書きなぐり

死人

黄色の爆弾

その日は雨が降っていた。土砂降りではなく、しとしとじめじめと肌にまとわりついてくるような雨だ。低気圧で体調が悪くなる人たちのことを私はそんな訳あるかとひそかに馬鹿にしていたが、今日限りは彼らに謝らねばならない。それくらい重く、嫌な天気だった。聞こえてくるのは雨音と時計の音だけ。この天気が時間すらも遅くさせているように感じた。このままじっとしているのも何かに負けたような気がして癪に障るが、かといって家を出る用事もない。しかしこの時間が続けば湿気に飲み込まれてどこか遠い所へと連れていかれるかもしれない。いや、案外それも悪くないのではないだろうか。私がうんうんと葛藤しているとふとスーパーのチラシが目に入った。いや、正しくはチラシの隅っこに書いてある『レモン 一一〇円』という文字が目に入ったのだ。私の頭の中でレモンという言葉がやまびこのように反射する。布団のようにのしかかってきていた湿気を押しのけて立ち上がり、私は着替えて外に出る。レモン一つのためだけに。なぜだか無性にその黄色に惹かれたのだ。レモンという言葉が頭の中で暴れまわって、鼓動が少し早くなり、口の中に唾液がたまった。速足で歩いているとふと水たまりに目が留まる。のぞき込んでみるとそこにはモノクロの男がいた。満たされず、物寂し気ながらも何かに取り憑かれたような眼をした男だった。また背中に雨が伸し掛かってくる。私は彼らを振り払い水たまりを踏みつけて先を急いだ。雨の日のスーパーはがらんとしていた。こんな日にこそゆっくりと買い物をしたいが今はそれどころではない。黄色に取り憑かれた私は目を皿にして探した。林檎の赤色でも、蜜柑のオレンジ色でもない。あの絵の具を固めたような黄色を探した。そして目当ての黄色を見つけた時私はひどく落胆した。二つずつ袋に入っていたのだ。違う。そうじゃない。私は山積みの黄色に手を突っ込んで自分だけの黄色を探したかった。そして少しの罪悪感と悪いことをしているような気持ちに浸りたかったのだ。これではまるでお使いに来た子供ではないか。今まで忘れていたまとわりついてくる重圧感が今になってどっと押し寄せてきた。ため息をついて帰ろうとすると少し離れたところに黄色がバラ売りになって置いてあるではないか!おもわず飛び上がりそうになったが私の中に少しだけ残った自制心がそれを止めた。初めてクリスマスプレゼントをもらった時よりも、高校入試に受かった時よりも嬉しかったのは言うまでもない。軽い足取りで黄色い山に近づくと、行ったことのないカリフォルニアの情景が浮かんできた。山を崩さないようにそっと腕を入れ、一つだけ引き抜く。そこには緑の葉が一枚付いた黄色があった。おっと声が出た。人からすればだからどうしたと思われるだろうが私にとってはまるで四つ葉のクローバーを見つけたような感動があった。今すぐその場で胸いっぱいにその黄色を吸い込んで、かぶりつきたい衝動に駆られるがまたしても無いに等しい自制心に止められてしまった。今すぐにでもこの手の中の黄色を自分のものにしたい。足早に会計を済ませると私はすぐに店を飛び出した。レジの、アルバイトだろうか、女性に変な目で見られたがそんなことを気にしている余裕はない。むしろ少しでも余裕があるならこの黄色のすばらしさを十分でも二十分でも語っただろう。あんなに重く感じていた雨もこの黄色一つで何も感じなくなっていた。また水たまりが目に入る。そこには人間というよりむしろ獲物を狩り終えた獣のような眼をした黄色い男がいた。水たまりを飛び越えて家に帰った私は。胸いっぱいに黄色を吸い込む。頭の中で反芻していた黄色が飲み込んだ唾液と共に帰ってきた。おもわず黄色にかぶりついた。少しの苦みと強い酸味が口の中で爆発する。その瞬間私にまとわりついていた雨たちは黄色の爽やかな風に乗って遠いカリフォルニアまで飛んで行った。この山積みにされていた黄色の爆弾が爆発して世界が黄色に染まってしまえばいいのに。口の中の爆発を嚙みしめながら私は一人で妄想を膨らませた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

書きなぐり 死人 @shijin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