常夜物語

光宮絹荷

現世編

第1話 放課後の誘い【1】

 白い、靄の向こうに青空が透けている。


 雲ひとつない、抜けるような晴天の午後。高層ビルとは無縁の、ただ蹲った猫の背にも似た山々に囲まれた小さな町の、夏が始まろうとしていた。


 眼下の校庭ではサッカー部と陸上部とが領地を取り決め、平和的にそれぞれの陣地内で汗を流している。

 どちらの部ともわからない誰かが、後輩を鼓舞するように叫んでいた。けれどその余韻すら、蝉たちの叫びが掻き消していく。


 なんてことのない、放課後の風景。その長閑さがどこか空々しくて、どうしようもなく首をもたげる苛立ちを、両手に持った二つの黒板消しを強く叩くことで誤魔化した。


 暑い。別段激しく動いているわけでもないのに、頭皮から滲み出した汗が、つぅとこめかみを伝っていく。

 上半身を窓から乗り出しているだけでも、これだ。校庭で激しく運動している生徒たちなど、今頃は人間というよりも汗の塊になっているに違いない。何を好き好んで、人を辞める必要があるのか、理解に苦しむ。


 などと、斜に構えたことを取り留めもなく考えていると、不意に背中を、誰かにつつかれた。


「は?」


 無遠慮なその感触に、思わず顔を顰め、小さく声を漏らす。

 粗方黒板消しが綺麗になった頃合でもあったため、仕方なく上半身を教室の中に戻し、加賀嶺晶かがみねしょうは背後を振り返った。


「ねぇ、加賀嶺の家って火鐘山かがねやま鏡禰かがみね神社だって本当?」


 そこにいたのは、ふたりの女子生徒だった。

 たいして話をしたことはないが、クラスメイトなので一応、名前は知っている。片倉香菜と浅井奈津子だ。


「……そうだけど、だからなに」


 さほど親しくもない相手からの不躾な質問に、警戒心から眉間に皺を寄せる。同時に、どういうつもりだという気持ちを込めて、声をかけてきた香菜にではなく、その隣の奈津子を軽く睨みつけた。


 幼稚園から現在に至るまで、同学年の半数以上の面子が変わらないような田舎町である。知るつもりなどなくとも、友人たちの、そして家族の口から、それぞれの家の事情やら、親が何をしているかなどの情報は嫌でも耳に入ってくる。それも、晶のように実家が地元の神社などとなれば、クラスにはまずそのことを知らない者などいないだろうし、改めて自分に確かめる必要もないはずだ。


 だから、晶は奈津子を睨んだ。知っているくせに、わざわざそんなことで声をかけてくるな、と。いくら香菜がこの春に越して来た転校生と言えど、自分に確かめるまでもなく、奈津子がその疑問に答えてやればよかった話のはずだ。


 しかし、そんな晶の非難めいた視線に、奈津子はただ、はぐらかすように軽く肩を竦める。

 そのあからさまに怪しげな態度に、これは主題が別のところにあるなと悟った瞬間、その答えが、香菜の口から齎された。


「わたしたち今夜、火鐘山に肝試ししに行くんだよね。暇だったら、加賀嶺も来ない? 家が鏡禰神社なら、火鐘山なんて庭みたいなもんでしょ」


 なるほど、と、心の中で納得する。

 毎年、夏になるとこの手のことを言い出す輩は必ずいるのだ。ここ数年は、晶が冷たくあしらうから声をかけてくる者も少なくなっていたけれど、中学に入りたての頃までは、皆好奇心に目を輝かせ、似たようなことを言ってきたものである。


「行かない。興味ないし」


 目的がわかれば、なんてことはない。

 晶はそっけなくそう答え、手にしていた黒板消しを所定の位置へ戻すため、教壇のほうへと歩き出す。


「えー、なんで? いいじゃん、きっと肝試し楽しいよー?」

「いや、俺にとっては楽しくないから」


 やっぱり、と言いたげな顔をする奈津子に反して、香菜のほうは、しつこく食い下がって晶の後ろについてくる。


 都会から転校してきたばかりで、まだよく人となりがわからない、という理由だけではなく、こういった無遠慮なところがあるから、晶は香菜のことがあまり得意ではなかった。恐らく、それはクラスでも少数側の意見なのだろうが。


 くるくる動く大きな瞳と、どこか垢ぬけた人懐っこい笑顔に、物おじしない態度。それは同級生にも、そして大人にも得てして好感の持てる要素であり、そのせいか、片倉香菜は信じ難いほどすんなりと、この停滞した町の中に馴染んでいった。

 それこそ、日頃から地元の田舎臭さに辟易していた奈津子などとは、いつの間にか、まるで十年来の友人であるかのように距離を詰め、気が付けば毎日のようにつるんでいるところを見かけるほどに。


