5「家の主」(1)


 二匹は走って走って、ようやく目的の家――紬の家の前まで辿り着いた。放り出された交差点から本当に一直線、あの香しい死体のあった場所からはそれなりに離れていた。

 まだこの道は続いている。だが、二匹の足は自然と止まった。烏の言っていた通り、その家は雰囲気が違った。

 緑の屋根に、二階建ての建物。簡素な塀で形ばかりの門。外観こそ普通の人間の家に見える。だが、そこから漂ってくる空気が、明らかに人間の発するものではなかった。

 巨大な禍々しいナニカ。例えるならばそんなものか。どう見ても人間が住んでいるとは思えない妖力を、その家は発していた。あの匂いも、きつくなっている。

『なぁ……もしかして、紬の家族が……犯人?』

 茶々が信じられないという表情で呟く。まるで自分自身に違うと言い聞かせるように、黄に否定を求めて零れた、そんな言葉に聞こえた。

『……この匂いに、妖力……そう考えるんが普通ちゃうか?』

 自分で思っていたよりも冷静な声が出た。声だけでなく黄の頭も珍しく、しっかりと冷静に回転していると自分でも思った。

 烏達がこの家に寄り付かない理由がわかった。

 この家は“死臭”が強すぎる。命あったモノ達が最後に放つ負なるもの。それがこの家には充満しているようだった。獣の鼻にしかわからない。隠蔽された、罪の家だ。

 負なるオーラはどす黒く、そして重い。もちろんそれは目に見えるようなものではないが、確実に精神的に黄の心を締め付ける。

 それは隣の茶々も同じだ。普段はあんなに明るく元気なじゃじゃ馬が、一言も話さずにじっと家の玄関を見詰めている。

 カーカー。

 上空から烏達の鳴き声が聞こえる。二羽はちゃんと距離を取りつつついて来ているようだ。上空を見上げると、ぐるぐると旋回する影が小さく見えた。闇夜に顔を出した月明りにより、少しばかり空は明るくなっているように見える。

『家の人……おる?』

 恐る恐る門の隙間を潜って、二匹の妖狐は敷地に侵入する。玄関の扉までの短い小さなスペースは、庭と言うにはあまりにも狭すぎる。紬が使っているのか可愛らしいデザインの細い乗り物が置いてあるだけで、すぐに家の外壁にぶち当たってしまう。

 道からそのまま続いているようなコンクリートの敷地は、隠れるような場所はどこにもなく。人通りが全くない時間で良かったと黄は胸を撫で下ろす。こんなところを通行人に見つかったら、きっと他の人間を呼ばれてしまうだろう。

 だが逆に、家の中に人の気配はない。おどろおどろしい負の圧力のみが、この家を支配していた。

『扉か窓開けな、入れへんよな……』

 紬の親が犯人か、それとも……どちらにしても黄達には他にアテがない。彼女を救うためには人間の手助けが必要で、このスマホを見せて反応してくれる相手はおそらく彼女の家族だけだ。そう言い聞かせる。烏の声。

『なぁ、ほんまに入るん?』

 揺れる瞳と目が合った。優しい大空を思わせる瞳が、今回ばかりは不安げだ。そのあまりの愛しさに、黄は思わずその頬をぺろりと舐めてやる。幼馴染からの突然の愛情表現に、茶々はその目を丸くした。愛らしい、チャーミングな瞳に少しばかり元気が宿る。

『俺らがはよしな、紬が死んでまうで』

 優しい瞳で、でも意地悪にそう言った。そう言わなければ、彼女の中の不安や恐れが吹っ切れないということがわかっていたから。闇夜から降る悪意ある言葉を、耳から口へ垂れ流す。せめて行動だけは、彼女への愛を示したくて。

『ウチ……怖い。こんなんあかんってわかってるのに……紬を助けなあかんのに……この家、入るん怖い』

 黄よりか幾分小柄なその身体が、こてんと身を寄せてきた。そのあまりの暖かさに、この時だけは黄の頭は彼女でいっぱいになってしまう。薄っすらと涙を浮かべたその瞳に吸い寄せられるように、鼻先を彼女のそれに合わせていた。最大限の愛情表現に、彼女もしおらしく身を預けてくる。

『黄……なんでそんな……いつの間にそんな、頼れる男の子になったんよ』

 泣き笑いのような声で彼女にそう言われ、黄も苦笑してしまう。違う。今冷静なのは自分じゃない。いつもの自分ならきっと、頭の中がパニックで、他のことなんて考えられない。そう、今は――烏の声が聞こえる。

『茶々、大丈夫。何かいても俺が護るから』

 何かが何かは聞かれなかった。人間ではないその気配の主のことは、今は二匹とも考えたくなかったから。ほんの少しの時間だけ、時も場所も忘れて、ただ身を寄せ合う。それだけでお互いの暖かさが伝わって、この場所に確かに漂う冷たい悪意に鈍感になれた。

 茶々の頭が黄の首の下でこくんと頷いた。それは終わりの合図だ。この甘い優しい、暖かい時間の終了の合図。烏の声が、きっと彼女にも聞こえたのだろう。

『……どうやって入るん?』

 きゅうんと情けない声を上げる茶々に、黄はずっと頭で考えていたことを告げることにした。それは妖狐である黄達にしか出来ないことで、だからこそあの聡明な烏は黄達をここに寄越したのではないか。考えついて茶々に話すうちに、黄は何故だかそう確信していた。










 




 妖狐は狐のあやかしで、人を化かすことが出来るという。しかしそれは、長年あやかしとして生きた者達の話であって、まだまだあやかしに転じて数年の黄達では、人を騙せる程の精巧さでは長時間の変化(へんげ)を行うことは出来なかった。

 黄と茶々は烏達から『狐のあやかしは妖狐と言って、人を化かす存在だ』と教えられた。黄達が住処としている山にはもう、他の狐の姿はなく、あやかしの類もいないようだったので教えを請う相手はいない。

 その為に二匹は独学で変化の練習をする他なかった。また、烏達がどこからか出所不明の情報を持ってくることも多く、二年も経つ頃には二匹は数分間だけなら人の姿に化けることが出来るようになっていた。

 変化には妖力と植物の葉を使用する。たった数分だけの変化でも、まだまだ半人前の二匹には相当な負担が掛かるので、一日に一回が限度の大仕事だ。使用する葉っぱが育った山の物に近ければ近い程、身体にかかる負担は減る。

『俺が紬に化けて扉を開ける』

 黄がここについてからずっと考えていたことだった。ここは紬の家だ。彼女の姿に化けて扉を開ければ、家族がきっと反応する。その反応が喜びか敵対かはわからないが。

 紬の裂かれた腹の傷からは、この家から感じる匂いと同じ匂いがしていた。ここに来る途中に転がっていた死体からもだ。雷の話を聞くに、おそらく他にも何人もの妊婦が同じように腹を裂かれているに違いない。

 そして、ここでおかしなことに黄は気付いた。いや、多分岩からしたら『なんで今更なんだ?』とバカにされそうだけれども。今から考えたらそれを確認するために、岩は一羽であの現場に――紬と共に残ったのかもしれない。

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