第9話 出藍の誉れ

 笛を吹いたことで、空間の形がよりはっきりしてきた。耳を澄ませ、かすかな空気の乱れをとらえる。もしここが市街なら、猩猩が駆けつけてくれるが、ここは洞穴だ。そんな簡単な話ではなかった。頼りになるのは、情け程度におかれていた小さな灯火一つだ。

「その、澄」

「なんです?」

 音で拾えた道に歩き出した。かなり広い空間だが、二人で並んで歩くには狭すぎる。一人がやっと通れるくらいだ。おそらく、大叔父が運んだのではなく、家の誰かに命じたに違いない。

「李原殿はどんな人だったんだ?」

 父の友人というのもあるし、福の弟子というのなら、周家の人間だ。血は繋がってなくても、同じ師につき修業したのなら、周家の人間だと羽は思っている。

「とても教養深い方でした。でも、おれが会った時には、もう先がないと言っては、臥せっていました。でも、二胡を弾くときだけは生き生きとしてました」

 そうだろうな、と羽は思った。大なり小なり、弟子というものは師の影響を受けるものだ。躍動感あふれる音を思い出す。

「編曲をしたと言っていましたよね。周家って、編曲や作曲は禁忌だったのでは?」

「そうだよな。まして、李原殿と親交があった時というのは、もう当主争いになっていた頃だ。だから、編曲なんてしないはずだ」

 楽に込められた魂を読み取っては編み直し、別の魂を込める編曲という行為は、羽が殿試を受けた即興と同じように、周家では忌み嫌われる行為の一つだ。それなのに、福は「もう一つの編曲譜は権が持っている」と言ったのだ。権は父の名だ。

「父上は……もしかしたら」

 編曲ができる楽人だった。それも殿中曲の編曲という途方もない偉業に挑んだのだ。間違いなく皇帝陛下の意向も混ざっている。

「もし、もしだな。父上が編曲をしていたとするなら、父上がおれを周家から追い出したのは……いや、そんなわけないか」

 周家を取りまとめ、厳格に、冷徹に家の伝統を守っている父がそんなことをするだろうか。なにせ、父は実の弟の存在を消し去ったのだから。

「羽さん、怖くないんですか?」

「そりゃ、真っ暗だしな。でも、名ばかりの御曹司でいた頃よりはましだ」

 目の前を少しずつ照らしながら進んでいく。かなり長い、と思った。こんな洞窟が都にあることに驚いた。

(家の裏にある山か?)

考えられるとしたら裏庭から続く山が一番分かりやすい。周家の敷地内までは衛士は入ってこられない。そういえば、裏山にはもう使われていない古井戸用の洞窟があった。

「澄、お前が帳簿の名前を消したんだろ?」

「………どうして?」

「ちょっとした慣習だよ。基本、楽譜はそう長く借りない。申請がそうしないと通らないことと、ちょっとした見栄だな」

「見栄?」

「難解な曲を短い時間で覚えたんだぜ、っていう見栄だな。澄はずっと都の外で暮らしていたんだから、楽士の慣習なんて知ったこっちゃないだろ」

 それに、日付も少しおかしかった。

「澄、お前の知っている遠吼孤虎っていうのは、本当は后陛下が探している編曲された方の遠吼孤虎だろ」

 背後から澄の感嘆にも、あきらめにも似たため息が聞こえてきた。

「羽さんは、音楽に関することなら何でもお見通しなんですね」

「どんな天才だろうが、遠吼孤虎を2日かそこらで完全に理解して、宴で披露できるわけないだろうが。お前の名前が書かれた帳簿の日付は宴の前日だった」

「真似して書いたのがあだになったわけですね」

「ああ、あわてて書き換えた、って事だろ」

 まっさらな状態であの難曲を数日で理解できるとは到底思えない。ならば”元々ある程度知っている”状態ならどうとでもできる。策という論外を外せば、殿中以外で殿中曲が奏でられることは滅多にない。

