御苑にて

染野珠希

五月二十五日 水曜日

「もしもし」

『今、新宿にいるんだけど』

 随分とにぎやかな音がする。

「来いってことですか?」

『御苑の方のミライザカにしばらくいるつもりだから』

 電話越しに、来るってよー、という声が聞こえた。

『じゃ、待ってるね』

 36秒の文字が光って、私は着替えに手を伸ばす。外は夕暮れ、世は情け。鍵と財布と口紅と、心は少し踊ってしまう。




 四ツ谷で丸の内線に乗り換えて、鏡で口紅を確認する。どうせ落ちるし、もう少し濃くしておこうかな、と思って鞄に手を伸ばし、ふと今日の日付を考える。いや、どうでもいいか、これから私は飲み歩くのだ。明日は遠い。長い夜のうちにどうにかしてしまえばいい。

 水曜の夕方に、新宿御苑前の駅で降りる人はまばらで、街行く人の目に私はどう映るのだろう。真面目な顔のサラリーマンとすれ違いながら、一生学生でいいや、なんて思う。街は夜の準備に勤しんで、空は暗く、道は明るくなっていく。ささやかな乾杯の前触れに、喉の奥がキュッとなる。

「もしもし、着いたところなんですけど、席って」

待ち合わせです、と店員に伝えて、店の奥に進む。見慣れた席に、懐かしい顔が見えた。

「お久しぶりです」

「おう、久しぶり。座って座って」

 席に着いて、あれ、と引っかかる。

「ひとりですか?」

「さっきまで久野がいたんだけどさ、用事があるって帰った」

 久野さんもこんな水曜から飲んでいる場合じゃないんだろうな、と思いつつ、一方で水曜から呑みに誘うこの社会人は何なのだろう。

「あ、すいませーん。生ビールふたつー」

よかったよね、と見てくる顔が懐かしくて、思わず笑ってしまう。

「一年半て、あんま変わんないもんですね」

 古屋さんに最後に会ったのは、まだ夏の残る九月だった。私ははたちを迎えたばかりで、古屋さんは研究に勤しむ大学院生だった。サークルの幽霊会員であった私を、会長の古屋さんは、新宿での飲み会の度に呼び出し、「近いんだったよね、来なよ」と場所だけ伝えて待っていた。

「何回も言ってますけど、ミライザカなら神楽坂にしてくださいよ」

「御苑に用事があったの」

どんな用事だよ、と笑いながら、タブレットを引き寄せて、適当につまみを頼む。

「この一年半の間にわかったことがあって」

「ん?」

「チャンジャっておいしいんですね」

気付くのが遅いよ、と言いながら、メニューをめくる。

「いいことを教えてあげよう。実は枝豆が一番おいしい」

 間髪入れずにビールが届いて、互いの目が合う。

「「乾杯」」

 かくして私の夜は始まった。




 この人の新宿の範囲は広く、新宿と名の付く駅は、三丁目だろうが御苑だろうが新宿駅と呼んでいるし、文京区に住んでいると何度言っても、新宿在住だと認識されている。君は渋谷より新宿が近いんだよね、の一点張りで、飯田橋とか神保町とか、そんなのは興味がないらしい。

「御苑の駅なんて久々に来ましたよ」

 東京は今日もせわしなく、明日のために今日を消費しているみたいだった。水曜の居酒屋は閑散としていて、でもこの空間には、今のために今を過ごす人がいた。

「俺も。たまたま通りかかって、見たら入りたくなっちゃって」

「それで、いたいけな就活生が呼び出されたってわけですね」

えっ、と一瞬驚いたような顔をする。

「ああ、四年生か。なんだ、まだ大学生やってんのかぁ」

 久野さんとだいぶ飲んだようで、少々酔っているみたいだった。

「よく来てくれた。まあ、何でも相談に乗るからさ、俺もこの時期から就活再出発したし」

「皆に言われてましたよ、あいつは大手しか受けないからダメだって」

「俺そんなこと言われてたのかよ」

 二年前、よく呼ばれては、他愛もない話をした。その頃の古屋さんはというと、四月には彼女に浮気されたと落ち込んで、六月には最終面接を終えた企業から音沙汰がないことを嘆いていた。俺はねぇ、これでいいんだよ、と言いながら、全然よくなさそうな顔をしていた。十月に後期の授業が始まると、お互いに課題と研究に追われ、空いた時間は、来たる春休みのバカンスのため、アルバイトに勤しんでいた。いつかまた、と言ったまま一年半。奇跡みたいだ、と思った。

「どこ目指してんの?」

「メーカーです。ビールとかお菓子とか」

あと二社しか残ってないですけど、と付け加えて、言ってしまった、と思った。今日はこんな話をするつもりじゃなかった。就活なんか置き去りにして、もっと、どうしようもなくくだらない話だけをするつもりだった。

