第17話 愛と憎の「憎」だけを

 ヴィクトールはスマートフォンで救急車を呼び、周囲を気にしながらそれを待った。救急車とともにパトカーもやってきたが、ヴィクトールがそれとなく背中を向けて婦人を隠したため、パトカーはヴィクトールに気付くことなく通り過ぎた。

 ほどなくして救急車が到着し、ヴィクトールが救急隊員に婦人の居場所を案内し、運ばせようとしたところで、彼自身も救急車に乗せられそうになってしまった。

 「お、俺は平気だよ……それよりこの人を」

 「何言っているんですか?!このご婦人よりあなたのほうが重傷じゃないですか!さあ、乗って!!」

 ヴィクトールはアドレナリンが過剰分泌されていたせいか痛みに対して自覚がなかったが、言われてみて己の体を確認すれば、横腹や腕、肩、脚など数カ所に被弾していて体中血まみれになっていた。傷を自覚すると急に全身が痛み出し、耐えがたい激痛に彼は膝をついた。

 「いい……いってええええええ!!!」

 「気づいてなかったんですか?!さあ、乗ってください!すぐに処置します!」

 ヴィクトールはスマートフォンでファティマに連絡した。

 「ファティマ、今どこにいる?今、民間人のばあちゃんが撃たれたから救急車乗ったんだ。俺まで病院に運ばれることになっちまって……。多分一番でかい病院だ。バスかなんか使ってこっちに来てくれ」

 救急車の中で応急手当てを受けながら、身元確認のためにいくつか質問をされた。そういえば、ヴィクトールは保険証を持っていないかった。この国は皆保険制度で自己負担が五割に抑えられていた。全額を支払えないこともないが、保険証で安く済ませられるなら使いたいところだ。だが、彼の持っている保健証は犯罪に使用していたサントスという名前の偽造保険証だけだった。すっかり忘れていたが、保険証はこの偽造保険証しかなかったのだ。彼はヴィクトールと名乗りそうになってこのことを思い出し、慌ててサントスと名乗り、偽造保険証を提示した。

 救急隊員は、次に老婦人にも名前と身元確認を求めた。

 「マノンです。マノン・エレクトロ。保険証は、これです」

 「マノン・エレクトロさん。五六歳ですね。ありがとうございます。どのような状況で負傷しましたか?」

 (マノン……?マノン・エレクトロだって……?!五六歳?まさか、まさかあの人なのか……?)

 ヴィクトールはその名前に全身の血が逆流するような感覚を覚えた。忘れもしない、彼を拾い、育て、虐待し、何もかもを教え、挙句捨てた女。育ての親、マノン。彼女が救急隊員の質問に答えているうちに、疑惑は確信に変わった。今まで捜し続けた、捜し続けて諦め、忘れようとしていた初恋の人。こんなところに暮らしていたのか……!

 ヴィクトールは無意識に腹部のポケットに手を入れ、忍ばせていた銃を握っていた。

 (ここで会ったが百年目だ……殺してやる……クソババア……!)

 救急車が病院に到着し、本格的に傷の処置が施されると、二人は入院するほど重傷でもないということで、その場で帰された。救急外来の長椅子で並んで座る二人。マノンは元々車椅子だったため、長椅子の隣で車椅子に座っていた。

 「サントスさん、ありがとうね。助かったわ」

 全くこちらに気付いていないマノンの様子に、ヴィクトールはカッと頭に血が上った。鬼の形相でマノンを睨み、地獄から湧いてくる声のように低い声でマノンに問い返す。

 「サントス?俺が判らねえのか、マノン。俺はヴィクトールだ。忘れたか?」

 「ヴィクトール?はて、どちらのヴィクトールさんかしら?」

 ヴィクトールは立ち上がり、マノンに向かい合って彼女を見下ろした。

 「忘れたとは言わせねえ。昔お前が気まぐれに拾い、育て、虐待し、性奴隷にして、挙句勝手にとんずらして捨てた、ガキンチョのヴィクトール、それが俺だよ。思い出せよ。そんな短い付き合いでもなかったはずだろ?」

