三題噺
油女猫作
<薄曇り・社会科準備室・鳴く>
新任教師の英(はなぶさ)はその次の日、2クラスでの授業を担当していた。
中学校の社会科というものは、場合によってはなかなか巨大な学習教材が必要なものだ。英はそんな大道具を求めて社会科準備室に向かい、埃にまみれた地球儀や資料をひっくり返していた。
これが生徒たちとの初対面だし、折角だから大層なブツを使ってあっと言わせてやろう、という魂胆だったが、前任の担当教師は片付けが下手だったらしくなかなか目当てのものが見つからない。
英は諦めて床に寝転んだ。先程自分が探し物しつつ整理したおかげで、目一杯手足を伸ばせるくらいのスペースは空いていた。窓の外へ目をやると、春の変わりやすい空はうすく曇り出していた。立ち上がると、奥に見える山の方から黒い雲がこちらへ迫ってきている。もう二、三時間もすれば雨が降り出すだろう。
「傘持ってきてねえんだけどなぁ……」
英は頭を掻きながら窓を開けた。雨の前特有のぬるりとした風が頬に触れる。顔をしかめたその時、下方から何かの鳴き声が聞こえた。
顔を下へと向けると、そこにはやせた大型犬が歩いていた。思わずその周囲を確認したが誰もいない。自分以外の先生方はどうやら犬に気づいていないらしい、と英は思った。
彼は一瞬逡巡して、準備室を飛び出していった。
「おいワンコロ、ここは人間の学校だぜ」
英は犬の前で威勢よくそう言ったが、はっきりと腰が引けていた。彼は子供の頃から犬が大の苦手だったのだ。
犬ははっはっと息をしながら、彼の方をじっと伺っている。
「授業でも受けに来たのかい、頼むから大人しくしててくれよな、ああこっちに来るんじゃあない……校門はあっちだ、頼むから大人しく出てってくれよ……」
彼はその手に持っていた教科書でもって犬を誘導しようとしたが、犬はまったく知らん顔をしている。
そのうち、生徒たちが校庭で対峙する英と犬に気づいたらしい、段々と校舎の方がざわつき始めた。数人の教師たちが、一人と一匹の方へと駆け寄ってきた。
その時、犬が英へと勢い良く飛びかかった。
「うわぁ!」
英は悲鳴を上げた。今にも犬が喉笛に噛みつこうとしている。もう俺の人生は終わりだ。せっかく教師になったばかりなのに、一度も授業をせずに死んでしまうのか。
「……大丈夫かい?」
体育教師はべろべろと英の顔を舐め回していた犬を引き剥がして、腕に抱えながら尋ねた。英は答えなかった。彼はとっくに気絶していた。他の教師たちと生徒たちとがその周りに集まってきていた。
その後英は、生徒の間で「犬に弱いセンセイ」としてすっかり人気者になってしまった。
「どうせなら授業のことで有名になりたかったんだけどなあ」
数十年後、すっかりベテランになった英先生は、笑いながら私にそう愚痴った。
なお、未だに犬の事は苦手だそうである。(了)
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