野球の王子様

船橋 千代呼

第1話 運命の再会・・・・

(これは今現在の日本と似て非なるパラレルワールドの世界のお話。)

 皆さんにとって子供の頃に影響を受けたヒーローって誰ですか?例えばサッカーなら本田圭佑とか。テニスなら錦織圭。ボクシングなら井岡一翔とかでしょうか?私、宮脇咲良のヒーローは野球の手塚秀満君です。誰か分からないって?それはそうでしょう。プロ野球でも高校野球の選手でもない。小学校のリトルリーグの選手なのですから。手塚君は私と同学年。右の本格派のピッチャーで、球が群を抜いて速く、得意な球種はスライダー。当時、野球に詳しくなかった私にも物凄く球が変化しているのが分かりました。打っても4番。私は彼が試合で凡退しているのを見た記憶がありません。彼は打つ時、バットを水平に寝かせて構えていました。その神々しさは今でも鮮明に脳裏にこびり付いています。当時は分かりませんでしたが、その構えはプロ野球、中日ドラゴンズの監督時代、Bクラスに一度も落ちることなく、現役時代は3冠王を3度獲得した、監督としても選手としても、恐らくは日本野球界において最高の見識と技術を持った落合博満さんと同じ構えだったのです。ネットで見て真似したのか、自分で編み出したのかは分かりませんが、後者だとしたら末恐ろしい才能。私は彼は将来、絶対にプロになるなと信じて疑いませんでした。私の初恋の人でしたが、話した事は一度もありません。気持ちを伝えられぬまま、お父さんの仕事の都合で大阪から千葉へ。それから6年経ちます。手塚君の消息は分かりません。連絡先を交換したかったのですが、そんな勇気はなく・・・・・。もう一度、彼にどうしても会いたい私は高校に進学すると野球部のマネージャーになったのです。夢は甲子園。手塚君は必ず甲子園に来る筈。彼と闘い、会って、気持ちを伝える。私の頭の中はその一念だけだったのですが・・・・・・・。私の入学した高校はとんでもない学校だったのです。


 私の進学した高校は「聖ミカエル青春学園」。名前から分かるようにキリスト教系列の高校です。独特のカリキュラムを組んでおり、生徒は学年関係なしに、自由に好きなように授業を選択し受けることが出来ます。大学の授業を想像して貰えばいいかと。外国人を積極的に受け入れているのも、この高校の校風かな。自由な校風に惹かれ、この高校に進学しました。高校生活に関しては大変充実しているのですが、青学は野球部が弱小なのです(涙)。情けない事に部員が6人しかいません。試合をするのに最低9人いないといけないので、去年の夏の大会には同じように部員が足りない他校との合同チームで大会に参加しました。結果は1回戦負け。15点取られてコールド負け。3点取っただけでも大善戦という有様です。こうして私の野球部マネージャーとしての1年目は終わりました。今年は3年生が卒業して部員は4人に。5人足りません。状況は去年より更に厳しいです。先ずは新入生を最低5人確保する事が目標。そして緊喫の課題としてピッチャーが欲しいです。青学にはピッチャーの経験のある部員がいない。その為、たとえ部員が揃ったとしても急造のピッチャーで試合に臨むことになります。これでは甲子園は夢の又、夢。出来れば中学で経験のあるピッチャーが欲しいのですが・・・・・。イエス様、ミカエル様、どうか良い導きをお願いします。


3月28日。

 春休み中も野球部は練習です。ドリンクの買い出しに行き、部員たちに一息付かせようとグラウンドに。グラウンドの隅で4人が一塊になって素振りをしていた。

「休憩!一息付こう。」

 私は飲み物を持って、4人に呼び掛けた。

「ありがとう。」

 野球部の部長であり、唯一の3年、石井・昭寛部長が休憩を呼びかけ、皆はバットを置いた。咲良は皆にファンタを配った。普通ならスポーツドリンクだろうが、咲良はいつもファンタを配る。ファンタは咲良にとっての野球の神、手塚秀満がいつも好んで飲んでいたジュースだった。根拠は無いが、ファンタを飲むと手塚君の様に野球が上手くなるような気がしてならなかったのだ。それでいつもファンタを。野球部の4人も誰も文句を言わなかった。

