第19話:【正太】非ざる者─1
「ショタァ。お散歩に行こ」
「はい、分かりました。でもアーシェさん、疲れてないですか?」
「ぜーんぜん」
男爵家に泊めてもらい、アーシェさんの家に戻ったのは、つい一時間くらい前だ。朝食の後すぐ出たので、まだ太陽は空の東側にある。
水袋だけ持って、裏の畑の様子を眺め、アーシェさんはあくび混じりに歩く。
てくてく、てくてく。三歩後ろの僕を、ときどき振り返りながら。たぶん少し先にある、小さな丘へ向かっているんだろう。
「登ってみると、景色がいいですね」
「でしょう?」
離れて見る分には丘と言うより、ただの瘤という感じだ。でも頂上に立つと、アーシェさんの家が下に見える。踏み分けた草の香りを乗せ、吹き抜ける風が気持ちいい。
「うぅん」
なにか探すように、僕の主は周囲をぐるりと見渡した。足下から、地平の先まで。
彼女は怠け者でない。でも日本の大人と比べれば、とてものんびりしている。いち日にやることは一つでいいじゃないか、と決めてでもいるように。
それが遠い町から箒を飛ばし、お茶を一杯飲んだだけでまた出かけようとは。ちょっと変だなと思った。
「探し物ですか?」
「うん、まあね。なんだかおかしいなと思って」
「ですね」
同じ意味のはずが無いのに、うっかり同意の声を出した。「んん?」と、アーシェさんは首を傾げる。
「どうもね、ヘルミーナのことが気に掛かって」
「ハンナさんのところへ戻れたのに?」
見回すのをやめ、彼女は草の上へ腰を下ろす。隣の地面を叩くので、僕も座った。
「それはいいのよ。めでたしめでたし、って思う。でも、そもそもヘルミーナがここへ来たことがね」
「魔法があるんだから、よくあることかと思ってました」
たしかにヘルミーナさんが人形と知った、その時は驚いた。でも魔女が居るなら、自分で行き先を決める人形が居て悪い理由は無い。
「人形とか鏡とか、物が意識を持つのは珍しくないよ。程度の差はあるけど、どこの家にも一つくらいはね。でも一人で動けるのが、もう稀なの。ましてやあの子みたいに、人間と同じ姿を持つなんて」
「それだけハンナさんの愛情が深かったとか。は、関係ないですか?」
愛情とか、歯の浮くセリフと表現される。物語のキャラクターが言えば、よく恥ずかしくないねと揶揄される。
僕にはいまいち、その恥ずかしさが分からない。見たことも触れたこともないものに、自分の感情をくっつけるのは難しい。
「関係あるよ。だからあり得ないとは言わないわ、なんだかおかしいってくらい。どうしてヘルミーナは、魔女の店にやって来たのかなって。誰かに案内されたみたいにね」
「ああ、そういうことですか」
限定生産、百個のレア賞品が、応募してもいないのに当たった。みたいな話と理解した。違うかもしれないけど、要するに確率の問題だろう。
「どうしてかは分かりませんけど」
「けど?」
「僕と結婚してください」
そういえば昨日も言いそびれた。
好きな相手と一緒に居るのはいいぞ、と。心から、あのお爺さんの言葉を実践したいのに。
やはり自分が落ち込んでいるときには、求婚しにくい。
「断るわ。なんでこのタイミングと思ったのよ」
「愛情繋がりで」
「そんなついでみたいなの、ますます嫌よ」
おや。ついで、のつもりは無かったけど。そうでなければ良かったってことだろうか。
「分かりました。次はもっと、お話する流れとか雰囲気とかを大事にします」
「そうね。って、そうじゃないでしょ!」
呆れて「もう」と。アーシェさんは笑って冗談にしてくれる。
それはとても嬉しくて、居心地が良くて、悲しい。なんで僕にはハンナさんが居ないんだろうって、考える。
「アーシェさん。一旦は終わってしまった繋がりが元に戻るって、よくあるんですか?」
