竜の谷にて

結城暁

竜の谷にて

 断崖の間を強風が吹き抜けていく。その度に唸り声のような音が響いてくうを揺らした。

 竜の谷と呼ばれるそこで生まれ育った黒蜥蜴のヒューはそろりそろりと洞穴の中を進んでいた。後ろには自分よりも体の大きい蜥蜴達が続いている。曲がり角で竜達の四つ足が止まる。行け、と睨まれて渋々ヒューは曲がり角の向こうを目指した。

 曲がり角の向こうへそう、っと首を伸ばした。まずヒューの目に入ってきたのは大きな竜の姿だ。首を折り曲げ、尻尾を丸め眠っているように腹部が柔らかく上下している。次いで目に入ったのは竜よりも小さいが、ヒューよりもはるかに大きい卵だった。

 ヒューはこくりと喉を鳴らした。ヒューは竜の谷で最弱の部類の黒蜥蜴だ。本来なら竜の巣穴に入るなど自殺行為に他ならない。今日この場にいるのは背後にいる竜達に脅されたからだ。黒蜥蜴は体は小さいし、竜のように強固な鱗を持っている訳でもない。竜の谷では餌になる側の生き物だ。

 ただ、歯は丈夫だった。それこそ堅牢を誇る竜の卵に穴を開けられるほど。

 普段のヒューはあんな大きい竜の卵など狙わない。もっと小さな、動きの鈍い竜の卵をこそこそと狙っては小腹を満たしていた。

 その丈夫な歯に目をつけられ脅されて、こうして危険極まりない竜の巣穴とやってくる羽目になってしまった。

 眠っているあの巨大な火竜の隙をついて卵に穴を開けなければ、大蜥蜴の腹に収まるのは自分だ。ヒューは覚悟を決めて前足を踏み出した。


***


 ヒューはじたばたと足を動かしたが、当然ヒューを押さえ付ける足はびくともしない。周囲には卵の殻と中身が残骸となって散乱している。

 ヒューに卵の殻を破らせた大蜥蜴達はそれを取っ掛かりに卵を割り、あっという間に食いつくして逃げていった。派手な騒ぎにもちろん竜は跳ね起きて、逃げ遅れたヒューは無様に足で潰されたのだった。


「子よ、子よ、我が子よ……」


 竜が嘆きの咆哮をあげるたびにばちゃん、ぼちゃんと水の塊が地面に小さな泉を作った。飛び散った水塊すいかいの一部を被ったヒューはがぼがぼと無様に呻き、溺れかけた。竜の涙で溺れ死ぬなんて、とヒューはあがくも、やはり竜の手はおろか指すら動かせなかった。


「ああ、子よ……。どう償わせてやろうか……」


 火竜がヒューを睨み付ける。ヒューが溺れそうになっているのに気付き、雑にヒューの体を揺さぶり水滴を払ってやる。

 数度咳き込んでから新鮮な空気を存分に吸い込んだヒューは出せる限りの声を張り上げた。


「お助け下さい!」

「助けるわけなかろう。我が子を殺した報いは受けさせてくれる」


ヒューを掴む手に力がこめられ、嫌な音がした。折れた骨の痛みに呻きながらヒューは続ける。


「もう二度とあなた様の卵をねらいません、お約束します!」

「その様な言葉がどうして信じられようか」


 血反吐を吐きながらヒューは必死に懇願した。


「つ、次の卵は……、次の卵はお守りします……、か、必ずっ……あなたのお子さんが、生まれるまで……まもり、ますから……どうか、たすけて……ください……、おねがい、します……」


