春に惚ける

神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)

第1話

 椎をさらった。

 椎は、何日、眠っていたのだろう。生きた死体は、規則正しく呼吸をし、心臓を動かす。それ以外には、全く動かない。初日は眠らずに見守っていたのだが、さすがに二日目からは、断続的、こちらも眠りに落ちた。

 短時間、トイレやシャワーで離れるのにも、自然と涙が伝った。不安だった。結局、僕は、あの子を殺すだけ殺して、生き返らせることには失敗してしまったのではなかろうか。急いで彼女の元に戻ると、膝をつき、両手をつく。何度も、彼女の名前を呼ぶ。ぴくりともしない。

 何しろ、寝返りすらうたないのだ。しばらくしてから、ようやく、床ずれを心配する。夏だからといって、床に倒れたままにしていた。ベッドへ運ぼうと、肩と太ももに手をまわす。結果的に、抱え上げられはしなかった。本当に人形のようになってしまっている。ただの寝ている人間ならば、重力に従って手足がだらりと垂れ下がるはずである。なのに、彼女は違った。ただの棒のようだった。

 そのうち、彼女は本当に命を放ってしまったのではないかと思い始める。僕の好きだったあの子は、もうここには居ない。僕が殺した。

 乖離、嫉妬、人形。

 僕はずっと君を救いたかった。


 終点からたった一駅離れているだけ。それなのに、異様なまでに落ち着いた街だった。当然のように、この界隈に下宿を決めた。間に合わせみたいな駅から、どこもかしこも人気のない道を行く。ほとんどお化け屋敷みたいな部屋に僕は住んでいた。

 さびれた商店街で見つけた赤い布きれ。白い水玉が散っている。僕の中にある、精一杯のレトロなイメージをかき集める。そうして彼女のための夏用のワンピースを縫い上げた。黒い髪は高く結いあげて、壁一面に貼った写真を眺めている。

「こうしていると、今が二十一世紀で、平成の時代だなんて嘘に思えてくるから不思議だ」

 後ろに手を組んでいた彼女が、振り返る。

「不思議も何も、セダカ君も私も、昭和生まれではなくて?」

「昭和の血が流れている」「そう」

 畳に座したまま、両手を高く掲げる。腕の中におさまった彼女が、耳元で囁く。

「セダカ君は、ずるい」「何が」

 歯ぎしりをする。ずるいのは、一体、どちらのほうか。

「ねえ、頂戴」「え」

 体勢が体勢だからだろう。あからさまに、彼女の時が止まった。

「それは、身体を、ということ?」どうにかそれだけ呟く。

「もちろん、それも欲しいけれどね。僕は君が好きだから、解るんだ。君は悩むのが趣味のようなものだろう。性分と言い換えてもいい」

「性分」

 言葉を飲み込む彼女の頭をなでてやる。

「まあ、僕はそんな君が好きなのだけれどね」

 ちらと僕の目を覗き込む。

「二人、居るんだろう」

 瞳孔が開くのが、解る。

「そうだよ。セダカ君はいつだって一人でしょう。それなのに、私の中にはいつも二人居る」

 二重人格とは、違う。例えば、外向的な彼女、内向的な彼女。それぞれ独立している。そんな二人が同等に一人きりの人間の中に詰め込まれている。相反する性格の人間がひとつの部屋に閉じ込められているのだ。だから、いつも迷走して見える。そして、それはとても疲れることだ。

「だからさ、君を僕に預けてくれないか。僕は、ただ一人の君だけを君に求め続ける」

「どうやって」目が光る。

「写真を撮る。君の目にも映るように、君を制定していくよ。だから、人形になって。僕の着せ替え人形に」「いいよ」

 彼女が目を閉じる。

「絵本のような写真を撮りたいんだ」「うん」

 彼女の体重がずしりとのしかかる。

「二人居るのが、君なのに」「うん」

 背中をなでる手が震える。

「泣いているの?」

「だって、君が死ぬから」

 白い歯を見せた。

「生まれ変わるのよ? 幸せなことでしょう」

 小さな子供に言い聞かせるみたいだ。僕は静かに首を振る。

「そうかな。どうなんだろうね」いくら待っても、返事はなかった。合図だな。僕が腕を解くと、抵抗なく床に転がった。

「ねえ」

 息はしている。関節は、不自然にかたまっている。僕は床に手をつき、彼女の耳元で囁いた。

「おやすみ。次、目覚めたときには、新しい君に会えるね。 待っているよ。必ず戻ってくるんだよ。僕は、君が命を放棄することまで、許したわけじゃあない。僕を一人にしないで」

 いつか美術館で観た絵を想わせた。はっとして、顔を上げる。見上げた先、カメラのレンズがこちらを向いていた。

 僕は、生きた死体をフィルムに収めた。

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