二話:夕立

宿題のドリルを終えると五時二十三分だった。

六月半ばにもなれば、日暮れは随分遠ざかり、この時間でもまだ青空が眩しい。いつもならば家庭菜園に水やりを始める蓮司の後をついて歩くか、鈴子と一緒に茶菓子をつまみながら相撲か、ネット配信の映画やアニメでも少し観てみようかという時間だ。

間食が癖になってしまっているせいでいっそう空腹を覚えて腹を押さえる。どうしようか、と迷ったものの小遣いを詰めた深緑色の小銭入れをアッシュグレーのスキニージーンズの尻ポケットにいれるとコンビニへ出掛けることにした。


最寄りのコンビニは子供の足でゆっくり歩いて十五分。往復しても三十分程度なので、暗くなる前には確実に帰宅できるだろう。マヨネーズの買い置きが無くなった時など、お使いを頼まれて蓮司と一緒に何度も行ったことがある。大通りに出る時に車にさえ気を付ければ一人でもきっと大丈夫なはずだ。

農道を歩いて、隣の町内へと向かう。青々と繁った桜の木や柔らかく薄い葉を揺らす黄緑色の紅葉もみじ、枯れかけの花が引っ掛かったつつじなどの合間に赤紫や濃い紫がちらちらとのぞく。蕾の色鮮やかさが目に留まるから気になるのだろうか。菖蒲しょうぶ芍薬しゃくやくを植えている家がなんとなく多い印象だ。

この民家の間を抜けると押しボタン式の信号が一つある。その信号を渡って少し行けば大通りに差し掛かり、そこでもう一つ信号を渡れば目の前がコンビニだ。

丁度時間帯のせいかもしれない。車が行き交う音を聞きながら住宅街を抜けようとして、ふと見覚えのない建物に気付いた。


「あれ?こんな所に……。」


いや、建物自体は元からそこに立っていた。古い木造作りの空き家で、蓮司が言うには、昔は駄菓子屋だったそうだ。

住宅街の真ん中なので、子供たちの溜まり場になっていても誰か大人が近くにいる。親も安心して預けられる場所であったという。

もっとも、話を聞いてもスーパーの菓子棚や市営のコミュニティスペースしか知らない楓にはそれがどんな光景だったのか想像がつかなかったが

いつ通り掛かっても広い硝子戸の向こうには色褪せて白っぽくなったチェックのカーテンが掛かっていて奥を覗き見る事が出来なかったが、今日は、そのカーテンが無かったのだ。

楓は好奇心に駆られて立ち止まった。

硝子戸の前にはアイアンラックの上に品良く並べられた鉢植えが花盛りだ。紫色のサフィニア、黄緑色の鶏頭けいとう、緑鮮やかな迷迭香ローズマリー、白い蕾をつけた香水木ベルベイヌ。そしてその横には駅前の喫茶店にあったようなカフェボードが置かれている。そこにはまだ、何も書かれてはいない。

家の区画を区切る石塀を見ても表札も無く、店が営業している事を示すものは何も無かったが、ずっと閉まったままだったカーテンが開き、硝子戸の奥には天井からぶら下がる幾つものランプ、壁には瓶がぎっしりと並べられた木製のラック。室内には俗に廃材家具とでも呼ばれるのだろうか、高さも大きさもそれぞれ不揃いの木製の机が五つ。それに備え付けられているのはソファーベッドのような長椅子もあれば、木箱や、机と同じテイストの歪な椅子もあった。

いかにも古民家風カフェといった風合いだ。

中でも一際目を引かれるのが西側の壁に据えられた茶箪笥だ。郷土資料館のような所で飾られていそうな古めかしい作りで、楓の家に有るものよりずっと古そうに見える。入り口側からは側面しか見えないが、ランプの光を受けて艶々と輝く木板から年輪が黒く浮き上がってくるようだ。


「こんにちは。」

「ぅ、ひっ……!?」


不躾にも、つい足を止めてまじまじと店の中を観察していると背後から突然声を掛けられて目と鼻の穴は勿論、全身の毛穴がぶわりと広がる。声を上げることもできず、辛うじて反射的に振り替えるとブルーシートを持った若い男がいた。