 寿命が違いすぎて竜が次の卵を生んで孵化するまでにヒューは死んでいるかもしれなかったが、余計な情報は口に出さなかった。


「守るだと? お前のように矮小な蜥蜴がどうやって守るというのだ」

「大声で鳴いて報せます!!」

「……ふうむ」


 ゆうるり、とヒューの体を押しつけられていた竜の手から力が抜けていく。ゼエゼエと息を荒げてヒューは這い出そうとしたが、体のあちこちが痛んで無理だった。


「まあいいだろう。我が子のことを許した訳ではないが……お前を殺したところで我が子が戻るでもなし」

「ありがとうございます!!」


 痛む体を気にしながらヒューは平身低頭感謝をのべた。竜はこの周辺で一番の強さを誇る竜だ。その竜の住み処に来るなど、ヒューのようによほど追い詰められたものくらいだろう。そしてヒューの食べる量など竜に比べれば雀の涙ほどでしかない。竜のおこぼれを貰えれば十分だ。つまりヒュー安全な住み処と食いぶちを手に入れたのだ。これで安心して眠れるぞ、と喜ぶヒューが見たのは卵の殻を口に放り入れて噛み砕く竜の姿だった。丈夫な歯のヒューが数分かけてようやく穴を開けた殻はまるで柔らかな肉かなにかのように細かくなって竜に嚥下された。


「ではこれからよろしく頼むぞ」

「は、はい……」



 早まったかもしれない。ヒューは痛みと後悔と恐怖で気を失った。


***

 あれから数年が経った。

 ヒューは変わらず竜の巣穴に居候している。住み始めた当初はどうなることかと思ったが、竜は意外にも友好的で、ヒューの怪我が治るまではなにくれとなく世話をやいてくれた。怪我が治ってからも餌を吐き戻してくれたり、体を舐めてくれたり、暖めてくれたり、と甲斐甲斐しい。亡くした子どもの代わりなのだろうな、とヒューは思っている。それが嫌な訳ではない。ただ、申し訳ない。

 卵が無事孵化するまでは、という約束でここにいるが、そんな日は永遠に来ないとヒューは知っている。初めてこの巣穴を訪れるときにヒューを脅した

大蜥蜴達が言っていた通り、竜の巣穴には雄竜のおとないはなかった。外で番った様子もない。つまり竜の生む卵は無精卵なのだ。子どもはけして生まれない。

 つい先日竜が生んだ卵は竜が献身的に温め、魔力を供給し日に日に大きくなっている。けれどその卵から雛が生まれることはないのだとヒューは言えずにいた。安穏とした暮らしを捨てる決心がつかなかったのもあるが、子を失ったと泣く竜をもう見たくないからだった。

 それでもいつかは言わなくてはならないだろう。何年温めても孵らない卵を不振に思わないほど竜も愚かではないからだ。


「腹が減ったな」

「おれ採ってくるよ!」

「いや、いい。お前が採ってくるのは木の実やキノコだろう。我は今肉が食いたい」


 竜の腹が豪快になる。大層腹が減っているらしかった。


「運が良ければウサギくらい獲れるし! ここにいなよ!」

「小兎ごときで腹が満ちるわけなかろう。心配するな、すぐ帰る。留守は頼んだぞ」


 言うとさっさと竜は巣穴を出ていった。残されたヒューは唸るしかない。不承不承、卵に登り警戒体制をとった。

 竜の卵はヒューのなん十倍も大きい。卵のてっぺんにちょんと乗ったヒューは巨石についた苔のようだった。つい先程まで竜が温めていたからだろう、たしかな温かさを殻から感じたヒューはこっそりと卵にほおずりをした。


「おまえが腐る前に話さないとなあ……」


 きっと、その日は遠くない。覚悟を決めておかなくては。

 それからヒューは落ち込んだ気分のままぺとりと卵に懐いていた。

 時おり聞こえる風の音に首をもたげて竜の帰りを確認しながら、なんだか今日は帰りが遅い気がして巣の入り口まで竜の姿を確認しに行こうか、と腹を浮かせたヒューは聞こえた物音に動きを止めた。

