ないはずである。
こいつらは、27番地の妨害電波が発生するタイミングで、自分たちの妨害電波を発生させたのだ。
10分経てば電波が自然に回復すると思い込んでいる監視班は、まんまと引っかかったというわけである。
ではヘルハウンドは?
その時、ヘルハウンドが窓に向かってさっと手を振った。その視線の先を辿るなり、セルゲイは臍を噛んだ。
――やられた。
視線の先には、窓のカーテンをひらひら振る少年数人がいた。
こいつら、屋内の照明を光源にカーテンを開閉させてモールス信号を送りやがった。
なんという超アナログ手法の伝令兵か。
傍から見れば、子供が悪戯でカーテンで遊んでいるようにしか見えない。
2人に出し抜かれ立ち尽くすセルゲイに、ヘルハウンドは無感動に告げた。
「……オーハンゼーから緊急要請が出た。大規模な抗争勃発の危機だそうだ。私じゃ戦力不足だから、フィオリーノに来てもらった」
「そういうわけ。ってことで俺らはミチピシ行ってくるねー。あ、お前らは来なくていいよ。お呼びじゃないし」
「じゃーねー」と手を振るフィオリーノに連れられ、ヘルハウンドは店頭に停められていたヴァレーリ公用車のマセラティに乗って去ってしまった。
セルゲイはルスランに頭を下げる。それ以外に謝意を示す手段がなかった。
「……申し訳ありません、閣下。しくじりました」
セルゲイの陳謝に、ルスランは薄ら目のままこちらを見下ろした。
「まだすべてが終わったわけではあるまい。私とてあの女がヴァレーリを頼るのは予想外だった。いずれにせよ、ここまで事態が大きくなってはヴァレーリでも手に余る。――首尾は?」
「すでに3個中隊を国境線沿いに配備しております」
セルゲイとて考えなしではない。万が一、失敗した際の備えをしていたのが功を奏した。
ルスランは満足げに頷いた。
「総員撤収。我らも出向くぞ」
***
「……取りあえず流れは理解したけどさ。おたく一体どんな魔法使ったの?」
「話は後だ。ともかく特警本部と連絡とってくれ」
「へいへい……」
早々にツッコミを諦めたケータは、本部へ電話をかけ始めた。
一方、27番地搬送チームはキャスターに乗せた機材を次々に運び込み、資料室をあっという間に捜査対策本部へ変貌させてしまった。
輸送班第8チーム隊長、デニスは上機嫌に笑った。
「これでいいかな? いやーそれにしても、ニックが前に教えてくれたカーテン・モールス信号、あれいいね。次はもう通じないだろうけど」
「他の相手になら通用するさ。――ハウンドは?」
「今ヴァレーリ一等区にいるってさ。明日にはこっちに来ると思う」
ニコラスは頷いた。
正直、フィオリーノは二度と会いたくない部類の男だが、この際仕方がない。
設置されたノートパソコンから、ニコラスはこれまで得た情報を整理する。
そして例の南瓜頭が投稿した最新の動画のタイトルを見るなり、顔をしかめた。
――また厄介なもんを投稿してくれたな。
『9.11の再来!? ミチピシ本部爆破の真相とイスラム過激派組織の台頭』
「ほんっとこういうの頭に来るわね」
「ああ。憎悪から抜け出そうともがく人間がいる一方、こうして新たな憎悪を無邪気にせっせと生み出す奴がいるわけだ」
動画の冒頭を再生したアレサは、憎々しげに短く嘆息した。
「イスラム系住民の迫害が心配されるわね。ギャレットたちに指示してくるわ」
と、その時、応接室からオーハンゼーが戻ってきた。
オーハンゼーはこちらを見るなり眉根を寄せた。
「お主ら、なぜこんな暗いところで作業をしておるのだ。灯りぐらいつけぬか」
そう言って壁面の電源に向かう姿は、完全に孫を叱る祖父である。
ケータがボソッと「うちの爺ちゃんみてえだな」と呟き、アレサが困ったように笑った。それでもどこか嬉しげなのは、やはり大事な家族だからだろうか。
ニコラスにはよく分からない感覚だった。
ぱっとついた蛍光灯の明かりに全員が目を眇める。
ようやく光に慣れて目を開き。
「――は?」
ニコラスはますます目を見開いた。
資料室の脇、壁面に四方2メートルはある巨大な絵画が立てかけられている。
ニコラスが驚愕したのはその絵だ。
船から降り立ち波打ち際に膝をつく身なりの良い白色人種。そんな彼らに手を差し伸べる半裸の有色人種。
一見、
大きな角を生やした、2頭の牡鹿。――双頭の牡鹿だ。
『Be careful the double head stag. (双頭の牡鹿に気を付けろ)』
例の絵本の警告文が頭をよぎった矢先、背後から肩を鷲掴みにされた。
振り返るとオーハンゼーが立っていた。
目を合わせてはいけない亡霊と目を合わせてしまったことを咎めるような、恐ろしい風貌をしていた。
「お主、あれを知っておるな?」
「あの――」
「その名を口に出してはならん!!」
突然声を荒げたオーハンゼーに周囲が騒然とする。
いったい何事かと寄ろうとするケータとアレサを振り切り、オーハンゼーはニコラスを執務室まで連れて行くと鍵をかけた。
そして振り返り、胸に指を突きつけた。
「あの絵は後ですぐ処分する。いいか、お主は何も見ておらん。あの絵のことは忘れるのだ」
「ですが」
「詳しい事情は後で話す。頼む、今はそれで矛を収めてくれ」
両肩を掴まれた状態で詰め寄られ、ニコラスは口をつぐむほかなかった。
オーハンゼーの手が震えていた。
「頼む、忘れてくれ。テトンやお主まで、『息子』の二の舞にするわけにはいかんのだ」
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