「よくあると思うわ。元に戻らないのも、同じくらいあると思うけど」
なんの話? と。アーシェさんは、くすくす笑う。頭のいいこの人が、気付かないはずないのに。
いや実は、大人には子どもの気持ちが理解出来ないのかも。子どもには無い内臓が、成長すると身体の中に生まれるのかも。
「こうだったら絶対にいける、って法則は無いわね。確実に言えるのは、蒔かれなかった種は芽吹かないってだけ」
脇に生えた草を、ぶちぶちっと。アーシェさんの手が、緑色に汚れた。
風下に拳が向き、そっと開かれる。千切れた草が、ふうっと風に乗った。彼女の視線は葉の行方を追い、誰にともなく呟く。
「根の無い草は存在出来ないのよ」
「なんの話ですか?」
こういう時は、こう返せばいいらしい。習ったばかりの言葉を、くすくすと笑ったふりで言う。
するとアーシェさんの手が素早く伸びて、頭を押さえつけられた。
「あたしの真似して、生意気!」
「わあっ、存在出来なくなります!」
地面に顔を押し付けられると、視界が草の森になった。それでも彼女は手を緩めず、うつ伏せの僕に全体重を乗せる。
「参った、参りました! ぐえっ」
「あはは。魔法を使わなくたって、お姉さん強いんだからね」
いかにも女性という感じの、柔らかい腕が頬を押し潰す。これが全力でないことくらい、僕にも分かる。
アーシェさんはたまたま出会った子どもに付き合って、遊んでくれているだけだ。
「あれ……言わんこっちゃない」
「どうしました?」
しばらく彼女のベッドに甘んじて、そろそろ土の匂いにも飽きてきたころ。アーシェさんは体重を自分の足で支えた。
僕もすぐに立ち上がり、隣へ並ぶ。遠くへ視線を投げているようだったので、それにも倣う。
「誰か来ますね」
アーシェさんの家や街道があるのとは反対。先に山々の連なる景色しか見えない方向に、こちらへ歩く人影があった。
二人連れで、抱き合うように身を寄せている。と思ったのは、片方の体調が悪いらしい。近付くにつれ、男性を女性の支えている姿がはっきりとした。
女性は男物のシャツとズボンを着て、それがよく似合うくらいに背が高い。たぶん百七十センチくらいある。
男性はさらに、頭一つ分も。体格は細そうだけれど、ごつごつと男らしい風ではあった。なにしろ頭の上から足下までを、すっぽりと隠す黒いローブを着て、なんとなくしか分からないけど。
「あの。助けに行ったほうがいいんじゃ」
「普通はそうだけど、どうかしら」
初めて会う人に向ける、アーシェさんの目。瞳は
相手の態度が好ましければ、こちらも同じに。悪ければ、やはり合わせる。と決めているらしい彼女が、今はどうも警戒に偏っている気がした。
「ねえ、あなたたち。大丈夫?」
優に声の届く距離になって、ようやく声をかける。二人は足を止め、女性が顔をこちらへ向けた。
「この辺りに病人を休ませる場所は無い?」
「あるわ。狭いところだけど、それでも良ければ」
「お願い。出来れば食事と水も」
そう話した途端、アーシェさんは二人に歩み寄って行った。女性の荷物を受け取り、男性の空いている側で肩を貸す。
「あっ、荷物は僕が」
「そう? 頼むわ。ええと、あなた名前は?」
出遅れた僕にリュックを預け、アーシェさんは女性の顔を覗く。
同時にようやく、男性の顔もはっきりと見えた。元から色白なのだろうけど、限度を超えている。むしろグレーと言ったほうがいい顔色の悪さだ。
「ユリア。この人はヨルン。国境を越えてきたんだけど、見ての通り彼の体調がね」
陽に赤茶けた髪を汗でぐしょぐしょにしたユリアさんは、ヨルンさんの汗ばかりを何度も拭った。
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