真っ黒い珈琲

@umihahiro1na

真っ黒い珈琲

真っ黒い珈琲

 ラケナリア。朽ちかけている木製の看板にはそう書いてある。僕は今日も大学の講義を抜け出してカフェで一杯のコーヒーを飲んでいる。最近はすっかりサボり癖がついてしまってこのカフェを訪れる機会が増えた。ここのカフェは日替わりでコーヒーを提供しているらしく、今日のコーヒーはエリンジウムブレンドと言うらしい。一番深入りだそうだ。とても苦い。そしてとても黒い。まるで僕みたいだ。深淵をのぞいているかのような気分になるこの表面は、覗くのも憚られるほどだ。それはコーヒーを飲みながらこんな真っ昼間にカフェでまったりしている自分に罪悪感を感じているからかもしれない。コーヒーの苦さも相まってより一層その想いが強い。でも、どこか満足している自分もいる。それは多分、自分だけの秘密のカフェに入り浸る自分に酔っているのだろう。ひとつ大人になった気分だ。大学をサボるのも案外悪くないな。特にここのカフェは、昼から夕方にかけての景色が良い。坂の上から見える住宅街の上にどこまでも広がる空。そして夕焼けのコラボレーション。これは誰が見ても心打たれるものがあると思う。普段から無気力な僕でさえそう思うのだから普通の人なら尚更そう思うだろう。

 そんな自分に酔いしれていたら、一組の親子がカフェに入ってきた。普段なら入ってくる人は気にならないが、それが父と息子というペアだったためつい目を引かれてしまった。母親と子供という光景はよく見るが父親というのは珍しい。しかもこんな平日の真っ昼に。子供は小学生くらいだろうか。黄色いチューリップハットを被った元気そうな男の子だ。そして父親の方は20代前半くらいだろうか。かなり若く見える。あんな若い頃から、しかも男の人なのに子育てなんてスゴイな。僕にはゼッタイ無理だ。あれがイクメンという類なのだろうかなどと感心しながら眺めていた。その親子はどうやら何を飲むかで悩んでいるようだった。でもここはコーヒー屋さんだし、子供が飲めるものなんてあるのかな。すると男性の店員はオレンジシューズを裏から持ってきた。ここに通い始めて一ヶ月くらい経つけどそんなメニューがあったのは知らなかった。ちゃんと子連れにも対応できる品揃え、配慮が素晴らしい。父親の方はスカビオサと言うコーヒーを頼んでいた。変な名前。ここのコーヒー名は本当に独特だなといつも思う。

 注文を終えたその親子は僕の席から少し離れた所に座った。僕はその珍しい親子が気になって意識をそちらに向けていた。この店自体そんなに広くないしこの時間は他のお客さんも少なかったからその親子の話声は僕まで届く。盗み聞きして申し訳ないと思いつつ僕はその親子に興味津々だった。どうやらその父親は奥さんに出ていかれたらしい。直接は言ってないけど話の流れとか言葉の節々にその感じが現れている。父親は子供に優しく教えていた。母さんには新しく好きな人ができた、だからお母さんはその好きな人のところに行ったんだ、と。これからしばらくは二人で生活していくんだ、と。そしていつかお母さんは戻ってくるかもしれないとまで。最後のは子供を元気づけるための嘘だろうけど、子供のために毅然とした態度で子供と向き合う父親の姿は心にくるものがある。自分が一番ショックなはずのなのに。父親というのは偉大だ。子供の前では弱さを見せてはならないという父親の気概が態度に現れていた。僕は急いで店を出た。

