第10話 遠吼孤虎
いきなり入ってきた羽は、その場で拝礼をする。それを見た澄も慌ててそれに習う。役人たちや侍女たちも乱入してきた少年二人に不可解な視線を向けている。
「周家の次期当主、何ゆえ参った」
「私と、ここに居ります斎澄が元々命じられたものだからです」
つかつかと赤いじゅうたんの上を歩いていく。大叔父が固まったまま動かない。
(どうして、こんなことを?)
自分は覚えている。心がこんなことをする人ではないと思いたがっている。でも、事実はこの目の前にある。羽は椅子に腰かけている大叔父の前にかがんで告げた。
「大叔父上、編曲譜は二人で奏でるものでしょう。澄から聞きました」
「…………」
「編曲譜については知りたいことがありますが、后陛下は編曲したものをお望みのはず。ならば、二人で奏でなければならないでしょう」
「御曹司が奏でられると?」
喉の奥からひねり出したような声だった。かなり動揺している。犯した罪と与えられる罰を思い描いているに違いない。
(大叔父上の罰はもう決まってる)
「いいえ。斎澄に任せます」
「…………できるのですか?」
福が光の消えたような瞳で澄を見た。きゅっと澄が胸元を押さえた。やはり、数日前に受けた批評が心に刺さっているのだろう。あの悲痛な顔は今でも残っている。
「……はい」
ゆっくりと、しかしはっきりした声で少年は宣言する。
「編曲譜は私の師匠が私に託した思いです。あなたがどのような思いで今いらっしゃるのか、私には分かりません。でも、編曲譜を手にした者同士、今は奏でることだけ考えましょう」
澄の体からほのかに立ち上る”気配”の色が変わっていく。長年にわたって多くの弟子を育ててきた老人の目の色が変わっていく。それは先ほどまで抱えていた闇を焼き尽くすのに十分だった。
「后陛下に申し上げます! この斎澄、再び楽を献上できること、誉に思います。我が師匠、李原から託された遠吼孤虎の編曲をどうかお聞きくださいませ!」
凛とした声が響き渡る。余韻を残していく中、静かに演奏ははじめられた。羽は邪魔にならないよう、部屋の隅へと移動した。
二人分の二胡の音色が奏でられ始める。演奏が始まると同時に、羽はまたあの高山に放り込まれた。けれど、以前とは違う光景に目を見開いた。
(なんだ、これ……)
見上げていた山を従えて、今度は見下ろしている。剣のようなとげとげしい山は、まるで自分に忠誠を誓う武将のようにたたずむ。背中を打つ風も、まるで自分を鼓舞しているかのように力強い。
だれもを拒絶し、氷のように凍てついた月は今では自分を見守るように煌々と輝く。下に広がる広大な風景は、おそれよりも希望に満ちているように感じられる。
元の遠吼孤虎が聴く者に一種の恐怖を抱かせる曲なのに対し、編曲された遠吼孤虎はまるで弱きものを力づけ、一歩を踏み出す力を生み出すかのような曲になっていた。激しい曲想はそのままで、温かさが付け加えられている。
老人と少年、二人の辿ってきた道はそれぞれ違う。彼らが出会ったのはほんの数日間。なのに、楽という一つの物を通して結束している。
(父上……この曲を、あなたが作ったのですか)
これは、共同で作った曲だから父だけが作ったわけではない。けれど、自分の中にある父親の姿と、この曲がどうしても結びつかない。周りの人々を切り捨てて、ただ家のためだけに生きている父の姿とは似ても似つかない曲だ。
(………父上にとって、李原殿という方がどんなものだったのだろう)
ふと、福と澄の表情を見てみた。
(なんだ、二人とも――――)
楽しそうだな。
数年ぶりに現れた二つ名持ち、しかも歴代最年少に近い年齢だと聞いた時は、何の冗談かと思った。彼が殿中にやって来たとき、弟子たちの言葉を聞いて、納得した。
(李原……あの子の弟子なら、納得です)
すぐ横で演奏している少年を見て、なんとも言えない感情がわいてきた。李原が唐突に遠縁の家に行くと聞いた時に思ったのだ。作り上げた曲が本当に西の山々に相応しいのか、見てみたかったのだろう、と。都で生まれ育った以上、都からは出られない。二つ名を持ってしまえば、それは確実だ。
(それにしても、この子は恐ろしい)
この子がどのような才能を開花させていくのか、予想がつかない。二つ名を獲得した先の事は想像できる。でも、楽士として、どのような楽を奏でていくのか分からない。
(あぁ、忘れてしまっていたな……)
弟子をとり、導いていた日々の事を。
(やっぱり、さすがとしか言いようがない)
周家の人々は実力が物を言う世界だとは聞いていた。だから、周家で福と出会ったときに面食らってしまった。師匠から何となく聞いてはいたけれど、恐ろしい印象はどこにもなかった。だから、稽古場を荒らされた時にはとっさに動けなかった。
編曲譜だって、完全なものを見たのはつい最近の事だ。それなのに、自分の数年間の修行を超えている。楽士としての経験の差だ。そして、耳に届いてくる彼の演奏は師匠のそれを連想させる。もうこの世界にはいない人の姿が目に浮かぶ。
(お師匠さま、お師匠さまのお師匠さまの二胡は本当に――――)
優しい音がするのですね。
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