死生の環

オカザキコージ

死生の環

 彼女はいつものようにカフェオレを頼み、うつむき加減に話し出した。いまの“仕事”を辞めて少し休みたいという。思い止まるよう説得はしなかった。反対する理由がないばかりか、なぜもっと早く言ってくれなかったのか、彼女を責めたいぐらいだった。そもそも仕事と言えるものなのか、お天道様に照らして申し訳が立つようなものではなかったし、彼女に向いている生業とは到底思えなかった。

 かといって、世間様が思っているほど、汚らわしくて卑しくもなく、嫌悪されるべきものではなかったし、誰にでもどこかに棲みついている、沈みこんでいる澱のようなものと言うか。余ほどのことがない限り、顕われ出ることはなく奥底へ潜み揺らいでいる、そうした意識が何かの拍子にひょっこり顔を出し、いつの間にか全体を覆いつくしている、といった感じか。こと、生理にかかわることなので、一概に判断を下せない、いずれの場合も保留しておくべきなのかもしれなかった。

 少なくとも、僕と彼女のあいだに、たいした問題は生じていなかったし、仮に齟齬をきたしていたとしても、いずれしぜんと修復される程度のものだった。互いに気持ちよくズレていただけで、二人の関係性以外、意味あるものに思えなかったし、じっさいその世界に終始していた。僕にとって彼女は商品の一つであり、結局のところ消耗品でしかなかったが、そこは不感症的に割り切るほかなかった。それよりも深いところでつながっている、特異な関係性なんだから、と無理に思い込み、やり過ごそうとしていた。

 陰鬱で淫らな性状は、裏を返せば純正で清らかな面をもつ。そんな自分に都合のいい論理を彼女に当てはめて不安になりがちな思いをごまかしていた。巣窟に堕ちた天使を救い出そうとする勇士を気取るつもりはなかったし、当初は僕の力を借りなくても泥沼から這い出せる、と勝手に思い込んでいた。見当はずれの、うがった見方をしていたのはこちら側で、彼女は関係性に対し、つねに自然体で正面から向き合い、誠実で正直な眼差しを僕へ向けていた。

 根強く浸透する、周りのコトどもモノどもに振り回されず、ただ二人の関係性を見つめ、深めていっていれば。世間の目を気にせずに唯一無二なものに育て上げて行けたならば。重なり合うこと、気持ちが通い合う、その心細さというか、それぞれの思いを互いの中に行き渡らせ、昇華させることの傲慢さに気を止めず、無頓着であったならば。そう、こんなことになってなかっただろうに。なかなか入り込めない、躊躇することの繰り返し。でもだから、つかず離れず、こうして続いてきたということか。僕と彼女は絶妙なのか、最悪なのか。ほどほどに間合いを取りながら、これからも向き合っていくのだろうか。僕は、彼女に返す言葉がなく、ただ空になったコーヒーカップを見つめるだけだった。

                  ◆

 僕は女性スタッフのマネジメントを担当していた。女の子の面接から指定ホテルへの送迎、分単位の時間管理、面倒なトラブル対応などデリバリーヘルスの現場を統括する立場にあった。ほとんどネット経由で応募してくる面接は随時、事務所近くの喫茶店で行った。一般企業の面接のように履歴書は求めなかったが、遅れてくる女の子にはチェックを入れた。十代後半から水商売に浸って、知らぬ間に安易に風俗へ身を沈めて…というような女の子たちが主戦力だったが、昼の仕事をしながらアルバイト感覚で応募してくる子も少なからずいた。

 動機で共通するのはやはりお金。いずれも事情はともかく単価の高さに誘われてデリヘルの世界へ。もう一つはトラウマ。幼少時の虐待やいじめ、極度の愛情不足など心に傷を負った子が多かった。面接ではお金かトラウマか、マネジメントシート(管理簿)に両要因の比率を書き込み、女の子の特徴把握に努めた。自己申告の年齢と見た目、話し方と性格、仕草と行動パターンなど二項対照的に基礎データを作成した。人を見定められるほど経験を積んでいなかったが、直感も交えて女の子の管理に生かした。

 何よりも第一印象がものをいった。管理しやすい、しにくいをカテゴリー分けしていたが、けっきょくインスピレーションがそのまま反映されることが多かった。登録だけしてすぐに連絡がつかなくなったり、たいした理由もなくブッキングに不平を言って来たり、直前にキャンセルしたり、果てはちょっとしたことで客ともめてそのまま現場を離れたり…。その反対に、一見まじめそうでいて客ころがしが上手い子、どこで育んできたのか、この特殊な生業のノウハウに長けた子、まるで事務作業のように淡々とこなしていく子…。いずれにしても、お金とトラウマが主因となってその子の思考や行動様式が決まっていくようだった。

 彼女は、カテゴリー分けしにくいタイプだった。喫茶店で別の仕事をして待っていると、彼女は戸惑いを見せず軽く会釈して僕の前に座った。その日の面接は彼女一人だった。小さな花柄のワンピースに肩にかかる程度のストレートヘア、額の3分の2ほどを前髪で隠し、左から軽く分けていた。落ち着いた振る舞いを含めて地味な印象、典型的なトラウマを抱えた素人タイプに見えた。第一印象はそんな感じだった。

 彼女はカフェオレを頼んだあと封書を差し出した。中を開けると、便箋に氏名と年齢、住所、電話番号、簡単なプロフィルが書かれていた。こうした面接で書面を提出するのはめずらしかった。聞く手間が省けたのはよかったが、ケータイの通話番号以外は偽りだろう。聞き出す場合もたいていはそうだった。必要なのは連絡先なので何も問題はなかったが、その子それぞれの嘘のつき方で何となく人柄が読み取れて興味深かった。好みの偽名やサバの読んだ年齢、ニセのプロフィルなどから、その子の過去がぼんやりと垣間見えて、きっと幸せにならないだろう未来を照らし出していた。

 名前は「優子」、年齢は「二十五歳」、趣味は「読書と料理」、ある会社の「総務部に勤めている」という。目の前にいる彼女は、偽名のようにソフトなイメージではなかったし、三十歳を過ぎているように見えた。ただ、会社員は嘘でないようで、読書も料理もきっと本当なのだろう、キャラクターに合っているように思えた。どこにでもいる大人しそうなOLという感じだった。もっといえば女性社員の中でも目立たない存在、男性社員からそうそう声のかからない婚期を逃すタイプ、加えて男運がいいようにも見えなかった。

 面接ではいつものように注意点を事務的に説明した。料金体系や時間配分のほか事務所に収める金額、女の子側の取り分、延長の場合の割増金、それにトラブル時の対処方法と緊急時の連絡方法、さらにはゴムの着用について…。特に暴力が絡むトラブルには気を配った。警察沙汰は厳禁の世界、どんな客に対しても脅しは極力避け、丁寧な話し合いを基本とした。トラブル客の多くは、怖いお兄さんが出てくるものと構えているのか、僕が声のトーンを落として丁寧に話し出すと、たいていは拍子抜けした感じで、こちらの言うことを素直に聞き入れてくれた。

 彼女はうつむき加減に黙って聞いていた。ひと通り説明した後、何か質問はないかと尋ねると、少し間を置いて僕の携帯番号とメールアドレスを聞いてきた。どの子にも面接の最後に「何かあったら気楽に…」と教えていたが、向こうから聞かれたのは初めてだった。そのときは不安感から思わず聞いたのだろうと気に留めなかった。手元のメモに「2」と付けた。

 マネジメントシートには、面接で聞き出した女の子たちの基礎データに加え、受けた印象やそれに基づく性格分析も書き込んだ。向き不向きを5段階で評価した。「優子」の場合、メモをもとにパソコンへ打ち込む時点でも評価は変わらず「2」、デリヘル嬢には不向きとした。評価基準のうち、外面は辛うじて合格ラインに達していたが、内面に不安を感じさせた。

 しっかりしたあごのラインや低い声のトーンから感じる、意思の強さはこの仕事には不向きに思えた。まれにある、達観に至れば逆にその強さを仕事に生かせるが、愛情のかけらもない男にカラダを開くにはふつう、意思の強さは邪魔になる。どこかで思考を停止し、それ以上考えない、特別なことと思わない…。強引にそう思い込めるのならいいが、日ごろドライに構えている子でもかんたんに割り切れるものではない。僕は彼女を続かない方に分類した。

 この業界では客の数が二桁に近づくと女の子は変わる、とよく言われる。稼いだ金の多くを借金返済に充てるとはいえ、どうしても生活が派手になっていく。それだけなら心配はいらないが、心に溜め込んでいた澱(おり)のようなものがさらに濃くなり、嵩んでいく場合。内面に留まっていた不安感や焦燥感、それこそ死への誘惑が一挙に表面へあふれ出て、コントロールが効かなくなってしまう。そうした心身のバランスを崩した女の子を何人も見てきた。

 連絡に出なくなる子、逆にチェーンメールをして来る子、普段より客を多く取ろうとする子、トラブルを繰り返す子…。それぞれ抱えるトラウマが顕在化し、自分を制御できなくなってしまう。何かで埋め合わせようと焦り、恵まれなかった愛情を求めて、自傷行為で心も傷つける、そして挙句の果てに…。うつ症状でなくとも突発的に自宅ベランダから飛び降りる、そんなことも十分考えられた。

 “死して生きる”“生きながら死ぬ”。仏教の教義にありそうなフレーズが繰り返し頭をめぐることがあった。デリヘルという生業に長く関わっているとどうしても人間の裏側、内心の奥底に止めどなく流れる業(ごう)のようなものについて考えてしまう。生きている限り、死はそばに横たわり、離れようとはしない。かりに精神と肉体の相互浸潤、両者の合一が生の健全さを表しているのなら、死への不安はこれを引き裂き、それぞれの極へ遠ざけようとする。そのあいだに漂い浮遊し、苦行を強いられるのがこの世というのなら、彼岸、無の世界、エターナルへ向かおうとするのが自然ではないか。

 性を売ること。この苛烈な生業の底には常に死が横たわっている。踏み外れた、大きく逸れてしまった、いたいけな生をさらに追い込もうと死霊たちがうごめき、彼女らの背中にのしかかる。逸脱した世界で生きる女の子たち。否が応にも知らず知らずに不可侵の死に触れ、それぞれ内心の冥界へ突き落とされる。この世へ戻る術もなく、大抵は地獄へ堕ちたまま。ただ両極で浮遊するしか道は残されていない、悪霊となって? まれに精霊となって…。

 向いていないと思っていた彼女は、三カ月経っても辞めなかった。一週間に一人か二人のペースで客を取った。多くはなかったがマイペースで頻度を違わないのが「優子」らしかった。トラブルもなく手がかからなかったし、思いのほか客の評判も良かった。じわじわ常連客が付いていくタイプのようだった。集金の時にチェックを入れたが、服装や髪型もほぼ変化がなく精神的にも安定しているように見えた。まさか、この短期間に無の境地に、悟りの世界に達したのか。それゆえの安定感か、判別はつきかねたが少しきれいになったのが気がかりだった。

 面接から半年が経ったころ、「優子」から初めてメールをもらった。話があるというので食事に誘った。抜かれる金額が多すぎないか、そんな事務所への不満を覚悟していたが最後まで仕事の話はなかった。築二十年近いマンションで一人暮らし、食事はほぼ自炊で昼は弁当持参、休日はほとんど出歩かず録りためたビデオを視聴、たまに有給をとって神社仏閣を訪れて…。話は近況や趣味のことに終始した。このあと、僕と彼女は不定期だが、会うようになった。

 

 僕はこの生業に就く前、小さな商社に勤めていた。主に欧州から雑貨や加工食品を輸入し、都心の個人経営の店に卸すのが仕事だった。売り上げ規模が小さく利益も少なかったが、現地バイヤーのネットワークを生かした調達力が強みで安定した需要があった。長い歴史と洗練された文化に培われた品質の高さに加え、肌の色や身体の造形に起因した西洋人に対する劣等感、その裏返しの憧れが欧州製品の人気を支えているのだろうか。こうした東洋人のメンタリティーをくすぐる商品探しは日本人として自己を振り返る機会ともなり、複雑な思いに駆られることもあったが、選んだ商品が雑貨・食料品店で人気と聞くと悪い気はしなった。

