3「人間の街」


 口うるさい二羽の烏が妖狐を連れて飛び立った境内には、張り詰めそうな程の静寂が訪れていた。

 ぴんと張ったその空気の凍てつきは、秋の深さの影響ではない。ぞくりと生命への警告を与えるこの存在感は、きっと“彼”だからこそ成しえるものだ。

『お前は、戻らんでええんか? 僕らの存在、知らんかったわけやないやろに』

 灰色の上を彩る朱を足先で掬い上げながら、岩は静かにそう問い掛ける。岩の背後――遥か彼方の闇夜の空で、二羽の烏が鳴いている。カーカーと、“人間にもわかるように”。『烏が鳴いたら帰りましょう』と。カーカーと鳴いている。

 岩の視線の先で、横たわった身体は動かない。微かに彼女を纏う空気が揺らぎ、そして銀色に飛散する。あれは、残り香だ。

「あんたは……黄と茶々のお友達……やん、な?」

 動かない彼女の口が、弱弱しくそう言った。愛らしい真ん丸とした美味しそうな頬に血の気はなく、普段はくりくりとよく動く瞳が、今は固く閉じられている。まるで死人のような生の感じられないその顔で、口元だけが小さく動くのだ。銀も、揺らぐ。残り香。

『そうや。黄と茶々が君を助けるために“親父”んとこ行ってるわ。あんま喋んな。さすがに血ぃ止めんと、君も死んでまうからな』

 彼女からの返事が途切れたので、岩はそれを了承と認識した。とくに断りを入れることもせず、彼女の身体の止血を始める。烏である岩に出来ることなど、本当ならば何もない。だがここには神木がある。枯れ果ててはいても、その御力はまだ残り香として残っているのだ。

 実りの秋ですら裸の肌を晒しているその神木は、本殿の隣に今も尚神々しい立ち姿で聳え立っている。幹の幅こそ細く力強さはないものの、その神秘的なオーラとでも呼ぶべきものは、きっと人間達から見ても感じ取ることが出来るだろう。

 岩はその神木の細枝までふわりと飛翔し、その枝を嘴で折っていく。量を稼ぐために葉があれば最適なのだが、この神木に残された残り香では青々とした葉を作り出すような余力はもうない。文字通り神木の身を削るようにして、細い枝を細かく折り、彼女の剥き出しの腹に被せていく。

「っぅう……い、痛っ」

 傷口に枝の先端が刺さるからだろうか。彼女の浅い呼吸に小さな苦痛が混ざっていく。だが岩は、その行為を傷口が見えなくなるまで続けた。目障りな銀の揺らぎは、途中で完全に姿を見失った。

『痛い、よな……ほんまにお前は、不幸なやっちゃな』

 彼女の腹から突き出た神木だった枝達が、まるで生き物のように揺らいで、歪んだ。それを金色の瞳で眺めながら、岩は確かに耳にした。雫が零れ落ちるその微かな水音まで、聞こえてしまいそうな静寂だったから。

「……お母、さん」












 乱暴に烏達から放り出された黄と茶々は、人通りのないアスファルトの道端に転がるようにして落ちて止まった。ころころと転がる二匹の様は、まるで巨大な毛玉のように見えていたことだろう。

『いたたた……茶々、大丈夫か?』

 黄はそう言いながら抱えていた茶々とスマホの無事を確認する。柔らかい毛玉に挟まれていたスマホはもちろん無事。そして茶々も『うーん……』と小さく呻いてから、その愛おしい瞳をいっぱいに広げる。よろよろと黄の上から降り――黄が丁度下敷きになっていた――、しきりに周りの景色に顔を向ける。

『わぁ、凄いっ! これが人間の街なんっ!?』

 感嘆にも似たその声に、黄も起き上がり周りを見上げる。スマホは無くさないように優しく咥える。

 二匹は十字路の真ん中にいた。真っ直ぐこの道を神社の方から放り投げられたので、おそらく身体が向いている方向にそのまま進めば、目的の紬の家へと到着するのだろう。

 足元は固いアスファルトで、山の地面に慣れている二匹には馴染みがない。境内の石畳とはまた違う感触に、足の裏がムズムズというか正直、痛い。見た目は灰色一色で滑らかな美しさすら感じるのに、なんだか冷たい“人のための道”という感覚がした。

 道の両側は高い塀に囲まれていて、どこか踏み台を見つけなければその上に顔を出すことは難しそうな高さだ。紬が立ってもその塀の上には頭が届くことはなさそうだった。

 塀は灰色一辺倒というわけではなく、どうやら木だったりよくわからない材質だったりの違いがあるらしい。その隙間や上から覘く人間の家々の違いが、そのまま塀の違いにも出ているように感じる。

