第16話

 まるっきり夏休みである。

 青空に浮かぶ白い入道雲。じりじりと焼きつける日差し。うるさい蝉の声。ひまわりの黄色。朝顔。庭先には、ビニールプール。すっかり乾いてしまった洗濯物。

「せっかく風呂に入ってきたのに、台無しだ」

 汗ではりつくシャツを指先ではがす。

「カイくん?」

 遠くから少女の声がする。顔を上げると、すでに少女は走り出していた。

「本当に、来てくれた」

「約束しましたからね」

 腕にまとわりつく少女の頭に手を置く。見上げる少女の目には涙。

「ううん。違うの。カイくんだもの。いつかは会いに来てくれると信じていたわ。それでも、もっとずっと先のことだとばかり思っていたから」

 鼻を鳴らし、視線をそらす。

「ええ、その点に関しては、自分でも驚いているくらいです」

 こじんまりした可愛らしい家。大きな木の下、白いテーブルと椅子のセット。冷えたすいかと麦茶。地面に届かぬ足をぶらぶらさせる少女。

「いい人ばかりよ」

 思い出したそばから忘れてしまわぬうちに、急いて口を動かす。おしゃべりの合間には、小さな手で持った赤い三角にかぶりつく。

 今、少女の着ているサマードレスを縫ってくれたのもその友人の一人だと言う。おさげ髪で、浴衣を着ているお姉さん。

 そうだった。高校で、思い出したこと。

 僕は、御師おしである。

 御師とは、富士参りや伊勢参りの際、講と呼ばれる集団の道案内や宿の手配を行う。更に、聖地巡礼という性質上、御師は現在のツアーコンダクター以外の顔も併せ持つ。それは、神官だ。従来、神道では行われなかった葬儀。必要に迫られ、神官は死者を新たな神に祀り上げることで葬儀の代わりとした。

 思い出した。僕、栗林海成くりばやしかいせいは、化野千夜あだしのちやを人の形にするために、彼女の中の少女性を殺したのだ。通常、多くの人が、実際形にするわけではないにしろ、親殺しや自分の中の子供性を殺すことを通過儀礼とする。精神の殺人は、肉体のそれと何ら変わりない。だから、せめて、千夜の心の奥底に閉じ込めるのでなくて、明るくて高い所に白麻姫しろあさひめを避難させてあげたかった。

「ねえ、カイくん。私、今が一等幸せよ」

 僕は息を呑み、せめて笑ってみせた。


 *


「おい、そこの人。菅沼柊すがぬまひいらぎさん」

 台所から声をかけるも、返答はない。代わりに、パソコンから小説の原稿を読み上げる合成音声が聞こえる。一時停止。椅子に座ったまま、上体だけ部屋の角から覗かせる。

「何よ、ツクツク、ツクツクうるさいわねえ。人が小説聞いているところでしょうが」

「お前、スクランブルエッグ作れよ。レタスだけだと苦いとか言うの、どこの誰だっけ?」

 柊の舌打ち。

「私、たまごなんか割れない」

「だから、練習しろって。こっちは、たまごやき作れって言ってるんじゃねえからな」

 ようやく柊が立ち上がる。

「だったら、ツクツクトマト輪切りにして。私、たまご焼くから、サンドイッチにする」

 しばし、集中する柊。

「あんまり、フライパンに顔近づけると、油とぶぞ」

「ツクツク、本当うるさい」

 そして、混ぜる気皆無のスクランブルエッグもどきができあがる。

「ほぼクレープじゃねえか」

「え、火が通ってからスクランブルすればいいじゃん」

 僕は首を傾げる。スクランブルエッグとは。

「楽はできるときに、できるだけする。菅沼家家訓よ」

 片手はウエストに、片手でびしっとポーズをとる。

「ああ、うん。セダカ君、三色配達の弁当だったし。お前ん家、ほこりだらけだしな」

「ええっ。片脚のおじいさんと、目の悪い美少女の二人暮らしよ。掃除とか、マジで意味不明なんですけど」

 意味不明ということはないだろうに。まあ、見えてなかったら、どうでもいいか。

「まあ、ひとつ言えるのは、セダカ君が孫娘を甘やかしすぎだということだな」

「ねえ、ツクツク。ロイヤルミルクティー寄越せ」

 真顔で何を言う。

「ミルクティーですね。お嬢様」

 作り物の笑顔を返す。

「こっちは、茶葉を鍋に入れたミルクで煮出せって言ってるんだよ」

 柊さんは、自分のよく見える距離まで、目を合わせてくる。恐ろしい子。窓際まで逃げ、室内栽培のハーブを摘み取る。サンドイッチの具材に散らす。ロイヤルミルクティーを煮出す。はあと溜息が洩れる。

「ジジイに似すぎて、可愛くねえな」

「ちょっと! セダカ君大好きなしいおばあちゃんが頭のおかしな女だったみたいな言い草やめてくれる? 我が家の女神を冒涜しないで!」

 うん、まあ…。うん…。横目で見て、お茶をマグカップに注ぐ。トレイにサンドイッチも乗せて。書庫の簡易テーブルまで運ぶ。

「ところでさあ、あなた、男子校出身でしょう?」

「何を今更」

 サンドイッチにかじりつく。

「だからさあ、浅田あさだせとかって誰?」

 僕は目を見開く。ロイヤルミルクティーをのどに流し込む。

「誰だっけ、それ?」

「バカなの?」

 何かこう。ツンデレって何だっけ。僕は、あさってのほうを見た。


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