第4話ヴヴヴヴヴ

 これは私が仕事で地方の鉄道に乗った時の出来事です。

 平日の真昼間、その路線は一時間に一本程度しか便がないのですがそれでも尚、客は私一人だったのです。


 列車がとある無人駅に着くと、二人目のお客さんが乗車してきました。

 そのお客はロングスカートを穿き、髪は背中まで。

 このことからおそらく女性であろうと推測されました。

 しかしその顔ははっきりと分かりません。


 彼女の顔はまるで墨で塗りつぶされたように黒いモヤで覆われていたのです。


 私は不味いと思い、目を伏せました。

 女性が近づいてくる気配がします。

 私は目を瞑り祈りましたが、その祈りは通じず女性は私の隣に座りました。


 ヴヴヴヴヴヴヴキャッキャッキャッ


 隣から聞こえました。

 何かが振動するような音と子供のようなはしゃぎ声

 声は一人のものではないように思えます。

 何十人いや、何百人もの子供のはしゃぐ声。

 一つ一つの声は非常に小さいのですが、数百人分の声が一塊となり私の耳に届くのです。


 私は目を伏せ続け女性が去るのを待ちましたが、一駅二駅と過ぎても彼女は私の隣に座っていました。

 音も声も鳴り続けています。


 三駅過ぎた辺りでふと異変を感じました。

 音と声は彼女の顔付近から聞こえてくるのですがほんの小さく、ほんの僅かに私の膝元の方からも聞こえる気がするのです。


 ヴヴヴヴヴヴヴキャッキャッキャッ


 私の膝には一匹の蝿が留まっていました。

 蝿はヴヴヴヴヴと羽音を立て、小さな小さなはしゃぎ声を上げていました。



「助けてください……」


 これは女性の声でした。

 私は顔を伏せたまま横目で彼女の顔を確認しました。

 彼女の顔を覆っていたモヤは無数の蝿の大群でした。

 一匹一匹が羽音を立て、キャッキャキャッキャと楽しげな声を出しているのです。


 私は逃げ出そうと立ち上がりかけました。

 その時女性が私の手を掴んだのです。


「助げで……ぐださい……」


 彼女は泣いていたのかもしれません。

 が、表情は蝿に覆われ確認出来ません。


 ヴヴヴヴヴヴヴキャッキャッキャッずるぺっちゃずるぺっちゃ


 彼女の顔から振動音はしゃぎ声、そして何か水分を啜るような音が聞こえました。


 下手に情けをかけてはいけない、そんな気がしました。

 この不気味な蝿達がもし私に狙いを定めたら……。

 そう思うと怖くて仕方がありません……しかし。


 私は自分の鞄から虫除けスプレーを取り出し彼女の手に握らせました。

 これくらいなら……。

 私にできる精一杯の手助けです。

 効果があるかどうかは分かりません。


 その時ちょうど列車が駅に停車しました。

 降りる予定の駅ではありませんでしたが、私は彼女の手を振りほどき一目散で列車のドアに向かいました。


 駅に降り立ったその時です。

 目の前には何万匹もの蚊の大群がいました。


 しまった、そう思いました。

 それと同時に列車の扉が閉まりました。

 振り返ると女性が、私の虫除けスプレーを持ちこちらを向いていました。


 ――それ私のッ……返してッ……


 しかし何もかも遅かったのです。

 女性の表情はやはり蝿に覆われ、窺い知ることは出来ませんでした。


 虫除けスプレーを失った私は容赦なく蚊に襲われました。


 ――ああ……吸われる……吸われていく


 蚊に血液を奪われて行くのをはっきりと感じながら私は気を失いました。




 以上が私の体験した全てになります。

 彼女が何者なのか、それは分かりません。

 生きている人間なのか、それとも人ならざる者なのか。

 私に本当に助けを求めていたのか、それとも私の虫除けスプレーを奪うのが目的だったのか。

 それは誰にも分からない。

 しかし彼女から感じた悲しみ、それは本物だったように思えて仕方ないのです。

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