 商品を製造するのでなく、単にモノを移動させるだけで利ざやを稼ぐ古典的な商売。直接価値を生み出すわけでなく、人と物を媒介して利益を得る。その分、トレンドを反映したニーズ把握が欠かせなかった。ただ、雑貨の世界は少し違っていて、個人の好みが細分化され、小さなマーケットに分散する傾向がみられた。バイヤーにはニッチな商品の潜在力を引き出す能力、その特性を顕在化させる力が要求された。物を右から左へ動かすだけで価値創造に参加しない分、商品にどう情報を乗せるか、いかに付加価値があるように見せかけるか。小さくとも手応えのあるウェーブ、ちょっとしたブームを引き起こす必要があった。当初は性に合った仕事と思っていた。

 いつの間にか、定期的に、二週間に一度のペースで彼女と食事をするようになっていた。客を取ったあとの彼女と、食べ終ったあとの彼女。男の性欲を満たす道具になることと、肉をナイフで切りフォークで口へ運ぶこと。相手の欲望を充足させることと、自らの欲求を満たすこと。同じようなことなのか、まったく異なるのか。欲望に関わる、同じようでいてベクトルの違う二つの行為を彼女はどう咀嚼し、意味づけているのか。まさか一周まわってたいして変わらないとでも思っているのか。淡々と料理を食べ進む彼女を前にそんなことを考えた。

 無口で余計なことを話さない彼女は心地よい相手だった。たいていの女の子は、取り分に関する不平不満にはじまり、きまって客とのトラブル沙汰や浮ついた戯れ言をまくし立てるのが常だった。でも、彼女からそういう話は一切出なかった。だからなのか、気がつくと日ごろ人に話さないことまで彼女に話していた。これまで他人と深く関わるのを避けてきたし、少しであってもこちらのバックグラウンドについて話すことはなかった。いろんな自分を使い分けて無難に都合よくやっていれば問題はなかったし、そもそもこの世界、しっかりつかめる、確かなものなどどこにもなかった。虚業に実(じつ)を求めるのは無理な話だったし、期待してもいなかった。

 ある日、客からオーダーがあり彼女のケータイに連絡した。留守電にその旨を伝えたが一向に電話もメールも返して来なかった。女の子が直接客とやり取りするのを禁じ、事務所を通さない行為が発覚すると重いペナルティーを科していた。客と示し合わせて黙っていればバレないだろうと思っていると痛い目に合う。両者を仲立ちして生じる中間マージン、分かりやすい搾取の構図がデリヘルの本質であり、それを否定する行為はけっして許されない。裏稼業の狭い世界、悪事はいずれ生業のタイトなネットワークに引っかかり、罰として金銭以上の対価・代償を払わされる羽目になる。

 「優子」に関しては安心していた。お金への執着がそこまであるように見えなかったし、事務所を裏切るような子ではないと思っていた。でも一週間が過ぎても連絡はなかった。きっと昼間の仕事やプライベートでやむを得ない事情があるのだろうが、このあと一カ月、二カ月と音沙汰もなく過ぎるとは思っていなかった。こちらも彼女だけに構っているわけにもいかず、しだいに電話もメールもしなくなり、三カ月後には「優子」の名をマネジメントシートから外し、失踪扱いとした。

 彼女のように突然姿をくらますケースはめずらしくなく、取り立てて気に止める必要はなかったが、記憶の外へ押し出すにはもう少し時間がかかりそうだった。だからと言っていつまでも尾を引いているわけにもいかず、女の子がいなくなった分、しっかり補充しなければならない。客の多様なニーズに応えるため新人発掘に努めるとともに、出来る子が同業他社へ流れないよう気を配った。「優子」のように突然姿を消した女の子の客にはスピード感をもって対応し、容姿だけでなくできる限り性格も似ている子をあてがうよう心がけた。

 こうした時に役立つのが独自の視点で作成した女の子のパーソナルデータだった。顧客データと突合せて最適な解を導き出す武器になった。客の好みに合わせて効率よくスムーズに女の子を送り出す。「この前と違う子」と言うだけで写真の確認もなしにオーダーしてくる常連客もいる。客の期待を損なわないよう好みの女の子をすぐにあてがうのがマネージャーの腕の見せ所だった。裏の商売でも、客と信頼関係を構築し醸成するのが何より大切で、この点では一般的な営業活動と変わりはなかった。

 いつもの喫茶店で女の子の面接をしていると、いつの間にか十数本ものメールが入っていた。大半が、というよりほとんどすべてが業務連絡に違いなく、とにかく手早く処理しようとケータイに向かった。途中、一本のメールに手が止まった。「優子」からだった。久しぶりに会いたいという。なぜ今まで連絡して来なかったのか、そんなことは聞かず、ただ“どこで”とだけ返信した。彼女は、一、二度行った覚えのあるイタリアンレストランを指定してきた。相変わらず愛想のない短いメッセージに彼女らしいと苦笑した。彼女にとって三カ月程度の音信不通はイレギュラーでないらしい。なにも悪びれるところがなく、いつもの業務連絡のように送ってきた。

 彼女は髪型も、話し方も、所作も何一つ変わっていなかった。たしかに数カ月で大きく変わることはないだろう。時間感覚に狂いが生じていたのかもしれない。彼女がどこかで過ごした時間と僕がずっとここで感じていた時間、二人のあいだに違う時が流れていた。このあいだ、彼女にとって僕は変わらず存在し、僕は途中から彼女を失っていた。スプーンを添えて何事もなかったようにパスタを口へ運ぶ彼女。その既視感に違和感を覚えながら「優子」でない彼女を見ていた。

 “いつから客をとる?” 食事中、ずっと聞きそびれて言い出せなかった。このまま別れるわけにもいかず、業務連絡の一環と言い聞かせてやっとの思いで口にした。彼女はそう聞かれるのを予想していたかのように間を置かず愛想なくうなずき、すぐさま背中を向けて駅の方へ歩き出した。数日後、彼女は客をとった。マネジメントシートに「優子」の欄が復活した。片隅に「R」の記号を添えた。いわゆる出戻り、リターンのR。言葉遊びをしているつもりはなかったが、戻って来てよかったのかどうか、内心複雑なものを感じていた。復帰した理由を聞くつもりはなかったが、彼女には「居なくて困っていた」とだけ伝えた。

 

 「優子」は前のペースに戻り、これまで通りトラブルもなく淡々と客をとった。僕と会う頻度も変わらず、ほぼ前と同じ時間が流れているようにみえた。でもそのころからか、二人の関係は変わりつつあったのかもしれない。少なくとも僕は、前と同じように彼女を見ることができなかった。客とのブッキングを報せる連絡と食事の約束をするメール、店へ納めるお金を差し出す仕草と向かい合ってパスタを口へ運ぶ表情、そう「優子」と彼女。マネジメントシート上の女の子は特別な存在、言ってみれば社会に存在していない存在、哲学的には「非存在」とでも言えようか。フィクション、架空の存在としての「優子」と、日常の中でリアルに存在する彼女。人格の違う二人の女が僕の前にいた。

 事務所側にとって女の子は商品、顧客との間でやり取りされるモノでしかない。商取引の一環として需要に合わせて女の子を適時供給する。当然、回転率が高く多くの利益を上げる商品に価値が置かれる。生業を成り立たせるのが中間搾取、彼女たちを流通させる過程で価値を掠め取る。経済原理的には商品を媒介する商社と何も変わらない。時間単位の人身売買、正業で言えば人材派遣業というところか、扱っているのが性という違いだけ。いつの時代もモノとして扱われてきた女の性、いまさら歴史に抗ってその是非を議論してもしようがない。あくまで需要と供給、たんにエコノミーに動けばいいだけ、そう言い含めてきた。

 言うまでもなく、性交は男女の基本的な営み、生殖に欠かせない行為、人類の歴史・文化を形づくってきた基底のもの…。学者が論文の中で、文学者が小説の中で高尚に取り扱う一方で、快感や恍惚を伴うためか禁忌すべきもの、猥雑な対象として負の立ち位置に押し込められてきた。また、時の権力が体制維持の道具として利用しコントロールする対象でもあった。そうした中で売春は性の鬼っ子として産み落とされ、古代から存在する最古の生業として今日まで歴史を刻んできた。人間の本能に根ざした業態は強い。政治体制が変わっても、科学が発達しても、社会が大きく変動しても、変わらず存在し続けた。だからといって誇らしいはずもないが、かといって卑下する必要もない、それが僕の携わっている仕事だった。

 マネジメントシートの「優子」の欄が浮かび上がって見えるときがあった。彼女の常連客から連絡があり、シートに予約のチェックを入れるとき。立場上、よくない傾向と分かっていたが気持ちの面でなかなか修正できなかった。体調不良を理由に休んでくれないか、いっそうの事この前のように「失踪」してくれたらいいのに、と思ってしまう。江戸時代の吉原を舞台にした時代劇で、遊女を好きになる置屋の男衆、デリヘルの女の子と店のマネージャーの悲恋物語? 時代錯誤でステレオタイプな戯れ言と笑われそうだが、いつの時代も二人にとっては普遍的な愛に変わりなく、ただお決まりごととして、こわもての兄さんたちに引き裂かれるか、手に手を取り合って逃げた挙句に身投げして心中するか。いずれにしても不幸になるだけだった。


 ある晩、「優子」から連絡を受けた。極力考えないようにしていたが、ちょうど客と会っている時間だった。マネージャーが現場へ行くべき案件かどうか、暴力性のあるトラブルなのか、客の憤りがどの程度のものか―。警察沙汰に発展するような事態だけは避けたかった。トラブルの現場では何よりもソフトな物腰で時間をかけて対応するのが肝心だった。当然のことながら客をなだめるのが先決で、たいていはサービスに関わる些細な事が原因なので冷静に考えればたいしたことでない、と客に思わせる必要があった。

 たとえ向こう側に瑕疵があろうとも、こちらの不手際で申し訳ないという姿勢を通せば、多少相手を図に乗らせることはあっても、それ以上問題を複雑にさせることはなかった。頭を冷やして考えれば単なる感情の行き違い、こうなってしまったのはこちらにも非がある、今日のところは気を取り直して…。頭の中で様々なケースを想定しながら、とにかく場を治めることを第一と、「優子」のいる現場へ急いだ。

 金で買った女で日ごろのストレスを解消する、性のはけ口としてデリヘルを利用するには何の問題もなかったが、暴力を伴った異常性のある場合は別だった。行為中に興奮が高じて首を絞めてくるケースなど看過できない案件もあった。猟奇的で陰惨な場面が目に浮かび、助けを求める「優子」の姿と二重写しになって身体がこわばった。エレベーターから降りてルームナンバーをたどっていくと、半開きになっている部屋があった。

 番号を確かめずにドアを押し開けると、「優子」の肩越しにスーツ姿の男が見えた。男はベッド横のソファーから少し腰を浮かし視線をこちらへ向けた。細身で神経質そうな男は、僕の後ろに隠れた「優子」を目で追うのを諦めて視線の置き場に困っているふうだった。ホテルへ向かいながら「優子」から聴いていた事の成り行きを男に確認すると、その通りだと否定しなかった。

 「優子」の話では、男は昼の彼女を何度か見かけてストーカーさながらに後を付け、夜の顔を突き止めて交際を迫ってきたという。彼女が勤める会社に裏の顔をばらすといった直截的な表現は使わなかったというが、暗にそれをネタにしているのは明らかだった。店とは直接関係のない個人的トラブルとも言えたが、放っておくわけにはいかなかった。めったに使わないヤクザ風の荒い言葉が口を突いて出た。こういうところで働いている女の子の後ろにはたいてい怖いお兄さんが付いていて、手を出そうものなら痛い目に会う。そう思わすには十分だったようで、男は顔をこわばらせ、一目散に部屋から出て行った。

