第6章 購入しますか?
目が覚めると、目が覚めた、という感じがした。その感覚を抱いたのは久し振りで、だから、久し振りだな、と思った。僕は意外と素直な人間のようだ。本当は人間ではないのだが、慣用的な表現だから、別に良いだろう。
身体を持ち上げると、隣でリィルが寝息を立てていた。彼女は、眠っている顔が一番幼く見える。挙動はいつも幼いが、起きているときは、外見はそれなりに凛々しい。凛々しい見た目で幼い挙動をするから、そのギャップが僕には堪らない。ソフトクリームに箸がついてくるような感じ、とでも形容すれば伝わるだろうか。
僕に目が覚めたと感じさせる要因は、窓にあった。昨日、なぜか、カーテンを引かないで眠ってしまったのだ。だから朝日が直接部屋に差し込んで、それが眩しくて目を覚ましたみたいだった。いつもは、耳障りなアラームか、リィルの際どい一撃で起こされるから、これほどまでに自然な目覚めは、レアだった。
リィルをそのまま部屋に残して、先に下に向かおうと思ったが、僕が動いたのを察知したのか、彼女も目を覚ましてしまった。
「ひょああああ」いつも通りわざとらしい欠伸をしながら、リィルは伸びをした。
「起きたみたいだね」僕は彼女に声をかける。
「その、起きたみたいだねって言うの、意味が分からないんだけど」珍しく朝から頭を高速で回転させて、リィルは話す。「見たら分かるじゃん。ときどき、明らかに起きているのに、起きた? って疑問形で訊いてくる人もいるし」
「一応、確認の表現だから」
「一応、が全然機能していないけど」
着替えて、僕は先に下に下りた。シャッターを上げてリビングに明かりを取り込む。今日は快晴だった。季節に相応しい柔らかい光が、窓硝子を通して入ってくる。少し前は、気候変動がどうとか、異常気象がどうとかで騒がれていたが、最近はそういう話題を耳にしなくなった。僕自身、メディアに触れる機会が少なくなったからかもしれない。ニュースは作り話だから、フィクションとして楽しむ分には良いが、それが毎日となるとちょっと気が引ける。
朝の身支度をすべて済ませて、僕は朝食をとった。例によってリィルは何も食べない。キッチンに立ったまま食パンを食べ終えて、コーヒーが入ったカップを持って僕はリビングに戻った。
「今日さ、どこかにお出かけしない?」ソファに腰かけて携帯端末を弄りながら、リィルが言った。
「いや、昨日も、一昨日も、出かけたじゃないか」彼女の隣に座って僕は話す。
「うん、でも、なんか、家にいてもやることがないし」
「古文書の解析」コーヒーを一口啜って、僕は意見を述べる。「もしかしたら、あの本以外にも、何か面白い発見を秘めた書物があるかもしれない」
「え?」顔を上げて、リィルは僕を見る。「じゃあ、ほかのも全部調べるつもりなの?」
「今抱えている問題が解決しなかったら、そうなるね」
「何それ。面倒臭い」
「仕事だから」
「毎回思うけど、それ、全然理由になっていないよ。仕事よりも、生きる方が大事なんだからさ」
「生きるためには、仕事をしなくてはいけないというのが、現代社会のルールだと思うけど」
「でもね、面白くなくちゃ意味がないの」リィルは僕を見て話す。「いい? 生きる方が大事っていうのは、そういうこと。お金とかの問題じゃなくて、人生という、限られた時間の中で、如何に面白いことができるか、それが生きるってことでしょう?」
「うん、まあ、そうだけど、まだそれほどまでの危機感はない。今の仕事だって、面白いといえば面白いし。嫌々やっている面もあるけど、それだけじゃない。恵まれている方だと思うよ」
「だから、今日くらい休んでもよくない?」
「よくない」僕はリィルの意見を一蹴する。「毎日やらないと、先に進まないから」
「毎日やっていても、先に進んでいる感覚なんてないんだけど」
「でも、やらなければ、新しい発見をする機会さえ得られないだろう?」
僕がそう言うと、リィルは黙ってしまった。
「まあ、いいよ」仕方なく僕は話す。「じゃあ、君は今日は休むといい。僕は少しずつ解析を進めるから、君は自由にしたいことをすればいいさ」
僕の言葉を受けて、リィルは僕を睨んだ。
「そんなので、納得できるわけないじゃん」
「いや、そうしたいって言ったのは、君じゃないか」
「そうだけど……」リィルは顔を背ける。「……そんな、一人で自由行動したって、楽しくないから」