 あれからしばらくあのカフェには行ってない。というより、行けてない。またあの親子に出くわしたらどうしようかと思うからだ。そしてあの時、僕がやたらとあの親子に興味を引かれた理由が今になってよくわかった。あの父親が僕の不倫相手の夫なのではないかと心のどこかで思っていたからだ。あの家族はもしかしたら僕の裁判相手かもしれない、そんな心理があったのだ。だから父親子連れというのが気になっていたのだ。でも冷静に考えてみれば、僕が不倫していたのは一年以上も前。今になってバレることなんてあるはずがない。そんな希望的観測が僕の心を満たす。僕は不倫相手に別れを告げられてからというもの、他人の目線に非常に敏感になってしまっていた。言わば全世界が敵に見えるような、監視者に見えるような、そんな感じだった。道ですれ違う人間でさえ、不倫相手の親戚かもしれない、そんなことを考えらがらビクビク生きていた。僕があのカフェに入り浸っていた理由は、そんな世界からの避難だった。僕は心のどこかで安息を求めていた。僕にとっての核シェルターは間違いなくあのカフェだった。不倫がバレるという核爆発から逃れることができる唯一の隠れ家だった。本当はそんなわけないのに。自分では認めまいと頑なに心に蓋をしていたこの想いが、あの親子によって扉を壊された。いや、壊されたなどという被害者面は到底認められない。被害者はむしろあの親子だ。僕は裁かれるためにシェルターから日の光の元に晒された罪人にすぎない。そして僕はそれが怖くて外に出ていない。玄関を出たらすぐ弁護士が立っているような気がして。こんな思いをするなら不倫なんて最初からしなければ良かった、なんてことは思わない。あの時の僕は間違いなく人生で一番幸せだった。と、同時に人生で一番苦しかった。自分が幸せだという気持ちの裏には、相手の夫、子供へ罪の意識があった。日々苦しんだ。ただあの時は夫も子供もいなければ良かったのに、そんなことを考えていたのも事実だ。相手の顔が見えないのをいいことに罪の意識から逃れていた。どうして僕より出会うのが早かったからって夫になる権利がるのか。後から出会った僕には愛することも許されないのか。人生というのはどうしてこんなに理不尽なんだ。出会うのが早い方が偉い? 僕より早く社会に出ていたから正義? 僕の方が愛されていたのに! そんな憤りばかりが募っていた。全部自分の行いを正当化するための言い訳だってことは自分でもわかっていた。ただそうでもしないと自分を保つことができなかった。ただ、あの時カフェで出会った親子のように、相手の姿が見えていたら自分は不倫に手を染めていなかったかもしれない。今更そんなことを考えても仕方がないのに。そうだ。そういえばあの人は以前子供のことを話してくれていた気がする。僕は急いで携帯のトーク履歴を遡った。会った。五月十日十五時六分、そこで僕の思い出は止まっている。別れを告げられた日。僕はもう二度と動くことがない思い出を見返す。「見て! 私の子供たち、可愛いでしょ!」あの人の声で再生されるトーク画面の文字。そこには二人の娘の写真が載せてあった。これであの時の親子は僕の裁判相手ではないらしいということが判明した。よかった。こんな時にまで保身に走る自分に嫌気がさすが、安堵の方が勝ってしまう。そうだ、久しぶりにあのカフェに行こう。そもそも、あの親子と再開する確率なんて宝くじ一等当選くらいに低いのではないか。そう思うと俄然元気が出てきた。時計を見る。十六時三十七分。今から行けば良い夕焼けと共に美味しいコーヒーが飲めそうだ。疑いを晴らした今の僕は無敵の気分だった。僕はスニーカの紐を強く引っ張った。

 「本日のコーヒーはディアスキアブレンドです」いつもの眩しい笑顔と共に男性店員が言う。僕はドリンクを受け取り一番夕焼けが綺麗に見える席に座った。苦い。が、染みる。勝利の美酒とでも言うのだろうか。心身をすり減らした後のコーヒーほど染みるものはない。ああ、どうやら夕日も僕の勝利を祝ってくれているようだ。一日の仕事を終えた太陽が住宅街の上に広がる空に雲の海に沈もうとしている。なんて美しいのだろう。ここの夕焼けって本当に綺麗だ。

