5-8

 味覚というものは、感情に左右されることがある。

 たとえ好物を食っていたとしても、不愉快な時に食うと不味くなる。


 なので、いま食っているニコラスお手製のチョッピーノ――魚介類たっぷりのトマトシチュー――が、不味く感じるのは自分のせいだ。

 決して、材料に冷凍シーフードミックスを使ったからでも、ニコラスの腕が悪いわけではない。


 というか、確実に目の前に立つ男のせいだ。


「……んへ、ひゃんのようよふしゅふぁん (んで、何の用よルスラン)」


 ハウンドは、エビとアサリを乗せたチーズトーストを頬張りながら尋ねる。が、大男は無表情のまま見下ろすばかり。


 一般人が思い浮かべる「剣吞な表情」を10倍増しにしたような、返り血が実に似合いそうな物騒な顔である。


 背後に控える部下が「コイツ、ボスに睨まれても飯が食えている……だと……!?」とばかりに驚愕の表情で睨んでくるが、知ったことではない。


 私は今ランチタイムなのだ。


 しかも今日は、ニコラス特製の絵本ご飯『黄昏に染まるオークランド・ベイブリッジ』——クリームチーズトースト付きのチョッピーノである。


 ニコラスが昨日作り置きしてくれたもので、具材に味がよく染みた、味わい深くもまったく飽きない逸品だ。


 食わない方がどうかしてる。というか、アポなしに来るな。


 数十分前のことである。




「う~ん。こいつはちとマズい状況だな」


 ハウンドは、行儀悪くアサリの殻についた貝柱をしゃぶりながら、ミチピシ領の地図を見下ろしていた。


 地図には改革派・維持派・救済連合の勢力図が色分けされ、爆破現場には日付の描かれたシールが貼られている。


 特警が調書を削除したツケは大きかった。

 なにせ、どこでどの規模の爆発が起きて、どの陣営がどの程度の被害を受けたのか、現地に出向いて一から捜査せねばならない。


 そのため、今まで発生した爆破事件を、規模と照らし合わせながら時系列順に並べることすらできなかったのである。


 さきほどケータが送ってくれた、現地の協力者が独自に集めたという証言集が無ければ。もっと把握が遅れていただろう。


 これを見ると、当初はばらけていた爆発が、次第に改革派・維持派の勢力下で起こるようになっている。


 しかも改革派で爆発が起きると、維持派で爆発が起こり、また改革派で爆発が起こるというループが繰り返されている。


――ループが始まったのは11日前、か。


 ケータから送られてきた証言を見る限り、爆発の威力が上がったのも11日前。


 そしてその前日には改革派代表補佐のエドガー・クロウが爆発で負傷している。

 たまたま通りを車で走行していたところ、マンホール裏に仕掛けられた爆弾が起爆し、車を直撃したのだ。


 クロウは現在、重症で入院中だ。


「そこそこ真相が読めてきたが……マズいなこりゃ。本気で収拾がつかん。こいつに蹴りをつけようとなると……」


 ハウンドは口をつぐんだ。


 真相はそれなりに判明した。その解決策も分かっている。

 自分であれば躊躇なく実行するだろう。


 だが、この方法はニコラスが最も嫌うであろう方法だ。なにせ過去に彼自身がやられている。


 彼にだけは、この手をやらせたくなかった。


――やっぱ領内に入るか。オーハンゼーの爺さんがやかましいだろうが、バレなきゃ問題ない……。


 その時。地図に影がかかった。


 ふと視線を上げれば、磨き上げられた革靴が目に入る。そこからスラックスを辿って見上げていくと、ロバーチ一家当主、ルスラン・ロバーチがそびえたっていた、というわけである。




 セルゲイめ、私にけしかけたな?


