22
晴香が目を覚ました時、視界に広がっていたのは寝室の天井だった。
頭が痛い。心臓の鼓動と同期して頭蓋骨を圧迫するような鈍痛。それとは別に、おでこの右上にぶつけたような痛みもある。触れると微かに腫れていた。たんこぶだ。
「晴香ちゃん! 気がついたんだ! よかった……」
天井だけを映していた視界にマナの顔がフレームインする。
「マナ……?」
「びっくりしたよ……いきなり倒れて」
倒れた……? そうか、倒れたのか。
自分の体力的な限界は認識していたはずだったが、芋蔓式に明らかになる新たな事実に興奮して疲労感が麻痺していたかもしれない。
「続き、やんなきゃ……」
体を起こす。視野の動きと平衡感覚がまるで合わない。その誤差が吐き気に変わり、胃の底から溢れようとする。
「何言ってるの!? そんな状態で何かできるわけないでしょ! 熱だって四十度近くあったよ」
マナに半ば強引に寝かせられ、仰向けに戻る。
「晴香ちゃんは頑張りすぎなんだよ。一度休んで。必要なことは私がやるから何でも言って」
不安を募らせた少女の表情。口角が、意図を帯びて持ち上がる。その笑顔が自分のために作られたものと気づき、情けない気持ちが溢れた。
「ありがとう。これぐらい薬飲んで寝てれば治るから心配しないで」
薬を確保するためにもう一度起き上がろうとするも、マナの手がそれを止める。
「薬は取ってきてあげる。お願いだから、晴香ちゃんは寝てて」
*
その日の夜は何もできなかった。
いくつものランダムな思考が混線するような感覚に眠りを妨げられ、ひたすら不快感に耐えながら時間をやりすごした。一度深夜にマナの目を盗んで調査を進めようとしたが、細かい文字を目で追うだけで吐き気がこみ上げ、結局何もできずベッドに戻った。
自分が寝ているのか起きているのかも分からないまま、窓のない部屋で時間だけが過ぎていく。
朝が来たことを認識したのは、マナが「おはよう」と言って寝室に様子を見に来たときだった。
「具合はどう? 少しは楽になった?」マナの手がおでこに触れる。
「……うん、大分良くなった。心配させてごめんね」
嘘をついた。目眩も吐き気も変わらずあり、喉の痛みと怠さは前日よりも増している。
症状が悪化したような体感があるのは、不調を訴える体と会話することしかできない時間が、病人であることを嫌でも自覚させるためだろう。ならば無理にでも健康なように振る舞って、何かしていたほうが楽になれるはずだ。なにより彼女にこれ以上心配をかけずに済む。
そう思っての返答の後で、なぜか不自然な沈黙が流れた。
マナの顔に視線を移す。
彼女は瞬きをせずに、こちらの目をじっと見つめている。
ほどなくして彼女は目元の緊張を解き、口を開いた。
「嘘ばっかり。熱が下がるまで休んでないとダメだよ。水と冷やしたタオル持ってきてあげるね」
彼女が寝室を出ていく。パタンとドアが閉まり、しんとした部屋に一人残される。
なぜ嘘を看破されたのだろう。傍から見た自分はそんなに具合が悪そうなのだろうか。
できることもなく、しばらく天井を見つめていた。
五感への定常的な刺激はやがてぼやけて、微かなマナの生活音だけがなんとなしに意識される。溶け出した彼女の気配が部屋の空気を暖めながら、胸にじわじわと染み込んでいく。
「……!」
不意に目頭が熱くなるのを感じた。
慌てて布団に顔を潜らせる。マナに泣き顔を見られるなんてたまらない。
暑い布団の中で、何故か溢れそうになっている感情を追い出すために深い呼吸をする。
深く吸う。吐き出す。
深く吸う。吐き出す。
深く吸う。吐き出す。
……。
何度か深呼吸を繰り返すうちに、感情が高ぶっているような感覚はなだらかに引いていった。
もう大丈夫そうだ──晴香は布団からそっと顔を出した。
涼しい空気に顔を冷やされながら考える──どうして涙が出そうになったのだろう? 体が弱ると心も弱るのだろうか。
「おまたせー」
マナが水と、冷やされたタオルをトレイに乗せて寝室に戻ってきた。それをベッド脇のサイドテーブルに置き、タオルを手にとってこちらに差し出してくる。
「……ありがと」
タオルを受け取って額に付ける。
心地よい冷たさに注意が逸らされ、その間だけ吐き気や怠さが和らいだ。皮膚感覚への強い刺激に三半規管からの信号が締め出されているのだろう。この隙にと、上体をゆっくり起こす。
マナはサイドテーブル前の椅子に腰掛けていた。ハイウエストのフレアスカートに、ふんわりと肩が膨らんだブラウスを薄い体で着ている。
「その服着てくれたんだ。思った通り、あんたにはそういう服が似合うね」
買ったのはいいものの、少女っぽすぎて恥ずかしく、捨てようと思っていた服。
「えっそんな、照れちゃうよ……ごめんね、譲ってもらっちゃって」
「いいよ、あたしには似合わなくて、どうせ捨てようと思ってたやつだから。それにしても本当に似合うね。凪が好きそう」
さっきまで照れ笑いを浮かべていたマナが途端に微妙な表情になる。
何か良くないことを言ってしまっただろうか。正直熱で頭がぼやけていて、自分が何を話しているのかよく分かっていない。
「あたし何か悪いこと言っちゃった?」
「いや! そういうんじゃないの。……なんでもないよ。タオル変えてあげるね」
マナは少しぬるくなったタオルを晴香から受け取ると、静かに部屋を出ていった。
様子がおかしかった……気がする──晴香はしばらく回らない頭で彼女にかけた言葉を反芻していたが、次第に吐き気が強まり、水を一口だけ飲んでまた横になった。
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