もし、聴けたとしてもたった一度しか聴けない、一部しか奏でられないものを理解できるとしたら、それこそ本当の天才だ。

「はい。お師匠さまはおれに編曲した方の遠吼孤虎を教えました。だから、ここにきてまずやったのは、遠吼孤虎を”覚えなおす”ことでした。おれがお師匠さまの弟子だと気づかれないようにするためです」

「だとしたら、どうして后陛下はお前が李原殿の弟子だと見抜いたんだ?」

「それは……、后陛下だけが知ることでしょう。おれがへまをしたとは思えませんし、ここに来るために奏でたのはよくある慶事の曲でしたから」

「それは、まぁ。あとから考えるとして、だ。お前としてはどうなんだ、澄?」

「はい?」

「福大叔父上の事だ。お前の二つ名を脅かそうとしているんだぞ。俺には血縁という縛りがあるけれど、お前にはそれが無い」

 その問いかけに澄はすぐには答えなかった。羽も聞いちゃまずい事だと思いなおし、別の話題をふろうかと考え始めていると、澄が口を開いた。

「楽譜をとられたことは、確かに悔しいし、疑問しかないです。でも、周福殿は間違っていると思います」

「あぁ、他人を陥れて手にした物なんてたかが知れている」

「違います」

「あれ?」

「周福殿は間違っていらっしゃいます。あの方はよい師です。お師匠さまもおっしゃっていました、周福殿から師事を受けたことは今でも心に残っていると」

「……………」

 才能に潰されない、と言っていた。自分が育てた弟子の腕前にただ絶望し続けてきたのだ。自分以上の才能を発揮していく弟子たちに恐怖を抱いていたのだ。

 まさに。

「青は藍より出でて藍より深し、だな」

「そう思います」

 そうならば、彼の思い違いを正すのはたやすいし、彼のしでかそうとすることに対する応えは一つ。


 所は変わり、夕景に染まる殿中の奥深く。後宮の手前にある宮殿に赤々とした明かりがともっていく。蝋燭には様々な花が描かれており、日に照らされてその色を鮮やかに見せている。

 赤いじゅうたんの続く先に階があり、その奥に豪華な飾りが施された長椅子が一つある。そこにたたずむ女性の顔は下からはうかがえない。しかし、彼女の体から発せられる品はその場を引き締める力があった。彼女の周りを固める侍女たちも皆そろいの衣装をまとい、その場を取り囲んでいた。

 絢爛豪華な花園の中で今にも朽ち枯れそうな老爺が一人椅子に座っていた。衣こそその場に合わせたように刺繍が施されているものの、その手や顔には染みが浮かび、いつも見せている温和な雰囲気は消え果ていた。


「して、ここにある二つの楽譜こそがそなたの言う遠吼孤虎の楽譜というのは誠だな」

「まことにございます。后陛下」

「なにゆえそなたが持っておる。わらわが命じたのはそなたではない」

「存じております。しかし、その者は命を落とし、紆余曲折を経て私の元にやって来たのです」

「ふむ、ならば奏でて見せよ。そなたの二胡を聴くのはもう何十年も前の話だ」

「お、覚えてくださっていたのですか………!」

 男は不意に聞こえた言葉に涙を流そうとして、すんでのところで止めた。気を取り直し、二胡を構える。

(そうだ、これですべてが報われる)

 

 ――― さすがは福殿だ! どのような悪童もあなたにはかなわない!

 違う。

 ――― 福殿の教えは適切で丁寧で、温かみがある。

 違うのだ。

 ――― まさに辰国の菩薩様のような方だ。

 違う、違う、違う!

 ――― お師匠さまの二胡は暖かく、優しい音がしますね。

 どうして皆、こうも誤るのだ!!! 全くの誤謬だ、錯覚だ。皆が評価するような人格者などではない、どうして私の元を旅立つ鳥はみな天高く舞うのだ。私はこうも劣っているのに、どうして育てたものは美しい?

「御免!」

 大きく、良く通る声が会場に響いた。

「羽……?」

「后陛下! お待たせいたしました! 周羽と斎澄、ここにまかりこしました!」



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