「沁みるぜ。」

 蛭田・修一郎がファンタ・グレープを一口、飲み干して言う。

「喉が渇いている時に飲むと最高だね。」

 不破・光も同調した。

「汗をかいた後の喉に沁みる炭酸が堪らん。これの為に練習してるな。」

 キャッチャーを務めるチームの要、黒田・元哉が4人の意見を総括する。私はこの瞬間が堪らなく好きなのだ。マネージャーをやっているって気がする。

「そういえば宮脇さん。新入生を勧誘するチラシ出来た?」

 石井部長が私に訊ねた。前にも言った通り部員が5人足りない。先ずは最低部員を9人揃えて、青学単独で夏の大会に出るのが目標だ。

「こんなのでどうかな?」

 私はポケットから四つ折りのチラシの下書きを取り出し、開いて見せた。4人は顔を突き合わせながらまじまじと見入る。石井部長が声に出して下書きを読んだ。

「野球部員募集。

  夢にときめけ 明日にきらめけ 目指せ甲子園。

  伝統ある野球部の新しい伝説を作るのは君だ。

  初心者歓迎。 親切丁寧に上級生が指導いたします。

  青学野球部は甲子園に近い。 大会優勝経験有り。」

 無言。私のチラシを読んだ4人は押し黙った。暫しの沈黙の後、蛭田が口を開いた。

「夢にときめけ 明日にきらめけ 目指せ甲子園ってどこかで聞いた事があるな。」

 私はギクリとした。不破が答える。

「漫画だよね。「ROOKIES」。出てくるセリフそのまんまだね。」

「それは漫画を読んで野球に興味を持った新入生に響くんじゃないかなあと、わざとそのまま拝借しているのよ。」

 私の意図を説明すると蛭田がまた突っ込んでくる。

「伝統ある野球部ってのが引っ掛かるな。それは強豪校が言うセリフじゃないのか?うちは野球部が創設して10年に満たないだろ。しかもここ何年かは部員が揃わず、他校との混合チームで夏予選を戦ってる上、1回戦を突破した事も無いのに・・・・・。」

 更に黒田が言う。

「青学野球部は甲子園に近いって・・・・。いくらなんでも盛りすぎだろう。どっちかっていうと、一番遠い高校だろう。」

「千葉の中では近い方です。」

 咲良は口を尖らせて言う。

「どこが近いんだ?」

 その問いに関して、咲良は想定外の事を言い出した。

「うちはここから総武線で東京に出て、そこから新幹線に乗れば良いけど、房総の方の高校は東京に出るまで乗り継がなくてはいけないでしょ。」

 皆、絶句した。咲良がチラシに書いた甲子園に近いというのは、甲子園出場に近い高校というのではなく、甲子園までの距離の事をいってるというのだ。石井部長は咲良に訊ねた。

「じゃあ、この大会優勝経験有りって言うのはどういう事?うちの野球部は大会で優勝した事なんてないと思うけど・・・・。」

「それは有ります。」

 咲良は無表情で言う。

「いつ?どこで?」

 石井部長が恐々尋ねる。咲良はきっぱりと言った。

「去年の校内野球大会で優勝しました。」

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

「・・・・・・・。」

 暫くの間、場を沈黙が支配した。不破が咲良の顔色を窺いながら言う。

「そんなのは普通大会と言わない・・・・。」

 不破に皆まで言わせずに咲良は言い返す。

「校内野球大会も立派な大会です。ちゃんと大会と銘打たれてます。嘘は言ってません。」

 咲良は堂々と開き直った。もはや部員集めになりふり構わぬ様相である。しかし、生来真面目な石井部長は咲良を諭そうとした。

「宮脇さん。ちょっと、こういう表現はコンプライアンス違反になるんではない・・・・」

 やはり咲良は石井に最後まで喋らせず、捲し立てた。

「部長。そんな事を言っている場合ですか?部長にとって今年の夏が最期の夏なんですよ。又、合同チームで一回戦負けでいいんですか?甲子園に行って、活躍して、プロに入るのが夢だと言っていたでしょう。ヒットを1本も打てずに人生終えても良いんですか?部員集めの事は私に任せて、部長は練習してて下さい。私はどうしても甲子園に行きたいんです。じゃなきゃ、人生終わりなんです。部長もそうなんじゃないんですか?」

 気弱な石井部長は咲良の剣幕に押され、コクリと頷き言った。

「そ、そうです。宮脇さんに任せるよ。」

 咲良は顔立ちは綺麗だったが、黒縁メガネを掛けている上、髪型は三つ編みというおしゃれっ気の無い風貌。性格はインドア派のオタク。野球オタクだ。クラスでも目立たないタイプで野球部の部員以外の男子とは殆ど喋らない。大人しい女子と思われていたが、実際は野球の事になると人が変わったように熱く変わる。青学は甲子園に行けると本気で信じていて、その事に執念を燃やしていた。部員勧誘チラシになりふり構わず話を盛るのもそれ故であるが、肝心の4人の部員たちは、もちろん甲子園に出てみたいと思ってはいたものの、現実は厳しいと思う。部員が足りないゆえの他校との合同チームではなく、青学単独の出場で試合に出て、あわよくば野球部結成初めての1回戦突破を成し遂げれば、十分満足できる高校野球人生と思える。その程度の考えしかなかった。即ちこの物語は熱血マネージャーと負け犬部員が甲子園を目指すという物語で始まるのである。