 ヴィクトールの告白に、マノンの顔色が変わった。生きていたのか。死んだと思っていた。なぜこんなところにヴィクトールが?あの場所からどれほど離れたというのか、逃げて逃げてここまで逃げて来たのに。なぜあのヴィクトールが……。

 「あれから俺がどれだけ苦しんで生きて来たかあんたには想像もつかねえだろうな。地べた這いつくばって泥水をすすって生きてきた俺の苦しみが、人生添い遂げようと思うほど愛してたあんたにある日突然捨てられた苦しみが、あんたには解んねえだろうな……!」

 ヴィクトールは腹部のポケットから銃を取り出し、マノンに狙いを定めた。

 「ヴィクトール。ああ、あれは、違うの。ごめんなさい。幼いあなたを、置き去りにして。私あれから何度も懺悔しながら生きて来たわ。後悔してるの。お願い、許して」

 「懺悔?神様に懺悔しても俺にはちっとも恩恵ねーよ。懺悔するならその命かけて俺に直接懺悔しろ」

 「ごめんなさいヴィクトール。ごめんなさい。私、ずっとあなたが気がかりだった」

 丁度その時、連絡を聞いていたファティマが駆け付けた。そこで彼女はすぐに状況を察知した。

 「ヴィクター!ダメ!銃を仕舞って!!」

 愛しの彼女の声に、ヴィクトールの殺気が一瞬薄れた。

 「ファティマ」

 ファティマは彼らに駆け寄り、間に割って入った。

 「ヴィクター、まさかこの人、あの人なの?」

 「ああ、そうだ。あのマノンだ。まさかこんなところで再会するとはな」

 「あ、あなたは……?」

 「あたし?あたしは、ヴィクターの、何だろ、連れ?」

 ファティマは曖昧に答え、はにかんだ。と、そこへ、マノンの息子も駆け付けた。

 「母さん、撃たれたってどうしたの?大丈夫?」

 「母さん……?」

 その男の登場に、ヴィクトールの顔が般若のように歪んだ。

 マノンと別れてほんの十年ばかりだ。子宮を摘出したマノンが子供を持てるわけがない。それに、見るからに青年はヴィクトールよりは年下に見えるが、成人した男だ。ヴィクトールの脳裏に、マノンに性的に虐げられていた時の記憶が蘇る。マノンは何も反省していない?また新しい男を性的に消費するために拾ったのか?

 「てめえ、俺だけじゃ飽き足らずあれからもこんなことを繰り返していたのか。この男もお前は面白半分に……!」

 「ちがう!それは違うわ、ヴィクトール。あれから私反省したのよ。後悔しているの。もうあなたにしたあんなことはこの子にはしていない。誓って、この子には手を出していないわ!新しい息子なの。拾ったのではないわ、ちゃんとしたところから里子として引き取ったの!」

 「そんな戯言信じられるわけねーだろ!キチガイババア!お前の性根は腐りきってるんだよ!やっぱ生かしてはおけねーな」

 口論する二人に、状況が飲み込めないマノンの息子。彼はとりあえず、話が解りそうなファティマに話しかけた。

 「どうしたんですか、この人?あの、母は無事なんですか?」

 「ええ、軽傷だったみたいですぐ帰れるみたいよ。この人は、その、あなたの……元お兄さん?かな?」

 「お兄さん……なるほど。あの、お兄さん、立ち話もなんですから、家に寄っていきませんか?紅茶でも飲んで落ち着いてください。久しぶりに会ったんでしょう、母に?」

 そして四人はマノンの息子のワゴン車に乗り込み、マノンの自宅へ向かった。


 「お兄さん、母は、ずっとあなたのことを後悔していました。何度も僕に、彼を捨てたことを後悔している、だから、あなたにはまっすぐ育ってほしいと、繰り返し話していました」

 紅茶を出しながら、息子――ルイスはマノンのことをヴィクトールに説明した。

 ヴィクトールの心は嫉妬と羨望と憎悪と居心地の悪い様々な感情でぐつぐつ煮え立っていた。眉間にしわを寄せてマノンとルイスを交互に睨む。ファティマはその様子を見て、刃傷沙汰になりはしないかとハラハラしていた。