「いつもしているじゃないか」可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。「いつも、一人で映画を観たり、本を読んだり、格闘家の真似をしたりしているじゃないか」
「でも、今日は一緒に何かしたい気分なの!」リィルは大きな声を出す。「なんで、それが分からないの?」
ご立腹なのか、リィルはソファから立ち上がると、そのままリビングから立ち去ろうとした。自分の部屋に篭もるつもりだろう。おそらく、少ししたらまた戻って来ると思ったが、途中の過程が面倒に感じられたから、僕は今の内に彼女に訊いておくことにした。
「で、具体的には、何をしたいわけ?」
僕が尋ねると、リィルは立ち止まってこちらを振り向く。
「今日?」
「そう」
「近くのショッピングモールに、買い物」リィルは答えた。「食材を調達したいから」
僕は、自分の耳が、耐久年数を超えて、使い物にならなくなったのかと思った。
「え?」
「だから、近くのショッピングモールに、食材を調達しに行くの!」
「それが、お出かけの内容?」
「そうだって」
というわけで、僕とリィルはショッピングモールに向かうことになった。
今は午前八時を少し過ぎたくらいで、まだショッピングモールが開いている時間ではなかったから、それまでの間、僕たちは古文書の解析をすることにした。とはいっても、先ほど僕が言ったように、まだほかの書物に触れることはせずに、今は目の前にある例の問題を検討することに注力した。
リィルがどう感じているのかは分からないが、僕の中では少しずつ解決への糸口が見えてきている感覚があった。それは感覚だから、事実かは分からない。事実かどうかは、あとになれば分かる。今は感覚を頼りに作業を進める以外にない。
二時間ほど作業を進めたが、特に成果は得られなかった。僕とリィルで議論をし、それをもとに考察をする方法をとったが、駄目だった。やはり考えるだけでは進まない。昨日以前のように、何らかの手がかりを探る方針をとった方が良い。
時間になったので、僕とリィルは家を出た。問題を解決するための手がかりを探すためにも、外出するのは有意義なように思えた。
近くといっても、ショッピングモールに行くには電車に乗らなくてはならない。住宅地を抜けて大通りを進み、駅舎に入って僕とリィルは電車を待った。空は程良く晴れている。辺りに自然はないが、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「いい天気だね」空を見上げてリィルが言った。今日の彼女はベレー帽を被っている。
「それ、意味がない言葉だよね」
僕の言葉を聞いて、彼女は僕を睨みつける。
「どういう意味?」
「いや、皮肉のつもりで言ったんじゃないよ」僕は弁解した。「大抵の場合、その言葉がそのままの意味で受け取られることはないだろうな、と思ってね」
「君はどう受け取ったわけ?」
「もっと遠くまで行きたい」
「なるほど」リィルは何度か頷く。「よく分かっているじゃない」
「今日は、ショッピングモールに行くだけだからね」僕は言った。「実は、外出続きで、ちょっと疲れているんだ」
車内は空いていた。この辺りは、田舎でもなければ、都会でもない。通勤ラッシュまで発展することはないが、混み合うことはある。今日は平日なので、この時間帯から出勤する者はほとんどいなかった。
四つ先の駅で電車を下りて、改札を抜けると目的地に到着した。うんと大きいわけではないが、この近辺では大規模なショッピングモールだ。円柱を半分に切ったような形をしていて、曲面がこちらを向いている。
「宇宙船みたい」リィルが感想を述べる。
「え、君、宇宙船を見たことがあるの?」
今回の目的は食材調達だったが、先に食材を買ってしまうとほかの場所を見ることができないので、僕たちは先に雑貨を見て回ることにした。僕は食材を買ってとっとと帰ろうと言ったのだが、せっかく来たのだから、ほかのものも見て回りたいとリィルが言い出したのだ。ここまで来てみると、久し振りに大型店舗の雰囲気を味わいたいような気もしたから、僕もリィルに付き合うことにした。
僕とリィルは書店に向かった。書店は、大抵の場合、建物の上階にある。このショッピングモールも例外ではなく、エスカレーターで四階まで上がる必要があった。
「エスカレーターって、乗っているだけでわくわくするよね」上方向への移動中、リィルが手摺りに寄りかかった姿勢で僕に言った。「なんかさ、ベルトコンベアーで運ばれる商品みたいな感じがして」
