第9話:【アーシェ】伝わらぬ思い─4
部屋へ戻ったころには、雨音は聞こえなくなった。とは言え、もうほとんどの店は閉まる頃合い。出かけるのも今さらだ。
「仕方ない、夕食は宿のご飯を分けてもらおうか」
「あ、はい。僕はなんでも」
「ん、どうしたの?」
ソファに掛け、手足をぐぐっと伸ばしたあたし。対してショタァは、扉を入ったところで立ち尽くす。
落ち着かなげに両手を揉み合わせ、伏せた両目が見つめる。
「いえ、なんでも」
「なんでもありそうよ? 使い魔が主人に内緒ごとなんてしないの。言ってみなさい」
「……でも」
左手の薬指。自分の意志で付けた指輪を、彼は握り締める。契約の印とするにはまだ、あたしの血を与えていない指輪を。
だから命令をしても、強制力なんて無い。しかし彼は、おずおずと口を開く。
「僕、余計なことを言っちゃったと思って」
「余計なこと?」
「エトヴィンさんに」
「ああ――」
父親の発言を用いてエトに意見したのを、ショタァは悔いているようだ。
たしかに相手を間違えば、生意気だと唾棄されたかも。でもエトは、その通りと認めて受け入れた。
結果オーライかもしれないけど、恥じることでないと、あたしは思う。
「大丈夫よ。おかげでエトも、頑張るって言ってたじゃない」
「そうですけど」
「けど?」
「悪いことをしてしまったし、それにアーシェさんにも」
あたし? と首を捻る。エトとの会話を思い返しても、困った場面が見つからなかった。
「ごめん。あたし、なにかされたっけ?」
「エトヴィンさんのこと、あまり好きじゃないでしょう?」
「う、うん。まあね」
「それなのに僕、アーシェさんの手間を増やしてしまいました」
びりっ。と、小さな雷が胸に落ちた。
仕事をしていて、気に入らないことなんか数え切れない。でも仕事だから、依頼分を果たせば関わらないでいい。
それも嫌なら、そもそも受けない方法もある。その切り分けを、あたしは誰よりもうまく出来る。あたしの気持ちは、あたしの物だから。
「ショタァ、ここへ来なさい。これは命令よ」
「は、はい」
入り口からあたしの目の前まで、九歩。あたしなら五、六歩だろう。
あたしはずっと、自分のことしか考えていないのに。九歳のショタァは、自分以外の為に胸を痛めている。
硬直する彼の両手を、それぞれ握って目を合わせた。
「もう一度言うわ。大丈夫。エトの依頼を受けたのは、あんたのせいじゃない。あんたのおかげよ」
「僕の、おかげ?」
「うん、そう。放っといたら、変な男に妙に付き纏われて、女の子を不安にさせるところだったもの」
可愛いものを不幸にさせるのは、望むところじゃない。と、これは冗談だ。
悩んでいるショタァに、不誠実かもしれない。しかし彼は「は、ははっ」と。どうにか笑みを拵えてくれた。
「ねえショタァ。あんたどうして、そんなに気を遣うの? あんたの世界では当たり前のこと?」
この世界に住む同年代の子どもたちを、みんなバカだなぁと思う。明日どころか、ほんの数瞬先のことも考えず。街中を、野山を走り回る。
もちろん転んで怪我をする。服を破き、泥や血で汚して、母親に小突かれる。昨日も着た服が洗いたてに見えるなんて、あり得ない。
子どもとは、そういうものだと思っていた。あたしだって、ほんの七百数十年前はそうだった。
でも、ショタァは違う。
「ねえ、黙ってたらあたしにも分かんないんだよ。教えてくれたら嬉しいな」
「……ですか」
「ん?」
「抱きついてもいい、ですか」
あたしのお願いに、蚊の鳴くような声が返った。聞き返すと二倍になったけど、やはり小さい。
安心させる為に、くすっと笑うのは難しくなかった。
「いいよ」
ソファに深く腰かけ、腕を広げる。するとショタァは、乳を探す子犬のように這い上がった。
望み通り、顔を引き寄せて胸に沈める。髪を撫でてあげると、彼の腕があたしの背中に回った。
「なんか、さ。悪いかなと思って。聞かなかったのよ、あんたのこと」
「はい」
「でももし、聞いてもいいなら。あたしに聞かせてもいいと思えるなら、ね?」
胸の谷間から、もごもごと返事が聞こえる。どうやら気持ちを落ち着かせていくのが、伝わる鼓動で分かった。
「話すのが嫌ってことはないんです。でもなんだか、恥ずかしい気がして」
「でも、聞かせてくれるの?」