 ハウンドは後でお仕置きをしてやらねばと決意しつつ、未だ黙ったままの大男に抗議する。


「ひょっほ、ひゃんはひへふょ (ちょっと、何か言えよ)」

「…………随分と行儀がいいな。私の前で口に物が入ったまま喋るか。鉛玉も詰めてやろうか」


 ハウンドは口の中のものを飲み込んだ。


「アポなしに来るお前が悪い。文句あるなら帰れ」


 永久凍土に閉じ込められたかのような沈黙が、屋上を支配した。


 おもむろにルスランが右手を掲げる。


 お、撃つか? と思うがその手は横に振られ、部下たちはこれ幸いとばかりに一斉に回れ右。大急ぎで速やかに退去していく。


 屋上にはルスランとハウンドだけが残され、二人の間を寒風が冷やかすように甲高く吹き抜ける。


 待つこと十数秒後、今度はルスランが左手を差し出した。


「携帯」


 寄こせという意味か。


 ハウンドは新調したばかりのスマートフォンを差し出すと、ルスランはそれを捥ぎ取り。


 屋上外へぶん投げた。


 放物線ではなく見事な直線を描いて投擲されたスマートフォンが、隣のビル壁に衝突してカシャンと砕け散る。


 あちゃ~と見送っていると、空になった手に新たなスマートフォンが差し出された。


「……次から連絡はそれを使え。常時持っておくように。それもできないなら監視役を派遣するぞ」

「これぜったい私が操作不能な盗聴とか追跡アプリ入ってるだろ」

「そうだが?」

「もうちょっと悪びれるとかしろよお前……」


 ハウンドはそう言って、そういえばこいつマフィアのボスだったわと思い出して溜息する。


 しかも新たなスマートフォンの中を確認してみれば、入っていたのは通話アプリ、ロバーチ一家の公共オフィス番号のみが入った連絡帳、迷子アプリである。


 誰が迷子だ。失礼な。


「んで、何しに来たの? 前回の暴動の件ようやく謝罪しにきた?」

「……謝罪の必要がどこに?」

「んじゃ帰れば?」


 再び沈黙。ハウンドは呆れかえった。


「お前なあ、わざわざ頭下げに来いとは言わねえよ。うちの住民だってマフィアおまえらの謝罪なんか端から期待しちゃいないよ。けどこっちだって立場ってもんがある。27番地うちに同盟破棄されると困るんだろ? なら形だけでいいから声明文出すとか、軋轢無くす努力しろよ」

「軋轢を無くす方法なら他にもある」

「27番地がロバーチ一家に併合される以外の方法で頼む」

「……」

「謝罪しないなら通商停止は撤回しない。交渉もしない。あとターチィの件は私から切り出したわけじゃないからな? ヤンの婆さん(ターチィ一家当主)が言ってきたことだ。文句ならあっちに言ってくれ」


