第1話 怪しい患者

 国境沿いの地方・モナウ州で最も大きな総合病院・セレンティア総合病院の周囲には、その膨大な患者の処方箋を円滑に処理するために、実に沢山の調剤薬局が密集していた。その中でも最も多くの患者が利用する、モナウ州で最大規模の調剤薬局がモナウン調剤薬局本店である。この調剤薬局はあらゆる病気の薬を取り扱うため、入手困難な薬の処方は皆こぞってこの調剤薬局を利用する。ヴィクトールも入手困難な精神賦活剤・タリスンを入手するためこの薬局を利用していた。

 タリスンは重症の鬱病患者にだけ処方される、最強の精神賦活剤だ。その分依存性も高いので、医者はあまりこの薬を出したがらない。強烈な高揚感と覚醒作用があり、覚醒剤と処方薬の境界に位置する危ない薬である。そのため、闇市場ではこの薬が高値で取引されていた。一応合法薬のため、利用者は罪に問われない。そこで犯罪組織は法の目をかいくぐり、闇市場での取引に利用しているのである。

 そしてヴィクトールの狙いはもう一つある。精神安定剤のドプスの入手だ。ドプスの効果は穏やかに作用するが、違法薬物を過剰摂取して副作用を起こした時、つまりバッドトリップ状態になった時に摂取すると副作用を緩和することができるのである。ドプスは薬物依存患者の間では神の薬とされ、これまた高値で取引されている。比較的入手しやすい薬だが、飛ぶように売れるためこれもまた貴重な獲物である。

 ヴィクトールは重症の鬱病患者を装い、偽造した処方箋で最大処方量を一カ月に一度、この薬局で入手していた。

「サントスさん、お薬ができています。三番カウンターにお越しください」

 ヴィクトールは処方箋に書かれた偽名・サントスという名を名乗り、三番カウンターに向かった。

 カウンターでは簡単なカウンセリングがおこなわれる。今回のカウンセラーは初めて見る女性だった。ショートヘアに大きな目、赤いピアスが印象的な女性だ。ピアスに目が行ったのでよく見ると、まるでエルフのような尖り耳をしていた。変わった耳をした女性だ。ひどく小柄で痩せっぽち。子供のような外見をしている。新人だろうか。

「サントスさん、タリスン五十六錠とドプス五十六錠ですね。ご確認ください。朝晩食後にお飲みください。最近変わったことはありますか?」

 機械的に事務的に質問してくる薬剤師に、ヴィクトールは無難な答えを返す。

「相変わらず鬱っす。なんぼ薬飲んでも治らないっすね」

 無論真っ赤な嘘である。しかし、女性は意外な言葉を返してきた。

 「まあ、こんな薬飲んでも何の解決にもならないですよ」

 意外だった。薬剤師のセリフとしてそんなことを言ってしまっていいのだろうか。

 「え?薬剤師がそんなこと言っちゃうの?」

 ヴィクトールが驚くと、女性はさらに続けた。

 「薬剤師だから言えるんです」

 女性はふっと表情を和らげると、優しい目で語った。

 「でも、薬は困難に立ち向かうときに体や心を一時的に強くしてくれます。困難に直面して辛かったら、薬に盾になってもらって病気と闘えばいいんです。それが薬の本当の役割。病気を治すためではないんですね。薬は諸刃の剣だけど、上手に使えば病気と闘ううえで最強の武器になります。辛かったら頼っていいんですよ。病気を治すのは薬ではありません。あなた自身の心です。あなたの心が薬の作用で強くなれたら、きっと病気を倒せますよ」

 ヴィクトールは驚いた。こんな言葉をかけてくれる人はそれまで存在しなかった。薬に頼るジャンキーは人間のクズだと思って見下していたし、病気を治すのは薬の作用だと思っていた。辛かったら頼っていい?今まで、そんな優しいセリフを聞いたことがない。ヴィクトールは心の奥底に埋葬した幼い頃のトラウマがホッと熱を持ったのを感じて、思わず涙ぐんだ。