 「ここの夕焼けって本当に綺麗ですよね」とても優しい声だった。僕は口に含んだコーヒーを吐き出しそうになった。僕の心の中と同じセリフが聞こえたからじゃない。そこに以前の父親と子供が立っていたからだ。「突然すみません。以前もここにいらしたなと思って思わず声をかけてしまいました。驚かせてしまったら申し訳ないです」そう父親は言う。僕は焦りを悟れられまいとコーヒーを無理やり飲み込み、「だ、大丈夫です。綺麗ですよね、ここの景色、僕も大好きです」と答えた。僕は動揺を悟られないように精一杯振る舞った。するとその父親は「僕たち、今日この街を出るんです、だから最後にこの景色を息子に見せようと思って。息子がこの街を思い出す時がある時、この街の最後の思い出が美しいものであれば良いなと思って。すみません、いきなりなんの話だよって感じですよね」そう言ってその父親は笑った。ただその笑顔は光を失っていて、どこか絶望を感じさせるものだった。当たり前だ。奥さんに不倫されて元気ハツラツな夫なんてまずいない。そしてこの父親の笑顔は幻想の中にいた僕を、瞬く間に現実に引き戻した。勝利の美酒? 僕は一体何を言ってるんだ。この父親が僕とは関係なかったからといって、僕のしたことがなくなるわけじゃないか。いまこの瞬間に裏切れた夫というのはどこかに存在するのだ。いや夫だけじゃない。二人の娘も、だ。僕は今目の前にいる親子のように、夫とその娘たちの光を奪ったのだ。ただ僕には見えていないだけで。そう感じた瞬間僕は今すぐカフェから飛び出したくなった。全ての罪悪感が僕を襲ってきた。この親子はつくづく僕を幻想の中から引きずり下ろしてくる。もちろん本人たちにその自覚はないのだが。「大丈夫ですか?」何も知らない父親は僕にそう問いかけてくる。大丈夫? 何がだ? 僕の今後の心配でもしてくれてるのか? 自分の心配でもしたらどうなんだ。動揺が限界を超えて考えがまとまらない。答えられない僕を前に父親は「いきなり話しかけてすみませんでした。僕たちはもう行きます。いつかまたどこかで会えると良いですね」そう言って子供を引き連れて出て行こうとした。「きっと素晴らしい思い出になりますよ。この景色を見ればみんな元気になると思います。息子さんにも良い思い出ができたのではないでしょうか。周りは変化しても、この景色はずっとここにあると思います」僕から出た言葉だった。自分でも驚く。脳が勝手に喋ってくれた。きっと僕の本心なのだろう。それを聞いた父親は少しだけ笑った。子供が振り返って「バイバーイ!」と屈託のない笑顔で言ってきた。僕は手だけ振り返した。子供は本当に純粋だ。そして子供にはなんの罪もない。あるのは汚い大人の事情だけだ。幸せになってほしい。心の底からそう願う。父親の方も新しい奥さんと出会って死ぬまで愛し愛されて欲しい。きっと子供もいつか自分が街を出た理由を聞かされるはずだが、だからこそ他人に優しくできる人間に育って欲しいと思う。どうか幸せに。窓の外を見ると、夕焼けが今まさに沈もうとしていた。

 次の日、僕はいつもと同じく大学の講義をサボりカフェに来ていた。「本日のコーヒーはキスツスブレンドです」いつもの男性の店員だ。「このコーヒー名いつも噛みそうになるので緊張するんですよね」そう言って店員は笑う。いつ見ても眩しい笑顔だ。僕はいつも気になっていることを思い切って聞いてみた。「どうしてここのコーヒー名はこんなに独特な名前なんですか?」そう言うと彼は「この店のコーヒー名は全部花の名前から来ているんですよー。斬新ですよね、普通は国名とか島の名前なのに。なんでもここの店長が花が好きらしくてこうしているらしいですよ。ちなみにオレンジジュースもオレンジという花から来てるのでセーフです。」そう言ってまた店員は笑った。「そうだったんですね。独特すぎていつもなんの名前なんだろうと思ってました。教えてくれてありがとうございます。」そう言って僕は頭を下げた。「全然ですよ! 僕も最初はなんの名前か分からなくてすごい苦労したのを覚えてます。店長曰くそれぞれの珈琲名には思いが込められているらしいです。そしてそれぞれの珈琲に命を吹き込んでるんですって。なんでも、名は体を表す、らしいです。なんのこっちゃって話ですよね」また彼は笑う。本当にこの人は人と話しているのが楽しそうだ。「そうですね、世の中にはいろんな珈琲がいますもんね。最後にお話聞けてよかったです。ありがとうございました。また来ます。」そう僕が言うと店員はありがとうございますと言って笑った。僕もこんなふうに笑えたら良かったのに。

そう思いながら僕は本日のコーヒーを受け取った。

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