第15話 あなたの人生に祝福を
割れた窓から月光の差し込む民宿の部屋で、明かりをつけないまま二人並んでベッドに座るヴィクトールとファティマ。ファティマはヴィクトールの感情が落ち着くまで黙って背中を撫でていた。
「ありがとう。ごめんな。俺、情けねえな」
ヴィクトールはまだ鼻をすすっていたが、どうやら落ち着いたようだ。険が取れてすっかりいつものヴィクトールに戻っていた。
「ねえ、この前、あなた色々言い訳して答えをはぐらかしていたけど、今なら教えてくれるわよね。あなた、そんなにあたしに優しくしてくれる理由は、本当は何?あたしのことが好きだから、だけでこんなに優しくなったりしないと思うの。過去に、何かあったの?」
「ああ……あの時はごめんな。思わずムキになっちまって……。優しい理由か。なんだろうな。自分でもよくわかんねえ。優しくしてた自覚もねえし」
「なんでだろうなあ……」とヴィクトールは遠い月を見上げた。
「見捨てられるのが怖いから?そもそも、なぜ見捨てられ恐怖症になったの?まあ、人間だれしも見捨てられるのは怖いわよ。でも、あなたのは異常だわ。そんなふうになった、何か理由があるんじゃない?」
ファティマはどうしてもヴィクトールについて深く理解したかった。自分の生い立ちは最初に説明していて、ヴィクトールも把握している。だが、彼のことについてはさっぱりだ。なぜ犯罪に手を染めるようになったのか、エンリーケとはどのようにして出会ったのか……。ヴィクトールも、この際だから告白してもいいか、と考えたが、口を開きかけてためらった。過去に愛した人が居た、などと、今の恋人に話していいものだろうか。
「怒らない?嫉妬したりしない?」
「怒ったり嫉妬するようなことなの?」
「ああ、怒ったり、嫉妬されたり、軽蔑されるような人生送ってきたんだ。クソみたいな人生だよ。俺はこの人生をずっと憎んできて、黒歴史で。あの薬物の売人になって、あの犯罪者のレベルでようやく人間扱いしてもらえたような、ほんとクソみたいな生き方してきたんだ」
ファティマはその前フリだけで彼の人生はどれほど辛かったのだろうと同情した。そして、どんな人生を送ってきたとしても、受け止めようと覚悟を決めた。
「話してちょうだい。怒らないし、嫉妬しないし、絶対軽蔑しない。約束するわ」
「もし軽蔑したら?」
「それを塗り替えるほど愛してあげる」
「解った。話すよ」
そしてヴィクトールは静かに語り始めた。
俺は、八歳の時に両親に捨てられた。もともと貧乏でろくな飯食わされてなかったけど、ある夜、繁華街に連れてこられて、人生で初めてってぐらい豪勢な料理食わせてもらったんだ。で、街中で、両親に、「ここで待ってなさい」って言われて、両親がどっか行ったんだ。何日待っても、親はとうとう帰ってこなかった。俺はそのまま浮浪児になるしかなかった。野良猫に餌やる料理屋の出す野良猫用の残飯や野菜くずなんかを食って生きてた。
半年ぐらいそうしてふらふらしていたら、夜、酒に酔った女に拾われた。「あなた可愛い顔してるから、親がいないならうちの子にならない?」ってな。その女はマノンと言った。三十路ぐらいかな。綺麗な人だったけど、独身で仕事しかしていない人だった。なんで嫁の貰い手がないのかって、訊いたことがある。そしたら、子宮の病気になって、子供が産めないから結婚できないんだと言っていた。マノンは自分のことをお母さんと呼べ、と強制してきた。そして、「衣食住の面倒は見るけれど、自分のことは自分でしろ。私に頼るな」というのが口癖だった。俺はなるべく迷惑にならないようにしていたつもりだが、マノンは子宮がないせいかな、精神的に不安定で、理不尽な理由で暴力を振るってきた。俺は、「この人に捨てられたら行くところがない。また捨てられる」と思って、必死にマノンを好きになろうとした。愛されようと思って、そのためには何でもした。
ある日、俺の体が大人になったことを知ったマノンは、俺を誘惑してきた。夜の相手をしろと言ってきたんだ。こうしろ、ああしろ、手取り足取りやり方を教わって、言われるまま、求められるまま、性奴隷として飼われてた。俺は、てっきりマノンは俺のこと好きだからこんなことをさせるんだろうなと思った。だから、これは両想いなんだと思ったんだ。