4月1日。

 今日から新学期。クラスメートが騒ぎ立つ2年2組の教室で、咲良は一心不乱に「月刊高校野球」を読み耽っていた。雑誌には中学で鳴らした猛者たちの進学先などが載っていたが、青学に来るものはいない。はあ~~~。咲良は溜息を付く。そりゃそうだよね。将来有望な選手がこんな弱小野球部に来ることはまず無いわね。でも、と咲良は思う。無名でも力のある選手は一杯いる。例えば日米プロ野球で100勝・100ホールド・100セーブを挙げた上原浩治は高校時代などは控えのピッチャーに過ぎず、ほぼ無名だったという。能力のある選手が野球部のしきたりを嫌って、伸び伸びやれるうちみたいな高校に来ることだってある。現に今いる部員たちも皆そうだ。石井部長はあれだとしても、不破君・蛭田君・黒田君は咲良が見る限り、皆、能力が有ると思う。強豪校でもレギュラーになれるのではないか。だが、皆、昔ながらの野球部のしきたりに嫌な思いを子供の頃にしてきてそれで青学に。人数さえ揃えば1回戦で負けるようなメンバーではないのだ。今年はやるぞ。騙くらかしてでも部員を集める。始業式の後の他の部活との部員の草刈り合戦にいかにして勝つか。手塚君に会う為のタイムリミットはあと2年。去年の甲子園には手塚君は出ていなかった。全ての甲子園出場校のメンバーを調べたが居なかった。いったい何処の高校に進学したかが分からない。咲良は本気で探偵を雇って調べて貰おうとも思ったが、高校生に調査費用は大金。それに殆どストーカーだと自分で思い直したのである。大阪に居るとは限らない。彼ほどの選手なら引く手数多であろう。いったい何処に居るのであろう?必ず甲子園に出て来る選手である。今年の夏は彼の勇姿を見れるかなあと漠然と考えていた。そんな咲良に神様のお導きが1分後に下るとは予想だに出来なかった。

 咲良は雑誌に赤ペンでマーカーを引きながら読み、ペンを上唇と鼻の間に挟みながら、物思いに耽っていた。クラスの受け持ちの指原莉乃先生が教室に入って来た時も上の空だった。朝のホームルームが始まる。さしこ先生が皆に挨拶をした。今日から2年生とか、この後体育館で入学式とか他愛のない話だ。ホームルームとは大概どうでも良い話しかしないモノである。咲良の右から入った話は左に抜けていた。最後にさしこ先生は今日から新しい仲間がクラスに加わりますと言った。転校生だ。誰かが男か女か聞くと、さしこ先生は男だと言った。クラスの男子はがっかり、女子は色めき立った。咲良も反応した。カッコいい男子を期待した訳ではない。野球に興味が有る男子ではないか。野球部に入れられないかと食指が動いたのである。先生が廊下で待機している転校生を呼ぶと、その生徒はゆっくりと教室内に足を踏み入れ、さしこ先生の隣に立った。クラスの女子達が歓声を上げる。その生徒は眼鏡を掛けた長身の美男子だったからだ。咲良は背筋に寒気を覚える程の衝撃を受けた。鼻と唇の間に挟んでいたペンが零れ落ちる。なぜならその眼鏡と顔立ち、そして雰囲気に覚えがあったからだ。この人はまさか・・・・・。

 さしこ先生に促され、その生徒は黒板にチョークで名前を書いた。手・・・・塚・・・・秀・・・・満・・・・。そして自己紹介する。

「手塚秀満と言います。宜しくお願いします。」

 やっぱりだ!手塚君だ!咲良は思わず興奮で席を立ち上がってしまった!