「その例えはよく分からないけど、動くものに乗っているとわくわくするというのは、その通りだね」
「エレベーターよりも、エスカレーターの方が好きだなあ」
「エレベーターは、動いている感じがしないからね」
「でも、エスカレーターよりは、スペースシャトルの方が好きかも」
「君、スペースシャトルに乗ったことがあるの?」
書店に着いてからは、僕とリィルは自由行動をとった。互いに本の趣味はばらばらだからだ。いや、ばらばらというのは言いすぎで、一致する範囲もあるのだが、メインとしている領域は異なる。リィルは主にフィクションの類を、僕は主に論述の類を興味の対象にする。もちろん、僕もたまにはフィクションを読む。夢の世界を体験することは何歳になっても楽しい。
書棚の間を通って、歴史的な書物が並べられた一画に向かった。歴史的な書物といっても、そこまで古いものではない。いわゆる文学的な書物だ。ただ、ここに並べられているのはフィクションではなく、学術的なものが多かった。今問題にしている古文書と、だいたい同じ時代に書かれたものだ。
いくつか目を引かれるタイトルがあって、その内の一つを手に取って、僕はそれを開いた。「意識喪失」というタイトルの本だ。一見すると冗談とも受け取れるタイトルだが、僕はこの作者の著作を何冊か読んだことがあり、どのような切り口で綴られるのか理解していた。
店内は、明るくて、人がいない。
明るいという条件と、人がいないという条件が、同時に成立する確率は、どのくらいだろう?
やはり、今、目の前にある問題と、違うことを、考えている。
脳が、複数あるからか?
それとも、目が、複数あるからか?
手に取った本は、人間の意識がどのような場合に、どのようなプロセスを経て失われるのかを、概観して書かれたものだった。意識を失うタイミングと言われて、一番に思いつくのは、やはり眠るときだろう。その際は死んでいるのと等しいといっても間違いではない。ただ、死と異なるのは、眠っていても自分を認識する場合がある、ということだろう。僕は死んだことがないから、「死んでいる」というのがどういう状態なのか分からないが、その場合には、死んでいる自分を認識することはできないのではないだろうか。
眠っているとき、人は意識を失っている、とその本には書かれていた。酷く当たり前の話だが、それを読んで、僕は違和感を覚えた。
……眠っているとき、人は意識を失っている?
失っているとは、どういうことだろう?
この場合の、「ている」とは、運動の継続を表しているのではない。
状態が、続いていることを表している。
「失った」状態が、続いて、今もその中にあることを表しているのだ。
眠っているとき、人は意識を失っている……。
「失った」状態が、続いている……。
それは、すなわち……。
……。
……ブランク……?
「何を読んでいるの?」
背後から声をかけられて、僕は思わず肩を震えさせた。後ろを振り返ると、案の定リィルが立っていて、ベレー帽の影になって怪しい雰囲気を纏った瞳で、僕のことを面白そうに眺めていた。
「これ」僕は読んでいた本を彼女に示す。
リィルは本の表紙に顔を近づけると、顔を上げて少し笑った。
「変なタイトル」
「でも、なかなか興味深い」僕は本を広げて、再びページに目を落とす。「この人の本は、いつも面白いんだ」
「ファンなの?」リィルが手もとを覗き込んでくる。
「いや、ファンではないよ。僕は誰かのファンにはならないから」
「私のファンでしょう?」
リィルの言葉を聞いて、僕は脳死で頷く。
「そういえば」
その本を買おうか迷ったが、今は読んでいる本が別にあるので、やめておいた。リィルはシリーズものの小説の続きを見つけてきたようで、それを購入していた。僕はシリーズものの作品を完走した経験がほとんどないので、彼女のそうした継続力はなかなか素晴らしいと思った。
再びエスカレーターに乗って、僕とリィルは下の階に向かった。ほかにも興味を惹かれるエリアはあったが、リィルはもう満足したみたいだったから、大人しく食材を調達して帰ることにした。
エスカレーターでの移動中、僕はずっと考え事をしていた。思考というよりは、確認作業に近かった。先ほど得た閃きを逃さないように、なんとか綱で手繰り寄せようとしているのだ。何かを閃いたことは確かだが、それが何であるかはまだ分からない。ただ、貴重なものであることは分かる。だから、失わないように注意を向けておく必要があった。