 こくりと小さく息をのむ。聞こえる音は生き物の足音だ。竜のように重くなく、ヒューのように軽くない生き物の足音。おそらくは大蜥蜴の類いだろう。

 ヒューは体を固くして近付く足音を待った。果たして姿をあらわしたのは大蜥蜴達であった。ヒューの何倍も体躯の大きい大蜥蜴達は我が物顔で巣の中を闊歩する。


「ヒャッハー! 待ちに待ったご馳走の時間だぜえ!」

「まだ生きてたのかこのちび! ちょうどいいや手間が省けらあ!」

「おら、さっさと殻を割れよ、踏み潰されたくなければな!」


 ゲラゲラ、ガチャガチャとうるさく笑い声を経てる大蜥蜴を睨み、ヒューは肺いっぱいに吸い込んだ空気を警戒音に変えて思いきり吐き出した。


「ピィィィィー───!!!」


 ヒューの叫びが巣穴に反響する。しかし大蜥蜴達は怖がるどころか警戒する素振りさえ見えない。笑い声はヒューへの嘲笑に取って代わり、いっそう大きくなった。


「ギャハハハハハハ!!」

「かーわいい声でちゅね~~?」

「ギャッ!」


 大口を開けて笑う大蜥蜴に卵からはたき落とされ地面に体を打ち付けたヒューは痛みに呻きながら起き上がる。


「さ、触るな! その卵は竜の大事な卵なんだ! 離れろ!」


 ヒューの渾身の叫びは大蜥蜴達のせせら笑いに簡単にかき消された。


「なにを必死になってるんだァ?」

「いいじゃねぇか、このまま腐っちまうだけの卵だぜ?」

「俺らの腹に収まったほうがよっぽど有意義だろうが!」

「ぎゃん!」


 踏みつけられて息が詰まる。けれどヒューは黙らなかった。


「やめろ! 出ていけ! 卵に触るな!」


 がむしゃらに暴れて、けれどやはりひ弱なヒューの力では大蜥蜴の足を動かすことすらできず、ヒューは悔しさに歯を食いしばった。


「ハッハッハァ! おいおい抵抗するなよ弱っちいくせによぉ!」

「歯の頑丈さだけしか取り柄がねえチビが! おとなしく言うこと聞いてりゃいいんだよ!」

「やめ、ろぉ……!」


 押し付けられた前足の間から大蜥蜴達を睨む。それくらいしかできない自分にヒューは腹を立てた。


「うるせえなあ」


 未だじたばたともがき続けているヒューに大蜥蜴の一匹が獰猛な笑いを浮かべる。


「そんなに卵が大切か?」


 ヒューは息苦しさのせいだけでなく、大蜥蜴の足から逃れようと力を振り絞る。醜悪な笑みをヒューに見せつけながら大蜥蜴は舌舐めずりをした。


「じゃあこの卵を食ったら次はお前を食ってやる。腹の中で守ってな!」


 くそう。くそうくそうくそう。

 ヒューは喉が焼けるほどの焦燥を味わった。

 おれが竜みたいに強ければ。同じ蜥蜴でも石化大蜥蜴バジリスクのような特殊能力を持っていれば。

 頭上でゲラゲラとヒューを嘲笑わらう大蜥蜴達を一蹴できる力があれば。

 悔しさに涙を滲ませながらヒューは歯を食いしばった。

 諦めるな。諦めるな。竜が来るまで、諦めるな。踏ん張れ。おれが勝てなくても竜なら勝てる。死んだって卵を、竜の大切なものを守れ!

 ヒューは己の唯一にして最大の武器を思いきり自分を踏みつける大蜥蜴の指に突き立てた。


「イデエ! こいつ噛みやがった!」

「このクソちびがァ!」


 大蜥蜴がヒューを壁に叩きつける。ヒューは大蜥蜴達を睨みあげながらよろよろと起き上がった。

 怒りに駆られた大蜥蜴達はそんなヒューを蹴飛ばした。再度、ヒューは壁に叩きつけられる。踏みつけられてから痛みを訴えていた体がさらに悲鳴をあげた。けれどもヒューはそれでも立ち上がった。