 仕事場で二人になるのは初めてだった。事務所へ戻ろうとしたが、「優子」はしばらくのあいだ一緒に居てほしい、と言った。いつもより化粧の濃い彼女を正視できず、ケータイを触ってやり過ごした。彼女は下を向いてベッドの端に座っていた。二人ともいつもと違う空気感に戸惑っていた。扉の閉まる音に反応して顔を上げると、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。

 ゆきずりの女が男のシャワー中に気を取り直して出て行く場面が頭に浮かんだ。“それとは逆だな…”。苦笑しながら立ち上がり出口の方へ足を向けた。ドアに手をかけようとしたとき、石鹸の強い香りを感じた。彼女が後ろから抱きついてきた。僕は躊躇しなかった。彼女を強く抱き寄せ、そのままベッドへ倒れ込んだ。僕がいま抱いているのは「優子」なのか、レストランで前にいる彼女なのか。判断がつかなかった。こっちが勝手に二重人格者のように扱っているだけで、この女は一人きり、僕がいつの間にか好きになった、愛している彼女、それ以外の誰というのか。いや、ホテルに呼ばれて男に身体を開く、それだけでアウト、この女のすべてが否定されるべきではないか。振り子のように二つの感情が行きつ戻りつ、錯綜していた。

 これまで店の女の子に手を出したことはなかった。マネージャー失格に違いなかったが、僕にとって「優子」である彼女はすでに商品ではなかったし、もちろん性のはけ口でもなかった。あれから二週間ほど連絡しなかった、いやできなかった。気持ちのなかでどう整理したらいいのか。彼女も同じように思っているのか、連絡を寄こさなかった。あのとき抱いた女は、いつものレストランで待ち合わす彼女、そう思い込もうとした。でも、なかなかストンと内側へ落ちて来ない。そのうちの何割かは「優子」だったのではないか。パーセンテージの話でないのは分かっていても「優子」の影を振り払うのはそうかんたんではなかった。

 心理学者に聞くまでもなく、人は二面にとどまらず多面性を併せ持つ。その場その場で顔を変える。デリヘルで働く女の子はその典型だろう。客をとる行為は仏教で言う“死して生きる”究極の行為なのかもしれない。頭の足りない子でも気づかないうちに別人格を媒介させて自己崩壊を防いでいる。「優子」は別人格で、食事の時の「彼女」が本当の彼女。そう考えるのが理に適っているのだろう。それでも割り切れない思いが頭にもたげてくる。デリヘルの「優子」も彼女ではないか、彼女でないはずはない、その内側に性を売る女の、割り切りといい加減さ、安易さが潜んでいるのは確かなのだから。彼女は一体誰なのか。堂々巡りを繰り返すばかりだった。

 疑心暗鬼や制御できない感情が徐々に収まり、澄み渡る日が、その瞬間が来るのだろうか。確たるものへ、道は開けているのか。この世にありそうもない確信へ至る険しい道程。あのあとも「優子」は同じペースで客をとり、僕と食事をともにした。何も変わらない時間が僕と「優子」、僕と彼女のあいだを過ぎていった。難しいことを考えず日常に流されるべき、今がその時と自分に言い聞かせようとした。マネジメントシートに「優子」のスケジュールを記し、片方でケータイに彼女との食事の約束を入れる。淡々とルーティンをこなそうと努めた。


 面接の合間にメールを確認していると、チェック漏れがあるのに気がついた。小さな商社に勤めいたころの同僚からだった。合コンを設定し合う遊び仲間で女の子のタイプが正反対、毎週末に一緒に遊び歩いた時期もあった。今は外車のディーラーをしていた。久方ぶりに週末、会う約束をした。

 待ち合わせの場所に高級ドイツ車で横付けした彼は、相変わらず遊び人風で軽い話口調も変わらず、懐かしかった。五年ぶりの再会だった。すぐに昔の感覚が戻り、話が弾んだ。独身が長かった彼も三年前に結婚し、子供が一人いた。不惑の年を過ぎていたがどことなく落ち着かない感じが彼らしく、会っているだけで気が晴れた。

 二人にはそぐわない落ち着いた感じの料理屋に入った。接待でよく使っているらしく主人があいさつに来た。高級素材を使った会席料理がタイミングよく運ばれ、昔話に花が咲く。口が滑らかになってくるとお互い女の話に移った。彼は、一回り以上も若い子と付き合っていた。「あのクルマでうろうろしていたら付いてくる子もいるよな」。そう冷やかすとそれには答えず、少し暗い表情になった。ある程度お金を突っ込んでものにしたものの、しだいに要求がエスカレートして困っている、そんなふうだった。「妊娠をほのめかされるよりましじゃないか」と軽く突っ込んだつもりだったが、そうしたトラブルは数カ月前にクリアしたばかりと返される始末だった。

 このあと、女の子のいる店へ連れて行ってくれた。都心から少し離れた、ラウンジだかキャバクラだか判別しかねる微妙な店だったが、タイミングよく女の子を回してくれて楽しめた。とっかえひっかえ女の子に囲まれて軽妙な話し振りも健在、水を得た魚のようにはしゃぐ彼の姿が微笑ましかった。僕は彼のように軽口をたたけるタイプでなかったし、女の子を楽しませる話題も話術もたいして持ち合わせていなかった。

 女の子がコロコロ変わる慌しさに少し疲れを感じていると、斜め前のスツールにヘルプらしい女の子が座った。ほとんど話す間もなく他のテーブルへ移ったが、離れ際にメールアドレスを交換した。あごのラインと目のバランスが好みだった。同伴やアフターをそれとはなしに求めてくる手合いではなさそうで、控えめな感じがよかった。他のテーブルで客と向きあう彼女の華奢な背中へ向けてメールを送った。しばらくして着信を確認したようで、ボーイに声をかけるふりをしてこちらへ笑顔を返してきた。

 二時間で付いた女の子は五、六人、いいころ合いで店を出た。このあと、クルマを駐車しているホテルのラウンジで飲み直した。仕事やこれからの事などややしんみりと話していると、間を置かず二人のケータイに着信があった。顔を見合わせ、にやけた表情のままケータイに向かった。彼は続けざまに複数のメールを受け取り、返信に力を注ぎ始めた。

 僕の方は例のヘルプの彼女でなく別の女の子からの、ありがとうメールだった。ケータイに集中する彼を横目にただぼんやりとグラスを傾けた。彼はチェックインした部屋で朝方まで飲もうと誘ってくれたが、タクシーを呼び1時間ほどかけて自宅へ戻った。女の子のメールを肴に飲むには疲れていたし、そういう気分でもなかった。


 師走の宴会シーズンに入り、デリヘル業界もかき入れ時を迎えていた。クリスマスまで女の子を二、三割増員しておく必要があった。それを見越して十一月中頃から面接の回数を増やし女の子の獲得に力を入れたが、集まり具合がよくなかった。特に二十歳前後の応募が少なく頭が痛かった。一方で、酔っ払った勢いでオーダーしてくるケースが多くなるため、客あしらいの上手い三十歳前後も必要だった。このままの状態では、駒不足を補うため「優子」も活躍してもらうはめになりかねず、気が重かった。訳の分からない酔客にスポットで彼女を使いたくなかった。

 客の好みに合わせて女の子を最適配分するのが仕事だったが、「優子」がフィットしそうな場合でも最後まで保留にし、別の子をあてがった。付いている客は仕方なかったが、これ以上「優子」に新しい客を取らせたくなかった。こちらの気持ちをよそに「優子」はこれまで通り、事務所の指示に一切文句を言わず淡々と客をとった。そうした妙に生真面目なところが気に入っていたが、何か適当な理由をつけて断りのメールを返してくれないか、強くそう思った。

 年末の慌ただしい時期が過ぎて、面接のペースも緩やかになっていた。その日は午後に一人予定が入っているだけで、まだ三十分ほど時間があった。いつもの喫茶店で本を開いてぼんやりしていると、女の子が後ろからのぞき込んできた。その子は向き直って勢いよく前の席に座った。怪訝な表情をしていると、女の子はクスクスと笑い出し「分からない?」と言ったあと、うれしそうに姿勢を正した。

 “さて、私は誰でしょう”と言わんばかりに楽しげにヒントを出す姿もチャーミングだったが、よく見ると顔の造作自体がタイプだった。彼女が「正解は…」と答えるまでけっきょく気づかなかったが、例のあごのラインと程よく離れた目。友人と行った郊外のラウンジでメールを交換した、あの子だった。

 「あの時は目の化粧がきつかったし、ほとんど顔、見てないでしょ」と大きく笑った。「喫茶店に入ってびっくりしたよ、いるんだもの」と目を見開いて「こんなこと、あるんだね」と妙に納得顔。すぐに気を取り直して「さあ始めましょう」と真顔になった。「面接? なんの?」。僕は完全に気がそがれてしまっていた。彼氏の借金を返すために面接を受けに来たといい、僕が面接官で「ちょうど良かった」と訳の分からないことを言い出す始末。まともに取り合わず、その日は追い立てるようにして帰した。


 朝からどんよりと曇っていた。午後には雪がちらつく、天気予報はそう伝えていた。明るいうちに彼女と会うのは初めてだった。しかも日曜日、若いペアが何組も前を通り過ぎていく。改札口で合流し、会ったばかりは少し意識するも、程なく手をつないで後ろ姿が一つになっていく。そうした光景に気を取られ、彼女が来ていることに気づかなかった。暗さが増す空に目をやり、明るいワンピース姿の彼女と歩き出した。目的地まで手をつなぐことも、一つになることも、もちろんじゃれ合うこともなかったが、横にいる彼女をしぜんに感じた。普通な感じが心地よかった。

 臨海部開発で誕生したテーマパークは開園十周年のイベントで賑わっていた。新しいアトラクションに長蛇の列ができ、最後尾がはるか遠くに見えた。僕と彼女は顔を見合わせ、人の少ない乗り物へ向かった。待つ間、彼女の肩にかかる髪の毛が思いのほか明るく映りドキリとした。曇り空とはいえ、日中のリアルな彼女は眩しかった。いつも僕に見せていた陰りのある表情をどこに置いてきたのか。夜の彼女と同一人物に見えなかった。落ち着いた話しぶりはそのままだったが、意外な素振りを発見するたびに引きつけられた。少し重さを含んだ透明感とともに時がゆっくり流れていく。すっかり日が暮れたパークをあとに、僕と彼女は手をつなぎ、ゲートを抜けて駅へ向かった。

 

 忘れていたわけではなかったが、あの子の面接から一カ月以上過ぎていた。きっと他のデリヘルか別の風俗にでもいっているのだろう。そう思うと気になってメールを送っていた。ホステスとして営業メールで忙しい夕方の出勤前にもかかわらず、すぐに返ってきた。変わりなく店に出ていると涙目の絵文字。 とりあえず良かったと思い、お愛想も込めて“また店に行くね”と打った。すると“その時はゴハンいっしょに”とハートマーク付きで返ってきた。“了解”と同伴に浮かれるおじさんよろしく速攻で返信すると“めちゃうれしい”とダブルハートマークを寄こして来た。おじさんに合わせて絵文字を多用する彼女にうまくやられていた。わかっていてもその感じが心地よかった。

 それから二週間も経たない週の始め、僕は彼女に会いに行った。この前、友人と使ったホテルの駐車場にクルマを止めて、店近くの待ち合わせ場所へ向かった。前日のメールで“なに食べたい?”と来たので“そっちが好きなもの”と答えていた。こじんまりした料理屋の一室を予約してくれていた。彼女はホステスにしては地味で落ち着いた格好だった。髪もストレートでOL風、店長に注意されそうな普通のいでたちがよかった。面接の時に比べて大人びて見えた。二人してメニューをのぞき込み適当に何品かたのんだ。「あんな偶然、ホントあるんだね」。面接の話で盛り上がった。もともと口説くつもりはなかったし、デリヘルで働くこと、客をとること、身体を売ること、その意味について説教するつもりもなかった。