「ありがとう……ございます……」

 すると女性はサッと事務的な表情になり、「お会計は八十三・五八ダラスです」と告げた。ヴィクトールは慌てて目尻をぬぐい、支払いを済ませる。

「あの……!」

 会計が終わってからヴィクトールは思わず声を掛けた。

 「貴女、名前は何て言うんですか?」

 女性はきょとんとしながら、「ファティマです」と答えた。

 「ファティマ……。ありがとうございます。来月、また」

 ヴィクトールは自然と笑顔を浮かべていた。ファティマ。なんて素敵な女性だろう。

 「お大事に」

 ファティマは深く気にせず次の患者を呼び、次に用意した薬束をテーブルに広げた。


 帰宅したヴィクトールは、部屋で出荷作業をするエンリーケに、「なあ」と声を掛けた。

 「お帰り。どうした?」

 「俺たち、患者の為になってるよな?」

 エンリーケは口をあんぐりと開けて、浮かない顔をするヴィクトールを見つめた。

 「何言ってんだお前?こんな仕事ジャンキー共相手の金もうけに決まってるだろ。慈善活動じゃねえだろ。金のため。さあ、馬鹿なこと言ってねえでカートに入力しろよ」

 「おう……」

 ヴィクトールは入力作業の間ずっと考えていた。矢継ぎ早に入る注文を受けて、納品書と宛名シールを次々印刷する。その間もずっと考え続けていた。

 (俺のやっている仕事って……何の得があるんだ?なんでこんなに注文が入るんだ?こいつらはなんでこの薬を欲しがってるんだ?そんなに辛い目に遭っているのか?)

 微笑むファティマの笑顔がちらつく。

 (頼れる人……か……。ファティマ……ねえ……。可愛い、人だったな)

 「エンリーケ」

 「なんだ?」

 「お前がいてくれて、俺は感謝してるぜ」

 エンリーケは身震いした。

 「何言ってんだお前。気持ち悪!頭でも打ったか?」

 ヴィクトールはハアと一つ溜め息をついた。

 「頭打つのと同じぐらい、びっくりすることがあったんだよ」


 翌月、ヴィクトールは再びファティマが担当になってくれたことを素直に喜んだ。ファティマの姿をカウンターに見つけると、思わず笑みがこぼれる。

 「サントスさん、その後お加減はいかがですか?」

 「なんか、ちょっと調子がいいっす」

 「そうですか」

 ファティマはニコッと微笑んだ。可愛い。まるで天使のようだ。

 「お会計は八十三・五八ダラスです」

 「はいはい」

 ヴィクトールは思わず声を掛けた。

 「ファティマさん」

 「はい?」

 「可愛いっすね」

 するとファティマはサッと顔を青ざめた。「馬鹿にしないでください」とあからさまに嫌悪感を示す。

 「はいはい、馬鹿なこと言わないで、お帰りください。お大事に」

 途端に不機嫌になるファティマに疑問を感じながら、ヴィクトールは追い立てられるように席を立った。ナンパは失敗したようである。これ以上嫌われないように、ヴィクトールはそそくさと立ち去った。

 「やっぱ、患者に口説かれたら気持ち悪いかな?そうか、一応俺メンヘラって体だからな……」


 ファティマは休憩室で同僚の女性・マチルダとソフィアに先ほどのことを打ち明けた。

 「患者さんに口説かれた。キモ!!吐き気するわ」

 すると同僚の二人はファティマをねぎらった。

 「お疲れ~ファティマ。あるある。あたしもしょっちゅうだよ」

 「キチガイ患者に口説かれても困るよね。絶対嫌だわ」

 ファティマは食欲が失せてしまい、昼食に用意していた菓子パンを一口かじると、食べるのを諦めた。

 「カスパールにもキモいこと言われてんだよね。マジ勘弁。あたし一生男なんかいらないから。男なんか絶滅すればいいのに」

 ファティマは極度の男性恐怖症だった。業務上患者に応対することはギリギリ慣れたが、それ以上関わられると内臓をまさぐられたような不快感を感じ、全身が総毛立って吐き気がする。親が決めた婚約者のカスパールとのデートも、しぶしぶ付き合ってやっているが、本音では御免被る。

 「あとさあ、気になることがあるんだけど」

 マチルダとソフィアは「何々?」と食いつく。

 「あの患者、絶対詐病だと思うんだよね。いない?そういう、絶対こいつ病気じゃないだろっていう患者」

 「ああ~~~~~~~」

 二人とも思い当たることがあるようだ。

 「確かに、珍しい薬欲しがる元気そうな患者はいるかも」

 「だよね、絶対珍しい薬欲しがるよね?」

 「絶対悪用してるよね?」

 ソフィアは最近ニュースで聞きかじった知識を披露した。

 「あ、知ってる?やばい処方薬を売買できるサイトがあって、薬を不正入手してる患者がいるって、ニュースで言ってたよ」

 「マジ?違法じゃないの?」

 「何でも、合法薬だから警察も取り締まれないみたい」

 「えーーーー。やばいじゃん」

 ファティマはサントスと名乗る青年も、病気と偽って不正に薬を入手しようとしているのではないかと考えた。


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