「あれ、そんな専攻だっけ」

「私は建築が好きじゃないんでねぇ」

そうだ、建築学生か、と納得したように笑う。

「皆、息をするように建築のことを考えるんです。お洒落なカフェに行って、二言目には『こんなに開口取れるんだね』ですよ、うんざりです」

 一杯目のビールを飲み干して、宣言する。

「今日は飲みますよ」

「おう」

 一杯目で楽しかったら、きっとその日は全部楽しい。

「じゃあ、どんどんどうぞ」

 メニューに光るはその日の私。店内には高校生の時に流行った曲が流れていて、なんだかタイムスリップしたみたいだ。もっと早く、例えば高校性の時に、この人に会っていたらどうなっていただろう、とちらっと考えた。

ジントニックとレモンサワーが運ばれてくる。

「なんで二杯来てんの」

「いやぁ、飲める人と居酒屋なんて久々で」

 斜め向かいの方では、新入社員とその先輩らしき人たちが、何やら熱く語っていた。「上司って思っちゃダメなんだよ、上司である前にライバルなんだよ」「でも私には到底できないですよぉ」悩みながらも楽しそうだった。物事どこかに救いがあればいい。古屋さんは、底に残ったビールを回しながら、何かを考えているようだった。言葉にする前に、一旦ジョッキを空にする。

「この前同僚が辞めていっちゃってさ、悲しいよ」

「世の中、悩みは尽きないですね」

世の中は知らんがね、と言ってレモンサワーに手を伸ばす。

「辞めるってなって初めて、その人がそんなことを考えてたって知るのよ」

「居酒屋のトマトって、なんでおいしいんですかねぇ」

「聞けって。これでも落ち込んでるんだから」

「聞いてますよ。気持ちはわかりますけど、古屋さんが気に病む必要なんてどこにもないです」

そうなんだけどさ、とレモンサワーを大事そうに見つめて続ける。

「なんか、なんでだろうね。落ち込んでしまったよ」

この人はいつも人のことで悩んでいるな、と思った。

「その空いた枠、私が欲しいくらいです。このご時世に新しい仕事探すなんて、よっぽどですよ」

 返事がこれで合っていたかは知らない。酔いかけの人間に聞くんだから、ほろ酔いクオリティで返せばよかろう。世界は結構、人情なんか無視して進んでしまうのに、この人はどこまでも人との繋がりに必死だった。変わらないなぁ、と思った。

「そうだな。トマト全部食べたのかよ」

「気が付いたらなくなってました」

 トマトのページを探しながら、ちょっとくらい残しておけよなー、とぼやいているが、私の耳には届かない。通知を切り忘れた携帯が震えて、表示された文字に私はため息をつく。

「そういや、雨宮、恋人は?」

「別れているところです」

ふふ、と笑って、心底楽しそうな顔をする。

「別れているところ」

 多分私も、同じ表情をしている。

「ついでにハイボールもお願いします」

はいよ、と言ったまま、少し間が空いて、私の指は水滴をなぞる。

「理由はきっといくつもあって、なんだか会いたくなくなってしまって」

「どんくらい付き合ってんの?」

「今日で二年です」

 古屋さんの目線が、一瞬タブレットから、ふっと浮いた気がした。

「俺の彼女がさ、来月誕生日なんだけど」

「はい」

「プレゼント、何がいいかな」

 正面には古屋さんの真面目そうな顔があって、じっと覗き込んでみる。

「ちょっと待ってください。今、私のターンでしたよね」

「一旦保留で」

「後で雑誌の写メ送るんで、そこから選んでください」

「ありがとう。ほら、ハイボールでかいの頼んどいたから」

丁度店員が到着して、じゃんぼジムビームハイです、と置いていく。おかしい。どうして、ジョッキが大きいだけでこんなに面白いんだろう。どうして、好きでもないハイボールを、毎回頼みたくなってしまうんだろう。

「今、私がここにいることが、彼に対しての答えだと思うんです」

 時計の針が回るにつれて、私たちの酔いも回っていく。世の中には、浮ついた頭でしか考えられない事柄があって、だから私はハイボールを頼むのだ。

「このレモンサワー、濃い方だったでしょ。だから」

 一拍置くので、なんですか、と尋ねる。

「飲みたいから、来てくれたんだなって」

 からん、と氷の崩れる音がして、もうすぐ夏が来ることに気が付いた。

「違いますよ」

 夏に光るは恋心。空のジョッキをからりと回して、新宿の街がきらりと輝く。

「新しい口紅を、つけてみたかっただけです」

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