 マノンはヴィクトールを捨てた真意について語った。

 「ヴィクトール、あなたのことは、最初は本当に息子として育てるつもりだったの。でも、私もあの時まだ若かったから、子宮が無いのをいいことにあなたを誘惑してしまった。あれが間違いだったんだわ。あなたに勘違いさせてしまって、急に恐ろしくなったの。私みたいな女を捨てた人間が、あなたと結婚するなんて、そんなこと、許されるはずがないと考えた。だから、あなたに諦めてもらおうと、考えたんだけど、結局、怖くなって逃げてしまった。ごめんなさいね。ちゃんと、結婚はできないって、あなたにちゃんと、向き合えばよかった」

 「ごめんなさい」とマノンは深々と頭を下げた。ヴィクトールは「そんなことだろうということはなんとなく察したけどな」と、低い声でつぶやいた。

 「でも、母さん、よかったね。死ぬ前に、彼に謝ることができて」

 「死ぬ前に?」

 ヴィクトールが穏やかではない単語に反応すると、息子は力なく微笑んで、しばし沈黙し、やがて重い口を開いた。

 「癌なんです。全身に転移していて、もう自力で歩けないんです」

 そういえば、マノンは子宮癌で子宮を摘出していた。やはり全身に転移していたのか。

 「保ってあと……何カ月だったっけ?五カ月?って、言われたわ。今会えなかったら、一生会えないままだった。運命だったのかもしれないわ」

 マノンは目を伏せ、ヴィクトールとの再会をようやく喜べた。

 「さっさとくたばっちまえよ。何なら今すぐ苦しまずに殺してやろうか?」

 「ヴィクター!」

 ヴィクトールは動揺を見せないよう努めたが、内心マノンに同情し始めていた。

 (運命か……。最期に会えて、よかった……?よかったの、かな……?)

 「お兄さん、あなたの母への恨みは、想像するに余りあります。でも、安心してください。母は、実の両親に捨てられた僕を、本当に優しく育ててくれた。実の両親には何の感情もない僕ですが、母には、マノン母さんには、本当に感謝しているんです。最期まで、僕が大事に看取ります」

 ヴィクトールにとっては複雑なところだ。ルイスが虐待されていないことに対する安堵と、なぜルイスは虐待されず自分はあんなひどい目に遭わされたのかという嫉妬、マノンの余命への憐憫と、マノンの改心への喜びと憎しみ。口に出すには複雑すぎて、自分ではこの感情を処理しきれない。ヴィクトールは居心地の悪さのあまり、ここから立ち去りたくてたまらなくなった。

 「もういいよ。マノン。あんたには、もう何の感情もねえ。ただ、あんたへの憎しみだけは一生消えねえ。死ぬ最期の瞬間まで俺に懺悔しろ。あんたはそれだけの罪を犯したんだ」

 「それに」と、ヴィクトールはつづけた。

 「俺には今、あんたよりよっぽど愛している人がいる。こいつだ。ファティマ。こいつは俺の心の傷を包み込んで癒してくれた。だからもう、あんたを殺すのも馬鹿らしいし、もうあんたへの執着もねえよ」

 ヴィクトールは立ち上がり、ファティマの肩に触れた。

 「帰ろうぜ、ファティマ」

 「う、うん」

 玄関まで出てきた二人を見送るルイスとマノン。マノンはヴィクトールに最後に声を掛けた。

 「ヴィクトール。ほんとにごめんなさいね」

 ヴィクトールは振り返らず、

 「一生許さねえ。一生憎んでる」

 と言い残して立ち去った。

 彼らの家が小さく見えるところまで離れてから、ファティマはヴィクトールに訊いてみた。

 「最期までそばにいなくてよかったの?」

 「ん?あと五カ月もか?くたばるまで待ってらんねーよ」

 そう言ってヴィクトールはあの家を振り返って立ち止まった。

 (ホントは今でもあんたのことが好きだよ、マノン。でも、ぜってー言わねー。あんたには俺の憎しみだけくれてやる。そうやって一生後悔しててくれ。それで俺の初恋は報われる)

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