 何度蹴飛ばされ踏みつけられようと、皮膚から血が出て骨が折れようとも、ヒューは立ち上がった。


「しつけェんだよ!」

「さっさと死ねや!」

「クソちびの分際で逆らってんじゃねえ!」


 大きく振りかぶった大蜥蜴に投げ飛ばされ、ヒューは卵の頑丈な殻にその小さな体を強かに打ち付けた。ヒューの赤い血が花のように殻に広がる。

 ずるずると重力に従いヒューの体は落ちていく。地面に足がついたが、もう動かせそうになかった。

 それでもヒューは最後の力を振り絞って声を発した。蚊の鳴くようなか細い声は妙な力強さでもって大蜥蜴達まで過たず届く。


「卵を食いたきゃ、おれを殺してからにしろ!」

「望み通り殺してやらあ!」


 激昂した大蜥蜴がヒューを丸のみにしようと大きくあぎとを開いたその瞬間、


「よく言った」


 ヒューが切望していた声が遥かな頭上から降ってきた。


 ズドン、と地鳴りがしたかと思えば目の前に迫っていた大蜥蜴は地面にめり込みぴくりとも動かなくなっていた。


「竜……!」

「遅くなったな。よく留守を預かってくれた」


 久々に満足いくまで胃を満たした竜は分厚く長い舌で口の回りをべろりと舐めた。するどその隙間から呼吸と共に炎がこぼれる。気力も魔力も十分に回復し、鱗はつやつやと輝き、まるで宝石のように光っている。

 興奮した様子の竜が瞳孔を大きく開いて恐怖で硬直したままの大蜥蜴達を見下ろした。


「貴様らよくも好き勝手やってくれたな……生きては帰さん」


 言うが早いか竜は脚を大蜥蜴の一匹に降り下ろす。短い断末魔を吐き出した大蜥蜴は地面に赤黒い血溜まりとなった。恐怖に金縛りになっていた残りの大蜥蜴達はその衝撃でようやく動いた脚を動かし跳ねるように出口へと駆け出した。しかし見逃す竜ではない。

 一匹は壁に打ちつけられ動かなくなり、もう一匹は竜が噛み砕いた。巣穴の中はあっという間にヒューと竜だけになった。


「ふん、不味いな」


 口の回りの汚れを舐めとりながら竜の鼻先がヒューの鼻先に寄せられる。


「竜……おかえり……」

「うむ、帰ったぞヒュー」


 竜の柔らかな声音にくるる、と喉を鳴らして返したヒューは瞳を潤ませて項垂れた。


「卵……汚して、ごめん……」

「気にするな」


 暖かな竜の舌がヒューの全身を労るように舐めた。血や土汚れは落ちたが、火竜の唾液に治癒の効能などない。引かぬ痛みに呻くヒューにふふん、と得意気に竜は喉をそらす。そうして胃の腑の中身の一部を吐き戻した。


「ほれ、食え」

「ごぶふ!」


 吐き戻しに溺れかけながらヒューは懸命にそれを飲み下した。


「だから体の大きさが違うんだって言ってるだろ! 食いもんで溺れるわ!」

「すまんすまん。だが怪我が治ったようだな、良かった」

「えっ……あれ、ホントだ」


 気付けばヒューの体から痛みが嘘のように引いていく。傷ついた皮膚の裂け目もゆるゆると塞がっていく。


「うむうむ、さすが山頂付近に生えているだけあるな。餌を追いかけて行った先に生えていたのだ」

「なるほどー。それで帰りがおそかったんだねー」

「ヌフッ」


 鼻の穴から火花を出した竜は全力で誤魔化した。ヒューはいつものように下手くそなそれに誤魔化されてやる。

 ぱちん、ぱきん、と小さな音を立てながらヒューの骨が修復されていく。治癒に体力を使っているようでとろりした眠気に襲われたヒューを竜が慎重に咥えあげ、卵の上にそっと横たえた。


「ほら、ここにいろ。卵と一緒に魔力を供給してやるから、しっかり治せ」

「うん、ありがと……」


 竜の暖かさを感じながらヒューは目蓋を閉じた。


 それから幾月がすぎて、ヒューの体が完治したころ、卵の殻が割られた。捕食者にではない。内側から、竜の雛が殻を破って生まれ出てきたのだ。

 やんちゃざかりの小竜の遊び相手になりながらヒューは小竜が生まれた日の驚きを思い出していた。


「あのときはびっくりしたなあ。まさか卵から子どもが生まれるなんて思ってもみなかった」

「何を言っておる。卵なんだから魔力を込め、温めれば生まれるに決まっておろう」

「そうなのかぁ……」


 ご機嫌な小竜に甘噛みされてよだれまみれのヒューは竜が言うならそうなんだろうなあ、と今日も子守りに精を出すのだった。

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竜の谷にて 結城暁 @Satoru_Yuki

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