56
マナが処置室にいる間、ドア横の長椅子に腰掛ける凪の心臓はずっと強く鼓動を打っていた。
施術が無事に成功したら、もう後戻りはできない。
記憶が戻ったとき、彼女はマナのままなのだろうか? それとも、もともとの人格のベースとなった人間と同一のものになるのだろうか? あるいは、そのどちらでもない存在になるのだろうか?
これまでの彼女との日々が嘘になってしまうかもしれない。彼女と共に経験してきた様々な思い出や、そこで経験した様々な感情に新たな解釈を迫られるかもしれない。
そのどれもが自分の心を形作るかけがえのないパーツなのだと実感する。彼女に起きる変化によって、そこから全ての意味が奪い去られてしまったら? もしそうなれば、今度こそ自分は本当に崩れてしまう。
照明の点いていない廊下の床に、ロビーの窓から入った光がぼやけて反射している。空気が重い。もう体を動かせない。一秒、また一秒と経過するごとに緊張が増していく。
ドアの開く音がした。
背中に乗っていた重みがふっと消え、咄嗟に音の方向を見る。
廊下に現れた彼女は逆光に縁取られ、儚げに輝いていた。愛着を引き起こすほどに見慣れたその瞳と再び視線が合う。彼女はこちらを少し見つめた後、その口元に微笑を浮かべた。
「ひどい顔。大丈夫だよ」子供をなだめすかすような、優しい声色。
マナがこちらに近づいてくる。その像がぐにゃりとぼやける。
彼女の指先が凪の目尻に触れ、そのまま頬を撫でる。
「そんな顔しないで、私まで泣けてきちゃうよ」
「はは、どうせ……」
どうせ涙なんて出やしないくせに──そんな冗談を飛ばす前にこみ上げていた涙が溢れ出し、それを隠そうと
もう声は出せない。彼女に涙声は聞かせられない。
*
「少しは落ち着いたかな?」
しばらく長椅子でマナと寄り添い顔を伏せていると、大間が声をかけてきた。
彼女に無様なところを見られてしまった。大間にも気を遣わせたようで、マナと二人分の飲み物までもらってしまった。
「……はい、僕はもう大丈夫です。気を遣わせてしまって本当にすみません……」
「私も平気です」
大間はこちらを見てにっこりと微笑んだ。
「そうか。ここを出る前に、鑑から君たちに見せておけと頼まれていたものがある。だから悪いけどもう少しだけ付き合ってくれ」
「鑑さんから? 何ですか?」凪が訊く。
「残りの仲間たちさ、着いてきてくれ」
大間が白衣を翻して廊下の脇の空間に消えていく。ちらりとマナに目配せし、彼の後を追う。
進んだ先には地下への階段があった。照明は踊り場に存在する白い点光源のみで、前を歩く大間の影が階段に長く伸びている。
「なんか、初めて会った日のこと思い出すね」隣を歩くマナがぽつりと言う。
廃墟の地下へ逃げた時のことだろうか。確かにあのときもこんな暗い階段を携帯端末の光だけで進んでいた。
「そうだね。つい最近のことのはずなのに、もう随分昔のことみたいだ」
階段を降り、地下室に出る。小ぶりな劇場ほどの大きさだ。突き当りには人が浸かれそうなほど大きい水槽があり、それに取り付けられた照明のみが暗い空間を照らしている。
水の中に何かが浮いている。真っ白な塊。よく見るとそれは膝を抱えた人間の形をしていた。それが男なのか女なのか、生物なのか人工物なのか、人間なのかそうでないのか、なにも分からない。
「あの……奥の水槽はなんですか?」マナが大間に訊く。
「君に投与したマイクロマシンの培養槽だよ。浮かんでいる生体がその苗床さ。循環系や一部の消化系を除いて、すでに彼を構成するほとんどの組織が微細な機械に置き換わっている。その体全体がマイクロマシンを生み出す源であり、また途方もない能力を持つ並列計算機でもある」
もう一度水槽の中に胎児のポーズで浮かぶ物体を見る。白い粘土のような質感の背中から、太いコードがいくつも伸びていた。それらは水槽の外に這い出して、天井や地面を木の根のように伝っている。
コードの終端は、床のあちこちに点在する箱状の機器に接続されていた。全て腰の高さほどの大きさで、側面にグリーンのランプが小さく灯っている。
大間が部屋の奥に進み、その一つに手を添えた。凪とマナもそれに続いて部屋の奥へ進む。
「この機械の一つ一つに仲間の制御系が入っている。体を持たないみんなは培養槽に浮かぶ彼に接続し、その内側にある仮想的な空間の中で生活しているんだ」
凪は手近な機器の一つに目をやった。他のものと違ってグリーンのランプが点いていない。上面に取り付けられた金属のプレートが水槽から降る光を反射している。よく見るとそこには文字が掘られていた──C. Kagami
大間から語られる言葉の一つ一つが、この部屋にあるものの一つ一つが、心のうちに得体の知れない生理的な嫌悪感を呼び起こす。隣りにいるマナも口元を固く結び、なんとも言えない表情で水槽からの光を浴びていた。