 彼女は地元の高校を卒業して彼氏とともに上京、取りあえずアルバイトを始めたが、彼はバイト先をころころ替えてしばらくするとぶらぶらするように。彼女は手っ取り早く稼ぐために、お定まりの水商売の世界へ。幸い子供ができずに身軽だったため決断も早かった。一年そこそこで彼に見切りをつけ、そのあとは店を転々、ずるずる続けているうちにいつの間にか郊外のこの店へ流れついたという。そのあいだ何人かの男と付き合ったがどれも長続きしなかった。この半年は彼氏なしで過ごし“なんだ(一人でも)やっていけるじゃん”というところらいしい。

 見かけによらず客を選ぶタイプで態度に出やすい率直さが一部の客に好まれ、さっぱりとした性格がほかの女の子にも評判のいい、そんなホステスに見えた。店へ出勤する時間が近づいていた。当然同伴するつもりだったので促して腰を浮かすと「今日はいい」と断ってきた。別に行くところもないので「一緒に行くよ」と再度促して立ち上がろうとすると「後でメールするから。ゆっくりしてて」。そう制して一人、部屋を出て行った。一人残された僕はケータイの画面に目を落とす以外にすることがなく、手持ち無沙汰、所在無げにしているとすぐにメールが送られてきた。“店が終わったらホテルへ遊びに行っていい?”。拒否する理由もなく“了解です”と返した。さて、このあと四、五時間どうつぶそうか、女っ気のないバーでも見つかれば、と料理屋を出たが、日ごろの疲れからか、少し歩いただけですぐ脚にきた。ホテルへ戻り、部屋に入るなり重い身体を投げ出すようにベッドへ横たえた。

 気がつくと午前零時をとうに過ぎていた。ぼんやりした頭で身体を起こし、ケータイに出ると彼女からだった。もうホテルのロビーに来ているという。「迎えに降りる」と返事すると、ルームナンバーを聞かれ「フロントの目をぬすんで上がっていくから大丈夫」と笑った。僕はホテルへ入る前、コンビニでカクテル系のアルコール飲料と女の子が喜びそうなデザートを数点買い込んでいた。部屋に入って来た彼女は先ほどのワンピースに薄いカーディガンを羽織っていた。「お腹、空いてない?」と聞くと、「大丈夫」と言って弾むようにベッドの端に座った。「こんなものしかないけど。もしよかったら」。飲み物とデザートをテーブルに広げると、嬉しそうな顔をしてソファーに寄って来た。彼女は、かすかに煙草の匂いを漂わせて「私ね…」と話し始めた。

 面接では、デリヘルへ移りたい理由を彼がつくった借金としていた。具体的な金額まで明るく話していたが、それはあくまできっかけに過ぎず、実際は別のところにあるというか、たいして強い理由はないというか。話があちこちに飛ぶので本当のところは分からなかったが、要するに今の生活を変えたい、そんな話に尽きた。ステップアップしたいというほど前向きなものではなく、ただ目先を変えたいだけ、そのぐらいの理由でデリヘルはないだろうと思ったが、この“何となく”がけっこう多かった。その裏にはたいてい、本人も気づいていない何らかのトラウマが潜んでいた。

 岐路に立って大きな判断を下すとき、人によっては大した理由や深い考えは必要ないのかもしれない。ちょっとした意識の変化や偶然が重なって人生を踏み外す、分かっているけどそうなってしまう。深層心理、潜在意識がそうさせるのか。自分の内に潜む不条理な何かに引き込まれ、気がつけば奈落の底に堕ちていた。一度堕ちれば余ほどのことがない限り、いくら足掻いてもそこから這い出せない。そうした女の子を何人も見てきた。

 地獄の淵に立っている、そう意識しているデリヘル嬢がどれほどいるか。彼女たちの意識と無意識、そして心の闇。ただ言えるのは、需要と供給のシステムの中で有史以来、その存在に必然性があるということ。もちろんそこに愛が介在する余地はない。生の欲動=エロースと、死の欲動=タナトスが併存する往還の世界。知らず知らずのうちに生死のはざ間で身動きが取れなくなっていく。気がつけば精霊か悪霊か、青白い霊気を湛えて優しく手招きされて…。

 娼婦、売春婦、売女、そしてデリヘル嬢。不遜にも、どこか菩薩に通じる響きはないだろうか。確かに客との間に愛(True love)は存在しないが、哀切な男の欲望を広く受け入れる愛(Love for humanity)はあるかのもしれない。デリヘルの世界が妙にしっくり来る理由の一つに、いつも菩薩の慈愛に囲まれているという感覚、意識がどこかにあるからだろうか。極めて黒に近いグレーな虚業に違いなかったが、ある意味、正業を超えた生業というか、どこか突き抜けた感覚が僕を引きつけた。

 「何かお腹にくるもの、食べに行こうか」。そう言って外へ連れ出そうとしたが、「面倒くさい、ここにいる」と不機嫌に言い返された。仮眠のおかげで眠くはなかったが彼女の話に少々うんざりしていた。話が一区切りついたのか、彼女はソファーから離れ、浴室へ向かった。半開きのドアのあいだから「先にシャワー浴びるね」と声がした。やれやれどうしようか、炭酸の抜けたカクテルを口にしてしまい、苦笑いするほかなかった。

 気を取り直して備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。意味なくテレビをつけて、ついでに部屋を明るくした。この時間帯にはめずらしく外国のドキュメンタリー番組を放送していた。「なに見ているの。さっきより明るくない?」。浴室から出て来た彼女は不満そうな口ぶりでベッドに寝転がった。僕はテレビから目を離さず、「まだ、話すこと、あるだろ」と切り返した。彼女はベッドに広げていた服をクローゼットへ掛けに行った。そのついでに入口付近の照明パネルで部屋を暗くして戻ってきた。また跳ねるようにベッドに転がり込み、テレビのリモコンへ手を伸ばした。僕はあきらめてシャワーを浴びにいった。

 翌朝、身支度を整えてソファーに座っていると彼女が目を覚ました。「先に出るけどチェックアウトの時間までゆっくりしていたら」。そう言うと、彼女はシーツから少し顔をのぞかせてうなずいた。いつ化粧を落としたのか、素顔の彼女は寝返りを打つように窓の方へ身体を寄せた。まだ連れが居ることをフロントに告げて二人分の料金を払い、地下の駐車場へ向かった。クルマのドアに手をかけるとメールの着信音が鳴った。シートベルトをつけてケータイに目を落とすと、彼女からだった。“こちらこそ楽しかった。ありがとう。また遊びに来るよ”と返した。助手席のウインドウも全開にしてクルマを走らせた。こんな早い時間に外の空気にふれるのは久しぶりだった。僕は、もう一つの着信をそのままに高速道へ入った。すぐに追い越し車線へ移り、アクセルを踏み込んだ。


 三カ月に一度、現況報告を行うため各エリアの責任者が集まり、ミーティングが開かれた。日ごと、月ごとの売り上げと管理する女の子の状況をかんたんに説明する程度のものだったが、オーナーを前にして緊張度は相当なものだった。当初は売り上げに加えて営業利益も算出していたが、かかる費用といえば少々の事務所経費ぐらいで女の子の管理コストはないも同然だった。利益関連の数値はあまり意味をなさなかったが、対前年比の数値は重視された。景気変動にほとんど左右されない生業のため、当期にサボったかどうか、分かりやすくストレートに反映された。堅気の人材派遣業では、アウトソーシングにかかる費用や法律に見合った労務管理を求められるが、アンダーグラウンドなデリヘル業はそもそも多くの点で法の網の目から逃れていて、ある一定のリスクさえ取れば文字通り法外な利益を手にできた。

 戦後、売春防止法が施行され赤線が廃止された。だからと言って売春がなくなるわけはなく、主要な繁華街には「○○新地」として今にその名残りをとどめている。性風俗の過度な取り締まりは反って秩序の維持に否定的に作用する。そのため法施行後もグレーゾーンとして数多くの“新地”が黙認されてきた。時の権力者にとって性の管理はセンシティブで取り扱いに腐心する鬼っ子のようなもの。江戸・明治期の遊郭しかり、春を売る商売はそうした権力と不離一体、何かあってもけっきょくお咎め程度で済まされ、今日まで綿々と続いてきた。その一方で、裏稼業の決まり事として裏社会とのつながりはいつの世も避けて通れず、そこにコストが生じるのは仕方のないことだった。

 みかじめ料、いわゆる用心棒代と所場(ショバ)代を強いられる。各地で暴力団排除条例が成立した後も状況は大きく変わっていない。もともと水面下にあったものがさらに深く底へ潜り込んだだけで、かえって暴力団からの要求が巧妙化する一方で警察からの要請も強まる、板ばさみ状態が深刻化し、よりいっそう店側を疲弊させた。権力側が裏社会を秩序維持の道具の一つとして許容し利用している限り、「地域社会から暴力団追放!」の掛け声は空ろに響く。わが事務所のオーナーも当然のように所場を仕切るヤクザにそれ相当の上納金を献上しているはずで、規模は小さいながらもフロント企業の一員として暴力団を支えていた。

 僕がマネージャーとして任されているエリアは比較的トラブルが少なく、女の子の管理に専念できる環境にあった。そのためか他の地区に比べて1割ほど売り上げが多かった。エリア管理についてオーナーから直接手解きを受けたことはなかったが、地域特性や顧客分析を通じてノウハウを蓄積していった。いまでは、ちょっとしたデリヘルのビジネスモデルを構築し、運営・管理に役立てるほどになっていた。客と女の子を結びつける接点をグラフ化し、最適な組み合わせを導出して常連化につなげる、デリヘル経営の“方程式”を編み出そうと腐心した。ただ、客に年齢や職業、それこそ年収や既婚か独身かなど具体的にデータを登録してもらうわけにはいかず、情報収集に苦労した。メールや電話でやり取りする中で気が付いたことを漏らさず書きとめて、限られた情報の中から客の全体像を浮かび上がらせようとした。

 こうして集めたデータから想定される好みの女の子をマッチング、顧客満足度の向上に努めた。客の好みは実にさまざま。足の細いOL風、丸顔で三十歳代半ば、顔はさて置きスタイルのいい子、ショートヘアで幼い感じ、手足の長い大柄な女、尻の小さい子、目の離れた幅広顔の韓国風、身を任せられる色白のデブ、老け専極めて五十代後半…。客も回数を重ね慣れてくると、恥かし気もなく好き勝手に好みを言ってきた。

 よく聞かれるのが生(なま)は可能か、という基本的でディープな質問。「プロの女の子相手なので安全衛生面からも付けた方が無難ですよ」と一応は助言する。問題はゴム着用の可否で現場がもめる時。女の子には行為に入る前にしっかり意思表示するよう指導しているが、割り増し料金を払うからとしつこく迫ってくる客もいるという。埒が明かず、けっきょく出向いて客をなだめすかし場を収めることもあるが、さすがに事務所へ戻る道すがら何とも言えない徒労感にさいなまれる。今度こそは足を洗おう、そう思うことが何度かあった。


 「優子」と彼女。一人の女の表と裏、光と闇、その二重性。二律背反に揺らぎ、弄ばれている気分だった。特にここ一カ月、一人になるとそのことばかりが頭をめぐり、もやもや感にさいなまれた。日常から、ふと離れたときに意識にのしかかる、その重み。振り払っても頭のどこかに滓(おり)のように溜まっている、この感じ。どうにも整理できない情況に慣れようと何度も意識を逸らしてみるが、すぐに戻ってしまい、らちのあかない状(情)況とはこのことだった。

 ただ、少しずつではあったが自分の中で変わっていくものを感じていた。そうした僕に合わせて彼女も変わりつつあったからだろうか。たんなる気のせいなのか、必要以上に意識する場面がしだいに減っていき、自然体でいられる時間が増えたように思えた。だからと言って「優子」の影を消すのは簡単なことでなく、彼女と対面して食事しているとき、悪霊のごとく「優子」が現われ出てきて戸惑った。実態を伴わない、たんなる幻影だったらすぐ目の前のリアルな彼女へ意識を戻せばいいが、「優子」と彼女は同一人物なのだからどうしようもない。常に二重写しになる、この奇妙な感覚。いつ折り合いをつけられるのか、途方に暮れた。

