扉の向こうは

ナヲザネ

幻の青い花

 きっかけは小さなことだった。


 ひとつ下の妹と始めた口喧嘩は、お互い意地の張り合いになって引っ込みがつかなくなってしまった。

思わず家から飛び出した私は、いま近くの公園でふてくされている。だいぶ日が傾いて、足元の影も長くなってきている。


「夜までぜったい家に帰るもんか」


 私がそう決意した矢先だった。西陽が輝いていた空は、急激に雲行きが怪しくなり、あっという間に大粒の雨が降り出した。最悪だ。


 泉など、澄んだ水に魔力が宿る『雨の国』。この国はそう呼ばれるだけあって、突然ざっと降りだす雨が多い。

遠くで雷鳴も聞こえだしたので、私は仕方なしに家に戻ることにした。最後の抵抗として、敢えていつもどおりの速さで帰り道を歩く。


「……ただいま」


 ほとんど聞き取れないくらいの声でぼそっとつぶやく。両親は仕事で夜まで戻らないので家には妹しかいない。薄暗い廊下はしんと静まり返っていて、自分の靴音と雨の音しか聞こえなかった。


「ミーナ。ただいま!」


 まだ怒っているのだろうか。妹の返事はない。静かすぎる室内に、苛立ちよりも不安感が増していく。

私は妹とのいざこざを一旦忘れ、廊下の奥に声をかけた。


「ねぇ、ミーナってば。いるんでしょ?いるなら返事くらいしてよ」


子供部屋のドアを開けると、妹がベッドにもたれるようにして、ぐったりと床に座り込んでいた。顔が赤く、苦しそうに息をしている。


「ミーナ!」


 慌ててミーナに駆け寄り、おでこを触るととても熱かった。

昔から体が弱い妹は、しょっちゅう熱を出す。その事を忘れていたわけではないが、頭に血がのぼっていた私は、激しい口喧嘩をしてしまった。


「急に熱が出たみたい……。ライラ、さっきは怒ってごめんね」


「いいから。ちゃんとベッドで寝て。私も置いて出ていったりしてごめん……」


 妹のおでこをタオルで冷やしてやりながら、私はつまらないことで言い争いしてしまったことを、ひどく後悔していた。

 その後、帰宅した両親にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。


 ミーナの熱はなかなか下がらなかった。ここ数日気温の上下が激しいので、体が温度差についていけないようだ。

雨でずぶ濡れになっても、風邪ひとつ引かない自分の丈夫さを妹に分けてあげられたらと本気で思う。


 年の近い妹と言い合いが減ることはないけれど、早くまた一緒に遊びたい。妹の部屋の前を通るたび、私は心の中でひそかに願った。



 翌々日の昼下り。いつものように急な雨が降った後の路地裏で、私は久しぶりにその扉を見つけた。



 ひとけのない細い路地の壁に、古めかしい緑の扉が不自然にくっついている。それを見たとたん、私の足は自然と扉へと向かっていた。


この扉には魔力がある。

そのせいか気まぐれで、持ち主の用事が済んだら見えなくなってしまう不思議な扉だ。私は途中から小走りになって近づいた。


 扉の正面に立ち、深呼吸をしてから蛙の印がついたドアノッカーに触れた。

以前教えてもらった、独特なリズムでドアをノックする。しばらくして、穏やかな笑みを浮かべた老紳士が扉のむこうから顔を出した。調色師のセーブルだ。


「あ、あの。こんにちは!」


「やぁ、ライラか。久しぶりだね」


「セーブルさん。会えてよかった!ちょっと、話を聞いてほしくて……」


「ふむ。何かな?立ち話もなんだから、中へお入り」


 突然の訪問に驚くこともなく、老紳士は私に部屋の中へ入るよう促した。

 この不思議な扉のむこうは、私たちの住む場所から遠く離れた、職人町の絵の具工房につながっている。

 その工房の主人であるセーブルの言葉にうなずいて、私はおずおずと扉をくぐった。



 絵の具工房のバックヤード。そこに置かれた円卓を挟んで、私とセーブルは向かい合って座っている。窓から見える景色は、私の暮らす町とは全く違う風景だ。

 私たち姉妹とセーブルとの出会いは偶然だった。不思議な緑の扉を使うセーブルを偶然目撃した私たちは、彼に頼みこんで半ば強引にこの絵の具工房に押しかけた。以来、私と妹は扉を見かけるたびにこの工房に遊びに来ている。