彼女も大間たちの仲間として受け入れられたら、制御系を取り出されて水槽に浮かぶ物体に接続されるのだろうか。あの、白い土を人の形に固めたようなものに。
*
トラックが古民家近くの駐車場に戻った時、日はすでに沈み、辺りは暗くなっていた。
診療所を出てからここに来るまでの間、無人の街をあちこち巡った。鑑に様々な雑用を押し付けられたような気はするが、何をしたかあまりよく思い出せない。頭の中はずっとマナのことでいっぱいだった。
トラックの荷台から降り、助手席に駆け寄る。
ドアが開き、中からマナが顔を覗かせる。その表情からは具合が悪そうなことが見て取れた。
「大丈夫?」
「平気、ちょっとボーッとするだけ」マナが笑顔を向けてくる。それが取り繕われたものであることは簡単に分かった。
彼女が少し高さのあるトラックの助手席からふらふらと地面に降りようとする。細い足が接地した時、体の軸がぐらりと揺れた。慌ててその肩を支える。
「……ごめん、ありがとう」マナが弱々しい声で言う。
彼女に肩を貸して微笑みを返す。その表情は弱りきっていて、見ているのも辛い。彼女がここまで疲弊しているのは、恐らく体調が悪いためだけではないだろう。
「マナ」鑑が呼びかける。「今日は部屋に戻って休んでろ。凪はマナを看ててやれ」
内心少し救われた気持ちになった。正直、もう彼女のことが心配で他のことなんて手につかない。
「分かりました」
凪は短く言葉を返し、そのままマナと共に寝室へ移動した。
*
寝室で寝転がるマナの表情は次第に苦しみの色を帯びていった。口を固く結んで呻きながら、時折何かから逃れたいように首を激しく振っている。
「……寒い……怖いよ……」
彼女がうわごとを言う。先ほどからずっとこんな調子だ。もう呼びかけには答えないし、握った手を握り返すこともない。かなり意識が朦朧としているようだ。
「大丈夫、そばにいるから……」
マナの手を強く握りしめながら言う。最早こちらの声が聞こえているのかもよく分からないが、それでも声をかけずにはいられなかった。自分自身を安心させるためにそうしていると言ったほうが実際に近い。
暫くそうしているうちに、突然彼女の表情から緊張が解けた。不規則だった呼吸がゆっくりとしたリズムに戻る。眠れたのだろうか、それとも、限界が来て気絶したのだろうか。
途切れるように静かになった彼女を見て思う──次にこの目が開く時、彼女は記憶を取り戻しているのだろうか。その時、彼女は僕が知る彼女のままなのだろうか。
手を繋いだまま寝転がる。緊張から逃れるために目を閉じて深い呼吸をするも、すぐに目を開けて彼女の顔を確認してしまう。
淡い月明かりだけが入る刺激の乏しい寝室の中で、段々と様々な感覚が曖昧になっていく。夢か現実かもあやふやなまま、張り詰めた意識でただじっと彼女が目を覚ますのを待つ。
彼女と手を繋いでいるのに、心はこれまでに感じたことのないほど強い孤独感に支配されている。地球ではないどこか知らない星の上で、ぽつんと一人寝転がっているような気分だ。
耐え難い孤独の中、永遠に続きそうな長い長い静寂のあとで、隣に寝ている少女が突然短く呻いた。
「……凪くん」
心臓がドクンと跳ねた。
彼女の重たい睫毛がゆっくりと持ち上がっていく。開かれた目がはっきりとこちらを捉えた。その顔から幸せが溢れだすように、笑みが零れる。
──僕に笑顔を向ける君は、一体誰?
彼女の目が、苦しみとも喜びともつかない色合いを帯びて慈しむように細まる。
「……私、全部思い出せたよ。君に与えられた痛みも苦しみも幸せも、全て思い出せた。この大切な思い出と一緒にまた君の胸の中に帰ることができるなんて……本当に夢みたい……君があの時無事で、本当に本当によかった……」
凪は思わず彼女の髪に手を添えた。彼女の手がそれに優しく重なる。
「目を閉じてからもう一度開くまでの間、私の中にある君への気持ちは何も失われなかったよ……マナと呼ばれていた私も、もともとの気持ちと同じように君と繋がり合っていたから……」
夢中で彼女の頭を引き寄せる。胸の中に確かな彼女の体温を感じる。彼女も手を背中にまわし、体に強くしがみついてくる。
歪にゆがめられた自分の形に、彼女の形が隙間なくはまっている。もう二度と満たされることがないと思っていた場所を、その体が温めていく。
彼女が胸に額を擦りつけてくる──君は昔からそうするのが好きだった。
「ただいま、凪くん……」
──やっと、彼女の名前を呼べる。
「……おかえり、チカ」
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