棺桶の花嫁

内山 すみれ

棺桶の花嫁

 この森を抜ければ目的地に着くだろう。私は森の入口で立ち止まった。夕刻を過ぎたというのに、辺りは思いのほか明るく、森の先まで眺めることができた。私は天を仰ぐ。それもそのはずだ。何故なら夜空には丸々とした月が地上を照らしていたのだから。雲一つなく、散りばめられた星の中で月が圧倒的な存在感を持って降臨している。こんなに明るいのならば心配ないだろう。愚かにも私はそう考えて森の中へ一歩、足を進めたのだった。






 どのくらい時間が経ったのだろう。私は自分の愚かな選択に過去の自分の首を締めてやりたくなった。歩いても歩いても出口が見えない。幸いにも動物に遭遇することはないが、いつ遭遇するかも分からない。月だけが嘲笑うかのように輝いていた。

 けれど神は私を見放さなかったようだ。森の中でぽつんと佇む一軒の家を見つけた。どうしてこんな山奥に。どう考えても不自然だ。中には恐ろしい魔物が住んでいるのかもしれない。自分のように、森で迷った人間を一口で丸呑みしてしまうのでは……。恐ろしい仮説にぶんぶんと首を振って追い払う。どちらにせよ今の自分には選択肢がないのだ。このまま森を進んでいては熊にでもやられてしまうかもしれない。この家の主に頼る他残された選択肢はなかったのだ。恐る恐る私は扉の前に立つ。それから、煩くないように控えめにノックを三回。中からは返答がない。誰もいないのだろうか。ほ、と胸を撫で下ろしてドアノブに手をかけようとした時だった。中からドアノブを回す音が聞こえた。ぎい、と錆びれた音を立てて扉が開かれる。


「…こんな夜更けに、どちら様でしょうか」


 顔を出したのは初老の男性であった。男は訝しむようにこちらに視線をよこした。深碧の瞳が射抜くようにこちらを見つめる。その刹那、ゾクリと背筋に寒気が走る。本能的な恐怖だった。刃物や武器を持っている訳でもないのに自分は彼に酷く恐怖を感じたのだ。それは何故か、分からない。私は震える口で必死に笑みを浮かべる。私はあなたの敵ではないのだと、そう示すように。


「あの、私は旅の者です。森に迷ってしまい、途方に暮れていたところにこちらの家を見つけまして。どうか一晩泊めていただくことはできますでしょうか」


 男は僕の頭から爪先まで、まるで品定めするように見つめる。


「…いいでしょう。けれど約束事が一つあります。守れないようであれば私はあなたを追い出しますが、よろしいでしょうか」

「え、ええ。勿論です」


 背筋に汗が伝う。ごくりと生唾を飲んだ。男は言う。部屋の奥には病気で床に伏せた妻がいるそうだ。彼女はとても優しく心配性であるため心労をかけたくないため、部屋には入らないように、と。つまり、奥の部屋には入るな。それが条件だった。男が彼女について話すその表情はとても穏やかで優しげだ。男は心から妻を愛しているようだ。私は迷うことなく男の条件をのんだ。男は安堵した様子で私を家の中へと案内した。

 部屋の中は無駄なものなど一切ない、シンプルなものだった。男は私の分の料理をテーブルの上に置く。


「どうぞ、召し上がってください」


 そう声をかけて、男はもう一人分の料理を奥の部屋へと運ぶ。料理はとても美味だった。旅をしているため道中で色んな料理に出会ってきたが、その中でもとびきり美味であった。全てを平らげた頃に男は戻ってきた。男は寝室に自分を案内した。それは簡易的なベッドであったが、寝るには十分だ。お礼を言って、私は眠りにつくのだった。

 どれほど経ったのだろう。私は尿意によって目を覚ました。トイレはどこだろう。ベッドから起き上がってきょろきょろと辺りを見回す。


「……どうかされましたが」


 背後から声が聞こえて、振り返る。男が立っていた。暗闇の中で深碧が光る。ひゅ、と喉が締まる。僅かに漏れる殺気。自分が約束を破ろうとしている、そんな疑惑が頭を過ぎって私は必死に弁解した。


「あ、あの、お手洗いはどこですか?」

「………ああ、それなら、この先にありますよ」

「ありがとう、ございます」


 私はそそくさとトイレに駆け込んだ。やはりどこかあの男はおかしい。本能がそう告げていた。朝日が昇ったらすぐにでもここを出よう。私はそう心に決めたのだった。






「お世話になりました」

「あなたの旅にご加護がありますように。どうかお気をつけて」


 男は笑みを浮かべた。温度のない、まるで機械のような笑顔だった。私はお辞儀を一つして、森を再び歩み始める。できればあの家のことは忘れてしまいたい、泊めてもらった礼はあるが、私はただただそう思うのだった。

 森の中をどんどん進んでいく。この森を抜ければ、死んだ女性を妻にしたため国を追放された王子の話で有名な国が見えてくるだろう。あの国はこの話をなかったことにしようとしているようだが、それがかえって私の好奇心を刺激したのだ。死んでまで花嫁にしたいと思わせる女性とは、それから姿を消した王子のその後の情報がないのは何故か。私はどんどんと浮かぶ想像に胸を膨らませるのだった。


Fin.

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