 外形的には普通に付き合っているように見えただろうし、彼女もいつのころからか、そう思っていたのかもしれない。付き合っている彼女がデリヘル嬢なだけで、そんな恋愛があってもいい。男に身を売る女を好きになってはいけない、そんなこと誰も禁じていないし、当然そうした決まりもない。気恥ずかしいが、好きという気持ちに正直であるべきだったし、二人だけの関係性にもっと集中すべきだった。気になる客の存在をマテリアルに、挿入される数多くのイチモツを、言葉通りにたんなる物と捉えて、そう行為自体、なにか無機質な、プラスでもマイナスでもない、意味のないものと思えばよかったのかもしれない。こうして気持ちの切り替え、打ち消しを繰り返していけば、いつかの日か気にならなくなる、そう思い込もうとしていた。

 デリヘルのマネージャーが店の女の子に手を出した、そんなありがちな話。“お似合いじゃないか、そう見られたからって何か不都合でもあるのか。どのみち堕ちた人生、いまさら世間の目を気にしてどうなる”。そう言い聞かせて、これを機にもっと自分を解き放し、心身にまとわり付いて離れない、下らないモノどもコトどもを追い払うべきではないか。もともと斜に構えて既成の概念とやらをバカにしてきたではないか、ここは本領を発揮して…。売女が天使に見えてくる? デビルとエンジェルの境界線? そんなもの、もともとないのかもしれない。ただ、振り子のように両者のあいだを揺れ動いている、ただそれだけなのだろう。

 いつものレストランで会話なく時間が流れるなか、彼女はリボンで結んだ小さな箱をおもむろにバッグから取り出し、テーブルの上に置いた。「なに?」という表情を浮かべる僕に「誕生日でしょ」と彼女は言った。お互いアニバーサルな、普通の彼・彼女がするような、プレゼントを渡して祝うなんてこと、あり得ない、少なくとも僕はそう思っていた。

 この何年ものあいだ、自分の誕生日に気がつかない生活を送ってきた。リボンを解き慎重に包装紙をはがしていると、子供のころ狭い台所で母親に祝ってもらった情景がよみがえってきた。うつむいたまま「ありがとう」と言うのが精一杯で、折りたたんだ包装紙とプレゼントの入った箱をテーブルの端に置いた。気に入ったかどうか、彼女は聞かなかった。僕が少し目を赤くしていたからだろう。意識の隅に追いやっていた母親と、目の前にいる彼女が二重写しになり、妙な気分にとらわれた。冷めたコーヒーがひとしお、苦く感じられた。

 僕は彼女のことを何も知らなかった。どこに住んでいるのか、独りでいるのか、何に囲まれて暮らしているのか、どんなカーテンをかけているのか…。本当の名前を知ったのも最近のことで、ケータイひとつでつながっている関係は店の他の子と変わりなかった。関係性ができたあとも付き合っているのかどうか。普通の彼・彼女のようには踏み込まない、微妙な間合いが続いていた。それ以上近づくと壊れてしまうのではないか、そんな意識がどこかにあったのだろう。関係が深まりそうになると、どちらからともなく距離をおこうとする、そんな微妙な感じだった。

 彼女は駅から歩いて十分ほどの、飲み屋街から少し離れた、ホステスが多く居そうな下町のマンションに暮らしていた。二階だったのでエレベーターを使わず階段を上った。狭い廊下の突き当たりが彼女の部屋だった。落ち着いた、というより暗い地味な感じが彼女のイメージと合っていた。昼のデートのあと、彼女の部屋で過ごすことが多かった。特に何をするでもなく二人してただ部屋にいた。そこで彼女を抱くことはなかった。お互いそう決めていたわけではなかったが、そんな気分にならない僕を彼女はどう思っていたのか、もちろん確かめずにいた。

 付き合っている男女がどの程度、セックスしているか。隣の芝生がどうであろうと、かりに頻度に関するデータがあったとしても参考にならない、意味をなさないことくらい分かっていたが、ふと頭をよぎる時があった。自然に任せていればいい、そう思う反面、彼女がどう思っているか、やはり気になった。普通の彼・彼女関係なら意識する必要のないことも、どこか引っかかってしまう。原因が「優子」にあるのは、はっきりしていた。できるだけ「優子」と距離を置きたい、彼女の中にいる「優子」を感じたくなかった。

 彼女の、日常あふれるこの部屋で、素顔の彼女が横にいるこの時に、あの「優子」を意識したくなかった。一方で「優子」から逃げ続ける自分を意識して、なおさら「優子」と対面してしまう、この泥沼。でも、いつかどこかでしっかり向き合わなければならない、そう分かっていても足がすくんで身動きできなかった。もう一つの顔、負の側面、悪の華を直視して、それを僕の内側に、身体の奥底へしまい込み、フタをして栓をして、漏れ出さないように…。もともと男として度量が足りないのは自覚していた。特にこの件では、どうにもこうにも頭も体もうまくコントロールができず、デッドロック状態だった。いつになったらこんな情況から解き放たれるのか、どう足掻いても「優子」から逃げられない、抜け出せない。そうなのだろうか。

 けっきょく彼女への思い、愛が足りないのだろうか。心の底から彼女が好きならば解決できる問題なのだろうか。むかし有名な作家がソープランド嬢を後添えに迎えた例があったではないか。容量の浅い、卑小な自分を責め立てて改心を促すべきなのだろう。「優子」である彼女をそのまま受け入れればいい、そういうこと。決して難しいことじゃない、そう言い聞かせてその女に向き合えば…。こうしたふやけた堂々めぐりが続く限り、問題は永遠に解決しない? そうかもしれない。気がつくと、空になったコーヒーカップに何度も口を付けていた。前にいる彼女は黙って下を見つめていた。


 外車ディーラーの友人からまた連絡があった。午後十時を過ぎていたが、何かトラブルがあった時はそのとき、どうにかなるだろうとケータイを閉じてジャケットをはおった。何よりも例の彼女がどうしているか気になっていたし、気分転換にはちょうどよかった。この前のように事務所近くまで高級ドイツ車で迎えに来てくれた。どこへ行くとも言わず、彼女の話ばかり聞かされながら高速道に乗り、この前と同じインターチェンジから出口へ向かった。

 すでに定宿と化したホテルの駐車場から、チックインせずに店へ直行した。彼は目当ての女の子にメールしていたようで、店に入るとその子が飛びつかんばかりに彼の腕をとって座らせた。いちゃつく彼と女の子をぼんやり眺めていると、後ろから同じように腕をつかまれた。「来てくれたんだ」。外では見せない営業スマイル、彼女はしっかりホステスしていた。店が閉まるまで一時間ほどしかなかったが、どのテーブルにも客が付き、店内は活気に満ちていた。

 彼女は常連客の相手で忙しく、僕には他の女の子がついた。客を選ぶはずのホステスが、頭のはげたおやじ連中に愛想よく振る舞う姿に安心するとともに、認めたくはなかったが嫉妬に似た感情を覚えた。せっかくだからと僕も、きっと彼女より若いだろう、女の子を前に軽い会話を楽しんだ。すると、彼女が前を通りかかり「楽しそうだね」と一瞬ムッとした表情を見せて皮肉っぽく声をかけてきた。それもこれも計算なのだろうが、どこか演技に思えない僕は完全に彼女にやられていた。

 店の彼女、面接の時の彼女、ホテルで一緒だった彼女。どの彼女も間違いなく同じ彼女だった。もう午前一時を過ぎていた。それぞれ女の子と落ち合うことになり、店の前で彼と別れた。いわゆるアフターに意気込む彼とは対照的に僕は疲れからか静かに休みたい気分だった。お好み屋で彼女と待ち合わせた。瓶ビールを開けてほどなく、彼女が飛び込んで来た。座るなり、流行っているというトマト入りのお好み焼きをたのみ、無邪気な笑顔を見せた。

 彼女は、自分の顔とたいして変わらない、大きい方のコテを握って、さっきの続きなのか演歌調の鼻歌を口ずさみながら、鉄板に向かった。その姿を見ているだけで疲れが取れていくような気がした。両肘をつき前のめりになって、他愛のない話で盛り上がった。取り分けて小皿を差し出す何気ない仕草、ビールをもう一本と注文する横顔、たばこ吸うよと言って小さなバッグを開く姿、肩肘ついてホステスらしく喋る恰好…。すべてが愛しく、癒された。時間を忘れていた。

 彼女が来ることを考えて広めのツインを予約していた。ふらつく足元を気遣いながら外灯のない細い道をホテルまで歩いた。寄りかかる細身の彼女、その軽い重みが心地よかった。「優子」に感じたことのない、身体が一つになる、この感覚。それをいま、この女に感じている。罪悪感を覚えるべきなのか。

 ホテルの部屋に入るなり、彼女は身体を投げ出すようにベッドへ突っ伏した。何となく既視感のある光景。小さな足から靴を脱がせ、腰の辺りまでベッドシーツをかけた。彼女は大きな枕に顔をうずめ、動かなくなった。僕はやれやれと鈍い動作で洗面室へ向かった。丁寧に手を洗い、濡れた両手で顔を覆った。すぐにタオルを取り、鏡に背を向けた。疲れている顔を見たくない? それだけではなかった。

 彼女の無防備な背中にシーツをかけて、スタンドの明かりを落とした。ケータイをチェックしたが事務所からも客からも連絡はなかった。ただメールが一件だけ。めったに寄こさない彼女からだった、横にいる彼女でなく。いつもは用件だけ一、二行と決まっていたが、めずらしく数行、文字が並んでいた。文末に“三カ月ほど留守にします”と記していた。理由に触れず“心配しないで”の言葉もなかった。トラブルでなく、いつもの「所用」に過ぎないと思った。すぐに“了解です”と短く返した。条件反射のように「優子」のスケジュールを画面に出し、三カ月不可のしるしをつけた。

 ベッドに寝転がり、窓の方を向いた。ケータイを少しにらんだあと、あらためて彼女へメールしようと思った。簡潔にまとめようとしたが、理屈っぽく締まりのない内容になった。意識する時間が長く、多くを共有する特別な人にメールで素直な気持ちを表すのは難しい。彼女がほのめかす問いや求め、心の声にどう応えればいいのか。いつも戸惑い、逡巡してしまう。本当の思いや感じたことをそのまま返せばいいのに。でも、そうすれば終わってしまうかもしれない、そう勝手に思い込む。関係性を大切にしているから? たんに距離があるだけなのか。けっきょく送信できなかった。

 外車ディーラーは、朝の会議に間に合わせるべく先にホテルを出ていた。タクシーを頼んで振り返ると、彼女がまぶしそうにシーツから顔半分をのぞかせていた。出る支度をする僕の方を向いて「今日は一緒に出るから。絶対に待ってて」。すっと起き上がり浴室へ向かった。しばらくすると髪の毛を乾かすドライヤーの音がドアからもれ聞こえてきた。

 僕は窓越しに曇り空を眺めていた。「お待たせ」の声に振り返り、彼女と肩を並べて一階まで降りて、ロビー横のラウンジで一緒に朝食をとった。二人で過ごした翌朝に、こうも機嫌のいい女の子は初めてだった。睡眠十分、跳ねるように元気というか、手のつけられない感じ。こんな子とずっと一緒にいたら疲れるだろうけど、けっこう幸せかもしれない、単純にそう思った。

 タクシーを待っているあいだ、彼女は僕の手を放さなかった。僕は彼女の手をしっかり握り返した。ホテルのエントランスを出て軽くハグした後、タクシーに乗り込んだ。同時に、奥へ押し込まれる圧力を感じた。「一緒について行く」。そのまま彼女がくっ付いてきた。降ろすわけにもいかず、取りあえずクルマを出してもらった。「家はどの辺り?」と聞くと、黙ったまま顔を窓の方へ向けた。