 しばしルスランは黙りこくった。


 そして深く長い溜息を吐くと、おもむろに歩み寄り、手すりにもたれるようにのそりと腰を下ろした。


 どうやら何がなんでも居座る気らしい。


「スラックス汚れるぞ。それオーダーメイドだろ」

「知らん。どうせ部下かうちの資本家どもが勝手に用意する」


 ルスランは不機嫌そうに葉巻先をギロチンカッターで切り落とした。


 会うたび服装と体臭が変わる伊達男のフィオリーノとは真逆に、ルスランは割といい加減で行儀が悪い。特にプライベートは。


「『ヴィーリャ』、火くれ」


 『ヴィーリャ』とはハウンドのロバーチ一家での呼称コードネーム、『人狼ヴィルコラク』の略称である。

 ルスランだけが使う己の渾名だ。


 ハウンドは警戒した。

 ルスランがこの名で呼ぶときは、何かしらこちらに踏み込んでくる時だ。


 フィオリーノのように無遠慮に心の扉をこじ開けようとする奴は大嫌いだが、「入るぞ」と言ってから扉ごと蹴破ってくる奴も論外だ。


「これ葉巻用じゃないぞ?」

「知っている」


 ハウンドはジッポーライターを放った。それを片手で受け取り、ルスランは風を避けながら、咥えた葉巻をくるくる回して火をつける。


 器用だな、と胸中で呟きながら見やって。


「んで、本当の要件は?」


 柘榴石の双眼が苛立たしげに細まった。ハウンドは肩をすくめる。


「お前だって私が譲らないぐらい知ってるだろ。まさかスマホ渡しに来ただけじゃあるまい。何が気に食わない?」

「…………なぜ復讐対象にそこまで心を砕く? アメリカ人なぞ憎悪の対象でしかなかろう。なあ、アフガニスタン人アフガニスターニャ


 ハウンドは尖鋭に目を眇めた。


「それをお前らが言うかソ連人」

「代わりに武器を置いていってやったろう」

「お前らが置いていったのは死体に仕掛けた対人地雷だけだろ。あと武器は自由聖戦士ムジャヒディンが鹵獲したものだ。乞食よろしく落ちてたのを拾ったわけじゃない」

「西側の武器は使わなかったのか? 米国印のプレゼントがあっただろう」

「向こうはそう主張してたけどね。だが受け取る前になぜかどこかへ消えてしまって、役に立ったことがない」

「お粗末なものだな」

「お前らの国ほどじゃない」


 ハウンドとルスランはしばし睨み合い、互いにふんと鼻を鳴らして顔を背けた。


「冗談はさておき、なぜアメリカ人をそこまで気にかける? わざわざ外部からやってきた小娘のままごとに付き合ってまで、なぜ救おうとする? あの野良犬風情に誑かされたか」

「誑かすって……ニコはただの相棒だよ。それにローズ嬢の慈善活動を認めたのは私の意思だ。ローズ嬢は財力もあるし経済界への顔も効く。カマーフォード家から離脱した今もそれは健在だ。利用価値があるから活動を許可したまで――」

「慈善で憎悪を誤魔化すぐらいならさっさと焼いてしまったらどうだ?」


 一瞬。息を飲み、ゆっくり静かに息を吐く。動揺を気取られないように。


「何を」

アメリカこのくにの全てを。人も物も文化も価値観も、何もかも。ロシアでもいいぞ。やるなら手伝ってやる。手始めに硝子館ステクリャーシュカなんかどうだ?」

「いやそこお前の古巣じゃん」

「構わん。人を駒扱いする寄生虫まみれの巣なぞ、とっとと燃やして新しいのをつくった方がいい」

「粛清まっしぐらな発言だな」

「このを国外追放にしかできなかった弱小が、粛清などという御大層な真似ができると思うか?」


 不遜に鼻を鳴らしたルスランは、豪快に煙を吐くと天を仰ぎ睨んだ。


「我が祖国に唯一取り柄があったとすれば、共産主義という名の独裁政権であり続けたことだ。悪いのは国民ではなく独裁者のせい、それこそが共産主義の最大の利点だった。その利点すら捨て、衆愚政治の権化たる民主主義の皮を被った独裁国家に、一体何の価値がある?」

「……今日はよくしゃべるな、ルスラン」

「お前がいつまでも腑抜けているからだ、ヴィーリャ。正体を隠してまで、なぜあの男を気にかける? なぜ救おうとする? アメリカ人は憎いんじゃなかったのか」


 ハウンドは黙りこくった。


 憎くないと言えば嘘になる。恨んでないなどとは口が裂けても言えない。


 戦乱に巻き込まれたのは幼き頃。政治や戦術の是非など知らないし解らない。


 覚えているのは、遥か頭上から降ってくる一発の無誘導爆弾。


 閃光と轟音、飛散する散弾と化した土砂。四散した人体の欠片と、瓦礫に張り付いた臓物の異様な照り輝き。充満する砂煙に混ざる、血錆と臓物の臭気。絶えることのない呻きと泣き声、消えていく誰かの断末魔。


 怖かった。恐ろしかった。分からなかった。


 自分たちが一体、何をしたというのだろうか?


復讐もくてきすら見失ったか、人狼ヴィーリャ。それともあの野良犬に感化されてただの雌犬に成り下がるか。いい加減目を覚ましたらどうだ?」


 赤茶の双眸をしかと捉え、訴える。早く己の使命を全うしろ、と。


 ハウンドはそれをしばし眺め、ついと逸らした。


 手すりにもたれ、眼前の光景をぼんやり眺める。

 そこには、アメリカ合衆国があった。


「最初この国に来た時、すごく戸惑ったよ。平和すぎて」


 アフガニスタンもイラクも、どこもかしこも瓦礫と死体だらけだった。


 乾ききった汚物が粉塵と化して巻き上がり、そこら中に下水と腐敗臭が漂っていた。銃声がいつも鳴り響き、今日生きるための水と食料にすら困る有様だった。戦闘機やヘリの音が聞こえるたび、物陰に身を潜めて息を殺し、それでも人々は懸命に日常を続けていた。


