鰐と蝶々
にじさめ二八
鰐と蝶々
鉄臭い。不快感が鼻腔を突き抜けて眼を濁し、頭の中で煤が舞い上がるみたいだった。
自分のむせかえる声と、極度の空腹で目を覚ます。しかし眼を閉じても開けても、見える光景は変わらない。
何も見えない中、得体の知れないぷよぷよしたものが鼻先に触れて、悲鳴をあげて、反射的に体がバタついて、ようやっと自分の身に起こっていることが分かった。いや、それはこの状況に至った経緯ではなく、言葉通り、自分の姿勢についてだが。
腰あたりでもぞもぞと動かしている指先から、俺が伏している場所の素材が感じ取れる。
木だ。木製の箱。
そしてここは酷く狭い。右肩を自身で押し潰し、横向きに寝ている俺の体は、そのまま方向を変えることさえままならない窮屈な場所にいる。
足先方向以外には腕も伸ばせない。頭よりも高い位置にあげることは叶わず、僅かな光もない中で自分の掌が顔の輪郭をなぞってやれるのみ。
まるで棺。いや、もっと狭い。
俺は自身の境遇にとてつもない恐怖を感じて泣き叫び、鳴き喚き、鼻先にあたるソレを押し返した。
今の俺に許された挙動、暴力、抵抗、感情表現。それは、鼻先十数センチ先にあるソレを押し返すことだけだった。
なんだこれは。
あたたかい。常温程度。いや、掌から感じる温度はもっと馴染みやすい。
張りがある。風船のようでもなく、薄い膜の内に詰まった分厚い感触。
そして、わずかに動く。
「…………足?」
あいにくと頭上より先の形状は分からないが、これは間違いなく人の脹脛(ふくらはぎ)だった。
しかも動いているということは、意識がある。
「おい、おい、おい! …………聞こえないのか? おい!」
「うるさいよ、さっきから」
女の声だった。そうか。この柔らかい感触は女の脹脛だったのか。
「なんなんだこれ! 助けてくれ! 全然動けない! すごい狭いところに閉じ込められてるんだ!」
彼女は何者なのか、なんで冷静なのか。なんで俺と頭の向きを真逆にして横たわっているのか。気になることは山ほどあるが、今はこの状況を突き止めること、それしか考えられなかった。
「頼む出してくれ! なんでこんなことになってんだ! 何したんだ俺が! 助けて、助けてください! お願いです、お願いです、お願いです、お願いです! おね」
「うるさいよ、騒ぐと早く死ぬじゃないか」
死ぬ? 今死ぬって言った? なぜだ。なぜ俺が死ぬんだ。この状況から抜け出せないとすればいずれ死ぬなんて、簡単に分かるじゃないか。だから俺はさっきから助けを求めてるのに。死ぬなんて考えないようにしてるのに。
死にたくない。死にたくないんだ。そう考えていたら、何だか足元から寒気がやってきた。
そして、再びあの臭い。鉄臭い。
「あんたに騒がれるとあたしも困るんだ。勘弁してよ」
「なんだそれ、どういう意味だ?」
息も絶え絶え。力の抜けた声が出た。
「あんたみたいに騒ぐのはもう済ませたよ。でも、騒ぐと喉が渇くから…………大切に飲みたいんだよ」
そういえば確かに暑い。ここは暑い。
でも、足元は何故かひんやりしているみたいだった。
「あの」
「…………無駄口はやめなよ」
「あなたは、あなたも…………動けないんですか?」
結局、俺もこの女も境遇は同じなのか。俺たちは一つの棺に、仕切り板を挟んで頭の向きを互い違いにして収まっているのか。
なんだこれ。何なんだ、この状況。一体誰が何のためにこんなことを。
だが、暑さと空腹にやられて、もはや叫ぶ力もなかった。
「腹減った」
女は黙っていた。
「あの、飲むものがあるんですか?」
分けてほしい。
「分けてもらえますか? なんであなた側にだけ水が? あんまりだ」
「…………無いの?」
あるのか? 可能な限りで手を動かしてみたが、あるのは相変わらず女の脹脛だけだった。
「…………ないです」
「なら諦めな」
また少し、鉄臭い。
この臭い、知っている気がする。
「あの、何を飲んでいるんですか?」
「分からない。暗いから見えないけど、目の前のチューブを吸うと出てくるんだ」
「何の味ですか? この鉄みたいな臭い…………」
「考えたくない。死にたくないから、考えない」
なぜだろう、頭が働かないな。腹も減った。
女は何を飲んでいるんだろう。
足先から徐々に感覚が鈍ってきた。暑さのせいだろうか。
皮膚の下から冷えていくみたいな。
この感じ。
「何を、飲んでいるんだ?」
細いチューブ。冷えていく足。鉄の臭い。
死が近づくのを感じた。
この状況がもたらす、死を回避するための食物連鎖。
まさか、そんな馬鹿なことがあるわけない。
夢に決まっている。俺は信じない。
目の前の脹脛に歯を立てて、女の叫び声を聞きながら、俺はもう一度考えた。
腹が減った。
<了>
鰐と蝶々 にじさめ二八 @nijisame_renga
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