プロローグ

〈西暦2008年9月5日午後5時46分 イラク共和国 首都バグダット東部郊外〉


 その日も、黄土色が視界を覆っていた。


 ニコラスは今日も慎重に瞬きをしながら、監視任務にあたっていた。


「カウンターIED」と呼ばれる、幹線道路に即席爆弾IED自己鍛造弾EFPなどの殺人卵を産みつけにくる害虫テロリストを排除する任務だ。

 特に目の前の『悪魔の通り道ルート・プレデターズ』は、すでに米軍戦闘車両を12台食っている。

 たとえ殺人卵を産みつけにくる害虫が、人の形をした人語を話す生物だろうと、ニコラスは徹底的に除かねばならない。


 いつもと、変わらぬ任務だった。任務内容も、配置も、見える景色も。

 唯一変わった点があるとすれば、隣に身を縮めるようにしゃがみこんでいた図体のデカい背中がないことぐらいで。


――あと五時間か。


 窓から少し離れた屋内の影の中で、ニコラスは手首内側の腕時計を一瞥した。


 観測手はいない。上官からは己の技量についていける狙撃手がいないからと説明されたが、それが詭弁に過ぎないことも、狙撃手が圧倒的に不足している現状もニコラスは理解していた。

 でなければ二等兵にまで堕ち、軍法会議を待つ己まで戦場に引っ張り出しはしまい。


 そのため、ニコラスは一人だった。だから視界の先にある障害物をどけてくれる仲間は誰もいなかった。


「うへぇ」としか言いようのない光景だった。

 野犬が人間の死体を貪る光景など、それ以外になんと表現しろというのか。


 死体は地面を掘っただけの下水溝脇に転がっていた。恐らく最期に水を飲もうとして力尽きたのだろう。

 もっとも、下水溝にあったのは水ではなく淵ぎりぎりに溜まった糞尿で、流れてすらいなかったが。


 どける、しかないか。


 ニコラスは渋々立ち上がった。

 しくじった。こんなことなら護衛に部下を寄こすと言ってくれたオティラ曹長の提案を素直に聞けばよかった。


 死体が転がっているのはニコラスと監視ポイントを結んだ軌道上にある。

 つまりニコラスがこのまま任務を続行すれば、野犬が死体を食い散らかす様を目の当たりにする羽目になる。それでは気が散るし、精神衛生的にも大変よろしくない。


 それにニコラスは、撃たれたとしても一向に構わなかった。


 撃たれれば、戦友のもとに逝ける。親友に謝りに行ける。

 むしろ、誰か撃ってくれないだろうか。


 破滅的な願望に誘われるがまま、一歩、また一歩と路地に足を踏み出す。ヘルメットは置いてきた。愛銃のM40A3の後継であるM40A5だけ持っていた。どうせくたばるならコイツと一緒がいい。


 近づくにつれ、ニコラスはその死体が子供であることに気付いた。まだ10代になったばかりだろうか、衣服からのぞく細腕はほとんど肉がついておらず、それでも数少ない肉を争って野犬が子供の手足を引っ張り合っている。


 あまりに凄惨な光景に本能的に目を背けた。


――勘弁してくれ。


 ニコラスは運命の女神の気まぐれとやらを心底憎んだ。神はなぜあの時の子供と、同い年の子供の死体をこんなところに転がしたのか。


 女だった。イラクのどこにでもいそうな。

 一年前のティクリート撤退戦の最中、数代目となる狙撃拠点から離脱しようと隣室に飛び込んだら、部屋の真ん中に立っていた。


 胴体にプラスチック爆弾を巻き付けて。


 ベールからのぞく顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃなのに、右手に握った起爆装置と、左手に持った我が子の手を決して離そうとはしなかった。