 戦争があろうと、私たちの営みは変えられぬと宣言するかのように。


 だがアメリカはそうではなかった。

 この国に戦争はなかった。


「他国で自国の兵士があんな目に合ってるってのに、誰も悲しんだり案じたりしてないんだ。兵士の家族とか友人はちゃんと心配してたんだろうけど、それでも私がこの国で戦争を感じたことはなかった。最初から戦争なんてやってないみたいな顔して、みんな過ごしてる。私の国ではあれだけの人間が死んだのに誰も気にも留めない。自業自得なんだと。テロリストと同じ格好してる住民わたしらが悪いんだってさ」


 その時、気付いたのだ。


 この国の国民は観客だ。


 現実を他人事と見なし、映画やアニメを見るようにただ画面の向こうで起きていることを眺めているにすぎない。


 自国の兵士はヒーローで、テロリストは悪役。

 悪役テロリスト英雄ヒーローに殺されるもので、それに巻き込まれる市民や家屋はただのエキストラ。


 彼らにとって重要なのは英雄が悪役を倒したかどうかで、巻き込まれたものの存在も悪役の嘆きも心底どうでもいいのだ。


「私にとっちゃ、アメリカ人もアルカイダ (9.11の主犯格といわれるテロ組織)も変わらないさ。勝手に祖国にやってきて荒らし回った外国人だ。勝手にやってきて、勝手に殺して、勝手に憐れんで。そして今度は勝手に帰るんだと。ほんと、何がしたかったんだろうな」


 ハウンドは空爆後の光景をよく覚えている。


 瓦礫に潰され、両親の血溜まりに膝をついた子供が、肘から千切れて皮膚一枚で繋がっている両親の手を握って、泣きながら天を睨んでいた。


 遥か上空、己の決して手の届かぬ宙を駆ける忌々しい戦闘機を。


 きっとあの子供も、悪役テロリストになったのだろう。


 アメリカはテロリスト撲滅を掲げて空爆を続けたが、その巻き添えで両親を潰された子供が、将来どうなるのかは考えなかったのだろうか。


「復讐なんてしないよ。そうするだけの価値もない。人間に狗の言葉は通じないし、逆もしかりだ。こちらが必死に吠えても連中はうるさいと思うだけさ。分かり合えないならいいじゃないか、それで。そのまま死んでしまえ。何も知らないまま死んでいけ」


 謝罪も憐憫も要らない。

 歩み寄りなんて望んでない。

 共感なぞさせてやるものか。


 これが私の憎悪だ。これが私の憤怒だ。これが私の哀哭だ。


 くれてやるものか。全部ぜんぶ、私のモノだ。



 ああ、でも。


――ラルフ、ロム、レム、ベル、トゥーレ。……………………司令カーフィラ


 6人のニオイが鼻腔に蘇り、顔が歪んだ。


 国家も、政権も、主義主張も、どうでもいい。


 あの人たちさえ傍に居てくれればよかった。


 それ以上は、何も望まなかったのに。


 突然の突風に目を細める。首元をなにかがくすぐった。

 それに目を落として。


――ああ、そっか。お前は視ていたな。


 胸元の弾丸の首飾りにそっと手を当てる。


 そうだ。あの狙撃手おとこだけは、私に気付いた。


 ハウンドは瞠目し、静かに息を吸う。


「……と、まあ。こんな感じだ。私が復讐しないのはそれが理由。アメリカ人だって、自分たちの古傷に塩を揉みこんでくる存在は見たくもないだろ。お互い見たくもないならわざわざ関わる必要もない。それだけだ。それに――」