『なんか美味しそうな匂いもするし、ほんま凄いっ!』

 茶々が興奮に目を輝かせる。彼女が首を動かす度に、その大きくてチャーミングな尻尾も揺れる。愛らしく、ゆらゆらと。確かに美味しそうな食べ物の匂いが漂っている。もう夜も遅い時間だが、光を得た人間にとってこの時間はまだまだ夕食の時間なのだろう。涎が出そうになるのを黄はそっと我慢する。

 神社のある山から出たことのない黄と茶々にとって、人間の街は今まで遠くから眺めるだけのものだった。そこに今、初めて足を踏み入れている。事情が事情だが、それでも興奮を隠せない茶々の気持ちが黄にもよくわかった。街に通い出した頃の烏達が、『都会は危険がいっぱいなんやで』と歌うように言っていたのを思い出す。

 遥か上空でその烏の鳴き声が響き渡った。カーカーと、二羽の烏が鳴いている。その瞬間、十字路を冷たい風が吹き抜けた。

 黄と茶々は目を見合わせる。確かにその瞬間、二匹と街が表情を変えた。黄と茶々は行くべき道の先を見据える。

 人通りのない道が、延々と続いているようだった。どこもかしこも光が燈り、人の気配がするというのに、目に見えるこの道に、人影は全くなかった。そのアンバランスさに、異様な恐怖が巻き上がる。

 カーカー。

 烏が急かす。

 時間がない、その鳴き声はこの一言に尽きる。それでも何か得体の知れない恐怖感が、黄の心には渦巻いている。ぞわぞわと過るこの感情に、烏の声が歪に溶け合う。漆黒の黒が混ざり込むように、恐怖で塗りつぶしていく。

『……雷も氷も、大っ嫌い』

 隣で茶々が小さく零した。彼女から出た意外な言葉に、黄は思わず幼馴染を見詰める。

 黄にとっての幼馴染の烏達は、間違いなく茶々にとっても仲良しの幼馴染だった。口は悪いものの面倒見の良いお姉さん烏の雷とはべったりだし、少しマイペースな氷に容赦なくツッコミを入れているところなど本当の兄妹のようだ。そして――

 おそらく茶々は岩に惹かれている節があった。憧れている、と言った方が正しいのかもしれない。とにかく頭の切れる岩には、黄も頼りきっているので気持ちはわからなくもない。

 種族も違うし、多分岩は茶々のことなど気にもしていない。というか多分妹分くらいにしか思っていない。あの三羽は三羽でこちらには言わないだけで、ややこしい“烏”関係を築いているというのも伝わってくる。本当、モテ烏め。

 その憂いを帯びた金色の瞳には、なんだかこちらを離さない妖力みたいなものが籠っているような気もするし、まるで全ての理を見てきたかのように言い当て、そして常に冷静であった。とにかくその身に纏う色気みたいな、魅了する力みたいなものが烏のそれではないのである。

 他の二羽だって彼程ではないにしろ、普段から頼りがいのある兄と姉である。そして彼等のことを茶々は、これまで一度だって悪く言ったことはなかった。幼い頃から一緒に育った、大切な大切な存在である。

『確かにいきなり放り出した雷も氷も酷いけど、さすがに仕方なかったんちゃう?』

 怒りからかふるふると震えている茶々の肩に前足を置きながら、黄は思わず二羽の烏のことをフォローしていた。普段のおちゃらけた二羽の態度が脳裏を掠めて、若干いらないフォローだったかと後悔している自分もいる。

『違うわ。そんなもん怒ってるんちゃうもん』

 こちらを向いた彼女は泣いていた。その双眼から溢れる雫に意味を悟り、黄はぎゅっと彼女に身体を寄せる。道の真ん中で冷たい風に晒されながら、彼女の涙が落ち着くまでじっと、そうしてやる。空の彼方からの声は、聞かない。

『……さっき、岩も氷も雷だって……みんな、みんな怖かったんやもん……』

 黄と同じく彼女だって、烏達とは仲良しの幼馴染だ。だからこそ黄と同じ違和感を、彼女も感じ取っていた。それが得体の知れない恐怖へと変わるところすらも一緒で。

 烏達はどこか妙だった。でも、今はそんなことより――

『それは走りながらにしよか。なんか、さっきから妙に――』

『――うん。血の匂いがする……』

 美味しそうなこの匂いは、人間の作った料理の匂いではない。無造作にぶちまけられた臓腑の香り。滴る血に“新鮮”な肉の食感が強烈に脳裏に映し出される。それはそれは極上のメインディッシュ。

『さっき雷が言ってたんや……今、この街で何人も妊婦が死んでるって』

 隣で愛らしい目が見開かれ、そして何も言わずにその瞳と口がきゅっと閉じられた。一滴の涙を零して、彼女は気丈に頷き答えた。

『早く行こ。ウチ……紬だけやなくて、他の子だって助けれるなら助けたい』

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