「宮脇さん、どうかした?」

 さしこ先生が咲良に訊ねる。皆が咲良を奇異の目で見た。当然である。いつもクラスで目立たない女生徒が美男子に舞い上がっている訳なのだから。少なくとも皆にはそう見えた。事情を皆は知らないのだから仕方が無いのだが。だが咲良にはそんな事は関係ない。言葉は悪いがクラスメートなど糞くらえである。

「何処の高校に居たんですか?」

 咲良の問いに手塚は無言だった。代わりにさしこ先生が答えた。

「大阪藤蔭高校にいたそうよ。」

 大阪藤蔭!なんと手塚君は夏の甲子園3連覇中の高校に居たという。大阪藤蔭は咲良の世代の高校野球界では「絶対王者」とか「不沈空母」とか呼ばれている。その高校に籍を置いていたとは!やっぱり凄い!咲良の胸はキュンと高鳴った。そして逝った。咲良は気を失って卒倒したのである。


 咲良の意識が徐々に戻って来る。何とも言えない心地良さを感じて目を覚ますと、誰かの背中におぶされている自分に気付く。なんと手塚君の背中におぶされているではないか!両腿の裏側を手で押さえられ、胸は手塚君の背中に密着していた。顔は手塚君の左肩に乗っている。憧れの神におぶわれ、咲良はまたしても逝きそうになった。心臓が早鐘を打ち、手塚君に気付かれたらどうしようかと心配になった。手塚君は前を歩くさしこ先生の後ろを咲良をおぶって付いて行く。どうやら倒れた咲良を保健室に連れていってくれようとしている?様だ。意識が戻った後もこの幸せな状況を享受したい咲良は気絶したふりを続けた。背後からそおっと手塚君を抱きしめ、首筋の匂いを嗅いだ。男子の良い香りが咲良の鼻孔を刺激する。これは一体、なんという香りなんだろう?咲良は自分が気絶しているフリをしていた事をついつい失念し、遠慮なくくんかくんかと手塚の匂いを肺一杯に嗅ぎまくった。手塚は立ち止まり、前を歩いていたさしこ先生を呼び留めた。

「指原先生。」

「なに?どうしたの?」

「救急車を呼んだ方が良いかもしれません。この子の呼吸の状態が普通ではないです。」

「本当?」

「念の為、手配をお願いします。」

 それを聞いた咲良は泡を喰った。本当に救急車を呼ばれては堪らない。咲良は三文芝居を売った。たった今、意識が戻った風を装ってこう言った。

「あれ?ここ何処?私どうしたの?」

「あっ、宮脇さん、気付いたの?」

「先生、どうしたんですか?」

「ホームルームの最中で急に意識を失ったのよ。大丈夫?」

「はい。全然平気です。ちょっと貧血を起こしただけです。救急車は呼ばないで下さい。」

「それなら良いけど、入学式には出ないで良いわ。保健室で休んでいなさい。自分で歩ける?」

「・・・・ちょっと・・・・フラフラします。」

「それじゃあ、手塚君。宮脇さんを保健室に連れて行ってあげてくれる?」

「分かりました。大丈夫です。その後で体育館に行きます。」

「OK。それじゃあ、お願いね。」

 さしこ先生は咲良を手塚に任せると、その場を後にする。手塚はさしこ先生が教室に引き返すのを暫く見送ってから、踵を返し、保健室に向かった。歩きながら咲良に話し掛ける。

「保健室はこの先?」

「はい、そうです。」

「それじゃあ、行こう。」

 本当は咲良は自力で保健室に何の問題も無く行く事が出来るのだが、手塚の背中から降りたくないので、フラフラすると嘘を。

「あの・・・、重くないですか?」

「問題ない。」

 手塚君にこの女はなんでこんなに重いんだ、等と思われるのが嫌だった咲良は、ホッと肩を撫で下ろす。手塚は黙って咲良を背負い、廊下を進んでいく。咲良としてはこの天が与えたもうたチャンスに、もっとコミニュケーションが取りたい。6年もこういった時間を過ごせることを願い続けていたのだから。しかし、何の準備も無く、いきなり夢が実現すると何を話せば良いか困る。何を話そう・・・・・。

「手塚君って、いい匂いがするね。これって何の匂い?」

 手塚はその問いに何も答えない。咲良は聞いた質問が失敗だったか?等と一人で自問自答していると、手塚は

「アックスだ。」

 良く言えば静かに、悪く言えば愛想なく答えた。

「へ~え。アックスって言うんだ。お洒落だねえ。」

 アックスって何だ?香水か?聞いた事がないが。元々、お洒落などしない咲良は、香水の銘柄など分からない。最近流行ってる歌でドルチェ&ガッバーナという香水がある事ぐらいしか分からない。アックスという香水はいま流行っているのであろうか?仄かな香りが男らしい。やらしく、きつくない香り。手塚君にピッタリだと思った。そおっと、手塚君の首筋の匂いを嗅ぐと幸福感で一杯。らりった咲良は匂いを嗅ぎながら饒舌に話しかける。毎日一袋、カルビーのベースボールカードチップスを食べている。佐々木郎希のルーキーカードが欲しいだとか、大谷翔平のルーキーカードを2枚持っていて、それが3千円の価値が付いているだとか。野球オタク丸出しの話をした。咲良としては手塚君もきっとカルビーのベースボールカードを集めているに違いないと思っていた。何故なら、青学の野球部員はみんな集めていたからだ。皆でカード交換会をするのは常であった。手塚君ともカードを交換して仲良くなりたいというのが、咲良の希望であったのだが・・・・。手塚君はふ~んという感じで話に乗って来なかった。咲良は話を転換する事に。