 撃てなかった。だから親友が死んだ。


 雄叫びを上げながら母親にタックルした親友が、窓の外に落ちていく。

 その光景をただ突っ立って見送った愚かな自分を、凍り付いた目で見つめていたあの子供と似た子供が、いま目の前に転がっている。


 ニコラスは肺を空にせんばかりに深々と溜息をついた。


 仕方がない。こうなったらどこか適当な場所に移動させて、あとで埋めてやろう。そう腹をくくったニコラスは視線を戻して――硬直した。


 今、指先が動いたような……。


「おい!」


 ニコラスは子供の肩を掴んだ。獲物を横取りされたと思った野犬の一頭が噛みついてくるが、蹴り飛ばして黙らせる。


「おい、生きてるか!?」


 小さすぎる肩を揺さぶるたびに黒髪の頭がぶらぶら揺れる。遅かったかと思いきや、微かな呻き声がした。


 ニコラスは片腕で担ぎ上げ、監視ポイントに戻った。

 追いすがろうとする野犬が何頭かいたが、愛銃の銃床で殴りつけると動かなくなった。野犬はもう追ってはこなかった。


 建物に入って水筒を手に取り、子供の唇を湿らすように飲ませてやる。半分以上こぼれ落ちてしまったが、それでも子供は懸命に飲んだ。


 けほけほとか細い咳のあと、長い睫毛がふるりと揺れて瞼が開く。その瞳を見るなり、ニコラスは息をのんだ。


 夏木立の葉に似た、清冽で静閑な深緑。

 この瞳の主を俺は知っている。ティクリートの寂れた街で、姿の見えぬはずの己をしかと捉えた双眸を。


「お前、ティクリートの時の……?」


 思わず零れたと問いに、子供は目を瞬かせた。


「――ヵ、フィラ……?」


「カフィラ?」


 掠れ声で紡がれた名にニコラスは首を傾げる。兄弟か友人の名だろうか。脱水症状による意識障害で朦朧としているのか。


「違う。俺は」


「海兵隊、の方ですね」


 次いでひび割れた唇が口にした流暢な英語と、子供らしからぬ言葉遣いに、ニコラスは困惑した。イラク人はほとんど英語が話せないはずなのに。


「お前、名前は――」


「先ほどティクリートとおっしゃいましたか?」


 こちらの質問を押しのけるような声音に気圧され、ニコラスは口を閉ざした。


 しかし沈黙を肯定と受け取ったのか、子供の目が途端に煌めいた。地平線上でしぶとく照り輝く西日に似た壮烈さをもって、ぎらりと。


「ではあの時、自分を助けてくれた狙撃兵カンナースはあなたですか?」


 呼吸が止まった。


「お前、覚えて」


「やっぱり。よかった。ずっとお礼が言いたかったんです」


 子供はふにゃりと笑った。死人が微笑んだ様だった。


「お久しぶりです、英雄ヒーロー。あの時は助けてくれてありがとうございました」


 大事な何かが欠落した空っぽで歪な笑みがやけに哀しく、恐ろしかった。




 ***




「――ろ! 起きろウェッブ!!」


 鼓膜に刺すような痛みが走って、ニコラスは目を開けた。


 頭蓋がぐわんぐわんと反響して、吐き気がする。思考がよくまとまらない。視界が赤い。片目ずつ開けて確認してみれば、左目に血が入っている。額を切ったか。

 両手両足ともにくっついているが、よくよく見れば左膝から白い何かが飛び出している。


 これは、俺の骨か。


「起きたか!? 起きたな!? よしもう大丈夫だ! いま止血してやるからなっ!」


 何が大丈夫なのかよく分からないが、必死の形相で左脚に止血帯を巻く兵士の横顔を、ニコラスはぼんやりと眺めた。


 なに伍長だったか。ニコラスが前哨砦にやってきてすぐ「合衆国の恥さらしが、とっととくたばっちまえ」とすれ違いざまに罵ってきた兵士だ。

 なぜ彼は自分の手当てをしているのだろうか。


 回らぬ頭のまま虚ろな目で周囲を見渡す。


 前方列の高軌道装輪車両ハンヴィーが嘘みたいにひっくり返っている。

 無防備に晒した腹と車窓からは黒煙混じりの炎が噴き出し、時おり破裂音が車内で反響している。車両に積んでいた弾薬が誘爆しているのだ。


 振り仰げば先ほど自分が乗っていた車両も横転しており、自分はそれにもたれかかっていた。


 地面に埋められた殺人卵は前方車両二台を吹き飛ばした。そこに乗っていた兵士を巻き添えにして。


 後列の車両から顔を引きつらせた兵士が、叫びながら走ってくるのが見える。燃える車両の周囲にはピクリとも動かぬ人影が数人。


 唯一動いているのは、血塗れの顔を片手で押さえて泣き叫んでいる新任の小隊長だけか。

 若手の女性士官だった。配属先に自分がいると知るなり「私のキャリアもここでお終いね」と言われた。

 気の毒に。頬が大きくえぐれている。あれでは確実に傷跡が残るだろう。


 だがニコラスが探したい人物は彼女ではなかった。この小隊で唯一、自分の味方をしてくれた副小隊長のオティラ曹長を探していた。


「そうしゃちほこばるな。テメエみてえなじゃじゃ馬の面倒は娘で慣れてんだ」

 そう言ってガキ大将のように笑った曹長は、40歳間際のベテランだった。

 自分が私刑リンチにあわぬようにと、任務以外は常に行動を共にしてくれた。上から命じられた単独任務に真っ向から反対したのも、彼だけだった。


 曹長には帰りを待つ妻と娘が二人いる。どこだ。


 流れ込む血に目を瞬きながら眼球を巡らして、見つけた。


 小隊長の右奥、二人の兵士に引きずられるオティラ曹長がいた。

 下半身が無かった。


「ちょ、おいコラ立つなっ!」


 立ち上がろうとしたニコラスを伍長が制すが、当然それを振り払う。


「――要請は」


「は?」


「救援要請はもうやったのか。近隣部隊はどこにいる? 部隊の再編は?」


 矢継ぎ早に質問を浴びせつつ、ポカンと大口を開けたまま固まっている伍長の医療キッドから止血剤をもぎ取った。


 歯で食い破って傷口にかければ、飛び上がりたくなるような激痛が走る。すでに巻かれている止血帯を千切れる寸前まで締め、傍に転がっていたM16自動小銃を杖に、立ち上がる。


「おいっ、そんなに締めたら、」


撤退ピーリングの時間を稼ぐ」


 慌てた伍長が完全に動きを止めた。お前は何を言っているだと言わんばかりの愕然とした面持ちで、呆然とこちらを見上げる。


「お前……」


「一人、いや二人だけ寄こしてくれ。観測手が欲しい」


 それだけ吐き捨てて、ニコラスは直ぐ近くの建物へ足を引きずりながら走った。左脚を切断する羽目になっても、その前に止血死しても構わなかった。


――殺してやる。


 それだけしか、頭になかった。

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