 「高速に乗って」。運転手にそう告げて彼女を引き寄せた。タクシーは料金所を通過し、スムーズに走行車線へ入っていく。彼女の頭越しに車窓の景色が流れていく。追い越し車線へ移り、スピードが上っていく。速度に反比例して時間がゆっくりと流れ出し、徐々に空間が際立ってくる。僕と彼女は穏やかな時の刻みの中で静かに寄り添った。この濃密な空気感がずっと続きそうで、それでいてすぐにはじけ崩れ去りそうで…。僕は彼女の肩を引き寄せた。

 高速道を約四十分、一度行ってみたいと思っていた温泉地近くに来ていた。一般道へ降りて、さてどこへ行こうか、運転手に相談していると、彼女が「のどが渇いた」と言い出した。取りあえず通りがかりのドライブインへ入った。彼女はメロンフロートを注文したあと、ケータイに集中し出した。僕は、下を向いている彼女をぼんやりと見ていた。透明なグリーンに浮ぶアイスクリームを柄の長いスプーンで器用に口へ運んでいく。僕はコーヒーカップをソーサーに戻し、大きな窓から差し込む陽の光に目を細めた。

 タクシーの運転手が勧めてくれた観光施設を二、三カ所まわったあと、当日予約がかなった温泉宿に着いた。建てつけは古いが手入れのゆきとどいた風情のある宿だった。彼女のネット情報では、地場の食材を生かした会席料理と神経痛に効く温泉が特長という。通された部屋から川を見下ろし、いま来た道をなぞっていた。彼女は座椅子で気持ち良さそうに背伸びをし、広い座卓に用意された和菓子を前にうれしそうだった。包み紙を無造作にほどき菓子楊枝で半分に切って口へほうり込んだ。顔を上げて屈託なく手招きする彼女。僕は彼女の正面に座り、しばらくのあいだ、彼女を見ていた。

 タオルを手に男風呂へ向かった。明るいうちの露天風呂は、ことさら心身を癒してくれるような気がする一方で、満たされた時に訪れる、あの表現しようのない不安感も生じさせた。あとから女風呂へ入ったはずの彼女が先に出て待ってくれていた。髪をアップにした浴衣姿は艶やかで、首筋の小さなホクロと小さめの耳がかわいらしさを引き立てていた。

 客の少ない静かな館内をぶらぶらした。歳の離れた夫婦に見えたか、お忍びで愛人と来た若づくりのおじさんのようだったか。どうでもいいことだったが、彼女の横顔が目に入るたびに少し気になった。部屋に戻るとすぐに化粧直しに取りかかる彼女に、僕は傍らで「素顔がいいのに」とつぶやくように言った。彼女は振り返ってうれしそうな顔を見せてすぐに鏡へ向き直り、化粧を続けた。口紅を引く後ろ姿が大人の女を感じさせた。

 食事にはまだ時間があったので、近くを散歩することにした。温泉街でないため、たいしたものはないだろうと思って歩いていると、細い道の先に鳥居が見えた。人気のない静まり返った参道は真っ直ぐに開け、本殿を浮かび上がらせていた。ここからでもご神体を拝めるのではないかと思えるほどクリアでストレートな情景だった。彼女は興味なさそうだったが、僕を真似て二礼二拍手一礼、少し遅れて後を追い、ぎこちなく頭を垂れた。神様の手前、境内で手をつなぐのはどうかと思い、参道を外れるまで並んで歩いた。彼女もそう考えていたのか、宿が見えた頃にそっと腕を通してきた。

 部屋に戻り料理が運ばれてくるまで、僕はローカルニースをぼんやり見たり、寝転がって窓越しに空を眺めたりした。彼女はうつ伏せになり両肘ついて一生懸命、メールを打ち続けていた。そんな長文メール、誰に送っているのか、少し気になった。こちらもメールを確認すべきだったが面倒な現実から離れてここに居るのだからと、ケータイはカバンに入れたままにしておいた。

 あっちこっちに散らかる彼女の話を肴に会席料理を味わった。箸の持ち方、魚のほぐし方、口へ運ぶ仕草、どれも彼女の方が堂に入っていた。こちらは屈んで食べる癖を修正するのがやっとだった。年の功はあてにならず妙に彼女が頼もしく見えて苦笑いするほかなかった。仲のいい女友達にどんなメールを送ったのか、どんな反応が返ってきたのか、聞かずともおもしろおかしく話してくれた。

 やはりカバンの中が気になった。メールが来ていないか、ケータイを取り出して確かめたくなった。ケータイの画面を見せながら楽しそうに話す、目の前の彼女をよそに「優子」のことを考えていた。旬の果物を取り合わせた上品なデザートで一息ついたあと、立ち上がってメールを見に行った。変に意識している自分自身を滑稽に思った。事務所や顧客からのものばかりで、待っていたメールはなかった。座椅子に戻り、ケータイとにらめっこ状態の彼女を前に、残りの果物を小さなフォークで突き刺し、口の中へ放り込んだ。

 昨夜ホテルで何もなかった分、僕と彼女は激しく愛し合った。興奮高じて若干サディスティックな感じになったが、彼女は気にするふうもなく身体を合わせてきた。ただ、これに限らず見た目によらず、けっこう配慮を利かす器用なところが玉に瑕(きず)で、そこが逆に彼女の欠点に思えた。もともとマゾヒステックな部分を持っているのなら別だが、そうでないのに上手く合わせてくれているのなら…。萎えてくる感覚を必死で押し止め、それも快感の一変種と身を任せるほかなかった。

 僕は行為中、興奮が高じてなのか、たんに性癖なだけなのか、相手の首の辺りを強く締め付けたくなる衝動にかられる。心理学者や哲学者に頼らなくてもセックスは死と極めて近いところでつながっているに違いない。究極のエクスタシーは死を感じること。累乗的に高まる快感の行き着く先は死以外、考えられようか。二人のあいだにそんな高尚な意識はなかったし、もちろん死を身近に感じてもいなかった。ただ、強い快感だけは身体に残り、僕を不安にさせた。

 真実の愛、なんて分かろうはずがなかったし、意識することもなかったが、横で彼女がくゆらすタバコの煙を目で追いながら漠然と二人のことを考えていた。考えたからといって答えの出る話ではなかったし、いまここで答えを求められてもいなかったが、確かなものは何もない、そのことだけは感じていた。

 翌朝、せめてあと一泊はしたかったろう彼女をせき立てるように、待たせていたタクシーへ乗り込んだ。来た道を逆にたどり、高速道の入り口に差しかかった。彼女は黙って車窓に顔を向けていた。本線合流で速度を上げた途端、正面が開けて明るさが増した。妙な既視感を覚えながら寄りかかる彼女の重みを感じていた。たんに時が流れていた、意識することなく、ただ。この狭い空間が移動していく。彼女は目をつむっていた。いい香りのする艶のある髪の毛が僕の頬を撫でた。穏やかな表情の彼女が僕の腕の中にあった。一般道への出口が近づいていた。

 タクシーは速度を落としていく。スロープにかかるG(ジー)が僕と彼女を引きつけ、重ね合わせていく。僕は身体に力を入れ、その重みをしっかり受け止めようとした。彼女は惑うことなく身体を預けてきた。いっそのこと、このまま融け合って一つになってしまえば…。そう思うも、すぐに反動が来た。スロープを抜けた瞬間、彼女の身体がふわっと浮いて僕から離れていく。互いに寄り添おうとするが傾いた重心を直せない。僕と彼女は離れていくばかりだった。

 タクシーは彼女の自宅前に停まった。互いに窓側へ身体を寄せたままだった。僕は何か声をかけようとしたが気の効いた言葉が見つからない。彼女は前を向いたまま、開いたドアをそのままに、なかなか降りようとしなかった。運転手が割って入ってくる前に何とかしなければならなかった。「また来るよ、楽しかった」。そう言うのが精一杯だった。彼女は黙ったまま、僕の膝の辺りに軽く手を置いて出て行った。


 本部事務所でミーティングの後、オーナーから直々に話があった。新しい店の責任者になってほしいという。いつになく饒舌で、この僕にお世辞を交えて説得してきた。多寡にかかわらず出資してくれたら共同経営者として遇する、とまで言ってくれた。でも、気が進まなかった。追い打ちをかけるように「俺に何かあったときはよろしく頼むな」とまで言ってきた。僕は何のことか分からず、ただ呆然と社長の前に突っ立っていた。

 オーナーの後継者? からかっているとしか思えなかった。デリヘルのいちマネージャーに務まるわけがない。社長に歯向かったことは一度もなかったが、このときばかりは大きく首を横に振った。社長は笑っているだけだったが、こっちは顔が引きつり気分が悪くなるほどだった。

 グループ企業を合わせた総売上高は年間百数十億円、営業利益率は上場企業平均の五倍以上、当期純利益は創業以来、二桁増益を更新中…。デリバリーヘルスのほかラブホテル、キャバクラ、パチンコなど風営法適用業種にとどまらず、最近ではM&A(企業の合併・買収)によってドラッグストア経営にも乗り出していた。しかも、裏では地元暴力団とつながるフロント企業…。上納金の折衝などヤクザとの交渉で前面に立つなんてこと、想像の域を超えていた、悪い冗談でしかなかった。

 さすがに大麻や覚醒剤などリスキーな生業に手を出してはいなかったが、浮き沈みの激しいこの世界、裏街道で生き延びるためにいつリスクを取るはめになるか、それが一年後か、それこそ数カ月後だっておかしくない。そうでなくても警察権力の見せしめ的な一斉取り締まりがいつあるかもしれず…。表の業績にはあらわれない、上納金込みの利益率は低下傾向にあり、いずれ厳しい局面に立たされることだろう。そんな経営環境のなか、一大風俗グループを率いるなんてあり得ない話だった。

 オーナーとは大学在学中に知り合った。マージャンやパチンコなどギャンブルで百数十万円の借金があり、時給の高い夜のアルバイトを転々としているころだった。最初はグループ傘下のパチンコホールで店員として働き、キャバクラのボーイ、AV制作会社の社員、ラブホテルの管理人、そしてデリバリーヘルスのマネージャーへ上り詰めた?

 どういう心境の変化か、堅気の会社に勤めたくなってオーナーのもとを離れた時期もあったが、一年も経たないうちに戻った。このあとは日々研鑽、風俗ビジネスに染まっていった。オーナーは年度末に「お前の(大学の)同級生、いくらもらっているのか」と聞いてきた。就活して上場企業に入った友人の給与の三倍、銀行口座に振り込んでくれた。

 グループ内の仕事を一通りこなしたあと、本部に呼ばれて総務まで経験した。何事もドライなオーナーが理由もなくチンピラ社員を厚遇するはずはなく、魂胆あっての処遇だったのだろう。一般企業でいう幹部候補生として目をかけてくれていたと思うと悪い気はしなかったが、それと後継者云々とは次元の違う話だった。事業継承の話は冗談としてもデリヘリの新店を任されるのも、かなりのプレッシャーだった。

 「少し考えさせてください」。そう言ってその場をしのぐほかなかった。だが考えるまでもなく逃げ道は塞がれていた。いつ覚悟するか、心の整理をする猶予がほしかった。そこへ至る、内心の作業を考えるだけで気が重かった。悠長に構えてられない最重要案件であるのは百も承知だったが、そうかんたんに答えを出せぬまま数日が過ぎていった。一週間後、再びオーナーから呼び出しをくらった。有無を言わさず、当然受けるだろう前提で話を進めていく。選択の余地はなかった。「よろしくお願いします」。僕は深々と頭を下げた。さっそく打ち合わせなのか、上機嫌なオーナーから未明の数時間、空けておくように言われた。

 グループ会社が経営する、オーナーお気に入りの焼肉店へ呼び出されるのだろうと構えていたが、午前一時にこちらの事務所まで迎えに行くと連絡が入った。僕は指定された時間の十五分前に外に出て待った。時間ちょうどに見慣れないワンボックスカーが店の前に横付けされた。後部ドアを開けるとオーナーのほか、大柄な男が一人座っていた。