「……それに、なんだ?」


 ハウンドは「いや」と答え、目を逸らす。


 危ない。口が滑るとこだった。


 ルスランは、しばし黙りこくると。


「………まだ俺の質問に答えていないぞ。なぜあの狙撃手を救った?」


 ハウンドはにっこり笑った。いつものように。仮面をかぶって、


「そりゃあニコラスだからだもん。それ以外の理由なんてないさ」


 今日も平然と嘘を吐く。


 正直、誰でもよかった。


 ただどうせ死ぬなら、誰かを救ってから死のうと思った。


 狗と蔑まれ、使い棄てられ続けた人生だった。それでも、何か生きた証が欲しかった。


 そこに、彼がやってきた。


 司令カーフィラと同じ褐色の肌に、つんと尖った硬そうな黒髪、抜身の刃に酷似した鋭利な眼差し。


 棄てられた犬のような目をしていた。

 自分と同じだと思った。


 彼にしよう。

 どうせ死ぬなら、彼を救ってから死にたい。


 そこからハウンドの心臓は動き出した。


 サハルという名の少女は死に、黒妖犬ヘルハウンドが誕生した。 


 言えるものか。

 あの生真面目すぎる男に、これ以上のものを背負わせてなるものか。


 私が救うのだ。誰にも邪魔はさせない。


「さて、と。これで質問にぜんぶ答えたな。満足した?」


 そう尋ねると、ルスランはじっとこちらを凝視し、不意に唇を動かした。


「Как волка ни корми, он все в лес смотрит.(狼は飼い慣らしても、森しか見ない)」

「は?」

「いや。ただの独り言だ。お前が腑抜けていなかったようで何よりだ」


 珍しく自分から目を逸らし、ルスランは喫い損なって、半分近くが灰になった葉巻を投げ捨てた。


「……まあいい。どうせ先の短い人生だ。お互い破滅がくるその時まで、せいぜい派手に愉しむとしよう」

「それには同意するけど……謝罪するまで取引を再開しないからね?」


 途端、ルスランの顔に剣吞さが戻った。


「お前は本当に雰囲気とか空気を読まん女だな」

「空気は吸うもんだろ。ていうかお前、単純にニコに謝りたくないだけだろ」

「……………………そんなことはない」

「なんだ今の間は。ったく、お前といいフィオリーノといい、なんでニコばっか意地悪するかな~」

「俺をあのどら猫と一緒にする気か」


 いやお前だって象徴シンボル虎だろと思ったが、言ったら今度こそ噛みつかれそうな気がしたので黙っておくことにした。




 ***




「――盗み聞きはあまり感心しないな」


 カフェ『BROWNIE』店長がそう言うと、屋上扉の前に集結していた27番地住民は様々な顔をした。


 気まずそうな者、開き直る者、浮かばぬ顔をする者。

 しかし皆、統治者の身を案じてきたという点だけは、共通していた。


――あの子も愛されたものだね。


 店長は扉の隙間から垣間見える、芥子粒のような人影に目を眇める。


 この距離と今日の強風では、盗み聞きは失敗だろう。


 その時、住民の中から野球帽をかぶった小太り中年、クロードが進み出た。


「なあ店長、やっぱり――」

「駄目だよ」


 店長はきっぱりと告げた。


「この番地をヴァレーリから譲渡された時、ハウンドが『六番目の統治者』として立つ時に言ったはずだ。『これからは綺麗事ではやっていけない。悪事に手を染めねばならない時が必ず来る。それでもお前たちは自治を望むか』と」


 棄民は願った。自分たちの国が欲しい、と。


 そして彼女はその願いを叶えた。


 黒妖犬ブラックドッグは街の守護者になった。


 以来、あの子は笑うようになった。それまで、にこりともしなかったのに。


「あの子に化物たれと望んだのは我々だ。今さら『危ないことはしないでくれ、マフィアと仲良くなんてやめてくれ』なんて言うのはお門違いだよ」


 クロードは黙った。

 背後の住民も黙りこくる。悔しげに、悲しげに、やるせなさに唇を噛み締めて。


 そんな時、クロードがぼやいた。


「……店長。俺ァ、元トラック運転手だったからよ。いつか自分のトラック持ちてえって思ってんだ」

「マイカーにトラックか。君らしいね」

「ああ。んでそのトラックでいつか旅するんだ。ルート66なんかいいなァ。煙草咥えて、砂まみれになって、大音量でビリージーン (マイケル・ジャクソンの曲)流しながらアクセル吹かすんだ」

「素敵な夢だね」

「だろ? お嬢、見送りしてくれっかなァ。一緒に来いとは言わねえからさ。俺が夢叶えるとき、お嬢、まだいてくれっかなァ」


 今度は店長が黙る番だった。


 クロードは野球帽を脱ぎ、少なくなった頭髪を撫でた。

 落ち込み切った時、彼がやる癖だった。


「店長、俺ァ怖いんだ。確かにお嬢は俺たちの願いを叶えてくれたよ。けどよ、お嬢の願いは誰が叶えてくれるんだ?」

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