 彼女にしてみれば、大型ショッピングモールのひとつもないこの山間の田舎町で、何か面白いことを見付けようと必死なのかも知れない。

 それが、かえって周囲の人間からすれば、慣れ切った閉鎖世界に吹き抜ける一迅の新風のようで、興味深く映ったのかもしれない。


 晶にしてみれば、自分の周りに過不足なく存在した空気を、無暗にかき混ぜられているようで、あまり良い気分ではなかったのだけれど。


 そんな此方の苦手意識に気付いているのかいないのか、香菜はただ無邪気な様子で、晶の背中に声をかけ続けた。


「てか、折角だし盛り上げて欲しいんだよね。『かがねのお山の鏡沼には龍神様が住んでいる』だっけ? そういう話とかして欲しいんだ」


 不意に香菜の口から出てきた、思いがけない一文に、黒板に明日の日付を書いていた晶の手が止まる。


「お前ら、沼のほうに行くのか?」


 そう問いかけながら、自然と脳裏には、昔見た「鏡沼」の姿が浮かぶ。


 火鐘山の深い緑の奥、神社からは随分と離れた、あまり人も寄り付かないような場所で、静謐に水を湛えていた寂しい沼の佇まい。

その記憶に、無意識にチョークを掴む指先に力が籠る。


「うん。だって怖い噂とかって、だいたい沼の話でしょ。えっと……」

「新月の夜に近付くと、足を引っ張られて沼底に連れて行かれる。沼の底はあの世と繋がっていて、鬼に体を食べられる……とか」

「あ、それそれ!」


 曖昧な香菜の記憶に、それまで黙っていた奈津子が助け舟を出した。

 確かに、そういったありがちな怪談話があの山に、そして鏡沼に存在することは知っていた。

 それは晶が神社の子であるという理由ではなく、この町に住む人間ならば、誰でも一度は耳にしたことがあるだろうという理由で。この辺りに住む子供たちは皆、物心つくかつかないかの時分から、そんな半端脅しめいた寓話を、周囲の大人たちから言い聞かされるのだ。


「でも、アンタのお目当てはそれじゃなくて、真夜中の零時に鏡沼を覗くと、運命の人が映るってやつでしょ?」

「うん、まぁねぇ! だって体食べられるよりそっちのがよくない?」

「間違いない」


 悪びれもない香菜の白状に、それまでどこか難しい顔をしていた奈津子が、漸く笑みを零す。

 ふたりの言う、運命の人云々の噂は、晶にとっては聞き覚えのないものだった。如何にも少女好みの内容からして、此方は大人たちではなく、どこぞの女子学生が言い始めたことに違いない。


 怪談など、都市伝説などそんなものだ。出所も真偽も、考えてみればどこまでも胡散臭い。

 それでも、そんな根も葉もない噂話が絶えることがないのは、ある意味では皆、やはりあの黒々と聳える古い山の姿に、畏怖に近い念を抱いているからなのかも知れないが。


 晶は、何やら声を潜めて話し始めた少女たちから何の気なしに視線を逸らし、窓の向こうの長閑な風景へと目を向けた。

 この教室からも望むことの出来る、青空の裾に広がった、緑の影に。




 この町をぐるりと取り囲むなだらかな山々の、ひとつ。北東の方角に位置する、他のものよりも一回り大きく、膝を抱えて項垂れる人のような形をした山が、先ほどから話題の火鐘山かがねやまである。


 町の鬼門に聳える為か、古くからやれあの世に通じているだの、鬼が出るだのと言われ続けたその山の、中腹から頂上に向かう山道を逸れ、獣道を奥へ奥へと分け入った先にあるのが、噂の鏡沼だった。

 黒々とした水を称え、くっきりと覗き込む者の顔を映すため、そう呼ばれ始めたと聞くが、真偽のほどは定かではない。


 近隣の住人たちには「神域」と呼ぶ者もおり、みだりに近付くなと言う人間もいるが、本来はただ沼の底が定かではないほどに深く、落ちれば死亡事故に繋がる可能性が高いという理由で、あまり立ち入りを推奨されていないというオチがつく。そんな、沼。


 だから、「管理している神社の孫」という観点からすれば、あまり歓迎出来るイベントではないが、絶対にやめろと強く言うほど、晶自身真面目な性質ではない。ただ、


「どっちも興味ない。まぁ、行くなら別に止めないけど、あの沼すごく深いから、足元には気をつけろよ」


 クラスメイトとして、一応の忠告はしておく。知り合いが自分の家の裏手の山で死ねば、どうしたって目覚めは悪いだろうから。


「なにさ、心配なら一緒についてきてくれれば良いのに」

「行かない」

「ケチ」


 唇を尖らせ、いかにも不満気な顔する香菜を、振り向くでもなく無視する形で、晶は日直の仕事を片付けていく。

 黒板の清掃と明日の日直の名前を書き終え、窓の鍵を締めれば、あとは予め書いておいた日誌を、職員室に届けるだけである。

 もう、この場所に用はない。


 最後に改めて、既に自分と、ふたりの女子生徒しか残っていない教室を見渡して、日誌と通学鞄を手に取った。


 しかし、背中に突き刺さる、此方を非難するような恨みがましい視線には気付かない振りで、さっさとその場を離れようとしたその時だった。

 背後の香菜が、どうにも聞き逃せないことを呟いたのは。


「でもまぁ、加賀嶺は来てくれなくても、洲住すすみくんは来てくれるし、いいか」

「は? タケルが?」


 洲住という、馴染みのある苗字に思わず反応し、うっかり後ろを振り向いてしまう。

 それが狙いだったのだろう。目が合った瞬間、香菜はにんまりと、まるで悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。





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