「どうにか、ミーナにその花をあげたいんです」


「うむ、なるほど」


「セーブルさんは『幻の青い花』がどこにあるか知りませんか?」


 『幻の青い花』は少し前に、私が古い図鑑の中に見つけたものだ。空と同じ色をしていて、見た人に様々な幸運をもたらすという。

 私はその青い花を、体の弱い妹にお守りとしてあげたいと思った。ずいぶん色々な本を調べたりしたけれど、どこに生えているのかさっぱりわからない。

 その花の事をぼんやり考えていたとき、久しぶりに緑の扉を見つけたのだった。物知りなセーブルならば、なにか知っているかもしれない。そう思って、いきなり訪ねてしまった。


 調色師のセーブルは、この工房で魔力の宿る不思議な絵の具を作っている。さまざまな色の絵の具が木棚いっぱいに並び、見たことのない形のガラス製の道具が机の上に置かれている。

 私たちの住む町では見られない光景ばかりで、ここへ来るたびに姉妹でわくわくしていた。とはいえ、扉が現れる機会は決して多くはない。今日セーブルに会えたのは幸運だった。


「知らないわけではないんだが。さて、どうしたものか……」


 セーブルはきっちりなでつけた髪を崩さないよう、額に指をあてて考えている。いまは白髪が混じってグレーに見えるけれど、若い頃はきれいな黒髪だったらしい。


「無理だね。それはたぶんプリシフォリアという名前の花だ。かなり標高の高い山にしか咲かない」


 私とセーブルそれぞれの前に、お茶のカップを静かに置いた少年が口を挟む。灰色の髪と目が大人びているけれど、たぶん私より年下だと思う。


「こら、ルーセント。お客さんになんて口の聞き方だ」


「本当のことを言っただけですよ。無いものは無いとわかった方が、すぐ諦めがつく」


「生意気な弟子め。お茶の淹れ方は覚えたようだが、まだまだだな」


「……どうぞ、ごゆっくり」


 無表情な少年はちょっと嫌味っぽい言い方をして、さっさと表の店舗の方へ引き上げていった。彼は主のセーブルが許可していても、私や妹が工房に遊びに来るのを快く思っていない。反発こそしてこないが、顔を合わせるたびに小さくため息をつかれてしまう。

 私は出されたお茶を一口すすった。ルーセントはいつも渋い顔をしているくせに、淹れるお茶が美味しいのが憎たらしい。


「幻っていうくらいだから簡単じゃないか……」


「いや、先ほどは弟子がすまなかったね。プリシフォリアが高山に咲くのは本当だよ。異国の山に咲く花で、この国ではとても稀少だ。私たちのような一般人が手に入れるのは難しいだろうねぇ。だからこそ幻の花と呼ばれるのだろう」


「そっかぁ」


 ルーセントの話を聞いたときから、無理そうなのはわかっていたが、セーブルにまで言われてしまうと望みがかなり薄くなる。

 しょんぼりしている私に向かって、セーブルは微笑んだ。


「そう落ち込まないで。僕なりの方法になるけど、なんとかしてあげよう」



 ――それから三日が経った――



 ミーナはようやく動けるようになったが、まだ本調子ではないみたいだ。セーブルさんの工房へ行こうと誘っても、本を読んで待っていると言われてしまった。

仕方なく私一人で例の路地に向かう。きっとそろそろ扉が現れる時間のはずだ。


『三日後の午後にまた扉を出す。それまでに僕の言うものを用意できたら、幻の青い花を作ってあげよう。本物は難しいけれど、君たち姉妹だけの特別な青い花だよ』


 花を諦めきれない私に、セーブルはそう約束してくれた。現れた緑の扉の前に篭を抱えて立つ。いつものようにドアノッカーを使うと、眉間にシワをよせた少年が顔を出した。びっくりしたのを気取られないように、私はすまし顔を作る。


「またお前か」


「こんにちはルーセント。あの……セーブルさんはいますか?」


「師匠はいま急な用事が入って席を外している。中で待て」


 明らかに歓迎されていないけれど、それでもルーセントは中へ入れてくれた。私は工房の椅子へ素直に腰かける。


「セーブルさん、忙しそうだね」


「師匠は一流の調色師だ。本来は子供のわがままに付き合っている暇はない」


「……そんな事、わかっているわよ」


 ルーセントの突き放すような口調に思わず言い返してしまった。

 彼の言うことはとても正しい。自分とそう歳も変わらないのに妙に大人びた言い方をするから、ちょっとかちんと来てしまった。冷静になって、自分の態度を少し反省する。


「それで、師匠に言われたものは全部用意できたのか?」


「………」


「なんだ?」


「それがね……」


 一つだけ、どうしても見つからなかったものがある。うつむいた私は抱えた篭の縁をぎゅっと握る。

 ルーセントは腕を組みながら私が話し始めるのをじっと待っていた。彼の態度に少し驚きながら、私はおそるおそる打ち明けた。


「白いヒナゲシが見つからなかった」


 そんなに珍しい花ではないし、花の時期はぎりぎり過ぎていないはずだった。必死に川岸や空き地になっている草原を探し回ったけれど、ついに白い色のヒナゲシを見つけることができなかった。