「驚かせてすみません。ちょっと失礼します。よっ、……っと。」


男は、驚きから抜け出せない楓に断りを入れると、軒先から垂れ下がったフックにブルーシートの端にある穴を掛け、そのままアイアンラックごと植木鉢を覆ってしまった。

手慣れた様子で裾をラックの主柱にくくりつけた後、こちらへ振り返る。


「さて、お待たせしました。」

「あ、あの……じろじろ見ちゃってすみません。」

「構いませんよ。もうすぐ雨が降りますから、少し寄っていきませんか?」

「えっ、あの。」

「さあ、どうぞ。」


カラカラと音を立てて開かれた硝子戸の前で、男が楓を待っている。

空は快晴で雨など降りそうに無いが、勢いに負けて招きに応じた。




酷い雨だ。霧のように白く霞んで前が見えない。

降り始めるまではあっという間だった。眩しいくらいの青空だったのに、横殴りの激しい風が吹き始めたと思うと音よりも早く稲妻が走る。

空が青白く染まり、やがてコップの底に残った飲み物をストローで吸い上げるような酷い濁音が大音量で響く。地面が揺れるような感覚がする。随分近くに落ちたようだ。


「ありがとうございます。引き留めてもらわなかったらコンビニまで辿り着けなかったかも。」

「町役場の隣のですか?」

「はい。」

「ああ。そこまでだときっと濡れてしまいましたね。

はい、どうぞ。」

「そうですよね。ありがとうございます。いただきます。」


電話を借りて柚子の携帯に連絡したが、残念ながら未だ仕事中なのか、留守電に繋がるだけだった。念の為、留守電に自分の居場所を伝えておいたが、気付いてくれるだろうか。

家主だという男、文彰ふみあきからお盆を受け取る。硝子の平皿に乗った幾つかの琥珀糖と、マグカップにたっぷり入ったハーブティだ。

カップもナントカ焼きだとか、高尚な名前が付きそうな洒落た素焼きで、キラキラと金色が胴に散っていて綺麗だ。

ハーブティは茶色みを帯びた黄緑色で、爽やかだが少し重い香りがする。ふーふーと息を吹き掛けて一口啜ればとろりと甘く、スースーした。ラベンダーの匂いがした。それから、迷迭香ローズマリー香水木ベルベイヌのような。

柚子が好んで飲むハーブティに似ている。

文彰が茶箪笥の上から写真立てを持って楓の斜め向かいへ座った。


「元々は祖母の文子ふみこがここで駄菓子屋をやっていたんだけれど、両親が帰省して継ぐのは厳しくてね。亡くなって暫くはそのままだったんですよ。」


成程、と聞きながらも首を傾げる。蓮司の話では、駄菓子屋の家主は文子あやこではなかっただろうか。


文子ふみこさん?文子あやこさんじゃないんですか?」

「はは。そうです。本当は文子ふみこっていうんですよ。本人は文子あやこの方が気に入っていたみたいで。僕も随分怒られました。」

「へぇ……。」


マグカップ机にを置いて、差し出された写真を見ると文彰さんによく似た少年と、その横で穏やかそうに笑う細身の綺麗なお婆さんが座っている。


「文子さんの隣は僕。夏休みに帰省したときかな。」

「どこに住んでいたんですか。」

「千葉。ネズミーランドの近くです。」

「えっ、遠いですね。一人で来たんですか?」

「そう。帰りは父が迎えに来てくれたんだけれど、初日は都合がつかなくてね。電車を乗り継いで、楽しかったですよ。」

「いいなぁ。楽しそうですね。」


黄緑色の琥珀糖を一粒頬張りながら写真を見る。ジャリジャリとしたグラニュー糖とねかねかとした寒天の粘りが楽しい。マスカット味だ。

天井からぶら下がる短冊や、飴のようなものがぎっしり詰まった硝子瓶、升目毎に色や形の違うお菓子が詰まった木箱。どれも物珍しい。たしかに、一人で電車旅をして辿り着いた先がこんなお菓子やさんだったなら楽しかっただろう。少し羨ましい。

スーパーの駄菓子コーナーとはまるで雰囲気が違う写真からは秘密の匂いがした。

写真を返して、壁の時計を見上げると六時を少し過ぎた所だった。


「ちょっと落ち着いてきましたね。」

「はい。夕立ですから、もう少しすれば小雨になるのでは?楓くんのお家はここから遠いんですか。」

「歩いて五分くらいです。母が帰宅するのは七時すぎくらいだと思うのですが。」

「そうですか。その前には晴れると思いますが、一人で帰すには遅いですね。

もう一度電話してみますか?」

「すみません。」


卓上に置きっぱなしだった電話の子機を借りて柚子の携帯に連絡を入れる。

トゥルルルと、無機質なコール音が数度聞こえて、今度は繋がった。


「楓、今どこにいるの!?」

「ごめん。家の直ぐ近くのカフェにいる。」

「どうして!お婆ちゃんが家に電話したけどでないって言うし、ママもどれだけ心配したと思っているの!?」

「ごめん。コンビニへ行こうと思ったんだ。でも急に雨が振りだして。」


電話越しでも耳に痛い声に、柚子の心配が窺える。迂闊だったのは楓だ。柚子の興奮に引き摺られないよう、ぐっと堪えて状況を伝える。

視線を感じて目を合わせると、文彰が片手を差し出している。

楓は首を振って電話を変わらなかった。


「ごめん。大分落ち着いてきたから、小雨になったら帰るよ。」

「はー…………怒鳴ってごめん。

わかったわ、ママも急いで帰るから気を付けてね。

お礼を言いたいから電話、代わってくれる?」


柚子の深い溜息と謝罪を聞いて、漸くほっとした。全部聞こえていたのだろう文彰が頷くので、漸く電話を手渡した。


「初めまして、並木通りの裏に越してきました松影 文彰です。昔、駄菓子屋があったところです。

ええ、そうです。孫です。いえいえ。僕が声を掛けちゃったんです。そうしたら天気がどんどん悪くなってきたもので。

いえいえ、こちらこそすみません。

良ければ僕が送っていきますよ。直ぐそこですし。

いえ、大丈夫ですよ。ええ、はい。わかりました。はい。では。」


じっと文彰を見詰めていれば、人差し指と親指で作った丸のサインと共にウィンクが飛んでくる。

格好いい。芸能人みたいだ。

頭を振る。通話が終わるのを待つ楓に向かって文彰は穏やかそうに笑った。


「というわけで、楓くんは僕が送っていくことになりました。

雨が止むのを待ってから帰りましょうか。」



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