多くの場合、物事を解決する糸口は、一瞬の閃きによって齎される。頭を捻って考えても答えは見つからない。だからといって、頭を捻って考えるプロセスがまったく無駄かというと、そうでもない。閃きを得るためには、そのプロセスは欠かせない。何かを解決したい、そのためのアイデアが欲しい、だから考えるという状態にしておくことで、ある瞬間に、ふと何かを思いつくのだ。
やはり、人間は計画的に生きる動物ではないのかもしれない。いや、動物はそもそも計画的には行動しないのだ。常に目の前にあるものに集中している。人間も、先のことを考えているようで、実は考えていないのかもしれない。先のことを考えるのは、そうすることで安心感を得られるからだ。考えた結果を得ることを目的にしているのではない。ここからも、事実ではなく、感覚や印象を目的にしていることが分かる。
「何か、考え事?」
前に立つリィルが後ろを振り向いて、僕に尋ねてきた。彼女の声を聞いて、僕の意識の二十パーセントほどは現実に向き直った。
「うん、そう」特に隠す必要はなかったから、僕は素直に答えた。「考え事をしている」
「まだ、話せる段階ではない?」
リィルに問われ、僕は一度考える。
「たぶん」僕は頷いた。「もう少し纏まってからの方が、君にとってもいいに違いない」
僕がそう言うと、リィルは静かに頷いた。
リィルには、色々なことを見破られる、と僕は感じている。彼女にはその能力があるのだ。僕が何かを考えていたり、隠していたりすると、たちまちばれてしまう。一方で、僕にはリィルが秘めていることを見破る能力はない。僕にとって、彼女は未知なる部分を数多く持っている存在だから、いつも新鮮な気持ちで接することができる。経験によって補える部分もあるが、それが果たして本当に適用できるものか、常に自分に問いかけている。
いや……。
もしかすると、それは、相手がリィルの場合に限ったことではないかもしれない。
僕は常にそうした状態にあるのかもしれないと、自己分析する。
今目の前で起こっていることに、自分の経験が活かせるのか、それを適用して良いものか、いつも考えているのだ。
それは、自分に対して内省をする場合にもいえる。
今だって、この分析をするに当たって、過去の経験を頼りにできるのか、して良いものかと、自問している。
リィルはどうだろう?
彼女は、一体何を頼りに僕に対する洞察を行っているのだろう?
建物の一階までやって来て、僕とリィルは食材売り場へと向かった。このフロアは、建物の中でも比較的人口密度が大きい。本や電化製品に比べれば、食料の方が人間にとって興味の対象になりやすいということかもしれない。いや、人間にとってではなく、動物にとってといった方が正しいか。
「私ね、食材の調理法に興味があるんだ」カートを引いて食材を吟味しながら、リィルが言った。「私は、飲食をしないけど、その分、なんか、こう、そういうものに興味を惹かれるというか。自分は経験しないけど、目の前にあるものに触れてみたくなるというか」
「前にも、そんなことを言っていたね」
「うん、そう。いつも、そうなんだ。興味を持ったからといって、それで実際に行動に移すとは限らないし、やりようがないこともあるんだけど、でも、自分の中で興味が渦巻いて、それを知りたいと思うわけ」
「知って、どうこうなるわけでもないのにね」
「そう……」ジャガイモを手に取って、リィルは頷く。「どうして、興味を抱くのかな?」
「何かに興味があるときって、普段気にしていることが、どうでもよく思えるよね」僕は言った。「何かに熱中していると、それ以外のものが見えなくなるというか……。もう少し、健康に気を遣おうと思って、それが毎日の目標になっているのに、それすら無視して、夜更ししてでも本を読み続けたりとかさ」
「うん、そう……」リィルはまた頷く。「私も、自分で料理をしたり、誰かが料理をしているのを見たり、出てきた料理を観察しているときは、そんな感じがする」
リィルの原動力は、その度合いが大きいことに由来するのかもしれない、と僕はなんとなく考えた。何かに興味を持っているときには、僕もそれなりに熱中するが、リィルはその度合いが遥かに大きい。その際には、自信や根拠の有無などに関係なく、すらすらと物事を考えられるものだ。
リィルは、僕に、興味があるだろうか?