 セーブルとの約束は、言われた材料をすべて自力で用意することが条件だ。これでは花を作ってはもらえない。私は間に合わなかったのだ。


「今日ここへ来たのは、セーブルさんに直接お礼を言いたかったから。いろいろ親切にしてくれてありがとうって」


 室内がしんと静まる。てっきりルーセントは鼻で笑うか呆れると思って身構えていたが、私が顔を上げても彼はじっと時計を見つめていた。なにか考え事をしているらしい。


「……まだ間に合うぞ」


「え?」


 深い溜息をついたルーセントは、紙切れにさらさらとなにか書きつけ、それを机の上に置く。セーブルへの書き置きらしい。


「こちらの町では、まだ探していないだろう。師匠はもうしばらく戻ってこれないはずだ。今のうちに白いヒナゲシを探しに行くぞ」


 ルーセントの意外な提案に私が口を開けたまま呆けていると、少し怒ったような口調で早くしろと急かされた。

 戸惑いながらも彼に続いて裏口から工房の外へ出る。窓から一部しか見えていなかった知らない町の風景が目の前いっぱいに広がる。

そうして私たちは、白いヒナゲシを探しに向かった――



「おや、まあ。二人とも泥だらけだねぇ」


 セーブルが面白そうに私とルーセントを交互に見て、くすくすと笑っている。何か言い訳しようと口を開こうとすると、ルーセントが「黙っていろ」と目線で合図してきた。それならば、苦笑いでごまかすしかない。


 工房の外へ出た私たちは、ルーセントが目星をつけた空き地や土手を大急ぎで探した。


 しかし、白い花が咲いていても別の花だったり、ヒナゲシを見つけても花を落としてしまっていたりして、なかなか思うように見つからない。

 制限時間がせまり、焦った私たちは汚れなんか気にせず走り回った。そうして、ようやく白いヒナゲシを見つけることができたのだった。


 私たちが裏口からそっと工房へ戻るのと、用事を終えたセーブルが店舗から戻ってきたのがほぼ同時だった。本当にぎりぎりのところで、なんとか間に合った。


「オニキスが木の上から降りられなくなったので、二人で助けていました」


 そう涼しい顔で嘘をついたルーセントは、上で着替えてきますと言い残し、そのまま作業場から出ていってしまった。

 オニキスとは工房で飼っている猫のことだろう。私にはまったく懐いてくれないけど、遠目で見かけたことがある。チョコレート色の毛並みがきれいな猫だ。


「うーん。オニキスはさっきまで僕と店舗にいたんだけどね。弟子の予想外な行動に免じて、そういうことにしておこう」

 

 セーブルは面白そうに笑いながら、私から篭を受け取った。


 作業場は工房の2階にあった。ルーセントの服を借りて着替えた私は、セーブルの作業をすぐ横で見守っている。


 彼が手にしているガラス瓶には、私が集めた材料とセーブルの調合した青い絵の具が入っている。

 それらが混ざりあうごとに、徐々に色がゆらめきながら変化していった。


 水色から群青、紫に近い青から空色へ。声を出すのも忘れて私はその色に魅入った。


「ルーセントと見つけてきた白いヒナゲシを出しておくれ」


「は、はい!」


 夢中で絵の具を見つめていた私は、慌てて白い花をセーブルに手渡す。

 花を受け取ったセーブルがいたずらっぽく笑った。慌てたせいで、ルーセントに手伝ってもらった事をうっかり白状してしまった。服を借りたことといい、渋い顔をされるのは間違いない。


 セーブルは持ち手にキレイな彫刻の入った筆を手に取り、完成した青い絵の具をたっぷりとつけ、白いヒナゲシの花びらを優しく撫でていく。


 不思議なことに、筆先で花びらに触れると青い色素が花に吸い取られていくように見えた。真っ白なヒナゲシがどんどん青に染まっていく。


「すごい。とってもきれい!」


 完成した『青い花』は、まるで海の水のように様々な青色が花びらの上でゆらめいていた。


「この花は枯れない、これからもずっと咲き続ける。ライラの頑張りで作った花だ。きっと幸運も運んで来てくれるだろう。だから姉妹で大事にするんだよ」 


「うん。ミーナもきっとすごく喜ぶわ。本当に、本当にありがとう!」

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