だから、十四歳の時に、マノンに告ったんだ。「俺が大人になったら結婚してください」ってな。割とガチ目に好きだったから、絶対喜んでくれるって確信があった。でも、俺が学校に行っている間、マノンは消えた。家の中には家具しかなくなっていて、アパートの契約者が俺の名前になっていた。マノンはいつの間にか自分の荷物を全部まとめていなくなっていたんだ。
また親に捨てられた。俺は、二度目は親以上に愛している人に捨てられたんだって思って、そっから、人に見捨てられるのが怖くなった。だから、俺は見捨てられても平気な関係しか築かないと決めたんだ。
そんで、俺は、商売にできそうなスキルが夜の相手しかなかったから、金持ちの女相手に売春して稼いでいた。何人抱いたか覚えてねえ。毎日体を汚していたが、一夜限りの関係だから全然平気だった。
二年ぐらいそういう乱れた生活していたかな。ある夜、客引きしている俺の前に、黒服の男が声を掛けてきた。それが、あの組織の人間だったんだ。
組織の人間は、売春している俺に「今よりも楽で、今よりもっと稼げる仕事があるぞ」と言ってきた。このクソみたいな生活に嫌悪感しかなかった俺は喜んで組織に入った。そこで面接受けて、やっと俺にまともな仕事が与えられた。それが薬物の売人だった。体を汚すことなくクリーンな仕事だと思ったよ。そこで寮に入れられて、ルームメイトだったのがエンリーケだ。エンリーケとはびっくりするぐらい気が合った。そこからは、この前説明したとおりだ。そこから、エンリーケとの付き合いは八年だ。俺にとっちゃ薬物の売人の仕事は結構誇りを持ってできる仕事だったんだ。どうだ、クソみたいな人生だろ?
ファティマは絶句した。そんな地獄のような闇が、この世界に存在していたことが信じられなかった。想像を絶するような劣悪な人生に、ファティマは憐憫の情を感じた。
「そう……。そんな辛い人生を送ってきたのね。納得したわ。色々と……。そんな人生を送ってきたら、ああなるのも解らなくもないわ」
そうは言ったが、憐れむだけではヴィクトールは本当の意味で「可哀想な人」になってしまう。それは彼の人間性も可哀想で惨めなものだと断じてしまうことになってしまいそうで、ファティマはこう続けた。
「でも、そんな人生のおかげであなたは優しい人に育ってくれたんだもの。あたしはあなたを優しい人に育ててくれたあなたの人生と、あなたの心の強さに感謝してるわ。今まで強く生きてきてくれて、ありがとう」
ヴィクトールはファティマの意外な言葉に、目頭が熱くなってサッと下を向いて耐えた。そうだ、ファティマはこういうことを言う女だ。初めて会った時の言葉をヴィクトールは忘れていない。ファティマはいつも凝り固まった心の殻に風穴をあけて、中に引きこもる魂を救済してくれる。彼女が天才だから、こんな言葉が生まれるのだろうか?いや、それ故に彼女は天才なのだ。
(ああ、だから、やっぱり俺、こいつのことが好きだ)
「そんなこと言ってくれるのお前しか……いねえよ」
途中で泣きそうになって言葉に詰まったが、何とかやり過ごしてヴィクトールは笑って見せた。顔を上げたらファティマも微笑んでいて、耐えきれずヴィクトールはファティマを抱きしめた。
「考えてみたら、お前も俺も、クソみたいな性体験しかないんだな。ほんとクソみたいだな。なんでこんなことを大人は平気で子供に要求するんだろうな。狂ってやがるよな。どいつもこいつも」
「そういえばそうね。あたしは恐怖症になってしまって、あなたは受け入れて依存してしまった。なんでこんなことになるのかしらね。あたしには考えられないわ」
「俺も考えらんねえ。ガキのどこがいいんだよ。キチガイどもめ」
ヴィクトールの広い胸に抱きしめられて、同じ心の傷を共有して、ファティマはこの人となら、あの忌まわしい穢れも浄化できるような気がした。
「ねえ、ヴィクター。あたしはあなたを愛しているわ。あなたもあたしを愛してくれてるなら、この醜い人生を綺麗なもので上書きしない?そして忘れてしまいましょうよ」
ヴィクトールは体を離し、ファティマに聞き返した。
「ん?どういう意味だ?」
「鈍いわね。抱いてって言ってるのよ」
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