どうだろう?
少なくとも、僕は彼女に興味がある。どんな興味かと訊かれても、上手く答えられないが……。
「なんで、動物はものを食べるんだろう」カートを押しながら、リィルが呟いた。周囲の喧騒に掻き消されてしまいそうな声だったが、彼女のその一言は僕の耳によく届いた。
「食べないと、生きていけないように、プログラムされているからだよ」
「結局、そういうルールだから、という理由でしかないのかな?」
「今のところは、そう考えるしかない」
「ずっと考え続けたら、いつか答えに辿り着けるかな?」
「辿り着けるかもしれないし、辿り着けないかもしれない」
「それって、不安じゃない?」
「不安だよ」
「不安を解消したくならない?」
リィルの問いを受けて、僕は少し考える。
「昔は、そう思うことが多かった。でも、最近は、もう、諦めてしまったような気がする」
「諦めた? どうして?」
「いや、違うな……。諦めたんじゃない。きっと、認めたんだ。そういうものだって、自分に言い聞かせたんだ。どうやったのかは覚えていない。たぶん、都合のいい理由づけをしたんだと思う」
リィルは顔を逸らし、再び食材を手に取って吟味する。
ここに並べられているものは、すべてもともと生きていたものだ。けれど、今は生きていない。少なくとも、僕たちはそれらを生きていないものとして認識する。そうでなければ、手に取って捏ね繰り回すことなどできない。
死骸が並べられている。
きちんと整頓されて、綺麗に並べられている。
墓石が、規則的に並べられるように、整った状態で死骸が並べられている。
ときどき、そういうことを考えて、気持ちが悪くなることがある。でも、今は平気だった。自分を上手くコントロールできている感覚がある。きっと、リィルが傍にいるからだろう。一人だったら危なかったかもしれない。
ときどき、自分は生きていないのではないか、と考えることがある。
でも、自分は生きている、と言い聞かせる。
きっと、リィルも生きているのだ、と思い込もうとする。
すべて都合の良い解釈にすぎない。
選んだ食材をレジへ運んで、会計を済ませてから僕たちはショッピングモールを出た。時刻は正午過ぎ。太陽がちょうど頭の上にあった。
特にお腹は空いていなかったから、どこかで食事をすることもせず、来たときと同じように電車に乗って、僕とリィルは帰路についた。
家の傍にあるものより少しだけ近代的なホームに立って、僕たちは電車が来るのを待つ。
荷物が入ったエコバックは、重力の影響を受けて、僕の手を下方向に引っ張る。
隣から、別の手が伸びてきて、僕のもう片方の手を握った。
感触を受けて、僕はそちらを見る。
僕の手を握る手、その先にある腕を辿って、やがて彼女の顔に至る。
リィルが笑っていた。
「なんか、久し振りじゃない?」彼女は首を傾げる。
「手を繋ぐのが?」
僕の問いにリィルは小さく頷く。
握られた手は、一方的に下方向に引っ張られるのではなく、角度を生じさせる。平行四辺形の対角線状に力が生じる。
「帰ったら、今日は、もう、仕事をするのはやめよう」僕は言った。
「どうして?」僕の言葉を聞いて、リィルは顔を上げる。
「なんとなく、そういう気になったから」
「疲れたの?」
「もともと疲れているよ。疲れないことなんてない」
「いいじゃん。生きている感じがして、贅沢だね」
「そうなんだ」僕は頷く。「実は、疲れを感じるのが、嫌だと思ったことは、一度もない」
電車がやって来て、僕たちは車内に入った。空いていたから、二人で隣合って座ることができた。窓の外の景色が進行方向とは逆向きに流れていく。電線を支える柱の影が等間隔で通り過ぎ、その度に僕とリィルの顔を黒く染める。
膝の上に置いていたエコバックから、リンゴが飛び出して、車内の床を転がった。
僕は、座ったまま手を伸ばして、それを掴もうとする。
隣から、同じように手が伸びてきて、先にリンゴを掴んだ僕の手に、リィルが触れた。
僕は隣を見る。
彼女もこちらを見ていた。
「わざと?」僕は尋ねる。
「もちろん」リィルは得意気に言った。「どう? ドラマチックでしょう?」
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