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 角材を携え、出入り口の横に立って耳をそばだてる。凪の立つ場所は、ドアが開いた時相手から死角になる位置だ。

 中々出てこない。彼も慎重になっているのだろうか──そう思った所で、壁を隔てた向こう側から木材の軋む音がした。音が近づいてくる。階段を降りているらしい。


 角材を握る両手に力がこもり、震える。


 相手とやり合う選択をした以上、少しでも躊躇ちゅうちょすればこちらが殺されてしまう。これからやろうとしているのは、命のやりとりだ。

 それを自覚して、恐怖とは別に妙な感覚を覚えた。胸の底から湧き上がる黒い興奮。その感覚にはすでに身に覚えがある。この手の震えは、怯えから来るものではない。


 足音がピタリと止んだ。ドアノブに意識が集中する。

 カチャリという音と共に扉が開く。ぬっと男の横顔が現れ、その狐のような目と視線が合う──今だ。

 全力のタックル。狐目の男の体にドアが衝突し、派手な音をたててバウンドする。彼はぶつけた箇所を庇うように怯み、一度猟銃を手放した。

 この隙に──振り上げた角材を狐目の頭へ全力で振り下ろす。

 直撃。重くめり込む感触が手元に伝わり、ゾクゾクとした快感が全身を駆け抜けていく。


 誰かを守るために、別の誰かの物語をこの手で終わらせる。ただ二人で居続けるために、目の前の人物から全てを奪う。

 手のひらから伝わる鈍い振動が、マナとの絆を真に証明してくれる。彼女と二人でこの男を壊すことができたら最高に気持ち良さそうだ──そんな、いつもなら思いもつかないような欲望が沸き起こった。


 体が怪物に乗っ取られていく──拒絶しようにも、それは抗いがたい快感を伴って全身を犯していく。


 角材の衝撃で狐目のイヤーマフが飛んだ。同時に、彼の頭から黒い液体が吹き出す。右目周辺の皮が剥がれて金属のパーツがあらわになる。

 こいつ、ヒューマノイドだ──凪はこの時初めてその事実に気づいた。

 hIEだろうか? そのはずはない。行動管理クラウドにログが残るhIEを殺人に使うとは考えにくい。それに彼は、公共のセンサーがある場所でこちらに危害を加えることを躊躇するような発言もしていた。

 恐らく彼は自律制御のヒューマノイド。マナの開発者から送られた刺客なら、彼女と同じ仕組みで動く制御系を搭載している可能性が高いだろう。

 よかった──彼は死を恐怖し、痛みに悶える心を持っている。相手が何も感じない機械だったら、〝意味〟がないんだ。

 相手に自分と同格の主体があると認めた上で、それを奪いたい──長く胸の奥底に閉じ込めていた怪物が、そう欲していた。


 狐目は外装の剥がれた右目をギロリとこちらに向け、再び猟銃を構えた。咄嗟に後ろへ飛び退く。ほとんど同時に、衝撃音がガレージに反響する。

 左頬に熱を感じた。どれほどの深さかは分からないが、弾が掠ったようだ。

 そんなことに気を取られている場合ではない。彼の猟銃は二連射できるはずだ──さらにもう一度発砲されることを予期し、飛び退いた勢いでそのままトラックの裏へ転がり込む。

 直後、予想通りもう一度猟銃が火を噴いた。弾がトラックの車体に命中し、金属音を狭いガレージに轟かせる。それが右耳だけに強く感覚されたことで、左耳が機能していないことに気づいた。


 今ので二発目だ。次の発砲までには装填が必要なはず──もう一度角材を振り上げ、トラックの影から狐目に飛びかかる。

 全力の殺意を込めて振り下ろした角材を、狐目は猟銃の銃身で受けた。彼の手は先程発砲したばかりの熱せられた鉄を握りしめている。

 反動で角材が弾かれ、重心が僅かに後ろへ移動する。瞬間、腹に重い衝撃を受けた。狐目の蹴りが入ったのだ。肺から空気が押し出されて喉が鳴り、そのまま仰向けに倒れ込む。

 すかさず狐目がマウントを取ってくる。少しのもみ合いの後で、彼の手にきらりと光るものを認識した──ナイフだ。

 それが高く掲げられた瞬間、あたりをまさぐっていた凪の右手に何かのが触れた。咄嗟にそれを掴み、狐目の顔に向かって振る。

 鈍い音がした。金槌だ。ぐにゃりと歪む狐目の頬。彼の全身から力が抜け、手元からナイフが滑り落ちる。それは顔のすぐそばを転がり、カラカラと音を立てた。

 隙ができた狐目の手を掴んで固め、腰を強く上に突き上げて緩みをつくる。体を翻し、床に叩きつけるように上下関係を逆転させる。

 狐目はなおも鋭い眼光で睨みつけてくるが、その体にはまだ十分に力が入らないようだ。


 次の殴打で彼の頭が割れる──無防備になった狐目に馬乗りになり、右手に握りしめた金槌を振り上げながら、そう確信した。

 怪物の欲望に身を任せ、男の頭を破壊するために力を込める。殺意の飽和した腕から全身へ黒い快感が電気のように流れ、駆け巡る。


 絶頂の寸前で、声がした。


──全ては彼女と共にいるために。無垢でいられるあの時間を守るために。


 怪物のものではない。それは自分の声だった。



 気がつくと、振り下ろした右手は狐目に掴まれ、止まっていた。


「──今、人であろうとしたな」


 狐目の声は、今まさに命のやりとりをしている相手にかけるものとは到底思えない、落ち着いたものだった。

 全てを見透かされた気がして思わず乾いた笑みが零れる。狐目がそれに笑い返す。


 顎に、強い衝撃。世界が回転する。そんな感覚から少し遅れて、殴られたのだと認識した。

 頭が揺れる。体から力が抜けていく。

 抵抗できぬままうつ伏せにさせられ、足で床に体を押し付けられる。

 彼の手が後ろ髪を掴んだ。頭がぐっと引かれ、持ち上がる。屠られる直前の家畜のように、無防備な首筋を狐目に曝す。


 どくどくと命の熱が流れるその場所に、鋭利で冷たい感触が触れた。


「……君は強い。殺意を振り下ろそうとするその瞬間まで、君は自分を見失わなかった。矛盾した言い方だが、人並み外れて人間的だ。そしてその人間的な強さ故に、君は今日ここで死ぬ」


 霞んだ目が積まれた角材を捉えている。この人生で見る最後の景色としては、少し残念なほど、味気なかった。

 今日のことを二人で笑い飛ばす──彼女と別れ際にしたその約束は、とうとう叶えられそうにない。


──マナ、どうか無事で逃げ切ってくれ。


 目を瞑り、歯を食いしばって最後の瞬間を待つ凪に、狐目の冷たい声が届く。


「誇りを持って逝け、少年」

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