「はい」
この夜、ショタァが眠ってしまうまで。召喚される前のことを。彼の生まれた世界のことを聞かせてもらった。
翌朝。陽が顔を出す前に宿を出た。
早くから仕込みをするパン屋さんで
念の為に見回したけど、そこで働くのは中年以上の夫婦だけだった。
エルゼの見た目や、やって来る方向は聞いた。大広場へ入る前に捕まえて、エトのことを聞き出す作戦だ。
広場を横切ると、集金人はもう仕事に就いていた。目ざとくこちらを見つけたのが、頭の動きで分かる。
「真面目にやんなきゃ、悪口を吹き込んじゃうわよ」
聞こえるはずのない悪態を吐くと、ショタァが袖を引っ張った。
「冗談よ」
昨夜の今朝で、幼児返りしてしまったかも。彼は立ち止まったあたしの脚にしがみつく。
可愛くて、愛しくて。どう扱えばいいのか、分からなくなった。細い指や髪の毛まで、ガラス細工のようで。
「さ。思惑通り、来てくれるといいんだけど」
「広場には居ませんでした」
「探してくれたの? ありがと」
エトの言った、通りの端へ立つ。
深い緑のワンピースに、白い花の刺繍。生のエプロンをして、頭には同じ生地の布を巻く。
それでパンを売るバスケットを抱えた女の子は、すぐにやって来た。
「そこのあなた、ちょっといいかしら」
「なんでしょう?」
背は低いほうだろう。幼い感じがするのも、またいいものだ。
「あたしはアーシェ。王都の馬車ギルドのほうから来たんだけど。この広場の乗り合い馬車の評判を調べてるの」
「そうなんですね、私はエルゼと言います。でもすみません、馬車に乗せていただいたことがなくて」
突然の頼みなのに、力になれそうもないと悲しそうな顔をする。とてもいい子らしい。
「いいの、いいの。乗り心地じゃなくても、そうね――ほら、集金人の態度なんかは知らない?」
「エトヴィンさんですね。お話したことはないですけど、良い方だと思いますよ。無理を言われても怒ったりしないし」
思い出す努力も必要なく、エルゼはエトの関わったあれこれを話し始めた。
この場に居ないからと、無理に褒める空気はない。むしろ親しい友人を、誇りに思って紹介する風だ。
「そうなんです。屋根のあるところまで、そのお婆ちゃんをおぶってあげてました」
「なるほどねえ。とても親切な人みたいね」
「良かった。これであの人の評価が上がるなら、私も嬉しいです」
聞く限り、エトは本当に他人の幸せの為に動ける人間らしい。ただその最大の関心が、彼女に向けられているとは気付いていないようだけど。
「あなたもお仕事でしょうに、手間を取らせて悪かったわ」
「いえ、全然。ではこれで」
「あ、ちょっと待って」
可愛い相手にサービスしたくなるのが、あたしの悪癖だ。呼び止めておいて、腰の小袋から石を二つ取り出す。
持ち歩く中では比較的に大きい。親指ほどの端へ、こっそりと魔法で穴を空けた。
「これ、お礼にあげるわ」
「えっ、いいんですか?」
「いいの。これに鎖を通して、ほらネックレス」
手首に巻いた真鍮の鎖も付け足し、エルゼの手に。同じ形のネックレスを二つ、だ。
「クリームを固めたみたいに淡く黄色で、可愛らしい石ですね。お高い物では?」
「ううん、全然。オーソクレスって石なんだけど、そこらじゅうに転がってるのを磨いただけよ」
そこまで言って、ようやくエルゼは「それなら」と受け取った。
「迷信なんだけど、同じときに磨いた同士が助け合うんだって。一つはあなたの守りたい相手に渡すといいわ」
「へえ、素敵なお話です。いい物をありがとうございます」
両手それぞれにネックレスを持ち、エルゼは明るく笑う。そのままスカートのポケットにしまうと、大広場へ歩き去った。
「さあ、終わった終わった。おいしい朝ごはんを探しに行こうか」
「えっ。あの二人のこと、放っとくんですか」
なんの隠喩でもなく、朝食に向かおうとした。驚くショタァだって、まだ足りないはず。
「放っとくもなにも。これだけのきっかけがあってどうもなんないなら、くっつかないほうがいいわ」
「そういうものですか……」
合点がいかないようだけど、これ以上は無理やりになってしまう。「そういうものよ」と、いい匂いのする方向へショタァを引っ張った。
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