「さしこ先生は野球部の顧問なの。昔はソフトボールをやっていたんだって。そうは見えないよね。」

 とにかく咲良は何でもよいから手塚君と話がしたくて堪らなかった。手塚君の背中で匂いを嗅ぎながら話をするだけで、ランナーズ・ハイの様な気持ち良さを覚えるのだ。手塚の返事は素っ気なかった。

「喋らなくていい。」

「えっ・・・・・。」

 ドキリとする咲良。五月蠅い女と思われたのか?喋りすぎたのが拙かったのか?だが、手塚君の答えは意外なモノだった。

「息が苦しいんじゃないのか。さっきからハアハア言ってるけど。気を使って話し掛けなくてもいい。」

 手塚君は私が匂いを嗅ぎまくっているのを、呼吸が苦しいからだと思っている様だ。それで無理に話しかける必要はないよと言ってくれているのだと咲良は判断した。なんて優しい人なのだ。思い続けてきた手塚君と話すのは今日が初めてだが、やはり思っていた通りの人だったと思うと咲良の胸はキュンとした。

「ありがとう。」

 咲良はそう言うと、手塚の首に手を回し、強く抱きしめた。首を絞められる形になった手塚は小さく「苦しい・・・・」と呻いたが、自分の思い込みの世界に浸る咲良には聞こえなかった。


 保健室には誰も居なかった。仕方なく手塚は咲良を一番奥のベッドに連れて行き、そこに降ろした。ベッドの上に寝かしつけ、掛け布団を掛けてやる。咲良はお姫様の様に扱われ夢見心地だった。手塚はベッド脇の椅子に腰掛ける。そして咲良の顔をまじまじと見た。咲良は心臓の鼓動を抑えられない。まさか手塚君も私に好意があるのだろうか?

「あの、何ですか?」

「何が?」

「私の事をジロジロ見るから何でかなって・・・・・。」

 手塚は目を背けて言った。

「以前、会った子に余りにも似ていたから、それで。」

 えっ!それって・・・・。手塚君も私の事を憶えていた?これは完全に脈ありじゃない?こんな事ってある?咲良は一人で盛り上がり、顔を紅潮させた。手塚は左手で咲良の額に手を当てる。まじまじと顔を見つめ、言った。

「熱もあるようだ。呼吸も苦しい。急性気道炎かも・・・。保健の先生はおそらく、体育館で入学式に出ているんだろう。呼んでくるから大人しく寝ているんだ。」

 手塚君は保健室を出て行こうとする。咲良は呼び止めた。ここまでしてくれる手塚君に一言、伝えておかなくては・・・・。

「あの、手塚君・・・・。」

 振り返った手塚に咲良は言う。

「実は・・・・、私、マネージャをしていて・・・・。」

 手塚は何も言わず、しげしげと咲良を見つめる。

「3年生が引退して、その・・・・・・。」

 咲良の声が小さくなる。せっかく青学に手塚君が来てくれたのに、言いずらいなあ。

「部員が足らないの・・・・・。」

 手塚君は無表情だ。がっかりさせたくない。

「だけど、心配しないでね。私の責任で新入生からメンバーを絶対集めて見せる。約束します。」

 咲良は力強く断言した。メンバーを集められる確証は無かったが、手塚君に良い顔をしたかったのだ。恐る恐る手塚君の表情を窺う。手塚君は微笑を湛えながら言った。

「頑張って。」

 それだけ言うと、手塚は保健の先生を呼びに保健室を後にした。それを見送った咲良はベッドに横になる。自然とにやけてしまう。手塚君は咲良に頑張ってと言った。これは私に期待しているという事ではないのか?少なくても咲良はそう受け取ったのである。青学の弱点であるピッチャーは超高校級の手塚君がいる。これで部員は5人。あと4人揃えれば本当に甲子園に行ける。本気でそう思えた。手塚君をなんとしても甲子園に送り出す。その為には手段は選ばない。なんとしても部員を揃えることが私の使命だ。放課後が待ちどおしいなあ・・・・・。 

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