 オーナーも男も終始無言だった。途中からクルマがどこを走っているのか、見当がつかなくなった。どこかのインターチェンジで高速道に乗り、三十分ほどで一般道へ抜けた。対向車が疎らな山道を走り、ほどなく別荘のような建物の、広いロータリーに着いた。複数の男が玄関前に立っていた。そのうちの二人が両サイドに分かれて後部座席のドアを静かに開けた。

 エントランスの明かりだけでは全体像をつかめなかったが、かなり立派な別荘のようだった。中に入ると玄関から客間まで絨毯が敷かれ、客を招き入れるようになっていた。大柄な男がゆっくりとした足取りでオーナー、そして僕を主(あるじ)が待つ広い客間へ招き入れた。男がドアの脇に退き、奥に居た小柄な男が立ち上がった。オーナーと握手、軽く肩をたたき合い、僕にも席を勧めてきた。オーナーのそばに立っているつもりだったので戸惑っていると、男からもう一度座るよう促された。オーナーの横に恐る恐る腰をかけた。

 高級素材をアレンジした和洋折衷の料理が運ばれてきた。ネクタイを締めていないだけで大手銀行の頭取同士が上品に会食している、そう思わせる光景だった。ひとり場違いな僕はせっかくの料理も砂をかむような緊張を強いられ、二人の会話がほとんど耳に入らなかった。デザートが出されコーヒーが注がれると、見計らったようにオーナーが僕に話を向け、男に「よろしく頼みます」と頭を下げた。

 それでは足りないとオーナーはおもむろに立ち上がり、腰を「く」の字に屈めて深く頭を垂れた。そんな姿を見たのは初めてだった。この紳士然とした男が誰なのか分からなかったが、話の途中からオーナーが頼りにしている暴力団関係者だと想像がついた。昔でいうインテリヤクザのような胡散臭い感じでもなく、ふつうに企業経営者ふうの立ち振る舞いが逆に凄みを感じさせた。会食中ずっと、両脇に嫌な汗をかくのは当然のこと、座っていても膝ががくがく震えてしかたなかった。

 新しいデリヘル店の開業に忙殺されていたお陰で、失踪中の「優子」に気を止めることなく済んだのは幸いだった。女の子集めから既存顧客への通知、新規顧客の獲得、スタッフの教育、シマを仕切る暴力団関係者へのあいさつまで、新店立ち上げに文字通り奔走した。前のデリヘル店のエリアと違って客層は上品とは言えなかったが、トラブル処理のノウハウも積み上がり、運営に大きな問題は見当たらなかった。

 ただ、女の子集めはいつものように苦戦を強いられた。応募状況がふるわず、三十歳前後の手堅い層が手薄だったし、若い子も潤沢とはいえなかった。キャバクラ嬢を募集するネット配信の片隅に、それと分かる募集広告を出したが反応はいま一つだった。面接の本格化を前に頭を悩ませている時だった、「優子」から久々のメールが送られてきた。

 業務用のケータイに着信したメールは、いつもと変わらず短い文面だった。少し苦笑したあと、向こうに合わせて短く返信した。誰に聞いたのか、新しい店のことを知っていた。新店の方に登録したいが可能か、メールの内容はそれだけだった。前の事務所を引き継いだ責任者のこともあり、取りあえず保留にして詳しくは後で連絡すると返した。

 正直なところ、今回の“失踪”を機に距離を置きたい、いい加減「優子」のマネジメントから解放されたい、そう思っていた。精神衛生上、限界に来ていた「優子」と彼女の齟齬、その呪縛から解き放たれ自由になりたかった。オーナーからの後継指名の話はともかくとして、そうは訪れないこうした大事な時に一人の女のことで思い悩んでいる場合ではなかったし、何事もドライに対処していかなければ、この先上手く行かないのではないか、そんな脅迫観念にもとらわれていた。彼女と一週間後に会う約束をした。そのときに、はっきり言おうと思った。

 新しい事務所近くのイタリアンレストランに彼女を呼び出した。時間ちょうどにやって来た彼女は「けっこうかかった」と言って額の汗をハンカチで押さえながら前に座った。「優子」として仕事がないオフの日、昼の仕事を定時に終えて急いで来たという。久しぶりだったが、相変わらず彼女から変化を読み取れなかった。この三カ月間、何をしていたのか。返ってくる言葉から何となく想像できたので、あえて何も聞かなかった。

 向かい合って食事をするときは、仕事の話をしないのが暗黙のルールだった。でも、この日はそういうわけにもいかず、新しい店の話題が中心となった。話を早く片付けようと、手短にこれまでの経緯といまの状況を説明した。不機嫌そうに早口で話す僕を見て、彼女は何も質問して来なかったが、移籍話について触れないわけにはいかなかった。「来ない方がいい」。客層が悪いなどそれらしい理由をいくつか挙げて断った。彼女は黙って聞いていた。僕はデザートの前に席を立った。確かに忙しかったが、それ以上に何か居たたまれなく、怒りにも似たものが奥底にあった。

 「優子」のトレード話は片付いたものと思っていた。あれから二週間が過ぎたころ、前の事務所の新しい責任者から電話があり、再び「優子」と連絡が取れなくなったという。「そういう子だから気にしないでいい」「忘れたころに連絡してくるから」と様子をみるよう助言した。でもやはり気になって、女の子の面接の合間に何度か彼女にメールしたが、全然返して来なかった。

 本部事務所で開かれたオーナーを交えたミーティングの後、僕は彼女の自宅へ向かった。二階隅の部屋は明かりが消えていた。クルマの中で彼女を待つことにした。きょう面接した女の子の暗い表情や、ちょっとよそよそしいオーナーの素振り、また姿を消した「優子」のこと、そして同じだか違うのか僕の彼女の行方…。暗い車内で様々なことが頭の中をよぎった。

 すでに二時間が過ぎようとしていた。誰かをこんなに待ったのは初めてだった。あきらめて引き返そうとエンジンをかけた。ハンドルを右へ傾けようとしたとき、ウインドウを叩く音がした。放しかけていたブレーキペダルを慌てて踏み直し、サイドブレーキを強く引いた。助手席のウインドウを開けると彼女が軽くのぞき込み、小さな声で「ごめんね」。あとに続く言葉はなかった。

 中に入るよう促したが躊躇しているようだった。僕は助手席の方へ身体を倒してドアを開け、彼女を招き入れようとした。これ以上煩わせたくないと思ったのか、彼女は素直に助手席へ収まった。深夜の一般道はほとんど対向車もなく、高速道へ入るのに時間はかからなかった。そのあいだ、彼女はひと言も話さなかった。僕も何も聞かなかった。

 時速百三十㌔を超える猛スピードで迫ってくる高級ドイツ車に何度か追い越し車線を譲り、たまに連なる大型トラックに気を付けながら、東へ向かった。オレンジ灯が断続的に彼女の横顔を照らし出す。表情を確かめることも声をかけることもなく、ただハンドルを握りアクセルを踏んだ。心地よい高速感が視覚を鈍化させ時間を止めてしまう、過ぎ去る情景にゆっくり意識が向かっていく、この不思議な感覚。異次元へ向かって延びていく深夜のハイウェイは、二人を永遠へ誘うようだった。

 走行車線を走るトラックを次々と追い越し、いくつものトンネルを抜けた。どこへ向かっているのか、地の果てだろうか、この世の終わりだろうか。生と死の境界線を走っていく。これまで押し止めていた何かが勢いよく溢れ出ていくのを感じていた。死へ向かって走っていたのかもしれない。彼女と一緒ならそれもいいと思った。

 高速道は途切れることなく続いた。もう二時間も走ったろうか。さすがに意識が覚醒してきて、少し腰の痛みを感じた。彼女に声をかけ、サービスエリア(SA)で休むことにした。SA内は夜食をとるトラックドライバーで賑わっていた。自動販売機の前で紙コップに注がれるコーヒーを待つあいだ、広いテーブルの端にいる彼女に目をやった。

 紙コップに入った熱いコーヒーを彼女の前に置き、横に座った。彼女はすぐに口をつけず、温かさを確かめるように両手で紙コップを包み、じっと前を向いていた。喉を通るコーヒーの熱さがさらに意識を覚醒させていく。心の奥に閉ざしていた負の累積物が溶け出し、流れ出ていくようだった。心身を覆っていた隔絶感から徐々に開放されていくような気がした。もたれかかる半身の彼女が心地よかった。死の淵で覚える恍惚感、安心感だったのかもしれない。

 外の冷え込みが増していた。薄手のジャケットとワンピースにはこたえた。身体を寄せ合い、急いで車内へ戻った。“どこへ行きたい?”。そう聞きかけたが、いまの二人にとって余計な、意味のない問いかけと思い直した。大型トラックが連なるSAをあとに再び東へ向かった。四駆の安定したドライビングで暗闇を突き抜け、どこまでも続くハイウェイに二人して身を委ねた。

 面接で会った時に感じた不思議な透明感、初めて客を取らせた時の整理のつかない気持ち、トラブルで駆けつけた時にドア越しに見せた表情、仕事でやり取りする時の無慈悲なケータイの画面、行方をくらました時に覚えた不安感と寂しさ、そして解放感…。彼女が「優子」になっていく時間の流れ。どこかで食い止められなかったのか、そう仕向けたのは誰なのか、なぜ彼女の腕をしっかりつかんで引き戻してやれなかったのか。取り返しのつかない、負のイメージが頭の中で渦のように捩れていった。

 インターチェンジのループに差しかかり、軽いG(ジー)に身体を預けた。出口のほか道筋は二方向に分かれていた。どちらでも構わなかったが、乗った先が北を指していた。きっと海に出るのだろう、ただそう考えた。本線へ入るためアクセルを強く踏み込んだ。僕の方へ首を傾けてウトウトする彼女。少し前まで何に対し気を張っていたのか、リラックスした様子がこちらにも伝わり、僕の気持ちを軽くさせた。

 「優子」から彼女へ。緩やかに流れていく時間と穏やかに開けていく空間。会うたび、食事のたびに彼女を重ねていく。「優子」を消し去り、彼女を積み上げていく。彼女は「優子」を感じさせないよう必死に努力をしていた。僕が意識する以上に彼女は「優子」を意識し、振り払おうと懸命だった。いま気づく僕は鈍感じゃ済まない、大きな罪を犯していたのかもしれない。彼女は出会ってすぐに僕を意識し、時を置かず愛を感じ、いつのころからか…。いま、彼女からはっきりと伝わってくる、ずっとそばにいたい、と。

 彼女を「優子」へ追いやって、ずっと遠ざけていたのは僕だった。「優子」=彼女の呪縛に囚われ、戯れてさえいたのは僕だった。本当の彼女、一人しかいない彼女を見ようとしなかったのは僕だった。罰を受けるべきは当然、僕だった。これから僕に、何ができるのか。

 トンネルを抜けるたびに心が洗われ浄化していくなら、どんなに幸せなことだろう。スピードを落とさずにトンネルへ入る瞬間、車体を切る空気感が身体にも伝わってくる。ダブルの漆黒。アウトダークとインナーダークがシンクロする。トンネルの内も外も同じ暗闇、ジェットブラック。判別のつかない流動空間へ迷い込んでいった。

 ソコ(底?)ではモノのカタチは崩れ去り、纏(まと)わりついていた堆積物が剥がれ落ちていく。過去と未来が円環を描き、いまこの時を脅かす。すべてのものは初期化・根源化されて原初へ帰っていく。時空が還流する。忘れ去り、捨て去ってきたものが逆回転して戻ってくる。トンネルを抜けても抜けても暗闇は続いた、延々と。どの時点、どこへ戻ればいいのか。僕と彼女は探していた、新たな起点、確かな基点を。

 顔を出したばかりの陽光が水平線を持ち上げ、高速道を浮かび上がらせていく。バックミラーに後続車の姿はなかったが走行車線へ移った。朝焼けにはまだ早かったが彼女は車窓を見つめていた。弛緩していた空間が輪郭を持つようになり、意識がよみがえってくる。時の流れも直線的となり、止まっていた日常が動き出す。海岸線を照らす光の波が拡がっていくにつれて不安が募っていく。緊迫した世界が待ち受けているのか、相も変わらず…。

 視界の端に入ってくる横顔が安心感を与えてくれる、せき立てる焦燥感を和らげて意識をフラットにしてくれる、立ちはだかる光の論理に打ち克つ秘策を授けてくれる、失いかけた流動性を意識させてくれる…そんな存在。彼女となら死して生きていける、そう確信しつつ、トラックの後塵を拝した。乾燥した胃の腑が意識を敏感にさせた。海を見渡せる高台のレストラン、そんな陳腐な形容が頭に浮かんだ。一般道へ下りて海岸線に沿ってクルマを走らせた。小高い丘に映える灯台をメルクマークに少し速度を上げた。

 まぶしさを増していく海岸線を見つめる彼女は何を考えているのか。内なる光は何を照らしているのだろうか。そこに彼女を変えていくものがあるのなら…。表情を確かめられない苛立ちとともに、僕も変わっていけるだろうか。内心と内心をつなぐ通路が次第に太くなり放射線状に広がっていく、そんな互いを包み込んでいくイメージ。女性的な白い灯台と、それを受け止め引き立てる青い海のコントラスト。一幅の絵画のように美しかった。灯台に通じる道の突き当たり、岩壁の上にレストランがあった。ハレーションを起こしそうな眩しい光景の中、僕と彼女は併設された駐車場に降り立った。

 陽の光がテーブルに反射し、彼女を明るく浮かび上がらせた。僕らのほか客は一人もいなかった。彼女は車内と同じように窓越しに海を見つめていた。僕もしぜん海の方へ目がいく。こんなに長く彼女と一緒にいるのは初めてだった。片肘ついて彼女のことを考えた。波打ち際に白波が静かに押し寄せる、音を立てず、ガラス越しに、ただ繰り返す。彼女の目の先に何があるのか、その瞳に何が映っているのか。

 互いにメニューをのぞき込み、同じものを選んだ。フォークにスプーンを添えてパスタを器用に口へ運んでいく。その姿に変わりはなかった。彼女の心の内に陽が差し始めているのだろうか。僕はフォークでパスタをすくう手を止めて窓外に広がる海を眺めた。そこに答えはなかったが、僕の心の内に何かが芽生え始めていた。確信にはほど遠かったが、陽に照らされた、透明な彼女が目の前にいた。そこに求めるものがあるはずだった。

 これは逃避行なのか、希望の地へ向かう道程なのか。その果てに何が待っているのか。もし終着点があるならば、そこで何を得、何を失うのだろうか。同じものを僕と彼女は探し求めていた、それは確かだった。それぞれ異なるものを捨て去ろうと懸命にもがいていた、それも間違いなかった。彼女の透明感が増していく。僕は、クリアな意識で彼女を感じていた。

 しだいに海岸線は遠ざかり、高速道は山あいへ延びていく。長いトンネルを抜けると曇り空が広がっていた。急に視界が暗くなり、フロントガラスに雨粒が当たりはじめ、いく筋も流れ落ちていく。前方に滲むテールランプがゆるやかに流動し短い帯をつくって揺れている。アクセルから足を離し軽くブレーキを踏む。連なって減速していく感覚が嫌ではなかった。僕と彼女の前に立ちはだかるもの、これまで強く意識することも深く考えることもなかった、いや避けていたもの。でも、いまなら逃げずに立ち向かえるかもしれない、少しの可能性にかけて。彼女を感じ、そう思った。

 どこまで来たのか、どこにいるのか。去り行く標識を次々に飛ばして、流動のなか混沌の彼方でいまここを感じる。無限にただよい、架空にさまよう。意識の中で水平につながる点と点、無意識の場へ線となって一斉に降りていく。それは決してたどり着けない底無し、無底に戯れる虚無の世界。あてなく震えながら不規則に降下しつづける。この世から逸脱した異次元の時空へ、助手席で眠る彼女とともに。

 僕は彼女を道連れに“無底の底”へ向かって疾走していた。不安定だが確かな感触、手ごたえのあるもの。互いを無償の愛で包み込む普遍的な世界。潜在するものどもが整理されず、ただ流動する。箍(たが)が外れた、可能性へ転じる瞬間。僕と彼女が向かっている先には…。

 本人も意識していない心の闇、そこから抜け出せない彼女をそのまま受け入れようと何度も試みてきた。無底に沈む彼女に寄り添うこと、深層に漂う彼女をしっかり受け止めること、魔の部分をそのままに彼女を導き入れること、カタチになろうとする彼女を押し止め、流れる彼女を肯定すること。どこまで及ぶのか、僕の力は…。

 雨も風も止んだ。深夜の高速道が静かに延びていく。濡れた路面が出口へ誘う。一般道へ降りて宿泊先を探した。いい具合に派手な電飾が山あいに現れ、救われた気分になった。ラバー製の目隠しをくぐった。ひと昔前のラブホの情緒がなぜかいまの気分に合っていた。部屋の違いを示す明るいパネルを前に僕と彼女は顔を見合わせた。こんなところで心が和むとは思ってもみなかった。僕は猥雑な装飾が施された部屋へ入るなり、ベッドへ崩れるように倒れ込んだ。

 シャワーを浴びる音が微かに聞こえた。髪の毛を乾かすドライヤーの音へ変わり、ドアが開く音。彼女とともに湿った空気がベッドサイドに漂い、静かに覚醒へと誘われた。まだ数時間しか経っていないと思っていたが、カーテンが白みかけていた。深い眠りにもかかわらず疲れが取れず身体が重かった。シャワーを浴びる気力もなく、ふたたび眠りに誘われた。

 寄り添う彼女に気づいて時間を確かめようとしたが、時計が読み取れない。針は五時を指していたが、朝方なのか夕刻なのか。いまの僕らにとって時間が正確に刻まれようと、それこそ針が逆回転しようが、たいしたことではなかった。僕は彼女の背中に身体を添わせた。腕から背中にかけて舌を這わせた。彼女は小さな声を上げて身体をくねらせた。その動きを押え込むように強く身体を引き寄せた。彼女は背中に爪を立て首筋を噛んできた。僕と彼女は一つになれないジレンマと闘っていた。もう少し逝けば不可能なことも可能になるのか。エクスタシーとともに、死とともに。

 僕は来た道を戻るつもりはなかった。前へ進もうとも思わなかった。いまさら後退も、飛躍もないと思っていた。確かな手触りの中に虚偽が潜んでいることも分かっていた。真実、本当の愛があるかどうか確信が持てなかった。ただ、それらしいものがあるとしたら二人のあいだ、この頼りない、流動する関係性の中にあるに違いない。そう思い込もうとしていた、この心地よい流れの中で。

 皮膚の下に棲まう、彼女という虚体。決して顕現しない未定の流動体、脳髄の神秘に宿る可能性。骸骨に刻まれたセリー状の重なり、臓腑で養う正のエネルギー。体躯に行き渡る血潮のネットワーク、意識では捉えられない熱を帯びた情動…。彼女の中で死しては生まれる、再生のメカニズム。愛に抱かれた潜在性を見つける喜び、それが死して生きる糧になるのか。

 僕と彼女を誘うハイウェイはどこまで続くのか。すでにある地点から夢幻の、そう無限の中を走っていたのかもしれない。生と死の境が定かでなく、ただ漂うだけ。どんなサイクル、軌道に僕と彼女はいるのか。堅牢な世界から離れ、浮遊し流動する異界にたどり着いたのか。そこから、さらに別の異次元へ向けて漂っているのか。

 仏教でいう輪廻転生とは異なる、円環の歪(ひずみ)。優性と劣性がともに始原とする間欠泉、本能が頼りにする根源的な無の底、相同性とシステム化に抗う思考のズレ、表層の関係性を崩壊させる深層の戯れ、存在を凌駕する非存在の可能性…。どの辺りを流れ、周遊しているのか、定かではなかった。でも彼女は“そこ”にいた。その感触だけは確かだった。僕は何も求めていない、ただ彼女を愛すればよかった。

 疾走感と死の欲動、僕は目いっぱいアクセルを踏み込んだ。エロースとタナトス、僕は彼女をつぶれるほど抱き締めた。無限へ向かう微分の領域と限界を越えて重なる積分のエリア。ただ愛の可能性だけを信じたかった。無底の底と世界の果て、僕は彼女を連れて跳躍し、同時に下降した。加速度が増していく。どこへ向かっているのか、そこに何があるのか、なぜこうなったのか、終着点はあるのか。

 勾配がきつくなっていく、ベクトルが拡散する、セリー状の襞を次々に突破していく。阻むもの、障害物はなかった。僕と彼女は一つの流れとなって突き抜ける。無底の底へ流れ落ちる。いつかどこかで、二人だけの関係性を結び直す、時空を超えた異次元で。虚無から永遠へ。

                ◆

 彼女は決まって午後六時過ぎに帰ってくる。駅近くのスーパーで食材を買って、帰るとすぐ料理に取りかかる。手際よく一時間ほどで主菜と副菜二品を仕上げ、ランチョンマットの上に缶ビールとともに並べる。僕は彼女が前に座るのを待つ。彼女は一日にあった些細な出来事を話し出す。僕はうなずき、彼女に微笑みかける。

 後片付けのために立ち上がる。テレビを見ている彼女の後ろ姿が目に入る。僕は洗い物を済ませ、彼女のそばに座る。彼女がもたれかかってくる。僕は足を投げ出し、テレビをぼんやり眺める。重さを感じる、膝の上の彼女は画面を見つめている。髪の毛にそっと手をやる。彼女の表情が和らぐ。僕も画面へ目を移す。

 いつもの二人が映っている。出会った時から最期まで、穏やかに、時に峻厳に物語を編んでいく。男は女のことを考え、女は男を思う。どこにでも転がっているフラットなストーリー。男が考えていることは女が思っていること、女が思っていたことは男が考えていたこと。二人の後ろ姿は一つになっていく。

 突然、画面がスローモーションで回転し出し、粒子が粗くなる。不機嫌な男が映し出される。彼は無機質に彼女を見ている。彼女は表情を変えず、ただ身体を硬くしている。男がその場から立ち去っていく、女は立ち尽くしている。断続的に画像が途切れ、辻褄の合わないストーリーが展開される。都合の悪い場面が削除されていく。

 おもむろに映像が逆回転を始める。二人はぎこちなく滑稽に退行していく、あの世から呼び戻されたように。早回しのためか、表情がなかなかつかめない。悲しいのかうれしいのか、怒っているのか笑っているのか。確かめようと停止画像にするも、すぐに男も女も巻き戻され、不恰好に回収されてしまう。始点へ、ゼロへと立ち戻り、間を置かず性懲りもなく順回転が始まる。生と死の往還。

 僕は膝の上で眠る彼女に目をやる。髪をそっと撫でる。彼女が無意識に表情をゆるませる。僕はテレビの画面に目を戻す。二巡目が始まろうとしている。男がアパートで女を待っている。女が息を弾ませて帰ってくる。狭い台所でパスタ麺を茹ではじめる。男がビールを前に軽い溜息をつく。唐辛子の効いたパスタを前に女が明るい表情で話しかける。ひとしきり話が済むと男は目を上げて微笑む。女は眠そうに片肘をつく。男が後片付けを始める。女が畳に横たわる。男は蛇口を閉めて手を拭う。男が座ると女が膝の上に頭を乗せてくる。女はすぐに眠りにつく。

 音のない無機質な画像が延々と続く。非連続の連続。合わせ鏡のように一つになった後ろ姿が画面に映し出され、僕と彼女は果てなく重なり合う、極点へ向かって。膝の上の彼女をのぞき込む。起きる気配がない、僕は安心する。流し場の蛇口から滴が垂れている。僕は止められない。画面が砂嵐のようにざらついている。僕は彼女の髪を撫でている…。

                                  (了)

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死生の環 オカザキコージ @sein1003

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